重複障害児収容援護の国際形態

重複障害児収容援護の国際形態

International Patterns of Resident Care for the Multi-Handicapped

James Loring*

奥野英子訳**

 本稿は、1971年10月、ニューヨークで開催された「重複障害者の国際的リハビリテーション形態」会議―Conference on International Rehabilitation Patterns for the Multi-Handicapped―で発表されたものである。

 脳性マヒ分野に従事している者の多くは、脳性マヒ児童の諸問題に強調点を置きがちであり、脳性マヒ患者の大多数は実は成人であるという現実を忘れがちである。この現象の原因としては、児童の治療・教育・管理のほうが専門職者にとってより興味深いものであり、その成果もかなり評価されていることなどが考えられる。

 サービスがかなり進んでいる先進国においては、脳性マヒ患者は18才に達するまでに、必要とされる援護と治療はほとんど受けているといってよいだろう。18才になるまでに、その症状もかなり明らかになるものである。その人の持つハンディキャップの範囲もはっきりし、外界との処し方も身につけてくるであろう。しかしなお、その後の教育および訓練も重要であり、雇用および成人生活への適応など諸問題が残されている。しかし、医学および科学のなしえる貢献はすでに終わっているのである。教育および訓練が成功したかどうかは、彼が就職できるかどうか、そして、一般社会にどこまで適応できるかによって測りうるであろう。生活への準備のほとんどは、就職に対する準備であり、また、普通になんでもできるようになること、をめざしているのである。

 恒久的収容援護にはいるための準備をしたり、訓練を受けている痙直性マヒ者はめったにいないようである。教育者および医師は、そうすることを敗北であると考えがちであった。もちろん、脳性マヒ青年の大多数は、障害が重度であるために、シェルタード・ワークショップにさえ受け入れられがたいのである。これは悲劇的であるが、現実なのである。家族の援助によって、作業センター、ワークセンターに通う者もいるであろう。しかし、最終的には、収容援護が必要であり、それを政府機関が用意しなければならないであろう。

●統計

 本稿で対象にしている人の数はいったいどれくらいなのだろうか。確かな数字を把握するのは容易ではない。脳性マヒの発生率は千人につき1人とか千人につき5.9人とかいわれ、そこには大きな差がみえる。英国で行われた最近の調査は、5才から15才までの児童1万2千名を対象にし、その結果、千人につき2.9人と推定された。この数字から推定し、またその他の統計も考慮に入れると、15才から39才までの千人につき約2人、40才以上は千人につき1人の発生率となり、英国にいる全脳性マヒ患者の67パーセントは15才以上となる。

 脳性マヒは複合障害症候群であり、運動機能障害のほか、てんかん発作、言語・視覚・聴覚にも問題があり、知覚・精神にも異常を合わせ持つことが多い。全脳性マヒ者の少なくとも55パーセントは重度または中度の身体障害をもち、全体の25パーセントは重度精神障害を持っている。成人人口のなかでしめる重度身体障害者の数については、あまり情報がないが、英国においては学校教育を終えた脳性マヒ者のうち、一般雇用にはいっていけるのは、30パーセント以下にすぎない。

 これらの統計で類推したい誘惑にかられるが、それは無理であろう。しかし、脳性マヒ成人の少なくとも50パーセントは、なんらかの援助がなければ地域社会で生活することが困難であろう。彼らのうちかなりの割合が、重度精神障害をともなっているであろう。これは実に悲しむべき状況であり、わたくし自身いろんな文献に目を通しても、この現実を扱っている文献がほとんどないことに非常に驚いているのである。このような状況の原因としては、脳性マヒ者が成人期に達してくると、彼らは教育者や医師などの興味からはずされてしまい、たいして力を持っていない準専門職者の責任にまかされてしまうからである。われわれは、正確な状況についてや、収容援護がいつごろから必要になるのかについての情報を持っていない。ケースによっては、児童が学校を卒業する時点で収容援護を必要とするであろうし、またケースによっては(特に親の年齢が若ければ)学校を出て30年も40年もたってから、はじめて収容援護を必要とするであろう。

 私の経験によると、収容援護の問題は、学校生活が終わるころに頭をもたげてくることが多いようである。学業成績のよかった重度障害児ほど、この問題は深刻になるようである。ほとんどの学校は試験中心的であり、重度障害児でも成績がよければ大学にも入学でき、その大学の教育水準が高ければ高いほど、一般社会への就職も可能であると当事者は考えがちになる。学校の教師は障害児の就職問題にはうといし、生徒と常にいっしょにいることにより慣れが生じ、彼らの障害を過小に評価する傾向にある。私は次のようなケースを経験したことがある。運動機能障害も重く、言語にもかなり障害がある女生徒に対して、担当教師がソーシャルワーカーになるコースへ進むように指導しているのである。ソーシャルワーカーという職種には、運動機能能力と言語能力が非常に必要とされるにもかかわらずである。

 児童の将来と非現実的な楽観主義の間でバランスを取ることは非常にむずかしい。決して達成できないことを児童やその親に挑戦してみるように奨励することは、かえって事態を悪化させてしまうであろう。学校時代に、それもできるだけ早期に、将来遭遇するであろう就職問題についての現実を知らせるべきであろう。四肢マヒ者に有名な野球選手になるよう奨励するほどバカげた者はいないであろう。学校機関および学校の教師は、生徒に非現実的な野望を持たせることの責任を問われなければならないであろう。

●収容援護の形態

 どんな形態の収容援護が可能であり、利用しやすいであろうか。私の知識はヨーロッパのみに限られるが、その基本形態は世界どこでも同じではなかろうか。脳性マヒ者に対する運動が本調子になりだした約25まえは、重度脳性マヒ者の見通しは非常に暗かった。家庭の経済状況が非常にめぐまれたほんの少数の者だけが、私営の収容援護を望めただけで、残りの大多数は、精神薄弱者や老人を対象とする病院に長期間入院するよりほかはなかった。これらの病院の多くは今でもなお存在しており、どこにも行き場所のない脳性マヒ者を入院させているのである。これらの施設の状況は非常に悲惨なものである。地理的にも隔離されており、入院患者数が千名を越える病院が少なくない。プライバシーや個人的ケアはほとんどなく、病棟はだだっ広く(ある場合には、ベッドとベッドの間を自転車で走れる)、職員も非常に少なく、患者はただ放っておかれ、職員ばかりでなく、親さえも患者に会いにこないのである。これらの施設を私は「へびの穴」と表現したことがある。ヨーロッパにある精神薄弱者病院を数多く訪問したが、このような悲惨な状況によくぶつかったものである。

 過去25年間、脳性マヒ協会はこれらの病院の状況を改善することはできなかったが、しかし、もっと小規模なかたちでよりよい援護を提供してきた。これらは、下記のような形態にまとめられるであろう。

 (1)  50名以下を対象とする収容ユニット。民間機関であるため、都市内に土地を確保することがむずかしく、地理的には多少人里を離れているかもしれないが、そこでは人間性が尊重され、個人的な配慮がゆき届いている。これらのユニットがかなりの成果をおさめた実績を買われ、地方自治体やその他関係機関が設備を改善し、その結果現在では、ほとんどのユニットでは、すべての入所者がなんらかの仕事に従事でき、居室も個人部屋になっている。

 (2) 都市地域にある小規模なユニット。土地が高いために、中規模のユニットを設立することさえ困難であったが、機関によっては、25名ぐらいを対象にするユニットを都市地域に設立し、一般社会との統合をはかっている。これらのユニットでは、普通の仕事をしたり、保護雇用形態に従事している者もいれば、ワークセンターや作業センターを活用している者もいる。すなわち、彼らは一般の社会人と同じように、そこに通うのである。いわゆる普通の意味のホームなのである。しかし、これらのユニットには財政問題がつきまとい、そのために、古い建物を改造して使用している場合が多い。職員、特に夜間の介護者の確保がときとしてむずかしい。また、小グループに男女をいっしょに入れていることなどは、あまり適切ではないようである。

 (3) 第3番目の形態としてのユニットは、Fokus形態と呼ばれるものであり、スウェーデンで実際に見聞きされたかたも多いと思われる。Fokusとは、都市地域に障害者用に設計されたアパートであり、障害者の世話をする看護職員がついているのである。この種の形態は自分自身で生計をたてられる中度障害者を対象にしており、看護の手を常に必要とする重度障害者のためには専用のアパートがあり、希望によっては、親せきや友だちといっしょに住むことができる。この種のアパートは、障害者の援護としてはもっとも進んだ形態であろう。これらは現在では、スウェーデンばかりでなくドイツにも普及し、ことに、ミュンヘンにできたPfening Paradaユニットは非常に興味深いものである。デンマークにもこれと似た形態の共同住宅があり、これはコレクティブ・ハウス(Collectivhusets)と呼ばれている。

 (4) 英国では現在、住宅協会と協力して試験的に実施している形態がある。これはわが国でユニークな企画である。地方自治体が障害者グループに住宅資金を貸し、それでもって住宅協会が個人住宅やアパートを建設するのである。英国脳性マヒ協会は、ロンドン、マンチェスターなどの地方自治体とこのような協定を結び、一般世帯用の住宅棟のなかに障害者用の住宅を建設するのである。この企画の目的はスウェーデンのFokusの場合と同じで、障害者用特別設計住宅を確保することである。Fokusとのちがいは、一般の人びとと同じアパートに住み、普通のショッピングセンターやその他の施設を共用することである。

●理念上の諸問題

 それではひとまず現状については忘れることにし、障害者の収容援護を実施しようとするときにぶつかる理念上の諸問題を考えてみよう。

 障害者自身にとっては、収容援護施設で生活することはもっともいやなことであり、家族とともに地域社会のなかに住むことが一番好ましいのである、とたびたびいわれてきた。しかし、この命題をそのままうのみにする前に、じっくり検討してみるべきではないかと思われる。なぜなら、これを主張する論拠はほとんどないのである。われわれは、地域社会のなかで家族とともに住む生活が高く評価される時代に生きているのである。ここでは、密接な人間関係が最高に重要であると考えられているのである。しかし、そのような環境における生活の質が客観的に評価されたことはほとんどないのである。われわれの多くは、障害者であろうとなかろうと、幸福から極端に悲惨な状況に至るまで、さまざまな経験をしているのである。

 たいていの青少年および成人は、自分が生まれた家庭または地域社会を離れたいという願望をもっているものである。そこは順応したくない施設とみなされるかもしれないし、家庭のかわりに、より調和した生活を営める環境を捜し求めることもあるのである。何がなんでも障害者を地域社会にひきとめ、家族といっしょに生活させるべきであると、われわれは考えがちである。そうすれば、政府にとってはお金がかからないかもしれないが、しかし、障害者自身にとっては必ずしも望ましいことではないのである。

 地域社会に住むことは、障害者自身にとって必ずしも楽しい生活保障するだろうか。収容ホームのほうが、もっと豊かな生活環境になりうる場合もあるのである。しかし、障害者がひとたび収容施設にはいると、自分自身で生活をつくりだせない世界になってしまう可能性もあるのである。Ervinge Goffmanが「職員中心の世界」と表現したように、そこでは、障害者自身の目的よりは職員の目的が優先してしまう合法的機関として、第三者の目に映ることもある。施設の職員が仕事の対象としているのは<人間>なのである。施設にいる<人間>を職員は生命のない物体として見るようになり、そのように扱うという恐ろしい危険性もあるのである。

 もっとも近代的であり、経費をふんだんにかけた収容施設であっても、非人格化の傾向に対しては警戒しなければならない。優秀な収容ホームとは何であるのか、その優秀性とは障害者を助ける意味においての優秀性であるべきなのであり、職員にとっての満足感を与えているかで測るのではないのである。入所者の人間性を尊重しているのかどうかと、いわゆる施設の優秀性との間には、しばしばへだたりがあるようである。人間としての個人的領分は、自己を確立するうえに非常に重要な要素である。しかし施設の入所者が個人的領分を持たなければ持たないほど、その入所者は職員にとって扱いやすい存在となる。

 わたしは数多くの精神薄弱者病院を見学してみた。それらは非常にきちんと整理され、よごれも全くなく、そのため、患者は自分の個人的所有物など持つことは許されないほどであった。個人的衣服は全くなく、患者が共有する衣服できれいに洗濯されたものが、だいたいのサイズをめやすに配布されるのである。実際、施設側と入所者の個人的利益との間には矛盾がある。施設側の利益のその背後には、致命的な要素がある。Herman Melvilleの“White Jacket”を引用してみよう。これは、体刑が好きな英国海軍の将校たちの会話の一コマである。「すぐに刑を課してやる。貴重な時間を費やすまでもないことだ。捕虜用のシャツを着せてしまえば、それでもう終わりさ!」ここに、施設側の本質的理論が明示されているのである。

 障害者の収容援護に関する文献や研究発表が少ないことに、わたくしはいつも驚きを感じるのである。特殊教育に関する文献は山ほどある。特殊教育分野では、実質的な研究がたくさんなされているからである。特殊学校を卒業していく生徒と彼らが持つ諸問題に関する文献もあり、研究も行われている。いわゆる「施設収容」に関する出版物もあるが、しかし、自分の家庭を離れた成人障害者の援護という重要な課題に関する出版物はほとんどないといってよいであろう。

 また、この分野において哲学、特にその目標、がないことも特筆に値するであろう。特殊教育分野では、その目標や、障害児教育をささえる理念について数多くの論議がかわされている。たとえば、教育はそれ自体に目的があると主張する人もいるであろう。また、教育は職業を持つための一過程であると考える人もいるであろう。学校教育課程には、学校を卒業したあと社会に適応しやすいための特別プログラムを組み入れなければならないと考える人もいる。しかし、この問題にもっとも精通しているはずの人に、「成人援護にだれが責任を持つべきなのか、そして、そのようなセンターでは何を目的とすべきなのか」を、たずねてみてごらんなさい。きっとあいまいな回答しか返ってこないであろう。

●個人的関係

 つぎにわたくしが指摘したいのは、個人的関係を保持できる設備が欠けていることである。この点に気づいている施設もあるが、障害者のための施設のほとんどは、入所者どうしが密接な人間関係を持つことを阻むような建築構造になっている。障害を持たない人びとはいつでも恋愛できる自由を持っているが、収容センターにいる障害者にとって、恋愛は非常にむずかしいことなのである。事実、数多くの施設では、プライバシーはほとんど不可能な状態であり、その結果、個人的人間関係が育つ素養がなく、たとえ個人的関係ができたとしても、それは荒涼としたものであったり、こっけいなものであったりする。

 わたくしはつい最近、大きな施設の所長さんから伺ったのであるが、ある朝、彼のところに非常に打ちひしがれた入所者が近づいてきたそうである。どうしたのかと聞いてみたところ、その女性は、「わたしは30年間この施設で生活しており、同じ施設にいる一人の男性とずっとおつき合いしていました。夜はいつも、もう使っていないボイラー室で寝ていました。しかし、その人は急に亡くなったのです。わたしはどうしたらいいのかわかりません」というのである。所長がこの件について調べたところ、この二人の交友関係について職員も知っていたそうであるが、そんなに長い間、二人が親密な関係でいたとは、だれも知らなかったそうだ。その施設は精神薄弱者の施設であり、何十年もの間ずっと職員が不足していたため、暴力ざたでも起こらないかぎり、職員は入所者の情緒的問題にまで気を使う余裕がなかったのである。

 これから設立する収容センターはプライバシーを守れる適切な施設にしなければならないことは当然であるが、古い施設もプライバシーを守れる態勢にするよう改善しなければならない。

 大きな施設にありがちな重要な欠陥は:

 1. 閉塞扱い―すなわち、すべての入所者は同じ時間に同じことをしなければならない態勢になっている。

 2. 管理態勢―すなわち、上から押しつける態勢であり、階級組織的に運営されており、個人のニードに合うようにすることは容易でない。

 3. 没個人化―これについてはすでにふれたが、入所者のパーソナリティと人間としての尊厳に配慮を払っていない。

 このような状況は必ずしも克服できないものではない。上記二つの欠陥をなくすために、施設を再組織することは可能であろう。Tizard、King,Raynes,Yuleなどが英国で行った「施設に入所している児童の管理に関する調査」によっても、これは明らかである。

●収容援護の目的

 収容援護の目的はなんであろうか。入所者の障害が中程度であり、特にリハビリテーションが可能な人の場合は簡単であろう。しかし、実質的なリハビリテーションが不可能であり、生涯施設で生活しなければならないような人の場合、その目的はなんであろうか。ただ、障害者を住まわせればいいのだろうか。世話をし、食事を与えるだけでいいのだろうか。

 読者の多くは、最上の目的は障害者の生活をできるだけ豊かにすることだというであろう。しかし、豊かな生活とはなんであろうか。あなたの考え方はわたくしの考えと全くちがうかもしれない。100名もいる収容センターでは、その考え方もかなりまちまちになるであろう。

 ここでは目的に関することを論じているが、われわれはあたかも障害者の問題を解決する立場にいるかのように考えており、われわれ自身がこの問題の一担を荷う加害者の立場であることを忘れてはいないであろうか。目的がなんであるか決定するまえに、障害者自身がその目的をどのように考えているかを聞いてみる必要があるであろう。

 つい最近、精神薄弱者病院で出会ったケースであるが、その人は重度脳性マヒ者であり、彼が17才のとき、精神遅滞をともなう脳性マヒ者として入所したのである。入所してから何年もたったのちにはじめて、彼の知能は良好であると判明した。これは、担当看護婦の想像力によって発見されたのであり、それから彼女は彼に読み書きを教え始めた。彼の身体的障害は重いけれど、短い本を出版し、また、音楽の知識も豊富になった。彼の場合、施設にはいるときの目的はただ収容されることであったが、奇蹟的なできごとにより、その目的はジャーナリズムと音楽評論の仕事に従事できるようになることに変わったわけである。ここで問題なのは、施設の機能が入所者と敵対することであり、この脳性マヒの情緒的・身体的な死から救われたのは、努力の結果ではなく幸運というよりほかないということである。

 したがって、収容援護の目的をはっきりさせようとするならば、身体障害および精神障害を持つ入所者にも適応できる広いニードを満たすものでなければならない。

●設計

 さいごにここで簡単に論じたいのは設計の問題である。障害者の収容ホームをつくる場合、物理的ニードのみによって設計されてはならない。ドアの幅、ランプ(傾斜路)の角度等はもちろん重要であるが、しかしこれらは入所者の生活にとって最低線の影響しかなく、これにのみ気を取られるとほんとうの問題をおおい隠してしまうであろう。

 人間関係は何よりも重要であり、そのセンターがよいセンターであるか否かを決定づけるのは、そこにおける人間関係の質によるものである。障害者を対象にした施設にいる入所者は、表面的にはほとんど同じような性格の人に見えるかもしれない。しかし実際には、それぞれ非常に異なった性格の人であり、職員は入所者一人一人の個性を伸ばすよう指導すべきである。これは障害者にとっても同じである。障害者は従順で受身的でなければならないというような圧力を加えるべきではない。権力主義的社会ではそういう圧力を加えがちである。

 だれにでも共通の四つの根本的ニードは次のとおりである。

 1.家族または地域社会において、一人の人間として受け入れられるニード。

 2.安全な場所を保障されるニード。

 3.自信を持ち、他人から尊敬されるニード。

 4.個人個人の能力にもとづき、自己表現をできるニード。

 レンガやモルタルづくりの施設があれば、これらのニードを満たす一助にはなるかもしれないが、教養があり思いやりがある職員がいてこそはじめて、これらのニードが完全に満たされるのである。新しい施設を見学する機会があったときなど、その施設の責任者からその施設のすばらしさをほめるよう欲求される場合がよくある。しかし、入所者の個人生活や情緒面から考えると、そのようにきらめくような設計はなんの役にもたたず、かえってそれは、人間的な熱望を殺してしまう墓にしかすぎないことが明らかである。われわれは、りっぱな装置や電気器具に決して目をくらませられてはならない。これらの設備や建物に、使う費用の10分の1を、職員養成や教育・医学分野に現存する職業構造を改善するために使うほうが、障害者のしあわせがもっと増すであろう。

 結論を申しあげると、この会議は<人間>について話し合うのが目的である。その論題は障害者にかかわる諸問題であるが、われわれ自身もその問題の一担に責任があるのである。障害を持っている人であろうと障害を持たない人であろうと、われわれすべてに関係する潜在能力についてであり、また、それをどのように生かすかの問題なのである。障害者事業に従事しているわれわれは幸運というべきであろう。なぜなら、自分より不運な立場にある人びとのために自分を打ち込みお世話をするということは、ほかの普通の職業につくよりも、もっと自分の能力を生かせるのである。そして、われわれが他人におよぼす権力を影響力は膨大なものであり、それはときとして非常に恐ろしいほどであろう。人間は理論よりももっと重要なのである、ということを常に忘れることなく、謙虚に仕事に従事したいものである。

参考文献 略

*国際脳性マヒ協会事務局長(事務局は英国のロンドンに置かれている。)

**日本肢体不自由児協会書記


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年7月(第7号)27頁~33頁

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