プラノ大学─脳損傷者の革新的教育

プラノ大学─脳損傷者の革新的教育

The University of Plano
A Revolution in Learning

脳損傷者の大学教育を可能にしたユニークな教育プログラム

Glenn D.Kittler

奥野英子*

 Peter・S.は去年の6月、20才にして高校を卒業したが、依然として本を読むことができなかった。彼はアルファベットの各文字を見分けることはできるのだが、それが一つのことばに組み合わされると、なにを意味しているのかさっぱりわからなくなるのだった。bとd、pとqなどが混乱してしまい、ことばがめちゃくちゃになってしまうのである。cat がtac になったり、onがnoになってしまうのである。

 Peter は三つの大学を受験したが、すべて落ちてしまった。受験に失敗した原因―それは、彼が問題用紙の質問を読めなかったからである。ところが、驚くべきことに、このようなPeter を受け入れてくれる大学が見つかったのである。この大学自体が非常にユニークな機関であり、世界じゅうでも唯一のものであろう。

 この大学はプラノ大学(University of Plano )といい、テキサス州、ダラスの北方15マイルほどの位置にある。プラノ大学は3年前に創立され、創立以来ずっと、読みに問題があるため、ほかの学校からは締め出され、またたとえ、学校に入れてもらっても、学習についていけないために落第してしまうような若者を、入学させてきたのである。

 読み(Reading)に困難があるということは、妊娠中または出産過程において、または、児童期のケガや疾病によって、中枢神経が冒され、脳が損傷されたことを意味する。

 読みに問題があるため、これらの若者は、〈学習遅滞者〉というレッテルを貼られてきたのである。しかしながら、主要問題は彼らの学習能力にあるのではなく、ことばを見て理解する能力にある。このような学生は、その程度こそ各人異なるが、いわゆる〈失読症〉なのである。物を読むには、極度の集中力が要求される。精神を集中させるということは彼らをすぐ疲れさせ、注意力の働く期間が短くなり、その結果、授業についてゆけなくなり、愚鈍呼ばわりされるのである。

 しかし、これらの若者はいわゆる〈精薄〉とはまったく違うのである。彼らの多くのIQはかなり高く、読解を必要としない学課ではかなりよい成績をあげている。事実、脳損傷の程度が軽い者にとっては、より多くの読書量が必要とされる高等教育にはいるまでは、ほとんどこの問題が明らかにならない。

 Peter は次のように回想している。「高校時代の先生は僕の勉強を見てくれようとはしなかった。当たりさわりなくやり過ごすだけだった。僕にとって読みはきびしい試練であることを痛感したのだが、しかし、僕は、自分がバカやなまけ者ではないのだとわかっていた。僕には援助の手が必要だったのである」と。

 約5年ほど前、テキサスの優秀な教育者はこのようなニードを自分自身で痛感した。Dr.Robert Morris は、5人目の子どもが生まれたとき、ダラス大学の総長をつとめていた。Williamはとってもおとなしい子どもになりそうだと、Morris夫妻は喜んでいたのだが、3才になっても、ちっとも騒ぎたてず落ち着いているので、もしやと心配し始めた。

 診察してもらった結果、妊娠中に酸素が不足したために脳損傷を起こしたことが判明した。脳細胞が働かないために、Williamははって歩きまわれなかったのである。また、もし適切な治療法がなければ、大きくなっても普通に戻らなかったであろう。

 効果的な治療法を捜しまわっているときに、Morris家はフィラデルフィアにある人間能力開発研究所(Institute for the Achievement of Human Potential )を知った。この研究所では、医師、セラピスト、教育者がチームを組み、William のような子どものためにユニークな治療方法を開発していたのである。

 この治療方法は開発者たち(リハビリテーション医学専門家のDr.Robert Jay Doman,研究所長のDr.Glenn Doman, 教育専門家のDr.Carl H.Delacato)の名前にちなみ、ドーマン・デラカト治療法と呼ばれ、損傷されていない脳細胞を訓練することにより、損傷を受けている細胞の機能をカバーしようとするものである。

 出生時には、脳の下層部だけが開発され、脳の上層部の細胞は、はって歩きまわる時期に活動する。この脳の上層部は、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚、言語能力等のいわゆる感覚機能をつかさどるのである。

 脳損傷児は、自然の思考過程が妨害されているため、はう段階にはいらないのである。また、たとえ脳損傷がなくても、寝室や遊び部屋にとじこめられてばかりいると、この段階の成長がそこなわれる。

 普通の人は生きている間に、100 億の脳細胞しか使わないことが、科学的研究によって実証されている。

 ドーマン・デラカト治療法の理論とは、自分ではって歩きまわることのできない子どもにはう訓練をさせると、生き残っている脳細胞が〈教育〉され、死んでいる脳細胞の代わりを果たす、というものである。

 1957年に新しい治療法が開発される前は、ドーマン・デラカト一派は、自分たちの研究所で伝統的な治療法を使っていた。すなわち、歩行棒、クラッチ、マッサージ、水泡療法などである。10年間治療にあたっていたが、機能に進歩を示した子どもは3分の1ぐらいであった。退歩した者さえ多かったのである。

 ところが、新しい治療法を初めて試みたグループには76名の児童がいたのだが、退歩した子は1人もなく、変化のなかった子どもは10名、そして残りの66名は非常にめざましい進歩を示した。数週間で進歩を示した子どももいるが、ほとんどは2年以内に成果をあらわした。

 1960年以来、ドーマン・デラカト治療法をたたえる記事が、数多くの医学ジャーナルに出され、研究所は職員や施設を2倍にしなければならなくなり、支部も米国の各都市に開設された。

 Morris夫妻は親の立場として、息子のためになされた治療法を非常にありがたいと思った。William は現在7才になったが、出生時の脳損傷の兆候はもはや全くない。現在では読みにもすぐれ、頭脳も優秀かつ敏速で、英才児のようでさえある。

 Morris夫妻はフィラデルフィアの研究所でドーマン・デラカト訓練を学んだ結果、次のような事実に気がついた。学校や大学についてゆけずに落第していく生徒のうちの40パーセントは、脳損傷があるために学習能力がはばまれているのだということを。また、米国全人口の約20パーセントは脳組織がある程度破壊されている。

 これはなにも、最近特に現われてきたというような現象ではない。50年前は、脳損傷をもつ若者にも生活の場があった。男の子は農夫や労務者となり、女の子は無事結婚し、りっぱな主婦になれたのである。

 時代は変わってしまい、こんにちの母親はなんでも知っていなければならない。現代の意欲的な若者にとっては、25年前に高校卒業証書がそうであったように、大学を卒業することが不可欠なことのようにみなされるようになってきた。高等教育のニードを認識するにつけ、より多くの若者がそれを追い求めるのである。そのため、社会でいったん認められなくなってしまった若者は、混乱の人生へと突入してしまうのである。

 Morris博士はこのような若者に非常に興味をいだき、彼らのためになんとか役にたちたいと思うようになった。

 その当時、この治療法が子ども以外の人にも効果があるのかわからなかった。おとなを対象にした経験があまりなかったのである。すべての治療は2才から14才までの児童に向けられており、診断の後すぐに治療が始められた。もしこの治療法が科学的に実証されているなら、損傷の程度と訓練の定期的回数しだいで、どのような年齢層にも適用されるはずだと、主唱者たちは考えた。その結果、Morris博士は、世界でももっともユニークな大学の開設に思い至ったのである。

 1964年に、教師の配慮等によりどうにかこうにか高校卒業証書を手にした若者を61名集めた。これらの若者のすべては大学に進みたかったのだが、落とされ者たちである。彼らのほとんどは読みに問題をもち、まったく読めない者も何人かいた。言語や筋協応に障害があったり、過活動の者もいた。一連のテストを実施し、フィラデルフィア研究所の熟練セラピストは、若者ひとりひとりの神経組織(neurological organization.略称N.O.)を確立することができた。これは、個人が自分の回りの環境に適応できる度合いを示すものである。ドーマン・デラカト理論によると、すべての人はN.O.をもっており、〈理想的〉(身体的・知能的に完成である)から〈脳組織破壊〉(音声を発することさえ不可能という最悪の状態)に至るまで、各種段階がある。脳損傷は、〈欠陥のあるN.O.〉となる。ダラスに集まった若者グループのほとんどは、N.O.が劣っているという中程度の段階に分類された。

 このグループは12週間にわたる実験的研究を始め、自分たちがドーマン・デラカト法から得るところがあるかを、明らかにしようとした。その結果は驚くべきものであった。その短い期間に、失読症だった若者は、6学年程度の読みの力をつけたのである。より流ちょうに話せるようになった者、歩行能力に進歩を見せた者もいた。多くの者はIQが高くなったが、これはIQが本質的に高くなったというよりは、本来のIQが表明されるようになったためである。

 また、もう一つ重要なことであるが、これらの若者は、従来何をしても失敗した結果、自分はそそうをしないかと心配する―その寂しさから解放されたのである。彼らのなかには、自分たちがいい年をして、赤ん坊のように一日1時間も床をはうなんてことはバカげていると考える者もいたようだが、これももっともである。しかし、学生としてまた人間として、自分に顕著な進歩があることに気がつくと、そうは考えなくなった。彼らの多くは一日2時間ずつはう訓練をしたいと、自発的にいい出した。

 Morris博士は、脳損傷者がドーマン・デラカト治療法を受ける施設をつくるだけでは、物足りなくなってきた。彼は次のように言っている。「われわれの実験的プログラムに参加した若者は、大学に進学したいと願っていたのだが、彼らは自分たちも大学にはいれると実証したのである。彼らにとってもっともよい大学とは、学士号修得をめざしながら、N.O.プログラムを継読できるような大学であろうと考えた。

 われわれは、教養カレッジ(College of Liberal Arts )を備えた小規模な大学で、すべての学生が誇れるような最上の大学を開校することに決定した。これをバックボーンとして、N.O.プログラムを必要としたりまたはN.O.プログラムを勉強したい学生のために、発達教育カレッジ(College of Developmental Education)をその次に設立しようとした」

 テキサス州の長官から認可書を受けとると、Morris博士は教育界、法曹界、政府等の指導者層から、評議員を選び出した。債券を発行し、建設資金30万ドルを集め、プラノに近い760 エーカーの農地に、五つの建物を建築することになった。

 1965年9月に、教養カレッジは、ダラスの事務所内に仮に設置された。1966年4月には、プラノキャンパスに移転し、その年末までには、発達教育カレッジもそこに正式に開校された。

 現在6学期目を迎えるが、プラノ大学の登録者数は3年そこそこのうちに4倍にふくれあがり、教養カレッジには90名の学生、発達教育カレッジには140 名の学生が登録している。今春には、テキサス州大学協会の正式会員になる予定であり、第1期生が大学を卒業する時期には、南部地域学校・大学協会に加盟できるであろう。

 所期の意図通り、教養カレッジはすでに傑出している。学生90名に対し、博士号をもつ教授が9名、修士号をもつ教授が7名、学士号をもつ教授が3名おり、学生と教授との比率も、小さな大学にしては顕著なものであろう。学級編制も小さく、学生ひとりひとりによく注意がゆきわたるので、プリンストン、バァザール、その他いくつかの州立大学から名誉学生も招集した。発達教育カレッジ(D.E.)は、プラノ大学の目玉商品である。Morris学長は、5年後に、教養カレッジの学生数を500 名に制限するつもりであるが、そのころには、発達教育カレッジの学生数は2,000 名になると予想される。

 このようなカレッジが存在するということでさえユニークなことであるが、そのふんい気たるや非常に変わっているのである。学校の性格上、〈施設〉的なふんい気を想像する人もいるかと思うが、それは全くちがうのである。やはり、第1学期には学生ははにかみ、内気で、よそよそしい感じであったが、これは、それまでなん年もの間、クラスの劣等生として待遇されていたからである。

 プラノに来るとたちまちのうちに、学生たちは変わるのである。自分たちだって学習できるということを発見するのである。また、読めるということ、考えるということのすばらしい世界を知るのである。彼らは自信をもち、自分自身をおもてに出すようになり、より積極的になるのである。Dean Charles Muir は次のように言っている。「彼らにチャンスさえ与えれば、彼らはとうとうとまくしたてるであろう」と。

 簡単な訓練から新しい人生が生まれるなんて、奇跡としても考えられないであろう。実際、ドーマン・デラカト理論があまりにも単純なため、医学界でも疑問がわきあがった。たとえそんな疑問が起きても、フィラデルフィア研究所に児童を、プラノに若者を、たくさん紹介しているのは医師たちである。もちろん、フィラデルフィア研究所にもプラノ大学にも医師がスタッフに含まれている。

 発達教育カレッジに入学を許可されると、学生はN.O.を決めるテストを受け、個人個人に合った訓練を受ける。学生たちは、ドーマン・デラカト治療法のセラピストであるLigia Meiners の指導のもとに訓練を受けるが、2週間ぐらいたつと、ときどき見てもらえさえすれば、ひとりで訓練できるようになるのである。

 学問の面については、発達教育の学生は、いわゆる、人間形成という面の勉強を自分たちでするのである。Dean Muir が教師であるが、神経組織の身体・心理的側面や、人類発生学、人類学などを勉強する。これらの講座から学んだ洞察力により、長い間彼らを苦しめていた自意識を取り除くことができる。もはや、この世に生まれたことをのろう必要もなく、運命づけられたままではないことを彼らは知り、これは、彼らの士気を鼓舞させるばかりでなく、彼らの家族をも勇気づけるものである。

 第2学期までに、発達教育の学生は読みに進歩を見せ、注意力持続時間も長くなり、教養カレッジにはいる資格をもてるようになる。平均してCの成績を取れるようになれば、教養カレッジにはいれるのである。学部長賞や学長賞を取る者さえいる。プラノで1年間過ごした後、数多くの発達教育カレッジの学生は、自宅の近くにある大学などにはいれるようになる。

 非常に予期せぬできごとが起こったのである。というのは、プラノ大学は、発達教育学の学位を出せる唯一の大学となったのである。現在発達教育カレッジにいる12名の学生は、学位を取って、自分たちも発達教育の教師となるために、プラノにとどまりたいといいだした。そのうえ、教養カレッジにいる学生は、発達教育という分野を初めて知ったため、自分たちにも役だちそうだから、N.O.プログラムを受けたいと申し出た。発達教育を専攻して、それを教えられるようになりたいというのである。

 このようにして、テキサスの平原にたっているこの小さな大学は、革新的な高等教育の世界的センターになろうとしているのである。大学に行ける望みが持てなかった何千、何百万という若者は、自信と勇気にあふれた若者になっているのである。

(Coronet,March 1968から)

日本肢体不自由児協会書記


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1973年4月(第10号)34頁~37頁

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