障害者のレクリエーション

障害者のレクリエーション

──変わりゆくその局面──

Recreation for the Disabled-Changing Dimensions

Jean E.Calder*

中西正司訳**

余暇時間

 20世紀の今の時期は「レジャー時代」だといわれてきた。そこでの人びとの生活は、ますます増大する余暇時間をいかに使うかに大きく影響をうけてくるように思われる。職場では満たされない運動、創造的な自己表現、充実感などの諸欲求があり、これらは余暇時間で満たされるようになってきた。

 障害者についてはどうであろうか。彼らにとって余暇時間を充実させることは、普通人の場合と同様に重要なことである。そのうえ、障害をもたない人より余暇時間はずっと多いのに、レクリエーションに熟練したり、複数のレクリエーション活動に参加したりする機会にはひどく恵まれないので、その立場は多少とも複雑かもしれない。

 障害者にとってレクリエーションの必要なことを口では認める人は多いし、ときおり障害者にとって運動の価値について正しい認識が与えられることはある。病院やセンターの組むプログラムはレクリエーションの時間を認めてくれてはいる。しかしどれだけの人間が現在のレクリエーションに対する基本的な考え方に心から満足しているのだろうか。充実したプログラムを実行に移すにはどの程度の組織と管理機構が必要か、を理解している者がいったいどれだけいるのか。与えられたレクリエーション・プログラムを楽しんで享受するには最低どの程度の熟練を要するかを知っている者がどれだけいるのか。レクリエーションの持つ種々のリハビリテーション的効果を現実のものとするために、センターや施設でのプログラムと、地域社会で現在すすめられているプログラムを調整する必要のあることを知っている者が、どれだけあるか。

 大多数の人びとよりずっと多くの余暇時間を持ち、しかもこの時間をそれにふさわしく過ごす機会にはずっとめぐまれない障害者には、可能なかぎり最善のレクリエーション・プログラムが与えられてしかるべきである。障害者の教育とリハビリテーションの責任者がレクリエーションの幅と深さを認識し、またすぐれたレクリエーション・プログラムから多くの価値ある成果が生み出されるためには、組織の必要なことを認識したときに初めて最善のプログラムが生まれるだろうし、またそれが真に現実のものともなるのである。

 これまでのリハビリテーション・プログラムは、職業訓練と適性のある職場に就職させることに力点をおいていた。個人の尊厳は働く権利を求める。そしてこの権利に焦点がむけられることは重要なことではある。しかしレクリエーションはこんにち、労働の補完物とみなすことも可能であり、それゆえすべての人にとって欠かせないニードの一つでもある。このことを認識しておくことは、持てる力をフルに発揮しようと努めている既存のリハビリテーション施設で、レクリエーション・プログラムを展開させる緊急なニードを実現化するうえにも、ぜひ必要なことである。

 現在、レクリエーションはリハビリテーション・プログラムの「飾りもの」とみなされることが多い。そして多くの人は内心、真剣な日常の営みのなかでは、これはあまり重要なものではないと考えている。このような考え方は本論の本旨とはまったくかけはなれたもので、人が今よりずっと長い時間労働に従事した時代、社会的な価値が「働け、その収穫を偶像に捧げよ、さればたたえられるであろう」にあった人類の初期の時代のなごりのように思われる。

 現代人の生活の中でレクリエーションの果たす役割について、とくに障害者のなかでリハビリテーションを目的としたレクリエーションの果たす役割について、広い目で見直してみる必要があるように思われる。余暇時間の適切な使い方は、最大の関心をはらうべき研究課題である。

レクリエーション

 レクリエーションとは余暇時間ちゅうに行うものである、との仮定にもとづいて本論を進めているが、実際、レクリエーションは労働の補完物であり、リハビリテーションの過程においてもっと考慮がはらわれる必要がある分野である。次の定義は、レクリエーションのもつ意味をもっと詳細に検討しようという目的で提言されたものである。

 「レクリエーションは、行動や経験から成り立っており、それから直接に得られる満足感を求めるためであっても、それから生まれる個人的、社会的な価値をあじわうためであっても、その選択は普通、する人の自由にまかされている。レクリエーションは余暇時間に行われるものであって、勉強が職場の昇進とつながるというような意味では仕事とつながりを持たない。また通常の場合、楽しいものであり、組織されたコミュニティや機関のサービス活動の一部として行われる場合には、個人、グループ、社会の有益かつ建設的な社会的目標に適合するよう計画される」

 この定義は考えさせられる点をいろいろ提示しており、定義が普遍化された結果、障害者と障害を持たない者を含めたすべての人に適用できるものとなっている。また施設より地域社会に重点をおいているように思われるかもしれないが、施設の入所期間が一時的、恒久的のちがいはあるにしても、設置されているかぎりは当然地域社会となんらかの協力関係は結んでいるものなのである。

 反論もあろうが、レクリエーションの目的を知るためにかりにこの定義を無視して考えてみると、レクリエーションから人々が得る楽しみには、「創造の喜び、仲間との友情、冒険、何かをやりとげたという満足感、からだの健康、頭を使うこと、奉仕や息抜き」などがある。障害者も普通人と同様、こんな楽しみを持ちたいと思うし、またその権利もある。障害者のためのレクリエーション・プログラムは、地域社会の場合に考えられたと同じ幅広い哲学を基礎として展開されるべきであり、機関や施設の水準やレクリエーションの機会なども、障害者と障害をもたない者との間で区別をしないことである。

 個人個人のやりたいレクリエーションのニードを満たすためには、動機、態度およびその人にとっての価値を考慮することがぜひとも必要であり、それはレクリエーション活動をその人にとって意義深いものとする。一人の人にとって遊びであっても、他の人にとっては仕事のように思えることがあるのを知っておくこともまた必要である。一人一人に自分の興味ある活動を選ぶ機会をじゅうぶんに与えることが、レクリエーション活動の基本的要素である。こんにち、障害者問題を普遍化することは不可能になってきている。障害者の人口はふえており、個性、障害の種類、その程度、それに地域社会の障害者に対する受け入れ態勢などの面でもあらゆる場合が考えられる。障害者でも施設にいる者、定期的に医学的またはパラメディカル的な処置を受けながら地域社会で暮している者、定期的な治療さえ必要としない者などがある。

リハビリテーション過程におけるレクリエーション

 障害者がだれでも持つニードや希望を持ち、それらをほどよく満たす権利を持っていることを認めるならば、レクリエーション体験を構成する諸要素と、地域社会や施設でレクリエーションを行なう場合の、障害者の状況について重大な関心をはらわなければならない。

 レクリエーションは総合的なリハビリテーション・プログラムの中にくみいれられるべきである。次の言葉をよく味わってみよう。「リハビリテーションはクライエントが社会的、職業的それに趣味の面でもじゅうぶんに自分の機能を発揮でき、またその障害の見地から自分を見ず、人からもそう見られなくなったとき、初めて完成する」

 本論でのべられている考察は、レクリエーションの果たす役割をかなり重視しており、きちんときめられた重要な訓練方法について言及していることは明らかである。この考え方は多くのレクリエーション・プログラムの宿命ともなっている出まかせの、その場かぎりのやり口とはまったく異なるものである。

 「レクリエーションは、障害者が社会の中で、その能力と独立性を最大限に発揮できるよう、よく考えて組織されたリハビリテーションの過程の中での、一サービスであることが考慮されなければならない。そこでレクリエーション・プログラムには、障害者ができるだけなんでも一人でできるよう、前むきの姿勢で援助するため、一連の経験やサービスが含まれなければならない」

 適切なレクリエーション・サービスを与えるために、どんな計画が必要かは、そのリハビリテーションの種類や段階によって異なるだろう。状況が変わると、それほど違いがでてくるかは、これら二つの場合を少し考察してみれば容易にわかろう。

 (a) 長期療養のプログラムの場合、レクリエーションは、患者の施設滞在をひき延ばすためのものであってはならないのはもちろん、それは遊びやゲームなどのいわゆる気をまぎらわすための活動ではなく、残存機能を伸ばしかつ強め、自己決定能力を養い、独立して生活する能力を高めることをその目的とすべきである。療養が一年を越す場合は、地域社会の場合に適用されたと同じレクリエーションの機会と、基準を備えたプログラムを患者に与えるべきである。

 (b) ホーム・ケアのプログラムの場合、患者は地域社会で現在行なわれているプログラムにできるだけ参加するよう努めなければならない。障害者当人だけでなく、その家族みんなのためのプログラムも考えられるべきである。このようなアプローチのしかたは、家族の連帯意識を強め、リハビリテーション・プログラムをいっそう効果的なものにする。

 地域社会のレクリエーション施設のためにつくられた個人専用の用具のほとんどすべては、障害者にも使えるものであることも考えてみる必要がある。地域社会において、障害者のレクリエーション・プログラムをたてる場合に考慮すべき三つのアプローチがある。

 (a) 地域社会にある一般のレクリエーション施設(公立・私立・商業ベース)を利用する。改良が必要な場合には、そのようにする。

 (b) 地域社会に現存するプログラム利用方法を学ぼうとしている者に対する、移行的プログラム。これは地域社会のプログラムに参加してからのちも、続けて援助が必要な者のために、平行的に利用できるプログラムを実施することにもなろう。

 (c) 地域社会の一般むけプログラムを利用する能力を持たない者のための特別プログラム。

身体を使うレクリエーション

 レクリエーションという言葉は、これまで非常に広い意味に使われてきた。その一端をなしているのが身体を使うレクリエーション(Physical Recreation)であり、音楽、演劇、美術、手芸、趣味、読書など、そのほかにもいろいろの興味ある分野と同様、レクリエーションに、ある色彩をそえている。それゆえ、これに細かい考察をくわえてみることは適当であろう。身体を使うレクリエーションの持つ価値には、レクリエーションで得られるすべての価値が含まれている。そのうえ、これは運動に特有なことだが、ことばを話さなくても意思の疎通ができ、活動する喜びや、健康体をつくるのに役だつ。

 最近出された一つの報告書、“Sport and Physical Recreation for the Disabled”でBritish Disabled Living Foundationが一つの結論を出している。

 「本会議は、運動が障害を持った若者とおとなの健康と福祉に役だつものだ、という固い確信を持っている。しかし、医師の処方がなければ『せねばならない』式におしつけてはならない。一般的にいって、障害者も地域社会の他のすべての人たちと同様に、自分の時間をどう使うかを決定するあらゆる権利を持っている。正しくはこういいたい。からだのじょうぶな者と同様に障害者は、もし彼らが望むならスポーツ活動をする適切な機会を持つべきである」

 しかしながらレクリエーションに対するニードは、選択をすればそれで満たされるというものではない。選んだ活動の中で一人一人が、楽しいよい体験がもてるように習熟するか、持っている技術に何かをつけ加える必要があるだろう。持っている技術を使うか、少なくとも基本的な作業能力を伸ばすことにより、総合的なレクリエーション体験に欠かせない一部分が形成される。

 身体を使うレクリエーションに属する活動は広範囲にわたっている。たとえば、いろいろな種類のスポーツ―チーム、二人、一人でやるもの、それに規則のあるゲームや運動;野外のレクリエーション活動には―ハイキング、キャンプ、サイクリング、潜水;ダンスや社会活動、やればできる運動の範囲を考えてみるとき、特定のプログラムの中で身体を使うレクリエーション運動の種類を選ぶ場合に、考慮すべきいくつかの条件に注目するのは適切なことである。

 第一の選択は、一時的あるいは恒久的なグループが滞在する施設、地域社会の特殊なグループ、障害者と普通人の両者からなるコミュニティのためのものであっても、レクリエーション・プログラムが行なわれる場所、状況や目的をみて決定されるであろう。付加的な要素としては個人のニード、興味、熟練度、能力;地域社会で享受できるレクリエーションの機会;それに障害に起因する制限や限界など、が含まれよう。

 レクリエーションの時間編成は、参加することと楽しめることを主体にして考えるべきである。じゅうぶんに熟練できないとき、その運動を楽しむことがむずかしいことはだれしも覚えのあることだろう。熟練するには教わる必要がある。ゲームや運動は教わる必要のあるものである。このような点が念頭におかれていれば、熟練をさせるためのグループ、遊ぶ方法を教えるためのグループ、楽しむことを活動の目的とするグループ、特定の社会的交歓を目的とするグループとの間では、そのグループに最も適したグループの規模にたいへんな違いが出てくることは明白である。これらの特殊な条件が適切なグループづくりや、その規模をきめる際に配慮されるべきである。

 参加者の服装は、身体を使うレクリエーション・プログラムにおけるもう一つの重要な構成要素である。運動を選ぶ段階では、参加者が運動に合った服装をしなければならないか、または逆に参加者の服装をみて種目の選択が行なわれる。考慮しなければならないことはたくさんあるが、運動をするのに適した服装をしているかどうかを配慮することも重要な点である。

地域社会の役割

 障害者と障害を持たない人びとがいっしょに活動することの必要性とか、障害者のスポーツやレクリエーション活動の促進を阻んでいる各種の不備状況などについて、British Disabled Living Foundationは次のように述べている。これらの不備とは、まず第一にコミュニケーションについてであり、身体障害者と障害者にサービスをする側の人びととの間のコミュニケーション不足、障害者の世話をするクラブとコーチ・指導者になれる可能性を持つ人びととの間のコミュニケーション不足、役所と民間団体の間のコミュニケーション不足、である。第二番目は積極的な協力態勢のないことである。たとえ、地方自治体における各部局間、障害者事業を実施している民間団体と身体障害者を受け入れる用意のあるスポーツクラブとの間、障害をもたない人びとと障害者の間、に積極的な協力態勢がないことである。第三番目は広報不足である。障害を持っていてもりっぱな成績をあげているスポーツマンやスポーツウーマンについて、運動に参加したいと思っている障害者にも利用できる一般のスポーツ施設について、障害者のスポーツに対して役にたてる方法(特別の資格を持っている人も資格を持っていない人も)、などについての広報活動がじゅうぶんに行なわれていないのである。

 ここでリストにあげられている諸点は外国での一つの状況をもとにした研究によるものだとはいえ、わが国(オーストラリア)の状況にもあてはまる点が多い。地域社会の人びとはもっと障害者のニードに関心をはらい、障害者といっしょのプログラムにもっと参加する必要がある。以前より知識はふえ、参加も大幅にふえつつあるが、この点に関する責任を果たすためには、地域社会が一般的にみて、もっと多くの情報と指導を受ける必要がある。Brisbane地区での地域社会のレクリエーションで、障害者の参加の様子を非公式にではあるが調査した最近の報告によると、一般向きのレクリエーション・プログラムに参加した障害者はほんのわずかであった。地域社会の施設はしばしば利用しているものの、それはある特定の活動をするグループの一員として、それも特定の時間を指定されてであった。一般的にいって、レクリエーション施設の責任者たちは、障害者のニードにも気づかず、そのニードを満たすために自分たちが果たせる役割についても自覚がない。

 障害者はだれも、分離した施設で壁をへだてられていたいとは思わない。レクリエーション・プログラムにうまく同化しきるためには、建築上および意識上の障害がとり除かれる必要がある。レクリエーションがする人みんなにとってお互いに楽しめるものとなるためには、障害者はレクリエーションに熟練する必要があり、よりいっそう熟練するための機会が必要となる。

 障害者のためのレクリエーション・プログラムをもっと大きな地域社会にひろげ、障害者が地域社会のレクリエーション・プログラムに溶けこむように、レクリエーション療法のサービスに加えて、レクリエーションのカウンセリングをやる必要がある。障害のために人生を変えられてしまった人は、職業や経済上のカウンセリングと同様にこの種のカウンセリングを必要としている。このように障害者に援助を与えるためには、センター内の各専門分野間で、理解と調整をとり合うだけでなく、センターと外部のレクリエーション機関との間でも連絡と調整をとる必要がある。

いくつかの誤った考え方

 どうして訓練を目的とするレクリエーションに対して、これほど多くの誤った考えが持たれているのだろうか。特に身体を使うレクリエーションについて一般に持たれている誤解に関する以下の小論は、訓練を目的としたレクリエーションの価値とそれについて専門家の見解に焦点をあてることを試みている。

 (a) 運動が楽しいものであるため、運動の恩恵といわれるものは自然に生まれると思われることがある。理解されなければならないことは、運動は準備しなければならず、参加者のニードと関心に合わせて、正しい運動時間をきめておく必要があり、そして、参加者がこなせる程度のゲームや運動が選択される必要があることである。

 (b) レクリエーション・プログラムに参加する、グループの規模について考察がなされるべきである。大きなグループの中で運動をする場合、望ましいレクリエーションの社会的体験は簡単には得られない。もし大きなグループが必要ならば、そこで選ばれる運動は、参加者全員に最大の利益を与えることが確かなものでなければならない。もしいま考察しているのが、選択された運動そのものだとすれば、少なくとも参加者全員が、必要な技術を基本的に身につけていることが確かで、グループの大きさが全員を収容しうるものでなければならない。

 (c) 競争は運動に必ずしも必要な要素ではなく、レクリエーション・プログラムではその重点が参加と楽しむことにおかれることは、特に重要なことである。そこで運動の目的は、勝敗を競うことから、運動それ自体を楽しむものへ変化してくる。これは全く競争がなくなることを意味するのではなく-自分との競争や他人との競争は時に応じて行なうようにすればよいであろう。重要なことは競争をうまく使うこと、運動を競争と同一視するような競争の偏重を避けることである。

 (d) 一たん運動のプログラムが動き始めたなら、さらに詳細の指導なしに運動を続けることは適切ではないだろう。継続的にプログラムが行なわれることが重要である。すぐれたプログラムを編成し、指導し続ける専門職員の知識と情熱がなければ最良の案も、最上の設備や施設もなんの役にもたたない。

障害者に適切なレクリエーションの機会を準備するために

 オーストラリアじゅうを通して、病院や施設でのレクリエーション・プログラムは、しばしば資格を持ったレクリエーション専門職員によってではなく、さまざまな専門分野の人びとによって実施されている。だが現状では、これらの人びとが自分の専門とする訓練の目標を越え、他の専門家の知識や識見が必要な分野へまでその役割を拡大してゆくにつれ、彼らに荷重な責任をおわせる結果になっている。レクリエーション・プログラムには各種の専門分野を総合的に組み入れる必要があり、またそのほうが効果もあがる。しかし、レクリエーションがその効果をじゅうぶんに発揮するためにも、その分野を担当する専門職員の指導は不可欠である。レクリエーションだけが例外ではないが、以下に示すニードは、レクリエーションが障害者の生活の中で、その場を確保し始めるまでに必要な方向をいくつか指摘している。

 レクリエーションの持つ幅と深さ、リハビリテーションの過程へのその寄与が、広く理解される必要がある。レクリエーションは今でこそ、指導もなく、担当のセラピストの忙しいスケジュールには合わず、「シンデレラ」のように放っておかれてはいるが、非常に現実的な貢献を目ざす研究のうちでも、高度に特殊化された一領域を形成しうる分野である。

●障害者にとって身体を使うレクリエーション活動が独特な価値を持つことを認識しておく必要がある。

●レクリエーション療法のプログラムでは、それにとりくむ心構えが重要なことを認識しておく必要がある。基本的な技術を身につけたなら、次に技術、能力の各段階に適した活動と、技術に合わせたやりかたが重要となる。それとともに重要なことは、与えられた活動に対する、セラピストと享受者の態度である。

●病院または施設と地域社会のレクリエーション機関との間の重大な関係から生まれる効果を認識しておく必要がある。この種の関係は非常に重要であり、このような関係が発展するよう力を合わせた努力がはらわれることが特に必要である。

●障害者を新しい生活に適応させるか、現在の生活をもっとうまくやっていくための援助を与える場合に、レクリエーション・カウンセリングの重要性を知っておく必要がある。

結 び

 本論文の目的は、障害者のレクリエーションが持つ意味を概説的に示すこと、レクリエーションに対する現在の理解の低さからくる困難な問題点をあげること、こんにちレクリエーションの分野が変化していることを認識し、それに適応することができるようないくつかの方法を指摘することにあった。

 障害者には自活能力があり、生活能力を開発する機会が確実に与えられなければならない、という主張を擁護するため、本論で一つの考え方が考察されてきた。

 レクリエーションの分野ははげしく変化しつつあり、また現在、レクリエーションがリハビリテーションの過程で以前考えられていたよりずっと大きな役割を果たすようになっているのであるから、われわれは変化とその変化の意味するところとをよく認識しておかなければならない。レクリエーション・プログラムが発展するのにともなって、障害者に真の人間活動―幸福の追求―をする機会と技術とが与えられるようになるのである。

(Rehabilitation in Australia、April,1972より)

参考文献 略

*Consultant in Physical Education and Recreation for the Handicapped

**日本障害者リハビリテーション協会研究会会員


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年7月(第7号)34頁~40頁

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