評価 ワークショップ評価を評価する

評価
Evaluation

手塚一朗* 中島和雄* 池田勗*

訳者注――職業評価と適応訓練に関する関心は我が国でも高まっており、疑心暗鬼、経験論的主張、アカデミックなものへのあこがれなど、様々な考え方が関係者、特に実践者の中に混在していると思われる。ここに訳出した二論文は、かなり強い調子で両筆者の見解を主張したものであり、ちょうど我々の中にもある論争点を紙上で論戦してくれているように思われる。単にどちらかに軍配をあげるという態度でなく、読者自身の批判を加えながら主張と反論を比較して見ると、得るところが大きいと思われる。

 

ワークショップ評価を評価する

Evaluating Workshop Evaluations

Simon Olshansky **

「どう議論しても、より基本的なものは結論の方ではなく前提の方にある」

A.N.Whitehead

 ワークショップにいるクライエントに対する評価に関して、興味と関心が増大してきている。この興味と関心の増大にこたえて、全国リハビリテーション協会は、RSAの後援を得て3年計画の研究を開始した。そのため今ここで、評価過程1)、2)に影響を与え方向づけるガイド仮説(guiding assumption)を概観しておくことは、時宜を得ているであろう。問題は、いかによりよい評価をするかということではなくて、評価がほとんどのクライエントの利益に最も役立つのはどんな条件の時かを正しく理解することにある。

ガイド仮説

 多くの専門家が抱いているガイド仮説というのは、人間には身体諸器官があるのと同時に能力、適性、態度があり、これらは1~8週間以内で割合容易に検査、評価し、明らかにし得るというものである。多くのワークショップでは、平均して2~4週間を評価に用いている。ワークショップ評価は紙筆検査からよい方向への変化を示すものであるけれども、一方、上に述べられた、個人の資質は<所与>のもので、概して不可変のものである、という古い仮説は不幸にもまだ継続している。

 職業リハビリテーションの多くの専門家たちは、短期の評価期間の結果から、被評価者が作業ということに関し、何ができるかあるいはできるようになるかについて、確実で有益な状態像を得ていると、信じられないほど無邪気に考えこんでいる。専門家たちは、時間、空間、それぞれの評価手続中に含まれている諸活動や諸環境などの制約範囲で実施されている評価過程が、限定された価値しか持っていないことを認め損なっている。

 例えば、評価者が被評価者に与える衝撃をどう評価しているのだろうか。評価が行われる場面設定の全貌をどのように評価しているのだろう。あるいは、クライエントがやらなくてはならない退屈で継続性のない課題、評価を受けるという体験が引き起こす緊張と不安、クライエントが意欲のない被験者なのかどうか、などをどのように評価するのだろうか。さらに、多くの専門家たちは、伝統的な評価過程というものが、専門家のパワーの表出、すなわち“優秀な”人間が“劣った”人間の適格性、適合性を検査している、という点について理解できないでいる。

 もっと重要なことは、クライエントの多くのものは、適宜に適当な機会を与えられさえすれば作業遂行上かなり高度のレベルにまで成長し、向上し、到達できるものだという点について、多くの専門家たちは理解することができないでいる。挑戦すべきことがらは、クライエントを評価することよりも、クライエントがどんな才能を持っていようともそれを開発していくことにある。クライエントが機会を得られないうちは、クライエントが成長していくためのどんな潜在能力を持ちあわせているかを、決して知ることはできない。

個人の潜在能力を開発するための戦略

 問題は行動をいかに変容させるかであって、行動をいかに評価するかではない。人がどんな潜在能力を持っていようとも、それを評価することから開発し完成させていくことの方へと我々の関心を転換すべきである。自ら努力するように勇気づけるに足る、興味を引き、挑戦したくなるような機会が得られるまでは、人が何をすることができるかはわかっていないし、わかり得ないのである。専門家が頭を悩ませるべき問題は、この与えられる機会をどう適切なものにするかということでなければならない。今までは、クライエントに与えられる機会の質に関しては十分考慮されていないで、どの程度その人が適切なのかということが問題とされてきたのである。

 個人の潜在能力を開発するのに助けとなる、ある種の特定な戦略といえるのはどんなものであろうか。それは、人間は意思決定をする権利と責任を持っている自律的なものである、という見方にもとづいて出てくるものである。もしある人が、労働市場でひとりの大人として行為するのを期待されているのなら、意思決定の権利と責任もまかされているべきである。ワークショップへ入所すること、そこにとどまることは本人が望むが故に行われるべきである。ワークショップに入所しているよう強制することは、成功の機会を制限したり打ち砕いてしまうことになるであろう。さらにいえば、注意の目を過去から現在へと転ずべきである。というのは、その人の生活歴は興味深いものではあっても、常にその人の成長のための現在の潜在能力を規定したり、示唆するとは限らないからである。

 第1に、作業能力を開発するには、種々の複雑性を持った、幅広く多様な、興味ある挑戦的な作業課題3)を与えるべきである。単調な繰り返し作業は、作業能力を挑発せず、目を覚ましている能力を挑発するだけである。非常に多くのクライエントが、毎日毎日大変ひどい退屈に耐えているということは、それだけ我々がクライエントを脅迫してやらせてきたという度合いを示唆しているのである。多くのワークショップが、適当な作業を見い出すのに困難を抱えているというのが事実であるにせよ、そのような困難があるからといって、我々が手に入る作業の種類には大差がないというふりをしなければならないほどではないはずである。単調な作業はほとんどの作業員を退屈にさせるだけであり、彼らのワークショップでの体験に対する興味を失わせるのである。

 第2に、我々はクライエントの努力に対して現実的に報いるべきである。ほめコトバでなく、コトバよりもずっと説得力のあるアメリカ貨幣で報いるべきである。クライエントに対して、1時間につき25セント払うだけでは、多くの努力を払うよう鼓舞しそうにない。もしも、ワークショップがもっと支払えないのであれば、トークンの量で給料を払うというような偽りをすべきではない。総額が少なければ、交通費とか、食事手当と名づければよい。

 第3に、我々はクライエントが<正常>な作業者として振る舞うことを期待して、常に<正常>な行動の規則を守るよう主張すべきである。正常な行動以下のものしか期待しないのは、異常行動を鼓舞することにほかならない。ほとんどのクライエントは、ワークショップの伝達事項が明瞭なものであればそれにこたえるであろう。クライエントを気ままに甘やかすのは、彼らを混乱させ正常に行動する能力を減ずることになる。あるクライエントが、種々の異なった時点で正常な期待にこたえられないことがあっても、これは期待することの価値を低くするものではなく、まさに逆なのである。クライエントは、どんな理由があっても正常な行動から出発することに気づいていなければならないのである。

所要時間

 評価は、一般的には予定された期間に行われる。不幸にも、我々はどんな人の場合にもその潜在能力を開発するのに必要な時間を前もって述べることはできない。少数のクライエントにとっては2か月でも長すぎるだろうが、多くのクライエントにとっては1年は必要であろう。ごく少数のクライエントにとっては数年間を要するであろう。我々のCommunity Workshopsでは、ひとりのクライエントには3年要したし、もうひとりの場合には6年かかっている。

 そこでひとつの問題が生ずる。あるクライエントが通常の作業に対する潜在能力に欠けるということを、降参して認めるのはどの時点でであろうか。クライエントに通常の作業を遂行する潜在能力が本当はないのに、我々自身の願望や成功への欲求のために、能力ありと誤解したり信じたりするという危険は確かに存在している。この種の自己欺まんを正すには、リハビリテーション過程にいるそれぞれのクライエントについて再検討、研究、討論を絶えず続ける以外にはない。一方に潜在能力のないところにもあると信ずるような危険があるとすれば、他方、8週間以下の評価の方には、速成評価の故に潜在能力を否定してしまうという、さらに大きな危険さえも存するのである。他の人に半ぱものを売るという危険に走るよりも金と時間を浪費する方がはるかにましである。

 ワークショップに来所する多くの人々は、運とか成りゆき、いわくといったものに既に欺かれてきているのである。彼らから適当な機会を否定し去ることで再び彼らを欺くべきなのだろうか。リハビリテーションに関与している我々は、希望をうちたてるべきなのか、それとも希望を葬ってしまうべきなのか。我々は、クライエントが立ち上がるのを援助しないで、むしろ引き倒そうと意図してはいないだろうか。

対象となる二つの集団

 伝統的な評価過程というものを、DVRに多数紹介されてくる精神病と精神薄弱の二つの集団に関連させて考えてみると、その不適切なことをもっと明確に理解できるであろう。

 例えば、精神病者の多くが持つ問題は、作業課題を遂行する際の能力のなさというよりも、自分自身を律することや他人との関係を律する能力のないことなのである。専門家の責任は、ただ彼らの作業能力を評価することだけでなく、自分自身に対してよりよい感じを抱けるよう援助したり、もっと自尊心や自己確信を開発することである。そのような結果をもたらすには、多くの激励とか安心感を与えるのも必要だが、それとともに、多くの時間が必要なのである。さらにいうなら、彼らは、自分自身をもっとよい有能な人間として体験する機会が繰り返し与えられることを必要としているのである。結局のところ、彼らは自分自身の不安をもっと効率的、効果的に律するよう学ばなければならないのである。

 精神薄弱者(教育可能レベルの)は異なった種類の問題をかかえている。精神薄弱者は、自分たちのことをバカで救いようがない者と納得させられてきている傾向が強いのである。挑戦すべきことがらは、彼らが自分自身に抱いているイメージを変える手助けをすることであり、多くの課題に対して、彼らがバカでもないし救いようのない者でもないことを納得させるところにある。適切な体験を通じて彼らの潜在能力を開発することによって、彼らに対して従来は否定されてきた機会を与えることになるのである。

 専門家たちは、鉛筆と紙による評価から短期の作業評価に置き替えたときに、自分たちが著しい、気のきいた前進をしたと考えることで自らを欺いている。どちらの場合でも、多くの制限を伴ったその人の過去ばかりをとりあげていて、多くの可能性に富んだ将来を探究しようとしていない。これら二つの集団を伝統的なやり方で評価することは、彼らの不安を増し、無能を恐れる気持ちを固めることになるのである。

進行形のプロセス

 評価というのは、新しいクライエントを脅かす孤立した見知らぬ者であるべきでなく、開発のための過程に寄り添う一貫した随伴者であるべきである。少なくとも毎週、開発のための過程がその人間の変わりつつあるニード、能力、興味にふさわしいものであるかどうかを知るために、評価が行われるべきである。注意の焦点は人の側から過程の方に移されるべきである。もし人が進歩することができなかったら、その与えられた機会が本当に適切であったかどうかを問題とすべきである。伝統的評価では、人の適切さの方が問題とされているのである。開発のための過程においては、進歩と問題点が注意深く記されて評価され、そして、リハビリテーションの仕事と結びついた進行形の評価に基づいてプログラムの変更が行われるのである。

 擁護できる評価4)とは、開発のための過程の最後になされるもので、何種類の干渉がなされ、何種類の反応が生じたかということを、できるだけ完璧にまた注意深く述べることである。伝統的な評価過程を放棄した結果、評価は常に開発のための過程に<従属的>なものであり、その目標は、人々を評価することよりも人を変化させる一要因となるのである。

ノート

1) 伝統的評価課程についての議論は、Work Evaluation in Rehabilitation, Walter A. Pruitt and Ralph N. Pacinelli, editors. Stout State University, 1969 Reprint Series RS-70-2.を参照のこと。
2) 異なった観点としては、The Principle of Normalization in Human Services, Wolf Wolfensberger, editor. National Institute of Mental Retardation, Toronto,Canada, 1972.を参照のこと。
3) かなり一般的になってきた作業標本の使用は、クライエントの有様、状態に対する無感覚さを暗示している。クライエントは働き手になろうという強い意図を持ってワークショップに入所してくる。それなのに彼はお金を得られる実際の作業をする代わりに、働き手として演技することを求められるのである。クライエントの怒りと憤りを刺激しそうな、また、クライエントの作業能力をでなく不安の方を測定しそうな課題を遂行するよう求められるのである。
4) ある専門家たちはevaluationよりもassessmentという用語を好んで用いることを指摘しておくべきであろう。どんな用語を用いようとも意図は同じであって、<見たところ>好ましくない候補者を今後のサービスから排除するために評価するのである。性急に、また不適切に得られた結果は、その後で、クライエントの排除という非正当、非合法なことを正当化し合法化するために用いられるのである。理論においても実践においても、誤った答えは誤った問いかけから引き出されるものである。伝統的な評価過程は、どんなに注意深くまたどんなにすばらしく構成されコントロールされていようとも、間違った問いかけをしているのである。

*東京都心身障害者福祉センター。
**Olshansky氏は、マサチューセッツ州ボストンのCommunity Workshops, Incの常務理事。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1974年10月(第15号)7頁~10頁

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