リハビリテーションは態度なり

リハビリテーションは態度なり

─ボランティアによる盲人の歩行訓練─

Rehabilitation is an Attitude

R.Kossick,M.A *

奥野英子**

 晴眼者の盲人に対する態度を検討してみよう。恐れ、罪悪感、迷信、暗黒というようなイメージと結びついていないだろうか。われわれは暗黒を罪とか何だかわからないがこわいものと同じに考える傾向にあり、悪魔を「暗黒のプリンス」と呼んだりすることもある。盲目について話すとき、不幸ということばがよく引き合いに出される。

 これらの感情的な態度は別としても、盲人の行動や外見はステレオタイプになりがちである。こじき、街角の音楽ひき、手をひかれてだらしない服装をした人という印象をもつ人が多い。

 しかし、状況を熟考してみると、一般の人とのちがいは、盲人はただ見えないのだということだけなのである。盲目とは、人間の身体的特徴の一つなのであり、われわれが頭のなかでかってに考えがちだが、すべての態度にかかわることではないはずである。これらのネガティブな態度は、われわれが勝手に作りだしたイメージなのである。

 最近の新聞に都市計画に対する批判が載っており、そこに〈めくら建築〉ということばが使われていた。「まっ暗闇のなかでめくらの人のように集まろう」などといういい方を聞いた者はいないだろうか。「めくらのように手も足も出ない」とか、「めくらめっぽうに前進しよう」などということばは、盲人に対する拒絶的な態度を表わしている。これらの表現の原因は、行動半径の狭い盲人を想定しているためである。

 このような卑劣な態度をとる人は、もし自分が盲人になったときのことを考えたら、どう思うのだろうか。盲目ということだけでも苦労の種であるのに、自分自身の態度を調整したり、他人の態度にも対処しなければならないのである。その場合に、ボランティアの態度は非常に重要である。

 雇用主の態度を見てみれば、問題が明確化するであろう。ほとんどの雇用主は〈より不運な人びと〉のために巨額の寄付をすることはいとわないが、しかし、盲人を自分たちの店、事務所、工場などに雇うことを現実的に考える人は少なく、そういう問題が持ち込まれることを恐れている。

 中世時代には、盲人は道化師のような服装をし、耳ざわりな音楽を居酒屋でかなでていたものである。彼らはしばしば果物を投げつけられたり、侮辱され、細々と生計をたてるしかなかったのである。その後しだいに、貴族などが盲人に対する慈善活動を行なうようになってきた。そして18世紀になってやっと、Diderot というフランス人が新しい時代をつくりあげ始めたのである。盲人教育に熱を入れたため、監獄にぶちこまれたのも、一度や二度ではなかった。

 養成を受けた専門家と知識のあるボランティアのコンビが、チャーリーという盲人を訪ねてみた。チャーリーは盲目という事態に対してネガティブな態度しか取れず、絶望感にさいなまれていた。心のあたたかい人がチャーリーを訪ね、盲目になるということがどんなにたいへんであるかと同情を示すが、チャーリーもその訪問者もお互いに絶望感を深めるだけだったのである。こんどは専門家とボランティアが今までとは全くちがうアプローチでチャーリーに接した。盲導犬など専門的なサービスによって、人間としての尊厳、自立性、プライバシーを保てる方法を知っているので、リハビリテーションの技法や技術に自信をもって彼に接したのである。

 盲人に自信を伝えるもっとも容易な方法は、会ったとき、指導をしているとき、話し合いのなかで能力や技術を通して伝えることである。そして、盲人のために援助の手をさしのべるべきときと、さしのべるべきでないときを、じゅうぶんに理解していなければならない。盲人歩行訓練学校では、盲人を指導援助する方法を教えているので、グループで申し込めば、いつでも訓練を受けられる。ワシントン州から出されているハンドブック「視覚障害者のためのボランティア・サービス」からも、いくつかのヒントが得られるであろう。以下はハンドブックからの引用である。

 「ボランティアは自分を組織の一部と考えるべきであり、ボランティア・コーディネーターに対して責任をもつ。ボランティア関係では秘密を守らなければならないが、ボランティアどうしでは情報を交換し合い、お互いに指導し合うようにする。

 あなたが奉仕する相手は個人なのである。盲人と接触するときには、その人の聴覚と残存能力をじゅうぶんに活用しなさい。多くの盲人は多少の視力をもっており、それはじゅうぶんに役だつものであり、聴力も非常によい。自分がだれであるのかはっきり口に出し、そこにいるほかの人も紹介し、どこにいるのか、何をしようとしているのかをはっきり伝えなさい。これは、行きつけない場所に行ったときや、初めての人に会うときには、特にたいせつである。声の調子や握手などの触覚は、視覚障害者にはとても重要である。

 『こんにちは』とか『さようなら』を部屋にはいるときや帰るときにはっきりいい、そこにその人がいるのかいないのかを明確化する。『見てごらんなさい』とか『めくら』ということばは使わないようにする。正確な表現をするようにし、あいまいないい方は避けなければならない。

 自分の視力を話題にするのをいやがる視覚障害者もいるが、もし、その人が盲人という状態に適応しようと努力しているときならば、彼が現実をとらえられるように助力しなさい。『すべてうまくいくと思いますよ』というような言葉は、とても力づけになるものである。何か問題が起こった場合には、今後の可能性と成果について、自分で理解できるよう助力してあげなさい。こうすれば、あなたの援助の手を必要とするときがいつかを、その人が自分で決められるようになるでしょう。サービスについては、普通のことばで説明し、その人の能力を批判したりしてはならない。そして個人個人の質問を注意深く聞きなさい。盲人から出される質問は、その人のニード、興味、能力などを如実に表わすものである。

 盲導犬協会から派遣されたボランティアとして仕事をするときには、〈リハビリテーションは態度なり〉ということを忘れてはならない。したがって、あなたの態度が前向きであればあるほど、相手も積極的になるものである。盲人に対するあなたの態度は、あなたの友だち、家族、クラブのメンバー、同じ職場で働いている人にも影響を与えるものである。くり返していうが、もっとも重要なことは、盲人と接するときの態度である。」

 クライエントと歩行指導者との関係は、現実的かつ前向きな、精神であり態度なのである。米国における盲人に対するサービスは、オーストラリアにもこんにち広まってきたようである。歴史的遺物である慈善的アプローチはだんだん減少している。直接的サービスは、現在では専門的に行なわれるようになったが、これらのサービスに対する慈善的アプローチが永続すればするほど、盲人のネガティブな態度を助長するのである。

 盲人の歩行訓練は、リハビリテーションにおいてもっとも重要なものである。現在のアプローチは不安定な収入に依存しているが、もっと安定した財源が確保されれば、よりよいサービスが企画されるようになるであろう。

 このような専門的サービスに対する援助が、慈善的な状態から、しっかりした基盤に立つようになれば、盲人をバカにする風潮も無知の海へと沈んでいくであろう。

(Rehabilitation in Australia,January 1972から)

*オーストラリア障害者リハビリテーション協議会・オーストラリア盲人協会共催による歩行訓練講習会講師
**日本肢体不自由児協会書記


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1973年4月(第10号)14頁~15頁

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