特集/第12回世界リハビリテーション会議 サービスの組織化分科会の概要

特集/第12回世界リハビリテーション会議

第1回 リハビリテーション医学国際セミナーに参加して

サービスの組織化分科会の概要

坂田政泰

 第1回リハビリテーション医学国際セミナーは、昭和47年8月20日から24日までの5日間、約70か国200名近い参加の下にシドニーで行なわれた。

 第1日 8月20日(日)

 シドニーの銀座ともいうべきKings CrossにあるTravelodge Hotelへ登録に行く。会場前で五味先生のお姿を拝見したときは、日本から本セミナー参加者は私だけだと思っていただけに「ホッ」とした。

 登録を終え、引き続いて非公式のレセプションでは、オーストラリア人特有のホスピタリティにより、すべてははなやかに進められ、たくさんの新しい知己とともに、上々の第一印象であった。

 第2日 8月21日(月)

 Chevron Hotel(第12回世界リハビリテーション会会議場)前から開会式場行きの専用バスに乗る。英国系独特の2階建バスには、すでに昨夜知り合った顔ばかり。騎馬巡査の交通整理や、広々とした市街地の緑に目を見はっているうちに会場のNew South Wales大学へ着く。構内はおそろしく広く、開会式場のSir John Clancy Auditoriumへたどり着くには半時間近くもかかった。あちこちのCoral Tree(またはFlame Tree)がもえるように美しい。

 厚生大臣Kenneth Anderson卿の遠来の客に対する心からの歓迎の辞、国際障害者リハビリテーション協会よりDr.Harlem(ノルウェー)のあいさつ、Turnbridge卿(英国)の開会演説で花やかに開会した。

 本会議は大学構内の反対側にあるRound Houseで、Dr.Fang(香港)の例の軽妙な司会で始まった。

 予定されたProf Weise(ポーランド)は遂にお見えにならなかったが、「リハビリテーション医学の研究の可能性」と題するDr.Basmajian(米国)の演説は、現在の治療法の有用性、身体障害者の生体力学、神経障害者の新薬、および神経筋機能の研究についてのニードと可能性に多くの示唆を与えた。しかしその範囲が広いので、種々の努力にもかかわらず、たくさんの障害、彼らのニードに対し制限された生活を運命づけられている点が協調された。

 次いでDr.Sax(オーストラリア)は「リハビリテーションに関する地域保健計画について」と題し、

 1) 生活と同様、モラルを高めること

 2) リハビリテーションは医学的実施の第一のゴールであること

を中心として話題を進めた。

 Dr.Curry(カナダ)は「患者とそのニード」について述べ、午後の分科会に移った。分科会は

1.専門職教育養成(座長Prof.Huckstep)

2.評価と研究    ( 〃 Dr.Ehrlich)

3.サービスの組織化 ( 〃 Dr.Kessler)

4.サービスの普及  ( 〃 Dr.Curry)

の4部門に分かれ、私はすでに申し込んであった、サービスの組織化に出席した。

 この日、Dr.Longmuirは「リハビリテーションの保健計画における政府の役割」について、政府が中央であろうと地方であろうと、すべてのニードに対し有効にサービスすることが、基本的に重要で、有効なケースワークと、医学的な可撓性は専門職の技術的または管理的訓練によって、自治体が能率的に行動できるよう計画すべきであると述べ、政府レベルでの有用なリハビリテーション・サービスは、個人的に適用されるべきで、政府または個人の尺度が、国または地方機関での各段階で完成すべきであるとした。

 しかし討議に移ってからは、comprehensive careについての論争は、参加者の半分がオーストラリア、残り半分がニュージーランドだったためもあって、オーストラリアの病院内でのリハビリテーションに論議が集中し、A―A(アジア・アフリカ)地域よりの不評を買った。

 第3日 8月22日(火)

 午前中は、前述の座長または調整者から各分科会報告がなされたが、例のカンガルー英語(たとえばToday´s Rehabilitation may made mainly Patient´s Agancy…といった難解なもの)では、その要約を正確にお伝えする自身がないので省略する。

 少なくとも第3分科会のDr.Smith(オーストラリア)の報告だけを例にとってみても、非常に主観的な報告で、A-A地域の発言は無視したオーストラリアのリハビリテーション観であって、国際的でないとの声が聞かれた。

 分科会では、Dr.Suhasim(インドネシア)から「開発途上国のリハビリテーションに関する政府の反応性」との題で、1946年Soloリハビリテーション・センターで、年間やっと13の義肢を作ったころから、現在の、身体障害3、盲3、精神薄弱3等のほか授産場3といった施設をもつに至った経過を掘り下げて説明し、万場から「御苦労様」と好評を博した。

 このあたりでDeveloped CountryとDeveloping Countryとの関係がおかしくなり、カナダのチャイナタウンにおけるリハビリテーションの困難性が取り上げられ、Dr.Wong(香港)が激昂するあたり、まだまだ多くの問題があるように感じられた。すなわち、香港の人口の90パーセント以上は中国系で、中国人問題がそのまま香港のリハビリテーションといってよいのに対し、カナダでは、中国系の人は閉鎖的ないわゆるチャイナタウンを形成しているので、その中へ滲透しにくいことを協調した。わが国がDevelopedかDevelopingかは別としても、今後のリハビリテーションには「開発途上地域」といった考え方を持たないと思わぬ盲点が残されるであろう。

 午後は、Dr.Kessler(アメリカ)の「医学的リハビリテーション・サービスに対するボランタリー組織の分布」について述べられたが、現職の御老体のお話しもなかなか聞きとりにくかった。しかし、「BiesalskiはOscar Helene Heimにおいて、彼自身が完全なリハビリテーション・チームとしてサービスした」ことや「政府に任しておいては何もできない」等大いに共感を得た。

 また、民間団体のCriticismやAntiprofessionalismにも論及され興味深いものの一つであった。さらに一部の人により論旨がそれて行くのをDr.Ford(オーストラリア、彼はSpastic?)がうまくコントロールしていくのを見て、われわれも見習うべきであると思った。

 第4日 8月23日(水)

 この日は、さいわいにもMater Miaericordiae HospitalでDr.Dwyer(オーストラリア)の手術を見学する機会を得たので、セミナーは分科会報告を聞くにとどめた。

 Dr.Dwyerは、彼独特の椎体骨切り術と固定法で重症の脊椎側彎症に好成績を収めているので有名だが、この日の症例は必ずしもこの方法でなければとは思わなかった。当初第一助手(医師)と第2助手(補助者?)が約1時間で椎体を露呈し、そのころにDr.Dwyerが現われて、まず念入りにワイヤー等手術材料を自ら点検した。その後椎間板を除去、椎体骨切りの後、スクリウで例の金属板を固定、さらに非常に原始的なエアー・コンプレッサーでワイヤーをスクリウに固定、ゆうゆうとこの操作を続けていった。出血量もさほどでなく、術中のレ線コントロールを行ない、手術野を閉じるまでの約3時間、手術を楽しんでおられるようであった。

 骨切りの角度とか、スクリウの旋回の度合いなどは経験によるもののようであり、「やっていればわかるよ」とのお答えであった。

 第5日 8月24日(木)

 アッという間にセミナー最終日を迎えたが、この日は各地で行なわれた他のセミナーを歴訪されたActon事務総長のお顔も見え、ゲストスピーカーのオンパレードで、ほとんど討論なしに12の演題(映画を含む)がつめ込まれた。

 印象的であった2~3についてのみ記すと、
 Dr.Fang(香港)が、HarringtonやDwyerの方法とともに脊椎側彎症に対するHalo-Pelvicの症例を報告し(香港の実情を多少知っている者として、自験例のごとく報告されたのに多少の抵抗を感じたが)、各国の医師の反応があった。

 Dr.Huckstep(オーストラリア)が、ウガンダ在職中のポリオの業績を映画で見せられた(過去に日本でも公開されたもの)。未開発地域で、コストを下げて、しかも原住民の共感を得るような、高温を考慮に入れた治療には実に頭が下がり、参会者の胸を打つものがあった。

 これで、第1回リハビリテーション医学国際セミナーは無事終了したが、ここで得られた多くの友情と、今後の情報交換が、これからの各地域でのリハビリテーションの発達に大いに貢献するとともに、今後残された多くの問題への情熱をわき立たせたことを信じてやまない。

 あいにくの貧乏旅行で、観光の余裕もなく、本会議までの2日間は、Sydneyにおける空気清浄無菌化装置を見学した。特に熱傷または白血病センターでの心理的リハビリテーション等は特記すべきであろうが、この問題は別に報告したい。

 第12回世界リハビリテーション会議には多くの日本人が参加し、別に報告もあると思うので印象にとどめる。

 開会式直前、開会式場のTown Hall周辺にはデモが取り巻いていたが、単なるプラカードとビラまきにとどまり、大声を出すでもなく自由にわれわれを通行させるので、いささか奇異に感じた。

 最も感銘を受けたのは、開会演説でなされた、Dr.Wilke(米国)の「障害者の立場から」であった。彼の演説にもあったが「みてごらん、ウィルケの袖からは何も出てこないよ」と言われながら障害を克服して「教会と聖職者の会議」を統率するに至った姿である。巧みに卓上の原稿をさりげなく趾でめくっていく姿こそは、これが(リ)ハビリテーションの勝利者として、われわれの胸に強くせまるものであった。

 また、性の問題が大きく取り上げられ、脳性マヒのそして脊髄損傷患者のそれについて、おのおの異なったアプローチがなされ、今後この課題に対処すべく、性教育を含めて抜本的な検討を要することを痛感した。 

 参加者の約10パーセントは脳性マヒに興味をもっており、この人々のために脳性マヒの演題のない間をぬって、28、30、31の3日間、Sydney Conferenceが行なわれた。プログラムは、学校、施設、保護工場等会場を変えつつ、見学と討議が行なわれ、またバスの中での交歓を含めて有意義な会合であった。これにも多数の日本人が参加し、報告も期待できるので省略する。

 反省すべきことは、1,300名を越す参会者中、東洋人は15パーセントを占めるのに、総会場にはチラホラとしか目につかなかったことである。これに反して目だったのは、わずか50人ぐらいの黒人(特にアフリカ)の出席率のよさであった。

 P.R.と実情は一応別問題としても、資料の中に障害者専用のシドニー案内があったことである。歩道やその他の公共施設を見ても、市内各所にスロープが見られ、案内書によれば市内の銀行や、百貨店に車イス患者の使える入口、トイレ、カウンター、食堂等詳細に記入されており、これだけのことが記入できる水準の高さに敬意を表した。わが国でかかる印刷物の出し得る日が早く来ることを望んでやまない。

 以上ほんの概略を記したが、ここでの合言葉は「1976年、イスラエルで会いましょう」であった。ほとんど全世界の人が一堂に会して共通の話題を交換する国際リハビリテーション会議、次回には日本からも、たくさんの職種の人々が参加することを望んでやまない。医師や管理職よりも、むしろ直接現場で働く人々が、少しでも多く参加できるような対策と、共通語である英会話の準備(各国ともずいぶんひどい言葉でも通じている)、さらには少しでも参加しようとの盛り上がりが必要であろう。

 “今から準備を始めてイスラエルへ行こうではありませんか!”

神戸大学医学部助教授


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年10月(第8号)9頁~12頁

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