幼少重度障害児の社会化(ソーシャライゼーション)を阻むもの

幼少重度障害児の社会化(ソーシャライゼーション)を阻むもの

Disruptions in the Socialization of A Young, Severely Handicapped Child

Constance U. Battle, M. D. *

奥野英子**

障害児は普通の発達過程を経なければならないと同時に、自分自身、自分のハンディキャップ症状(handicapping condition)、自分のまわりの世界に対して、ユニークかつ複雑な適応をしなければならない。これらのほかにも、いくつかの重荷を背負っており、何回も繰り返す診察、入院、ハンディキャップ症状の評価などのために、幼少期に数多くの人々の前にさらけ出されるのである。その上、自分の周囲の環境、自分に好奇心を寄せる人々に対してさえも、適応しなければならない。その結果、自分の機能の限界、他人に依存せざるをえない自分、何かをしようとしたりコミュニケーションがうまくいかないためのフラストレーション、治療やからだを動かせないための不快感、ひいては身体的成長によるからだの変調などを受容しなければならない。身体障害を持っているがために、成長・発達のあらゆる側面、生きる上でのあらゆる方面に影響をこうむるのである。

 Richardsonは、障害(disability)の影響を単純にとらえる従来からの誤った概念を批判している。身体障害は運動機能に障害をもたらすばかりでなく、知覚、知能、動作および社会的機能にも影響をおよぼす。脳性マヒ児の顕著なハンディキャップは、全体的運動機能(例えば歩行能力など)に現れ、それと同時に知覚損傷による重大な問題が引き起こされ、その結果、自分の足がどこにあるかさえわからなかったり、奥行感覚が悪く、食べ物を噛む、話す、人の話しを聞く、などの動作が困難となる。残念なことには、子どもの機能を回復させたり最大限に伸ばすためのすべての努力は、非常に簡単な評価システムにのみ集中していることである。

 明らかなことであるが、障害児は、ソーシャライゼーション・プロセスを形成するに必要な、正常な人間関係に参加する機会を奪われているのである。まず最初に直面する障害物は、歩行できない、話すことができない、などの症状自体に内蔵されている<身体的限界>によるものである。第二番目に直面する障害物はRichardsonが述べていた通り、障害によって障害児自身の側に起こる心理的・社会的限界によるものであると同時に、障害児の外見や動作が普通と違うために、障害児に対する一般の人々の非論理的かつネガティブな反応によるものである。

 Shafferなどは、脳性マヒ児のハンディキャップや不格好な外見に対する社会の人々の態度が、障害児に精神的障害をもたらすことはありえないと主張している。これと反対の理論で、さらにもっともらしい説は、脳損傷の子どもは社会的知覚(social perception)に欠陥を生じやすく、その結果、その子の社会関係(social interaction)パターンをゆがめてしまう可能性がある、という説である。Richardsonの見解はたぶん、これらの中間的立場をとるものであろう。というのは、同氏は子どものハンディキャップ症状による本質的または非本質的影響を考慮し、正常児の、障害児およびハンディキャップ症状に対する態度を詳細にわたって研究している。

 M.O.Shereは、片方が脳性マヒ児でもう一方が正常児という組合せの双生児を研究した結果、脳性マヒという症状が必ずしも社会的・情緒的不適応を起こしてはいない、と発表している。しかし、親の態度が子どもの行動パターン形成に影響を及ぼしていることを、発表している。

 本稿の目的は、生まれた瞬間から学齢期に至るまでの期間に、正常なソーシャライゼーションを阻害する障害物の両側面を検討することである。脳性マヒのように、神経筋の損傷が重い児童が典型的な例としてあげられる。というのは、脳性マヒの損傷は、児童期においてみられるハンディキャップのうちで、もっとも全体的なハンディキャップ症状を呈するからである。この見地に立つと、<ハンディキャップ>という術語は、SusserやWatson***の使う意味とは使われ方が違う。

乳幼児におけるソーシャライゼーション・プロセス

 正常児におけるソーシャライゼーション・プロセスの基本的側面を、障害児が生きていく上で直面する阻害要因と比較して検討してみたい。心理学辞典によると、McNeilが<ソーシャライゼーション>を次のように定義している。

 ソーシャライゼーションとは、人(特に子ども)が社会的刺激(例えば、集団生活による抑圧とか義務)に対するセンシィティビティー(感受性)を身につけ、その集団または文化機構のなかで、他の人と協調したり、他の人と同じように行動することを学びながら、社会的人間となるためのプロセスである。

 Koganもこれと同じような、かつもっと深い定義をしており、どのような行動、どのような価値感がソーシャライズされているかを、詳細にわたって説明している。誕生から満1才になるまでの強制的関係(そなわち親子関係)と、3才から学齢期になるまでの任意的社会関係の両者とも、身体障害の存在によって、大きな影響を受けることが明らかにされている。

 Harriet Rheingoldは、正常な新生児について従来と違ういくつかの説を打ち出しており、人間の乳児は社会的有機物として人生を開始し、乳児は自分がソーシャライズされるよりも他人をソーシャライズし、超早期からすでに、社会的な態度をとる。この主張は、ハンディキャップをもって生まれた新生児にも当てはまるであろう。新生児は生まれた瞬間から他の生物と接触しているので、生物的起源からして社会的存在である。新生児は、少なくとも彼と母親から構成される人間関係の1メンバーであり、また、それより大きな集団の1メンバーでもある。生まれたときは正常児であったとしても、その場合にも、出産を終えたばかりの母親の精神状態は平衡状態を保っているとはいえないであろう。

 自分の子どもが障害児であることを知った母親は、ショックを受け、深い悲しみに打ちひしがれ、意気消沈し、罪障感、怒り、戸惑い、感情の激変、個人的な責任感にさいなまれ、また自分の生んだ子に欠陥があったために、自分の存在意義、能力にすら不安を持つ。出産に伴う喜びあふれた儀式は、めちゃくちゃになってしまう。生まれた子が障害をもっているための悲しみや戸惑いのため、その子の誕生をお祝いする儀式はすべてキャンセルしてしまう。親せきや友人たちは、なんと言ったらいいのだろうか、どのように振る舞えばいいのだろうかがわからないために、赤ん坊を見に来ることをためらう。

 その結果、この世に生まれたばかりの障害児のまわりをとり囲む社会集団は、その集団の人々自身の気持ちと障害児の家族の気持ちによって、小さな集団に限定されてしまう。障害児が生まれたすぐあとの数週間のその家族の行動パターンは、ほとんどこのような経過をたどると、Richardsonは指摘している。

 上記のRichardsonの主張にH.Rheingoldの説を合わせてみれば、自分で自分のからだを自由に動かせるようになるまでの1才未満の正常乳児に該当するであろう。ここで考慮の対象となっている障害児は、歩行の可能性が全くない子どもたちなので、これらの見解を障害児に当てはめても妥当であろう。

 新生障害児および幼少の障害児は、大体にして同様な経過をたどる。彼らは歩行したり、物をつかむことができず、自分自身では何もできないので、他人に完全に依存している。このような乳幼児は食事、身辺の清潔、移動を他人にしてもらい、イライラしないように適当にあやされ、危険から守られなければならない。この世に生まれてから1年未満にして、社会の人びとは、乳児が社会的技能(social skill)を修得することを期待しない。1才未満の子どもに対して、他人との協調、利他的であること、性別に基づく適切な行動などを期待しない。

 これと同様のことが障害児にもいえるわけで、社会的技能の修得を障害児に期待しないので、障害児はそれを肌で感じるのであろう。障害児は、正常者との人間関係を保つ社会的技能を修得するのが遅いことは事実だが、そればかりでなく、彼を扱うまわりの人々の態度によっても、ソーシャライゼーション・プロセスが遅滞するのである。

 

本稿について……

障害児は自分自身、ハンディキャップ症状、自分をとりまく世界に対する適応のほかに、数多くのユニークかつ複雑な発達課題(developmental task)に直面しなければならない。障害の影響を単純にとらえる従来からの誤った概念に反論して、身体障害は単に運動機能を損なうばかりでなく、感覚、知能、行動および社会的機能などにも影響が及ぼされることを主張したい。

 身体障害があるということは、子どもの成長・発達のあらゆる側面、生きていく上でのあらゆる方面に影響が与えられる。障害児は正常な人間関係に参加する機会を奪われてしまう。正常な人間関係を通して、子どもはソーシャライゼーション・プロセスを経験するのであるが、障害児は次の二つの障害物によって、正常な人間関係に参加する機会を奪われるのである。

 第一番目の障害物は、障害症状自体から発生する身体的限界(physiological limitations)であり、二番目の障害物は、障害児自身の側と障害児が接触する周囲の人々の側の心理的・社会的限界(psychologial and sociallimitations)の結果である。

 脳性マヒのように、神経筋損傷がひどい障害児は、その良い例である。というのは、脳性マヒの損傷は、児童期において最も全体的なハンディキャップ症状を呈するからである。

 正常児におけるソーシャライゼーション・プロセスの基本的側面を、ハンディキャップを持って生きていく子どもの阻害されたソーシャライゼーション・プロセスとの関連において、簡単にまとめてみたい。生後1年間の強制的人間関係(すなわち親子の関係)と、3才から学齢期に至るまでの任意的社会関係は、身体障害の存在によって多大な影響をこうむる。

 超早期におけるソーシャライゼーションを、母子関係のあらゆる側面との関連において検討してみた。正常児のソーシャライゼーション・プロセスと障害児のソーシャライゼーション・プロセスとの相似点、相違点が明らかになるであろう。

 本稿の後半では、幼少児(young child)のソーシャライゼーション・プロセスをとりあげた。そこでは、次のような項目を扱っている。ソーシャライゼーション・メカニズム、正常幼少児における人間行動の諸局面、生物学的ニード、ソーシャライゼーションと環境との一般的関係づけ、依存と独立、明確なボディー・イメージの出現、自己概念、自己尊重、役割学習、特に性別による役割、模倣、兄弟および同年齢層との関係、遊びや相互人間関係に参加する機会などである。幼少期のソーシャライゼーションの各側面は、障害児において顕著な様相を呈している。

 本稿は、幼少障害児における社会的破壊の重要性を指摘することを目的としている。残念なことに、これらの阻害要因は、障害児が年齢的に大きくなればなる程増加し、したがって障害児は同年齢の正常児からますます取り残されてしまうのである。

 

 乳幼児(the infant)はソーシャライザー(socializer, 社会化主体)であると主張されたとしても、乳幼児の行動は彼が遭遇する社会的出会いによって修正をされるものであることを、忘れてはならない。乳幼児が社会化され、他人に対して反応するようになるのは、世話をしてもらうという過程を通して得られる満足感と関係している。それと同様に、彼の社会的行動は、自分の反応に対してなされる人々の反応によって強化される。これを障害児のソーシャライゼーションと比較してみよう。

 もし障害児の世話がむずかしくないならば、ほとんどの重度身体障害児は正常児の経験する段階まではソーシャライズされるであろう。しかし、母親にとってその障害児が初めての子どもであった場合は、ことさら授乳の仕方、あやし方、眠らせ方、抱き方、喜ばせ方、喃語への応答の仕方などが非常にむずかしいであろう。本来は、このような動作を通して、障害児とその親は初歩的かつ基本的な段階において、お互いに社会化されるのである。しかし必ずしも望ましい方向に行われるのではない。

 新生児期における母子関係についての研究が非常に少ないことをCampbellは指摘し、さらに彼は、授乳という動作が、母子関係を確立する上でもっとも適切な手段ではないだろうか、と提言している。この点については広く研究されており、外的な刺激によって差異が現れるものとして認識されている。また、食物の摂取は母親のやり方に非常に左右されることが、よく知られているところである。乳幼児および母親は、食べさせ方(食べさせられ方)、乳の吸わせ方(吸わされ方)を修得し、相手方のやり方によって、自分の行動を修正する。重度脳性マヒ児は、乳の吸い方、飲み込み方が下手で、母親は常に四苦八苦する。自分の子どもに上手に食べさせることが「母親たる」プロセスにとって最重要な技能であると、母親は思っている。

 母親は自分の子どもの行動パターンに戸惑わされ、ひいては恐れを感じ、その子の行動は異常であると判断する。母親の苦労に追い打ちをかけるかのごとく、世間の人々は、「もうそろそろ、母親と子どもがお互いに慣れ、落ち着いたころであろう」と期待しだす。このころになると、障害児を持った母親の心配のもとをつくっているもう一つの理由として、「私よりももっと上手にこの子を扱える人(例えば、おばあちゃん、友人、子守り)がいるのではないだろうか」、「その人なら、私のように感情的にならないし、子どもを十分に満足させるような方法で扱え、乳を吸わせるのも上手なのではないだろうか」と考え始めることが、あげられる。

 障害児は機能のリズムがすぐに整わないので、その結果、スムーズな母子関係が阻害されることになると、Freeman が指摘している。過度に受動的である、おとなしすぎる、落ち着きがない、要求が多いなどのように、パーソナリティー特質(personality traits)として表現されるある種の性格(characteristics )――これらはハンディキャップ症状によるものと考えられるが――は、生後1年間に母親を悩ませるもととなるであろう。母親が悩んでいるときには、子どもの反応に対する母親の反応はネガティブなものとなるであろう。

 その結果、ハンディキャップを持つ乳幼児は、自分のまわりの世界を、混乱し、居心地が悪く、満足できず、一貫性のないものと感じるであろう。他方、正常児はこれと同じ時期に、自分のニードが満たされているので、信頼感を養っているのである。このほかにも、ソーシャライゼーション・プロセスを阻害する外的要因があり、それは障害症状に伴って引き起こされる病気、診察、治療などのために入院しなければならない事態が生じることである。入院という事態は、乳幼児にとって次の二つの理由によって精神的な傷を負わされることになる。その一つは母親から切り離されること、もう一つは様々な怖い思い、痛い思いをさせられることである。

 ソーシャライゼーション・プロセスを阻害する数多くの要因を具体的にあげてみた。これらの阻害要因の一つ一つが、乳幼児の社会適応能力を邪魔するのである。母親が乳児を抱けないという物理的要素がソーシャライゼーション・プロセスを阻害するばかりでなく、その子どもの身体的障害のために、普通より多く必要とされる注意力や世話、ストレスなどによって生じる肉体的疲労によって、母親は子どもの知的・社会的能力を伸ばすための時間やエネルギーを消耗してしまう。脳性マヒによる重度障害児を持つ母親――子どもに対して冷淡な場合も、その反対に、子どもに没頭しすぎて自分を失っている母親の両タイプを含む――は、子どもの認識力(cognitive development )を養うために、物にさわらせる機会を十分に与えることを忘れてしまいがちである、とイスラエルで実施された研究が明らかにしている。年齢的には乳児期をすぎていても、乳児と同じような身体的状況にある子どもの母親は、子どもにおもちゃを与えたり、子どもの手の届く範囲におもちゃを置こうとしない。

 重複障害があるということが、どんなにか母子関係を阻害するかについての決定的実例を、Freemanなどが発表している。

 彼らは、母親が妊娠中に風疹にかかったために、重複障害児として生まれた一人の子どもを、生後18か月間にわたって観察した。この母親はこの子が生まれる前に、3人の健康な男児を育てているので、彼女は〈平均的〉な母子関係を遂行できるものと事前に予測された。しかしながら彼女は、風疹児の母親となるレディネスができていなかった。その子は伝染性の菌を保有していると診断されたため、しばらくの間は、この子の世話は母親だけにまかされた。この子は特殊な姿勢になる傾向があり、その結果、抱くことも、動かすこともできず、頭を引っ込め背中をまるめた姿勢のままであった。重複障害を受けている場合にはよくあるのだが、この子はまわりからの刺激によっても成長せず、その反対に、感覚機能が退化した。末梢器官に欠陥があるために感覚機能にも変調をきたした上に、その子は常に疾病状態にあり、乳を飲ませることも、扱うことさえも困難な状態であった。

 母親がフラストレーションを起こしたのは、新生児時期ばかりでなく、その時期を過ぎても常に母親の手を必要とし、その程度は、母親が他の子どもを育てたときのころと比較できない程であった。ミルクの飲み方が下手なために、母親は四六時中それにかかりきりであった。その子が14か月になるまで、抱いて授乳しなければならず、18か月になっても流動物を飲ますときには、母親のひざにかかえて飲まさなければならなかった。風疹児に対する医療を行っている各種医療機関に週2回、母親が子どもを連れていっていた。

 この例をみてもわかる通り、母親の多大な時間がその子どもに取られているにもかかわらず、その子はおざなりの方法で扱われていることが、観察者の目には明瞭であった。母親は、専門家が母親に要求することは何でもとり入れようとした、と記述されている。子どもが母親の苦労に反応を示さなかった場合には、母親はすぐに落胆の態度を示している。その〈子どものために〉いろいろなことがなされたが、その〈子どもとともに〉という姿勢では、何もなされなかった、とFreeman は述べている。母親の努力に対して子どもが反応を示さなかった場合にも、母親は自分のやり方を変えてみようとする姿勢をもたなかった。その子どもが1歳になる前に、母親はその子を次のように特徴づけた。この子は人にかまわれるのがきらいなのだと。この事実は観察者によって実証されている。

 このように、ほんの一例でさえドラマチックである。重度障害児がいる場合の親子の関係は、ほとんどこのような経過をたどるのである。この例における子どもの場合は、種々の機能障害のほか、重度の精神薄弱を伴っていた。子どもに精神薄弱がなかったり、またそれが非常に軽度のものであれば、正常なソーシャライゼーションの可能性はある程度残されている。

 正常乳幼児、特にその子が第一子だった場合は、自分の親を次の二つの明瞭な方法でソーシャライズする。それは、子どもが家族の生活場面を変えることと、親の心理的構造を決定的に変える、という2点である。親になるということは、心理面でめざましい転換を余儀なくされる。赤ん坊用の家具を用意したり、赤ん坊が静かに寝られる場所を確保するために、家における家族の生活場面を動かさざるをえなくなる。親はその子が将来どんな容ぼうになるか、健康は、知能は、パーソナリティーは、などについて、希望、夢、恐れをいだき、親の期待をどこまで満たしてくれるかを考えるため、赤ん坊の出現によって、親の精神生活は多大な影響を受ける。このプロセスは、子どもが障害児だった場合になおさら強化され、子どもに対する親の心理的外延は妨害される。

 また、Richardsonは次のように指摘している。出生時に身体的異常があることがわかった場合には、赤ん坊の身体的外見、機能に対する関心を異常に高める。これは、常に赤ん坊から目を離せないこと、身体的問題について話す機会が多いこと、この問題をおおい隠そうとしたりすること、などの理由によるものである。このような現象は、子どもとの人間関係を避けようとする態度を引き起こしたり、障害児を産んだことによって持つ罪障感ともなる。

 正常乳児のもつ最も強いソーシャライザーは、その子の笑い顔、泣き声、ひいては、喃語などである。「応答」関係、特に、母子の声のかけ合いについて、Rheingold たちが調査している。彼らは、おとなの反応が子どもの社会的反応を伸ばす上に重要な役割を果たしているかどうかを調べた。3か月児21名を調査した結果、おとなか子どもに対して反応することによって、子どもの社会的反応が影響を受けることが明らかにされた。子どもの笑い顔は、親にとってはこの上ない喜びである。泣き声は乳幼児が自分の生命を維持するための社会的シグナルである、といわれている。乳児の泣き声は快いものではないので、無視できないわけである。もし障害児や、出生時損傷を受けた子がかん高い声で泣き、なかなか泣きやますことができなければ、母子関係は険悪になる。喃語は言語の始まりとして重要であり、ソーシャライゼーションに一役を担う。歩き始めるまでの1歳未満児は身体的にはまだしっかりしていないが、社会的にはそうではない。

 正常幼児ばかりでなく、障害幼児も他人に対して社会的に反応し、同時に、他人からも反応を引き出す。彼らは自分の欲求を満たしてほしいことを示す三つの強力な手段を持っている。それらは、笑い顔、泣くこと、満足しているときに発する喃語である。正常児と違って、障害児はこのような段階にいる時期が長く、その時期は数年間もしくは一生涯続くかもしれない。行動を変えさせるための現行の社会・心理的理論によると、社会的関係における唯一かつ強力な強化因は、社会的受容(social approval )である。「親は障害を持つ自分の子を心から愛しているのであるが、すでに説明した様々の原因により、その子どもとの関係づけが困難なのである」と仮定してみた。最も強力なソーシャライズ要因(socialzing agent)は超幼少期に存在するので、親の愛情がそのまま保たれても、愛情がなくなったとしても、問題は重大である。

 社会的関係やソーシャライゼーションの機会が少なくなることが、ある年齢において重要な結果をもたらすかどうかについては、明らかにされていない。基本的な社会関係を形成するための決定的な時期があるのだろうか。この点について、Connollyが最近研究しており、基本的な社会的きずなを確立するに重要な時期があることを、実証している。

 母子関係が培われなかったり阻害された人間についての研究によると、乳児が母親との社会的接触にもっともセンシティブ(感受性が高い)な時期があることを指摘している。この母親との接触が、愛情関係の始まりをもたらすのである。それでは障害児を持つ親は、その子どもの異常反応を修正するための指導や援助を超早期に必要とするだろうか。それとも普通の方法で経験できない場合には、ソーシャライゼーションを正常化するために、違った方法や機会を用意しなければならないだろうか。子どもは自分のペースでソーシャライゼーションを進めていけばいいのだろうか。実際に何か対策はあるだろうか。ハンディキャップ症状のために、生後1年間にしてすでに子どもの人間関係が阻害されることについて、このようにいくつかの疑問点が出されている。

幼少児(young child )におけるソーシャライゼーション・プロセス

 超早期におけるソーシャライゼーションを、主に母子関係の観点から検討した結果、正常児と障害児のソーシャライゼーション・プロセスにおける相似点、相違点が明らかになった。それでは次に、幼少児におけるソーシャライゼーション・プロセスを検討してみよう。次のような項目について述べてみたいと思う。

 ソーシャライゼーションのメカニズム、社会化されるべき正常幼児の人間行動の諸局面、生物学的ニードとソーシャライゼーション、環境との関係様式、依存と独立、明確なボディー・イメージの出現、自己概念、自己尊重心の現れ、役割学習、特に性別による役割学習、模倣、兄弟や同年齢層との関係、遊びの機会や人間関係への参加、等である。幼少期ソーシャライゼーションのこれらの各側面は、障害を持つ子どもにおいては、顕著に変化している。

 Kagan は、ソーシャライゼーションの四つの主要なるメカニズムを検討し、文化的背景の違いによって社会化されるものの内容に差異があっても、これら四つのメカニズムはどこにおいても共通している、と述べている。これら四つのメカニズムとは、報われたい欲求(desire for reward )、制裁されることの恐れ(fear of punishment)、同一化(identification)、模倣(imitation )であり、これらはそれぞれ時期を異にして一番強くなり、ソーシャライゼーションの各側面を促進する。価値観や信念を身につけるのは、他人の行動を見ることによるのではなく、自分の希望するモデルと同一化したいという気持ちの所産である。同一化のプロセスは、自分が尊敬し、愛し、賞賛する特定の人と似たい、という子どもの気持ちのなかに見られる。

 1歳を過ぎた正常幼少児の行動には、社会化されるべき五つの局面がある。それらは、(1)乳・離乳食、(2)トイレ・排泄、(3)性的ニードとその実践、(4)攻撃的ニードとその実践、(5)依存のニードとその行動である。全部とまでいわなくてもこれらのほとんどは、障害児においては、普通の方法ではソーシャライズされえない。というのは、障害児のからだの構造や機能は正常ではないからである。障害児は上手に吸ったり、飲み込んだり、[噛]むことができない。しっかりとすわったり、歩けないし、自分やおもちゃを防御することができない。探検によって男女の差を知ることもできないし、遊びや模倣によっても性別役割を学習できない。トイレのニードさえ自分で処理できないかもしれない。生活のあらゆる面において、他人の介助に依存せざるをえない。

 

 のどのかわき、空腹感、楽しみの追求、痛みからの解放、攻撃、活動、好奇心、探検の欲求など、生物学的およびユニバーサルなニードについて、数多くのリストが作成されている。

 これらの中でも最後のニード、すなわち探検の欲求(the need for exploration)は、McCandlessによって述べられている通り、重度脳性マヒ児にとっては決して充足されることができない。というのは、探検は知識の獲得や自立心を身につけるため、そして生きることの楽しみとして非常に重要なものであるが、重度脳性マヒ児は、その探検に興じることができないからである。社会的依存(social dependency )や相互関係がなくても充足できるニードもあるが、空腹感、排泄、攻撃などのニードは、社会的状況においてのみ充足される。パーソナリティーや社会的発達に重要なニードは社会的に人目を引くものであると、McCandlessは指摘している。

 Brunerが提唱した「環境との三つの一般的関係様式」を検討したMcCandlessは、社会化された個人はこれら三つのシステムすべてをマスターしていなければならない,と推論している。環境との第一次的関係様式は、接近感覚器官(near-receptors)、ハウ・トゥー・メカニズム(how-to-do-it mechanism)、両手へと作動する。次に子どもは視覚と遠隔感覚器官(distant-receptors )を合体しなければならない。すなわち、どのように感覚で受けとめ、協調し、予期するかを学ばなければならない。最後に、ことばのあやや、環境の象徴的統御力をマスターしなければならない。

 これら三つの様式は、学齢期前、小学校時代、思春期の始まり、の三つの時期においてそれぞれの特徴を持つ。これは障害児にとってどのような意味を持っているかを明らかにしている。障害児は自分の手を使って環境との関係を作ることができない。脳性マヒ児の手は、自分の意図する方向にいってくれないし、おもちゃを上手につかむこともできないし、たとえおもちゃをつかめても、長い間それをにぎっていることができない。その反対に、自分の目でもってうまくとらえたり、目を通して環境と関係することができる。ときには、目での合図のみが彼のコミュニケーション手段かもしれない。奥行感覚が悪かったり、斜視であっても、自分のまわりの世界を感覚的に鋭くとらえる脳性マヒ児もいる。これらの子は、誤ってとらえた世界に恐れを感じることが多い。

 車いすに乗って泣いていた5歳の子どもに、なぜ泣くのかと聞いた。床がこわくて泣いているのだという。特殊学級で良い成績を収めている子どもが急に泣き始めた。自分の教室から体育館に行くのがこわいのだという。彼は泣きわめき、体育館を出てもいいといわれるまで、壁にへばりついていた。窓のある自分の教室に戻ったら落ち着きを取り戻し、平静になったのである。

 

 乳児の全面的依存についてはすでに言及したが、これはすべての子どもがマスターしなければならない分野である。乳児の要求に対して、敏速、寛容的かつ一貫性のある報いを与えることによって、全面的依存が確立される。そのような環境において、乳児は信頼感を確立する。しかしその後、子どもが親の愛や支持を失うのではないかと案じる恐れや、自立行動を強化することによって、全面的依存はなくなる。もし乳児のニードがすぐに充足されなければ、自分が宇宙の中心でなく、外界の力に従わなければならないことを学ぶ。このような経験を通して、自分以外の人も重要なのだということを初めて認識する。

 子どもは、満足のいく成人生活を送るために自立しなければならない。親に対して強く働きかけることにより、親は子どもの自立を励ますことができ、親以外の者、特に同年齢層の子どもたちの影響を受けるよう援助する。正常児の親も残念ながら、泣くこと、だだをこねること、ひざにすわること、注意を引こうとすることなどの依存行動を強めることがあるが、障害児を持つ親は、このような依存行動を強めることが多い。

 E.Shere とKastenbaumは、依存度を高めてしまうようなアンビバレントな行動は母子関係における正常な楽しみの代償行動であると、説明している。

 障害児が自立心を獲得するためには、どうしたらいいのだろうか。身体的には親に全面的に依存していて、情緒的に自立することは可能だろうか。経済的にも介助の面においても自立することを強制している、ある盲人施設について、その是非をScott は論じている。

 この場合には、当事者の盲人は情緒的には自立していないにもかかわらず、自立するよう教育されている。これと同じような現象が障害児を持った家族にも起こりうる。

(承前)

 事実、子どもの社会的発達のうちでもっとも重要な役割は、性別による役割である。子どもは、男の子なら父親、女の子なら母親と心理的に同一化することによって、また遊びを通して親の模倣をすることによって、性別の役割を学ぶようになる。子どもはまた、自分の性と反対(すなわち男の子は母親の、女の子は父親の)の親をいろいろな方法で手本にする。この交錯同一化(cross-identification)や交錯模範(cross-modeling)は、既成の社会パターンに準じている限りは社会的に役立つであろう。しかし障害児は、その障害のためにロールプレイや模倣をすることができないので、自分を男の子(または女の子)として認識することができない。

 しかし、活動的に模倣をする機会と関係なしに起こる社会的学習を扱う社会心理学については、広範にわたる資料がある。Banduraは、想像上の経験や観察による学習の概念化をを広く研究している。障害児は正常児が経験するロールプレイを経験できないが、Banduraが主張している方法によって、正常児と同じような学習をするという説が成立する。例えば、ヘビ恐怖症の人がは虫類に嫌悪感を感じる直接的な経験をしたことがないが、それと同様に、子どもたちは模型刺激相関関係(modeled stimulus correlations)にさらけ出された経験により、かつて個人的に接触したことのないマイノリティー・グループ(少数集団)や他国籍の人々に対して、強い感情的な態度をとるようになる。

 このように試すことができない経験は、障害児の学習過程に移行してみればはっきりする。ハンディキャップ症状のためにロールプレイができなかったり模倣ができないことは、想像上の経験による学習を妨げはしない。身体的限界は従来考えられていた程大きな障害でないのであろう。

 正常児のソーシャライゼーションに関連して、家族構成の見地からなされた研究は、出生順位についてである。この点に関しては数多くの文献があるので本稿で深く触れるつもりはないが、出生順位は大して重要な要素でないことが示されている。兄弟との関係は、障害児のソーシャライゼーションに重要性をもつ。正常児と障害児に対して親が公平な態度で接しないので、兄弟間に強いライバル意識が生じる。また親としては、障害児に対する遠慮や差別感なしに正常児をどのようにほめたらいいかわからなくて、ジレンマに陥る。障害児は3歳から6歳の間に、正常児の弟(妹)に追い越されることに対する顕著な反応を示すことを、Freemanは指摘している。このころに障害児は、自分がほかの子どもたちと違うのだ、ということに気づき始める。

 子どものソーシャライゼーションに影響を及ぼす者として筆頭にあげられる親(兄弟も含めて)の次には、障害児と同年齢層に属する子どもたちの影響力を考えなければならない。この点に関して、McCandlessは文献を検討して一般論を簡潔にリストアップしている。同年齢層の子どもたちは、役割試演(role rehearsal)、協力・競合行動、攻撃的表現、依存性などに関して欠くことのできない存在である。同年齢層の子どもたちは、一次的性別を自己判断する参考としてや、能力の自己評価や自尊心の確認に重要な役割を果たす。もし同年齢層の友だちがいなかったり接触する機会がなかったら、その子どもはソーシャライゼーション・プロセスの一面を奪われることになる。

 <遊ぶ>機会や能力は、学齢期前には非常に重要になる。正常児の場合は、不安、恐れ、受動性、模倣のしかたなどを遊びを通して学習する。盲児のソーシャライゼーションについての討議においてScottは、子どもが他人の行動を内面化する初歩的メカニズムは遊びである、と述べている。他人の役割を見ることができない盲児と同様に、障害児は歩行ができなかったり、手足を自由に動かしたり話したりできないために、ロールプレイに大きな限界がある。

 

 小学校への入学は、幼児期において大きな出来事である。重度障害児、重複障害児にとっても、学校に入るということは以前よりもずっと当たり前のことになってきた。それは最近の法律のおかげであり、例えばイリノイ州では、3歳から21歳までのすべての障害児に全員就学制が適用されている。

 アメリカ社会は、何よりも能力がものをいう社会であり、能力こそが個人の社会適応性の中核をなしていると、McCandlessは主張している(Edgertonを参照)。学校は、子どもの能力を試す代表的な場なのである。ところが障害児は歩行が不可能なためや、母親の過保護、外見が違うために子どもたちによる拒絶などの結果、同年齢層の子どもたちとつき合う機会をもてない。したがって障害児は少なくとも、教室においてソーシャライズしたりソーシャライズ化される機会がある。一般的にいって従来は、教室において障害児の社会的技能(social skill)を伸ばすことにあまり力が入れられなかった。ことばや読み、書き、算数などの技能を伸ばすことのみに力が入れられてきた。

 Richardsonが指摘しているが、障害児につけられるらく印と、マイノリティー・グループ(少数集団)のらく印とが平行線をなし、これは障害児の就学に重要な影をおとしている。障害者とマイノリティー・グループは明らかに異なる。マイノリティー・グループとして生まれた人々は、マジョリティー・グループ(大多数集団)とどのように付き合ったらよいかについて、マイノリティー文化の中でのソーシャライゼーションとして学ぶ。また、マイノリティ・グループの人々はそのグループの中で主におとなや同年齢層の者たちとの社会的技能(social skill)を伸ばしていくので、マイノリティーとマジョリティーとの間の行動摩擦が起きるのは、大した量ではない。

 この現象とは対照的に、障害児の場合、同じような障害をもった親、隣人、親類、友だちをもつことはほとんどありえないので、このような対人関係の経験をもてないのである。一般的にいって、障害児は障害をもたない人に取り囲まれ、障害者に対してネガティブな価値観をもつことになる。その上、自分と同じような障害をもつ人と自由に社会的技能を伸ばせる機会がほとんどない、とRichardsonは述べている。

 これらを要約すると、身体障害をもつ子どもはマイノリティー・グループに属する子どもよりも、一般的な行動技能(behavioral skills)、特にマジョリティー・グループとの社会的関係技能を身につけることがむずかしい。これらの要素は、就学という事態に際して考慮しなければならない。障害児は、その子に支障がない限り、正常児と一緒のクラスに入れるべきだろうか。できるだけ障害をもった子どもたちだけのクラスを編成すべきだろうか。それとも、正常児グループと障害児グループの両グループとのソーシャライゼーションの機会をもたせるべきだろうか。これらを総合してみると、最後の方法、すなわち、普通児グループ、障害児グループの両方と接触させることが、もっとも良いソーシャライゼーション・プロセスをもたらすと、結論してよいようである。

「普通児学級」へ入れること、「障害児学級」へ入れることの両方にそれぞれ長所があるので、これら二つを組み合わせる方法が、障害児のニードに最もよく答えるようである。学業の面で正常児と張り合えるならば、普通児学級で勉強させ、その結果普通人と接触し、普通人との社会関係を保つ技能を身につけられる。このようなコースをたどれる障害児は、生涯を通じて普通人と主に接触して生きていくことになるであろう。他方、障害児のなかに配置することの意義は次の三つの分野において見い出せる。(1)自分と同じような障害をもっていながら、社会にうまく適応している人々と接触する機会がもてる、(2)同じような状況にいる人々といられることによる気楽さ、(3)その仲間の中でなんとか競い合う機会をもてること。

 正常児と障害児を接触させることの重要性が最近特に認識され、それは子どもを対象にしたテレビ番組のなかに障害児を登場させていることによってもよくわかる。「ミスター・ロジャーズのとなり近所」という番組では、補装具を装着した若者をときどき登場させている。「セサミ・ストリート」では、障害をもたない子どものなかに10名の障害児を起用している。

 残念ながらときどき、ハンディキャップをもつ子どもたちを、あたかも<病人>であるかのように扱い、その病気との関連において社会的役割を与えていると、Richardsonは指摘している。親は障害児にはあまり責任をもたせず、自由気ままにさせがちで、その結果、兄弟を犠牲にした上で、気まぐれな性格を助長する傾向にある。このように育てられた子どものソーシャライゼーションには、大きな問題があるようである。

 

 本稿の前半においてすでに触れたが、重度障害乳児の母親はその子どもに遊ばせる経験を与えていない。その反対に、障害児の発育を促進させている親もいる。脳性マヒ児をもつ母親60名と、それと対応するような正常児の母親60名をニューヨークにおいて比較研究してみた。この研究で明らかにされたことの一つは、カソリック系やプロテスタント系の母親よりも、ユダヤ系の母親は脳性マヒ児に対してより多くの社会的機会を与えているということである。この研究は1959年になされたものであるが、それによると、脳性マヒ児をもつ母親は正常児の母親とくらべて、非常に過保護であり、また夫婦関係もうまくいっていない場合が多かった。障害児の年齢が低ければ低い程、その母親は社会的に引っ込みがちであった。一般的にいうと、障害児の母親は罪障感、拒絶的態度、非現実的な態度をとるなどの特徴を呈していた。

 その後Collinsによって、脳性マヒ児をもつ親のための教育プログラムにすでに参加した母親に対して、パーソナリティー・テストが実施された。その結果、このような教育プログラムがいかに有効であるかが実証された。というのは、このプログラムに参加した母親は正常なパーソナリティー・パターンを維持し、劣等感、内向性、抑うつ症などのパーソナリティー変化を示さなかったのである。

 ハンディキャップをもつ子どもは、ハンディキャップをもたない子どもよりも社会的関係の経験が少ないことは明らかである。年齢が進むに従い、自分の身体障害に対する関心も深くなる。障害児はほかの子どもにくらべて孤立しがちであるが、しかし、自分の身体障害に対するネガティブな価値観や、障害者に対する社会の低い評価を知らずにいられる程孤立していたり、保護されているわけではない。その結果、障害児は自分を卑下するようになる。障害児の自己描写(self-description)は非常に現実的であることが実証されている。

 

 Richardsonらは、夏期キャンプに参加した9歳から11歳までの障害児107名と正常児128名に、自己描写を提出してもらった。障害児と正常児の2グループ間には、身体活動における機能的制約、社会的経験の量、ハンディキャップに関する心理的影響という面において差異が現れた。障害児も正常児と同じ価値観をもっているが、例えば身体活動に置かれている高い価値に関しては、期待にそえないことを自ら認識している。

 アメリカ脳性マヒ学会(American Academy for Cerebral Palsy)1970年度総会においてGardnerは、「脳性マヒ児は身体的におよび心理的に、自分がしようとすることに対してフラストレーションを感じている」と発表した。脳性マヒ児のフラストレーションは自分の誕生とともにスタートする。というのは、脳性マヒによる症状のために、満足のいく親子関係が阻止されるからである。その結果、その子どもは自己尊重(self-esteem)の気持ちをなくし、この世の中に自分は独りぼっちであり、人間的なつながりは全く無いかのような態度をとる。Gardnerによると、脳性マヒ児はこの自己尊重の気持ちがないために、自分の行動に対する評価において極度にがっかりしたり、極度に喜ぶ。脳性マヒ児は自分を異常であるとは考えない。事実、自分の障害症状を、自分が人間として拒絶されている状態と認識する。

 Richardsonが検討してみた結果、いくつかの研究は次のような事実を提示している。障害児に対して自分の方から接触しようとする正常児は、障害児よりもずっと孤立化しており、一般的な社会経験も少なく、同年齢層の子よりも価値観を学んでいない。これらの視点は特に男児において真実性が強く、障害児が同年齢層との社会的関係に参加しても、その社会的関係はそれ程よいものとはならないかもしれない。というのは、自分から進んで障害児と接触しようとする子どもは、社会的関係をつくるのが下手で、その子のもつ価値観は変則的なものであり、身体障害に対しても感じ方が鈍く、自分が頼られるのが好きなタイプの子なのかもしれないからである。

 障害児と正常児との関係におけるもう一つの亀裂を、Richardsonが種々の研究を総合した結果あげているが、それは「障害者は、障害をもつ人々の感情に対して特に気を使ったり注意深いのではないかとみなされる人々からでさえ、確かなまたは自然なフィードバックを受けていない」という点である。確かなフィードバックがないために、障害児は「他人が自分のことをどう思っているか」「自分はどのような態度をとったらいいのか」がわからず、究極的には、社会的技能を伸ばすことも、不可能ではないにしても、困難なものになっているのである。障害児は社会関係を確立するのがむずかしいばかりでなく、社会関係は不完全なものになりがちである。このような事実をかんがみれば、障害者が社会関係を確立するための障壁をもたないのは、ほんの初期段階だけであることが明らかになるであろう。障害者は一つの関係においてあらゆる機会に障壁にぶち当たるのである。

 Richardsonの実証によると、身体障害をもつということは、子どものソーシャライゼーションに必要な経験を乏しくするそうだが、障害児のソーシャライゼーション・プロセスにおいてすでに確立されている種々の社会関係(強制的な関係と任意的な関係の両者とも)に累加的な損失が起こるようである。これまで、障害児が同年齢層との任意的社会関係を確立する上での限界について検討してきた。ケースによっては、障害児はおとな、教師、隣人、親せきの者等、彼を<障害児>としてみるのでなく、<ハンディキャップをもつ子ども>としてみることのできる者との、自分にとって有利な社会関係の確立に成功するであろう。もし彼の親がこれらの人々との関係を大事に伸ばしてあげられるならば、これらの出会いを通して彼は、貴重な経験をし、社会的技能を学習し実践する機会をもてることになる。

 

論考

 医師、看護婦、教師、ソーシャルワーカー、心理学者、カウンセラーなど、障害児やその家族を対象に仕事をしている者は、ハンディキャップをもつ子どもの社会的障壁について特に認識することが重要である。本稿は答を出すというよりも、問題点をあげたにすぎない。障害児をもつ家族を扱う小児科医やパラメディカル職員は特に注意しなければならないことがある。障害児が生まれたという事態の重要性、その子どもの症状についての親の反応、そして種々様々なかたちをとり、不愉快な感情に陥らされる初期段階に対する解決策、適応策等についても、もっと深く研究を進める必要がある。

 いくつかの疑問点に答を出さなければならない。例えば、ソーシャライゼーション技能を身につける時期として非常に重要な、特定な時期があるだろうか。もし、そのような時期があるのにその時期がすでに過ぎてしまった子どもの場合は、経験しそこなったソーシャライゼーションを取り戻すことができるだろうか。遊ぶこと、社会関係を確立すること、普通の子どもと同じように早期に友だちを得させるということ等に対して、障害児の親はどのように力添えができるだろうか。障害児をもつ親は、近所の子どもを家に呼び寄せ、子どもどうしの接する機会を設けさせるよう特別な配慮をしなければならないだろうか。自分の子どもと遊んでもらいたいがために、近所の子どもに何か物をあげたりしてまで誘惑すべきだろうか。

 

 障害児をもつある母親は、引っ越したばかりの時、近所の母親たちを自宅に招待し、コーヒーとケーキをもてなし、障害児を彼女らに紹介し、この子と遊んでもらいたいので子どもたちをここに寄こしてほしいと依頼した。

 障害児をもつ親は、その子の障害症状に直接かかわりのない分野においても、できるだけ援助を得られるようにし、不必要なストレスや不愉快な感情から解放され、そのエネルギーを障害児のソーシャライゼーションに振り向けられるようにしてあげるべきである。Collinsの研究の示唆するところは重要である。脳性マヒ児をもつ親を対象にした教育プログラムは、母親に正常パーソナリティー・パターンをもたせた、という点である。障害児に関する全般的な問題について援助を受けられ、母親の悩みを聞いてくれたり、母親の苦しみに気を使い、将来の問題の解決方法を一緒に考えてくれるような人がいれば、母親はもっと安心し、障害児を育てやすくなるであろう。

 子どもの移動に使う一つの器具を教えることによって、母親のエネルギーの消耗率が非常に違ってくることが多い。テレビでレクリエーション・教育プログラムを指導したり、障害児のための水泳キャンプや夏期キャンプなどは、障害児を対象にするだけにとどまらず、その家族をも対象としなければならない。

 重度脳性マヒの子どもたちは、課外活動への参加が阻まれているが、その主なる理由は、課外活動のあとでは送迎車が配車されないことや、運動場に建築上の障害物があるためである、とDenhoffは指摘している。同氏によると、米国脳性マヒ協会(United Cerebral Palsy Association)の専門サービスプログラム委員会は、交通機関やレクリエーション施設を改造することにより、障害児も正常児と一緒に活動できるよう運動している。学校、運動場、およびソーシャライゼーションに関係あるその他の施設の空間モデュール(基準寸法)の概念を変えようとする研究が現在進められている。建築学・工学委員会では、室外・室内運動場など、行動をかたちづける環境(behavior-shaping environments)を研究している。障害児を普通の子どもたちがいる場所にいられるようにするだけで、障害児のソーシャライゼーション・プロセスは助長されるのである。

 学校配置についてはどうだろうか。競争という意味では適切であるために、障害児は障害児だけのクラスに配置すべきだろうか。それとも普通児学級に入れることにより、正常児の行動様式を学ばせるべきだろうか。ある学校では、障害児を一日に一回音楽の時間に正常児と一緒にすることにより、徐々に普通学校プログラムに慣らさせようとした。

 障害児の親は、外部から援助を受けられるようになっていればよりよい適応状態を示す、とCollinsの研究は実証していたが、同時に同氏は、障害児を対象にしている施設は障害児をその家族から分離して考えてはいけないと提言している。障害児の家族全体に対して援助をすることが、障害児を援助するための最良かつ唯一の方法である。ユダヤ系の母親は障害児に対してより多くの社会的機会を与えているという事実が明らかにされていたが、ユダヤ系の母親はどうして、また、どのようにして、障害児のソーシャライゼーションを上手に伸ばしているのか、をもっと追究してみるべきであろう。

 McCandlessによって、環境との関係づけには三つの様式があることが提言されていたが、これは、障害児をもつ親、教師が子どもの環境に対する関係づけを助長させる上に役立つであろう。

 手の機能を伸ばすために理学療法や作業療法プログラムが必要であるが、それと同時に、にぎりやすかったり、操作のしやすいおもちゃを与えたり、子どものテーブルの手前から2インチ位の所にレールを張りつけ、おもちゃがそれ以上遠くにいかないようにする配慮なども重要であろう。水や砂をさわってみたり、花のにおいを嗅いだり、子犬をかわいがったりするなど、感覚的な経験を子どもに与えるようにしなければならない。<目の技能(eye skills)>を伸ばすことも重要である。子どもは目によって自分の感情を訴えたり、コミュニケーション・ボード(communication boards、訳者注:会話においてひん繁に使われる語句やアルファベットを書き込んだ板で、言語を発せない者が自分の意志を疎通させるために、棒などを使って板の上の語句やアルファベットを差す)を活用して、コミュニケーション方法を教えなければならない。環境との最も高いレベルでの関係とは、環境を言語や象徴によってマスターすることである。コミュニケーション・ボードの使用のほか、はっきりとイエスかノーを発音できるよう訓練し、他人とのコミュニケーションにおいてもっとも簡潔かつ重要なステップを身につけさせなければならない。

 本稿で幼少障害児の社会的阻害や社会的障壁の大きさのみを扱った方が、より充実したものとなったであろう。残念なことに、障害児にとって社会的障壁は子どもの年齢が進むにつれて増加し、正常児との差はますます大きくなっていく。今後はっきりとさせなければならない基本的問題は、幼少児のソーシャライゼーションにおける既述の阻害は、長期的な見地でみるとどのような影響を及ぼすのだろうか、という点である。子どもに影響を及ぼす社会状況を研究しなければならないというRichardsonらの勧告を受け、われわれ医学専門家が社会学者とともに研究を進めていこうとする気運を、本稿が盛りあげる一助になることを望みたい。

参考文献 略

*小児科医、ワシントン市の小児病院メディカル・コーディネーターで、ジョージ・ワシントン大学医学部小児保健・発達学助教授。
**日本肢体不自由児協会書記。
***SusserとWatsonは、ハンディキャップ(handicap)を三つの構成要素、すなわち、器質的、機能的、社会的、に分けている。損傷(impairment)は、器質的構成要素であり、疾病プロセスの静的症状を意味する。障害(disability)は機能的構成要素で、損傷とそれに対する本人の心理的反応によってつくられる機能の限界を意味する。ハンディキャップは社会的構成要素であり、本来の損傷と機能的障害によって、社会的役割や他の人との関係が制約される程度を意味する。本稿で使われているハンディキャップという術語は、第3番目の構成要素を意味している。

Rehabilitation Literature,May 1974から)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1975年4月(第15号・16号・17号)37頁~40頁・20頁~25頁・2頁~7頁

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