マーガレット・レイド整形外科病院(オーストラリア・シドニー)を訪ねて

マーガレット・レイド整形外科病院(オーストラリア・シドニー)を訪ねて

高橋 武

 第12回世界リハビリテーション会議の忙しい日程の中の一日をさいて、私たちは、ニュー・サウス・ウェールズ肢体不自由児福祉協会の運営するマーガレット・レイド整形外科病院を見学することができた。

 病院はシドニー市の中心部から40分ほどの郊外にある褐色のれんがづくりに青い屋根の落ち着いた建物であった。

 肢体不自由児福祉協会は、六つの肢体不自由児養護学校と、二つの病院を運営している。

 この整形外科病院の院長であるDr.Honner氏は、Secretary of Australia Orthopaedic Associationをつとめており、私たちが訪れたときは、世界会議場のほうがお忙しくて、お見えになれないとのことであった。

 ご案内をしていただいたのは、MatronのMiss McNeillさんであった。

 きれいな職員食堂で、しばし休んで、お茶をごちそうになり、簡単な説明をお聞きした。

 この病院は、1935年に、ロータリアンの、Mr.Andrew Reidが土地を寄付してくださり、1936年に、時の厚生大臣Hon.Fitzsimonsによって礎石がおかれたという。

 1937年6月に、最初の肢体不自由児を1人入院せしめ、1週間後に、さらに8人入院させたのがはじまりで、同じ年の9月には、Miss Ewart先生が来られ、1938年には、教室が開かれた。現在は、病院の中に3学級もつに至っている。

 病院は、病棟が四つと、居住棟が二つで、約120名ほどの入院が可能であるようにお見受けした。

 私たちが案内された病棟は、20床ずつの男子病棟、女子病棟と、幼小児病棟で、1病棟は休棟中であった。

 病室は広く、ゆっくりとスペースをとってあり、ベッドごと通路を移動してもじゅうぶん余裕を感じられるほどであった。病室から、ベッドのまま前の庭に出て、日光浴を楽しんでいる子どもも目についた(上の写真参照 略)。

 患者は、脳性マヒと内反足、先天股脱などの先天性奇形、側彎症、脊椎披裂、外傷後遺症、ポリオなどがおもであったが、子どもはみんな明るく楽しそうに、のびのびしているのが印象的であった。ニュー・サウス・ウェールズ州だけでなく、フィジー諸島からも、ここに入院して来るそうで、その子どもたちはポリオが多かったが、茶褐色の顔に、大きな明るい瞳を輝かせて、いかにも南国の子どもらしく、人なつかしそうな感じで、寂しさなどは、みじんも見られなかった。

 ここは、整形外科病院であるので、りっぱな手術室をもち、相当大きな手術も可能なようになっており、麻酔その他の設備も完備していた。側彎に対する脊椎矯正手術も、ハリントンロッドを使用しておこなっているといっていた。

 脚延長術も数多くおこなっており、私たちが見せていただいた子どもは、先天股脱で、脱臼股関節部の固定手術をおこない、しかるのちに下腿延長術をおこなったのだという。ダイモンド医師がお出でになって延長手術をおこなっているとのことであったが、延長器は工夫してあり、上の写真のように足底受板をつけていた。延長部分の両側の支柱が下方にとりつけてあるため、レントゲンの側方からの写真を正確にとれることが可能であった。

 テイラー教授もお見えになって、手術をなさったり、いろいろな指導をしてくださるとのことであった。

 脳性マヒには、腸腰筋のレリーズや内転筋切腱術、アキレス腱延長術など、私たちと似たようなことをおこなっていた。脳性マヒの手術児は多く、股関節の外転ギプスを巻いた子どもがたくさんいた。この子どもたちは、スパスティック・センターや、ほかの病院などから回されて来て、ここで手術を受けて帰るのだという。

 小児整形外科病院的色彩が強く、ほとんどの子どもが、手術と検査・研究のために入院するのであるが、中には、手術のためでなく、長期入院が必要なためにはいる者もいる。たとえば、重症のぜん息の子どものために、特に20床を割り当ててあるとのことであった。この長期入院の子どもたちは、週末や、長期の学校の休みのときには、自宅に帰ることを許されている。

 また、母子入院も、ときどきおこなっているという。これは、小池文英先生が、以前の世界会議のときに発表されたのを、とり入れているようであった。

 幼小児病棟では、生後3か月から扱っている。小さな子どもの中には、脊椎披裂が多く見られた。

 ここでは、ご自慢の脊椎披裂児用のアパラートを見せていただいた。2年前に開発したものであるという。これは、骨盤帯付の両下肢装具であるが、足部に工夫をこらしてあり、足関節、膝関節、股関節を固定した状態で歩行できるようになっている(右の写真参照)。骨盤帯は、やわらかい合成樹脂様のものでできているが、歩行時の運動に際しても安定がとれるようになっている。そして、足底部には、アブミ付鉄板で靴型装具の足底を受け、この鉄板とさらに一枚下の大きな安定板との間には、ボールベアリングで軸旋ができるようにしてあり、歩行時の下肢の内旋・外旋に対応できるようにしてある。そのうえ、さらに上部の鉄板のアブミの所から下部の安定版へ、バネをとりつけてあり、これが歩行時にたいへん有効に働いて、足尖が、足の移動後、真正面に向かうようになっており、力のアンバランスを消し去っているのであった。脊椎披裂の子どもをひとり、実際にこの装具で歩かせて見せてくれたが、いっしょうけんめいに、得意満面の面もちで、たいへんじょうずに歩いて見せてくれた。途中で尿失禁もあったが、歩くのがいかにもうれしそうにして、看護婦さんが来るまで、じょうずに上体をツイストさせて歩くのであった。

 ここには、ブレイス作製士が5人、サージカルブーツ作製士が6人いるとのことであったので、この歩行板を作った工場もぜひ見たいと思ったが、工場ははなれた所にあり、見られなかった。補装具の作製では、この病院のものだけでなく、オルトチストが、毎週水曜日に、シドニー周辺の整形外科病院にもサービスして回るとのことで、各地で、ドクター、PT、OTとこのオルトチストが、カンファレンスを開いて作製のこまごましたことまで決めてくるので、水曜日はたいへん忙しいといっていた。

 中庭の一すみに、渡り廊下伝いに教室が三つあり、さらにその左側に、はなれの一軒家があって、ここは子どもが自由に遊べるようにしてあり、反対の右側には、りっぱな屋内温水プールがあった。シドニーのボーリング業者の組合からの寄付で建てたとのことで、肢体不自由児施設や学校の中で、温水プールがあるのは、ここだけであるとのことであった。子どもは、毎日利用しているとのことで、PTが訓練をしていた。

 廊下伝いに帰って来ると、壁のガラス戸棚に、児童が作ったという病室の模型があり、5、6人の人形の患者さんに対して、ベッドで治療しているところを作製してあり、かわいらしかった。いちばんはしの棚には、肢体不自由児福祉協会のチャリティー箱と、青い地に白い忘れな草の協会のシンボルマークのはいった、スプーン、フォーク、せんぬき、コーヒーカップ、ボールペンなどが並べてあった。みんなで、きれいな銀色のスプーンを求めてきた。

 次に歯科診療室を見たが、虫歯の苦労は、どこも同じとお見受けした。機能訓練室は、あまり大きくはなかったが、きれいに整頓され、作業療法室も小さいのが一つあった。男の子には、病室でも作業療法をやっていた。

 その向かい側にAndrew Reid WardとMildred Muscio Wardが互い違いに並んだ形で建っていた。パビリオンタイプの建物で、ここには、元気になった子どもたちが、男女別に、病室からここに移って自由に生活しており、また治療がはじまる際には、病院に戻るというようにしてあり、病院のふんい気は、ここでは感じられないようになっていた。ここに入院した子どもたちのためには、次のようなことがなされるのであるという。

1.医学的、整形外科的治療や処置

2.歯科治療

3.看護、一般看護、特殊看護

4.理学療法、機能訓練

5.作業療法   

6.言語治療

7.教育     

8.宗教

9.いろいろなレクリエーション

10.後療法、家庭訪問看護

 職員は、シスターが12名、看護婦が17名、教師3名、PTは専任1名、嘱託2名、OTは専任1名、嘱託2名、ブレイス作製士5名、サージカルブーツ作製士6名ということであった。シスターとは、専門的訓練を受けた看護婦のことである。

 医師は、院長以下5名である。

 玄関をはいってすぐの広間に、アンドリュー・レイド氏と奥さんのマーガレット・レイドさんの写真がかかげられてあった。

 私たち一行は、8人であったが、たいへん親切にしていただき、本会議場であったシェブロンホテルから、行きも帰りも病院の自動車で送ってくださり、その好意が身にしみた。

 厚く御礼を述べて、病院を辞したのであった。

札幌肢体不自由児総合療育センター所長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年10月(第8号)39頁~41頁

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