指導のための子供の評価

指導のための子供の評価

Evaluating Children for Instructional Purposes

Donald D. Hammil

細村迪夫*

 学習障害児に対して最も効果的な指導を行うために、教師は個々の子供の心理・教育的長所及び短所について十分に理解していなければならない。子供の行為の表面的な概観では不十分である。IQ、読みの程度の段階又は神経学的状態は興味があるとはいえ、障害児のために適切な目標を設定し、実態に基づいた指導計画を作成するのに十分な情報を提供しない。したがって、学校において教育的な観点に立った効果的な評価プログラムを作成・実施することは、学習障害児に対する実り多い指導実践のために極めて重要である。

全体的評価

 子供や子供の問題について教師に情報やデータを提供するあらゆる活動が全体的評価過程を構成する。個々の子供に対して適切な指導上のかかわり方を計画するために総合され、用いられるのは、このような情報である。全体的評価は、本来、二つの構成要素、すなわち、標準化された諸検査の実施と解釈(公式的評価)及び非公式的診断法の使用から成っている。教師は時々検査を実施するようであるが、公式的検査の大半は他の学校職員に任せて、非公式的な評価法によることが多いらしい。

 全体的評価の目的は、(1)学校において困難点を持っていると思われる子供の確認、(2)必要な場合には医学的又は精神病学的診察のために子供を照会すること、(3)知覚・運動障害、言語障害、教科学習の困難点、軽度の情緒的行動のような特定分野の困難点を明らかにすること、(4)これらの特定の問題の媒介変数(parameters)を広範に調べること、である。したがって、幅広い情報が必要とされるので、一個人が全体的評価を実施するのに必要な技能や時間を持っているということはまず考えられない。理想としては、全体的評価は学校心理学者、教師、スピーチセラピスト、読みの治療専門家、補助的職員(医師、視力検査医、ソーシャルワーカーなど)などがそれぞれ独自の能力を出し合う共同の冒険的試みであるべきである。不幸なことには、現実の学校での実践においては、チーム・アプローチが用いられているところでさえ、全体的評価が教育的に適切な焦点に合わせられることはまれであり、学校で失敗する子供のレッテルはり、教育措置又は照会などただそれだけのために実施されることがしばしばである。これらのことは今日の学校では欠くことのできない機能であるが、それにもかかわらず、子供のために日々のプログラムを準備しなければならない教師にとっては極めて限定された価値しか持っていない。

 もし、全体的評価過程を通じて得られる情報が指導活動に飜訳されるならば、教師は、評価結果への主要な寄与者として、また評価結果の解釈者として、学校によって認められるに違いない。個個の子供の教育的問題に関しては、教師は他のだれよりもその学習行動についてより多くのことを観察するということをしっかりと念頭に置かなければならない。したがって、学習障害児を担当する教師が評価過程に有意義な方法で参加することが理にかなっている。主要な評価努力が子供のよりよい指導に直接に役立たないところには、全体的評価という概念は存在しない。

 この立場について誤解のないようにしてもらいたい。私は、教師がWISC(Wechsler Intelligence Scale for Children) ITPA(the Illinois Test of Psycholinguistic Abilities)又は投影法のようなIQ検査又は他のバッテリーを実施すべきであると言っているのではない──これは傾聴されない考えではないが。私は、教師が自分自身の批判的、診断的指導を通じて得られた極めて重要なデータを上記のような検査結果と一体化することを学ぶようにと言っているのである。私は次のような結論に達している。すなわち、学習障害児を担当する教師は、全体的診断努力の相当な部分について責任を持たねばならないこと、そして、学校心理学者に、教師が教室で従順に実施する「教育的処方」を書いてもらうことを期待することは理にかなわないこと。学習障害児の指導経験を持つ学校心理学者はほとんどいないし、また、彼らは、非常に多様な潜在能力へのかかわり方について十分知っていない。更に彼らは、教育的に意味ある行動からの微妙なずれを確認できるほど子供を見ていない。これらのすべてが生きた「処方」の準備にとって基本的なものである。

 学校での使用が有意義である評価結果が、全体的評価から得られるとすれば、診断的機能を担当する教師や他の者は、指導と評価は分離した世界ではなく、分離せずにかみ合っていることを認識しなければならない。効果的な指導、すなわち、そこで子供が学習する指導は、それ自身、一連の効果的な教師による評価の反映にほかならない。このような考え方は、子供が教室で最大限に援助されるべきであるならば、欠くことのできないものである。

公式的評価

 公式的評価は、全体的診断過程の部分であり、(1)標準化された検査が使用される、(2)特別に訓練された職員によって実施される、(3)普通、学級以外の場でなされる、ものである。得られた情報は明らかに量的性質を持ったものであり、被検児の検査遂行を国の又は地域の標準データと比較する傾向がある。そこで、結果はしばしば、指数、評価点、相当学年点、パーセンタイルによって報告される。一般に、公式的評価においては、知能、ランゲージ、学力、スピーチ、知覚──運動技能、社会的──情緒的発達を含む精神機能の多くの分野を評価する試みがなされる。この目的のために学校で最も一般的に用いられる諸検査の例を挙げると以下のようである。

 <知能>WISC, Stanford-Binet Intelligence Scale─revised─, Slosson Intelligence Test for Children and Adults,<ランゲージ>ITPA, Mecham Verbal Language Development Scale, <学力> California Achievement Tests, Metropolitan Achievement Tests, Stanford Achievement Tests ──以上集団学力検査。Wide-Range Achievement Test, Durrell-Sullivan Reading Capacity and Achievement Tests, Gates Reading Readiness Scales ──以上個人学力検査。<スピーチ>The Templin─Darley Tests of Articulationのような構音検査,<知覚─運動>Bender Visual-Motor Gestalt Test, Marianne Frostig Development Test of Visual Perception, Wepman Auditory Discrimination Test, Graham-Kendall Memory for Designs Test, Benton Visual Retention Test。

 学校においては、学校心理学者は普通、自分又は他の者が実施した諸検査の結果を集め、それらをまとめて教師や親に報告する。この報告が教育的適切性において極めて多様であることはよく知られている。こうした報告は、せいぜい、(1)精神薄弱の有無を判定する、(2)読み、書き、算数のような科目における失敗の分野や程度を指摘する、(3)言語障害のありそうな分野を指示する、(4)感覚様相の強さと弱さを明示する、(5)分裂的な、望ましくない行動のパターンを確認する、(6)診断的指導の領域を勧告する、(7)教師からのフィードバックを要請する、ぐらいであろう。

 最悪の場合には、公式的評価は指導上役に立たず、(1)明白なことを証明する、すなわち、すでに教師にとって極めて明らかなことを詳細に説く、(2)脳機能不全のごとき、教師によって何ら価値のない病因学的要因を過度に強調する、(3)微細な、疑わしい徴候の解釈を詳細に行う、であろう。

 私が教職について2年目のとき、読むこともできないし、読もうともしない9歳の子供のために非常に悩んだことを思い出す。彼の知能が明らかに正常であったという事実にもかかわらず、私は読みの過程の基礎でさえ彼に指導するのに完全に失敗した。当然のこととして、彼は公式的評価のために照会された。その当時は、その地域には総合的な心理・教育的サービスがなかったので、その子供は地域社会にある私立の診断クリニックに送られた。2か月(そして50ドル)後、報告が届いた。その内容は二つの顕著な点に要約され得る。すなわち、その子供は、(1)失読症、(2)脳損傷と診断された。主訴がもともと読みに問題があると特定し、又子供が明らかに痙直型片マヒであったので、その報告は何の役にも立たなかった。

 幸運なことに、たいていの報告はかなり教育的な価値を持っている。報告が教育的わく組みの中で検査者によって解釈されるか又は教師によって再解釈されるときに、それは教育的価値を有すると言える。しかしながら、子供の公式的検査がいかに完全なものであっても、教師は追加情報を必要とするであろう。この必要性は数多くの要因から生ずるが、その要因の大部分は公式的評価法に固有のものである。したがって、教師が公式的評価の結果を診断的指導で発見した事柄と統合する前に、公式的評価の欠点を知らなければならない。

 公式的検査には、いくつかの固有の限界がある。第1の限界は、検査から得られることができる情報が狭く、乏しいということである。他の限界は、誤った肯定的診断(false positive diagnosis)と誤った否定的診断(false negative diagnosis)の問題に関するものであり、これらは一般に公式的評価から結果する。誤った肯定的診断は、評価の結果が、子供は実際に特定の問題を持っていないのに、それを明らかに持っていると報告するときに生ずる。逆に、誤った否定的診断の場合には、評価過程を通じて発見されなかったが、子供が実際に、容易ならぬ問題を持っているのである。

検査情報の不足

 標準化された検査は、特定の分野の問題を指示するのに有用であるかもしれないが、不幸なことに、それらは個々の子供のための指導法の基礎になる批判的で詳細な情報を提供しないことがしばしばである。例えば、ウェップマン検査の低い検査遂行は、音の弁別困難を示唆するかもしれないが、その結果は、訓練を必要とする個々の音を特定しない。読みに関しては、非公式的読書行動目録法によって得られる適切な情報を提供するような標準化された検査はない。これら行動目録法の使用は、子供の独立読書水準、彼の指導読書水準、葛藤読書水準、聴取理解水準に関する重要なデータを提供する。更に、たいていの行動目録法は語の認知と読書理解能力とを区別するし、又、音読と黙読の速度も測定する。

主体内変異性

 子供、特に学習障害のある子供は、日々の行為が著しく変異する。この変異性が検査得点に反映し、検査室と教室の行動との間に明らかな不一致を生ずることもしばしばある。月曜日にIQ85と測定された子供が、火曜日に再検査すると、容易に100又は70の指数になり得る。この差異は子供の態度又は気質によって生じるのである。ある一週間のITPAプロフィールによって、視─運動に著しい障害があると思われたのに、二週間後には消滅してしまったり、ほとんど発見できないことがある。学級から連れ出され、検査室へ手を取って導びかれ、何だか全く分からないことをしようとする見知らぬ人に紹介され、一人でそこに残されることは、子供にとって実に奇妙な、不安な経験である。子供が検査よりもむしろその状況に反応するとすれば、上述したことを十分に理解することができる。親しみのある学級で、何日も何週間にもわたる診断的指導を通して、教師は学習障害児の実際の遂行水準をより深く測ることができるのである。

 検査における変異性のすべてが主体と関連しているわけではない。検査者は、その忍耐力、気質、技能において日々に異なる。高度に熟練した検査者でさえ、すべての事例に誤りがないということは決して考えられない。この点は最近、C.K.Miller、N.M.Chansky、 G.R.Gredlerによって証明されている。彼らは32人の訓練中の学校心理学者にWISCのすでに記入されている同一の実施報告書を配った。彼らのすべては、すでにWISCの実施と採点法について全課程を終了していた。彼らは個々に非常に異なったやり方で報告書の採点をした。全検査IQは、76~93まで均等に分布した。

検査結果の過度の一般化

 例えば、検査の視─運動項目に失敗し、「視知覚障害」の疑いをもたれる子供と出会うことが時時ある。ところが、学校での勉強においては、その感覚様相の障害がほとんど又は全く気づかれない。そこで、教師は子供がそのレッテルをはられて驚く。こうした事態は、一つの視覚課題の失敗を視覚回路のすべての課題に失敗しそうであると一般化するときに起こり得る。聴覚理解の評価において一例を挙げれば、それはITPA下位検査の聴覚受容である。この下位検査においては、子供は簡単なものから難しいものへと配列されている質問、例えば、「犬は飛びますか」という質問に「はい」又は「いいえ」で答えさせられる。ITPAのモデルによって、その課題は、表象水準、聴覚回路、受容過程である。ところが聴覚受容と水準、過程、回路において全く同様な課題(ほんの少し異なっているだけ)が20以上もあるのである。例えば、聴覚理解のたいていの検査がそれであり、メトロポリタン・レディネス検査(Metropolitan Readiness Tests <MRT>)のような集団尺度にしばしば含まれている。だれも、特定の子供のITPAの聴覚理解得点からMRT聴覚下位検査における彼の検査遂行を自信をもって予測することはできない。いかなる単一の検査であれ、その遂行に基づいて、一般的聴覚障害を診断することは危険である。

 この点については、おそらくすべての心理・教育的検査者が同意するであろう。それでも今なお、単一の検査の低い検査遂行に基づいた治療上の示唆が報告されている。ほんの一週間前のこと、一つの事例が私の注意を引いた。その事例は「著しい知覚─運動障害」と診断され、「この知覚─運動障害に適合した治療プログラム」が指示されていた。これが、人物画検査(Draw-A-Person Test)及びベンダー・ゲシュタルト検査の劣った遂行に基づいたすべてである。ところが、同一事例の評価は、それと矛盾する十分な検査結果を提示していたが、それについては全く述べられていなかった。例えば、WISCの言語性IQは99で、大部分が視─運動項目から成る動作性検査のIQは103であった。その子供は、実際に、迷路で14点、符号化で10点、ブロック・デザインで12点の尺度得点をとっていた。この子供は、本当に視─運動問題を持っているのであろうか。

検査及び下位検査の低い信頼性

 子供の公式的評価において、誤った肯定的診断や誤った否定的診断がなされる第3の理由は、多くの標準化された検査の信頼性が比較的に低いからである。例えば、ITPAの手引書の中に、J.N.ParaskevopoulosとS.A.Kirkとによって、聴覚受容は6歳児に用いられるとき、再テスト法による信頼性係数は.63であると報告されている。ITPAの12の下位検査のうち六つは、この数値と同じか又はそれより低い安定性係数をもったものである。マリアンヌ・フロスティグ視知覚発達検査の手引書の中には、五つの下位検査のそれぞれについての子供の遂行に基づいて、訓練が実施されるべきことが述べられているが、これらの下位検査の再テスト法による信頼性係数は幼稚園段階で、.33から.83まで、第1学年段階で.40から.67までにわたっている。現在、利用できる標準化された「診断的」バッテリーは、個々の子供に対する指導上のかかわり方の基礎になる必要な信頼性を欠いているといえよう。

その他の限度

 子供の検査遂行が彼の能力を十分に反映している場合でも、解釈において困難が生じることが時時ある。例えば、ピーボディ絵画語い検査(Peabody Picture Vocabulary Test)の粗点を知能指数に換算する場合に、49点をとった暦年齢(CA)5─5の子供はIQ99となり、同じ49点のCA5─6の子供はIQ87となる。IQの違いは12である。教師は検査結果が測定標準誤差を持っていることを思い出すべきである。したがって、子供の各得点は絶対的価値を持つものと解釈することはできない。ある得点は、特定の検査における子供の能力の推定値以外の何物でもない。彼の「本当の」能力はその数値の上下にわたっているであろう。もし、得点が絶対的に解釈されるならば、二つの検査における子供の遂行の間の差異は、実際よりも、もっと大きなものと思われるかもしれない。この点については、1961年版ITPA手引書(102ページ)に証明されている。視覚解号及び聴覚解号の得点が厳密に解釈されるならば、両検査間に1年の差異があるという。測定標準誤差がそれら得点に適用されるならば、両検査間の同一性はグラフによって明らかである。

 公式的検査に関する最後の限界は、標準化の母集団とは異なる子供集団に検査を使用することへの疑問である。手引書においては、項目分析、妥当性係数や信頼性係数、実施方法が詳細に述べられている。しかし、それらは、一般に「正常な」又は「代表的な子供」──つまり、我々が決してこうした検査を実施しない子供──に基づいている。ITPAの標準標本は、頭の良い子供も悪い子供も欠落している。フロスティグ検査標本は、下層階級の子供や黒人の子供を含まなかった。標本が一般的母集団を反映している場合でさえ、精神薄弱、多動性、知覚障害、転導性、学習障害等等と呼ばれる子供に検査が使用されるときには、その根拠は検査にほとんど明示されていない。

 検査がこれらの子供に用いられる場合、検査の信頼性や妥当性に影響がないのであろうか。一般的には、答えは影響ありである。例えば、標本のIQが低くなればなるほど、妥当性係数及び信頼性係数はそれだけ低くなる。しかし、このことについては、たいていの検査手引書に述べられていない。検査者は、あたかも手引書に述べられている標準化データを適用できるかのように──しばしば適用できないにもかかわらず──下位検査を解釈しつづける。普通児と精神薄弱児を対象にしてWISCを因子分析すると、異なった因子構造が現れた。このことは、下位検査結果の解釈の方法は、異なった子供の標本については異なるであろうことを示唆している。

 診断的、非公式的方法が全体的評価過程の次のステップであることを理解するとともに、前述したような限界が銘記されるならば、公式的評価の結果は、指導上の努力に貢献し得る。しかしながら、全体的評価が、たいていの実践のように検査室中心のものと考えられる場合には、診断的努力から指導上の利益が得られることは、ほとんど期待されない。そのような状況においては、検査者は誤った又は不適切な評価やアドバイスを行うことを防止できない。また、教師との5分ないし10分の話し合いや学級での子供の大ざっぱな観察では、その状況はあまり改善されないであろう。公式的評価は全体的教育評価の部分にすぎないのであって、診断的指導法が公式的評価の結果を広範囲にわたって精査するまでは、不完全なものと考えられねばならない。公式的評価から結果する教育的情報が、学級という場で診断的教師によってチェックされた後で、又、他の診断チームのメンバーがフィードバック機能をもった後ではじめて、子供の全体的評価が完全なものと考えられる。子供が指導を受けている間はずっと、教師によって継続的に行われる再評価の段階がそれから始まるのである。診断的指導は、子供が誤った教育措置又は誤った指導を受ける可能性を最小限にする一つの方法である。

非公式的評価

 非公式的評価は、全体的評価過程の部分であり、(1)非公式的方法の使用を特徴とし、(2)教育診断者(通常、教師)によって、(3)継続的指導の場で実施され、(4)しばしば「診断的指導」と呼ばれる。全体的評価のこの部分の目標は、公式的評価の結論やアドバイスを発展させ、精査し、立証し、必要であれば放棄することである。公式的及び非公式的評価が同時に行われ、子供に関する指導上の仮説の継続的修正を可能にすることが最も望ましいであろう。多くの場合、非公式的アプローチは公式的評価が終了してからなされる。これは、診断チームのメンバー間の相互作用の可能性を弱める。たいていの学校の実践において診断的指導は、全体的評価の構成要素としての取り組みが全くなされていない。そして、そのような方法を実施している教師は、自分自身の担当学級のためにそうしているのであって、評価過程を改善するためではない。

 学校で学習障害児を担当する教師は、教育評価が彼にのみ託される場合が多いことを認識しなければならない。彼は学校経営方針に反しないで使用することができる診断検査や考案物の類型を学校当局から知ることができる。しかし、彼は効果的指導のために生きた情報を得る非公式的方法に大部分頼るであろう。これらの方法は、公式的評価の結果を証明するために用いられ得る一方、又必要があれば、標準化された検査結果の代わりに用いられることもできる。

 子供の様々な能力を評価するために使用できる非公式的方法のすべてを述べることは不可能であろう。学習障害児に関する最近の文献の多くは、読者に多数の適切な活動を提示している。しかしながら、これらでさえ不十分であろう。なぜならば、診断的教師は遠からずユニークな問題に直面し、彼自身の方法を工夫する必要にせまられるからである。

 以下に示す非公式的方法は、精査され得るすべての分野を包含していないが、叙述は非公式的検査の過程にかなりの洞察を与えることができるほど詳細である。これらの方法は「学習障害のための方法」(Methods for Learning Disorders)という文献から引用したものである。

聴覚機能

 以下の方法は、本来聴覚的性質を持ったものである。他の機能も同時に検査されるかもしれないが、それらは、子供の検査遂行にそれほど重要ではない。

 1 聴覚解号(Auditory decoding)

  a まわりの物音を認知する。

  b スピーチの部分を理解する──名詞、動詞、形容詞、前置詞等々。

  c 一つ、二つ、三つ又は四つの指示に従う。

  d 色の名前を認知する。

  e 読んでもらったストーリーを理解する。

 2 聴覚連合(Auditory association)

  a 音によって音を出す物をあてる。

  b スピーチ音の弁別──単語、無意味綴り。

 3 聴覚構成(Auditory closure)

  a 不完全な単語を認知する。

  b 単語を形成するための語音の聴覚的構成

  c 簡単な類推。

視覚機能

 聴覚機能と同様に、視覚能力を検査するために用いられる方法は、他の言語機能分野と重複するかもしれないが、これらの課題は本来、視覚的性質を持ったものである。

 1 視覚解号(Visual decoding)

  a 事物や絵を認知する。

  b 二つ、三つ又は四つに分断された絵を認知する。

  c 色を認知する。

 2 視覚連合(Visual association)

  a 色、事物、絵のマッチング。

  b 事物と絵のマッチング。

  c 幾何図形のマッチング──平面又は立体図形又は絵に描かれた立体図形。

 3 視覚構成(Visual closure)

  a 不完全な絵を認知する。

  b 不完全な文字、数字、単語を認知する。

運動機能

 1 置かれている事物を、片方の手で触るだけで認知する。

 2 紙やすりで作った形を触わってあてる。

 3 手の甲又は背中に書かれた簡単な幾何図形、文字、単語などを認知する。

音声機能

 1 単語、句、文を用いる。

 2 適切な文法を用いる──適切な語尾変化、時制など。

 3 適切な文構成をする──単語が脱落、置換されていない。

 4 筋道の通ったストーリーを話す。

 5 年齢相当の平均的文の長さ。

運動機能

 1 検査者の動作を模倣する。

 2 日常動作のパントマイムをする──髪をとく、歯をみがく、ボールをバットで打つ。

 3 幾何図形を見てかく。

 4 人物画を描く。

 5 自分の名前、文字、数字、単語、文を書く。

記憶機能

 1 一連の数字を順を追って又は順を追わないで復唱する。

 2 一連の見た事物を思い出す。

 3 一まとまりの絵、文字、数字、単語を思い出す。

連続機能

 1 あるパターンの軽打やピッチを再生する。

 2 一連の事物、絵、形を順序立てて思い出す。

 3 一連の無関係な語、一つの文、一連の関係する語を思い出す。

 上述した方法によって、教師は子供の基礎的技能を遂行する能力を評価することが可能になろう。非公式的評価法は、読み、書き、算数のような基礎的科目の問題に適用されるとき、まさに効果的である。非公式的読書行動目録法の使用によって提供され得る情報の範囲はすでに述べられている。すなわち、Marjorie JohnsonとRoy Kressは、国際読書協会の1964年刊行物に、これら有用な方法の総合的概観をしている。この論文は非公式的読みの評価法に熟知していない教師に対して強く推せんされるものである。

 「失読症児の綴り技能の形成」(Building Spelling Skills in Dyslexic Children)の中のS.H.Linnが書いた「綴りの問題──診断と治療──」の章は、子供の綴りの勉強と作業習慣の注意深い吟味によって、綴りの問題の限界を定めることについての示唆を含んでいる。診断的に重要な次のような質問が出されている。子供は文字や音声記号をすばやく、正確に思い出し、それらを紙の上に正確に表現することができるか。彼は単語の音声部分を単語全体と結びつけることができるか。彼はあなたが黒板に書いたことを、消されてから2~3分後に思い出すことができるか、彼は音を確認できるか。

 書くことの問題を評価するために、Doris JohnsonとHelmer Myklebust共著の「学習障害──指導原理と実際──」(Learning Disabilities : Educational Principles and Practices)が教師に推せんされる。ここに提示される方法によって、教師は失書症、再視覚化の障害、公式化や文章構成法の障害の間の区別が可能になる。これらの書くことの問題のそれぞれについて指導法が異なるであろうから、適切な教師の評価が効果的指導にとって重要である。公立学校での使用に最適の評価法がこの本に述べられている。この過程は、指導面への強い方向づけ、非公式的評価法への信頼、評価の診断的判定面への参加者としての教師の自覚によって特徴づけられている。

 もちろん、このプログラムが実施される前に、現在の学校の教育方針や職員の考え方に根本的な変化がなされねばならない。現在、評価過程の主な責任を負っている学校心理学者は、教師とその責任を分担しなければならないであろう。その過程において、彼もまた、学校における評価に対する教師のニードや期待を十分に理解しなければならないであろう。他方、教師は診断的指導の本質を学び、実践を通して彼の新しい技能を完全なものにしなければならないであろう。すなわち、子供が評価のために照会されるとき、他のチーム・メンバーから得たいと思う情報を特定して表現することを学ばねばならない。学校経営においては、現在の方針が変更されねばならない。そして選ばれた教師が活発に、公然と評価法に取り組み、診断学級、移動ルーム、巡回プログラム、リソース・ルーム(これらは、固定学級よりも診断的指導に適している)を含む新しいプログラムを確立することが可能にされねばならない。

 そして最後に、教員養成プログラムは、問題が生じたとき、即座にその問題に応じられる教師──聴覚的問題、視覚障害、行動異常、教科学習の障害、運動障害、言語障害を取り扱うのに不安を感じない教師、そして、彼らの大部分は、もはや自分自身を「肢体不自由児」の教師、「情緒障害児」の教師又は語義的にすべての中で最も障害を受けている「精神薄弱児」の教師と決して思わない──の養成を始めなければならない。

(Academic Therapy, 6,No.4(1971) : 119-132.から)

参考文献 略

*文部省初等中等教育局特殊教育課教科調査官


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1976年4月(第21号)8頁~15頁

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