障害者と性―苦悩から歓喜へ

障害者と性―苦悩から歓喜へ

Sexuality and the Handicapped

Milton Diamond, Ph. D.*

勝矢光信**

 近年になって、障害者の性的問題と関心について専門的認識が高まってきた。しかし、今日まではあまり本の中で正式に取り扱われたことがなく、これらは、正当な関心事として、専門家の知識を得ることを目的にしていたにすぎない。このような現状であるから、私は特別に配慮すべき事項を明確化し、その問題解決のためのアドバイスをし、さらに議論の余地のある問題点を取り上げてみたい。過去において、すぐれた人々(例えば、Comarr、Gochros とSchults、Kempton)が障害者の性の問題を重要な関心事項とするために研究努力し、無関心や無知とうらはらにある軽蔑について、多くの人々に知らせてきた。この陰の努力に促されて、さらに専門医たちは、最近強まってきた一般人の態度の変化に見合う研究形態と思考方法を求めるようになった。

 この講演では第一に、様々の視点の違いにより、どのようにこの問題が扱われているかを示す。次に、性的表現上の個々の特殊問題を述べ、最後に、性に関連した問題を処理するためのアドバイスを付け加える。結論の中で、健康者および障害者を含めたすべての人々、とりわけ障害者にとって重大な性的機能をよりよいものとするための一般的ルールを示したい。

 まず第一に、性にはいくつのレベルがあると私が考えているかを明確にしたい。性というと生殖や寝室での行為だけが心に浮かぶが、それだけが性ではないことを理解することである。少なくとも、大別して二分野に分けられる。つまり、公の性と私的な性である。

 公の性:人は他人のいる所ではどのような態度を取るのだろうか。その行動によってどのような役割が演じられるのだろうか。障害者が、男性らしさや女性らしさに関する自分の評価や、一般市民の評価に関係するものであるか。例えば、足のマヒした電話線架設者が、男性らしさを失わずに電話交換手の職を受け入れられるだろうか。関節炎の主婦が女性らしさという面を考えずに、手の使えないことを受け入れられるだろうか。性のパターンや役割は、我々が社会的に認められた性的表現を公表するところにある。個人個人の社会的なかかわり合い方に応じて、一般社会の関心が表出される。

 私的な性:ここでは、生殖にかかわる性的反応と、一般的に識別ができない内面的問題を扱う。これには、勃起を保ち、オルガスムに達し、生殖の感覚的喜びを得たり、与えたり、性的緊張を互いに高めていく能力が含まれる。

 当然、この公・私の関係を結びつけて考えるとよい。

 次に明確にしておきたいのは、性的満足、愛、生殖、結婚を混乱して考えないことである。この四分野は相互にかかわり合っているが、きわめて厳然と識別できる。自分およびクライエントの心に、話の内容を明確にするため、はっきりと区別しておかなくてはいけない。性的満足、愛、生殖、結婚の四分野は異なった結果をもたらし、異なった問題を生じさせる。

 例えば、性的満足を欲するクライエントは必ずしも結婚を望んでいるわけではなく、結婚したい人は必ずしも子供やセックスを欲していない。もし、この考えがあまりにも急進的だと思われるなら、我々の祖先が整った形式での結婚を行うようになったのはただの数世代前であり、性と結婚は愛なくして始まったし、ごく最近では、ほとんど処女のままで結婚してはいない。その上、産児制限や家族計画は当然のことであるのを思い起こしてほしい。大変現実的に考えなくてはいけないのは、子供は子供の利益の上に考えるものであって、男女の能力の視的証しとして考えるものではなく、生殖は性的結合でも性的満足でもないのである。障害者は自分たちが欲しないのに、男女の証しとして子供を産むのは、健常者以上に不利になるかもしれない。

 これは、各自が障害者となった年代間で区別した方が適切かもしれない。思春期前、青年期、結婚適齢期、既婚中、別居時、離婚時、配偶者死亡後、老齢期とする。明らかに十代の者の関心は高齢者の関心とは違うし、障害を受けていなかったころの記憶のある者は、そのような経験のない者とは興味が異なる。ここでは詳細に取り扱えないが、各世代間で異なる、特殊な興味の持ち方について考えてみるとよい。

視点と問題点

 専門的立場から、少なくとも五つの異なる視点が存在する。1)クライエント、2)クライエントを扱う専門職者、3)専門家によって代表される機関、4)クライエントの家族、5)クライエントが関心を持ち、あるいは夢中になっている「恋人」。

クライエント

 クライエントは自分の問題をきわめて個人的、私的なものとしてとらえる。クライエントは性を障害とは分離して考え、一般にはだまって一人で耐えていくべき問題で、専門職者に関係のないことと思っている。これは健常者も同様だが、障害者には二重の意味でそうなる。両者とも、性は個人的問題であって、正直に話し合うべきではないと教えられてきた。この共通の問題に加え、障害者は、障害に直接ひびかない興味や努力についてあまり考えない方がよいという感じを持ち、もしくは持たされている。例えば、盲人は見ることだけ心配し、マヒした者は歩くことだけ心配していればよいといった考え方である。

専門職者

 専門職者は、常々、性の問題が専門外であって、クライエントの真の関心事ではないと見ている。専門職者の教育・養成は、一般的には、各人を仕事に復帰させ、家族を養い、自立していけるようにしむけることに向けられていた。医師、心理学者、ソーシャルワーカー、セラピスト等、その職域が何であれ、最近まではセックスカウンセリングが正規の活動分野に入るとは考えられていなかった。セラピストは、この分野に応じられる手がかりを教わらなかった。常々、クライエントに性に関する問題が生じても、専門職者は往々にして全く手がかりになることを教えないで問題をはぐらかすか、もしくは「性に悩むより、歩けないこと、見えないこと、聞こえないことを心配をしなさい」という意味の言葉を返すだけである。あたかも、これは、性的関心が他の能力よりも低いレベルにおかれなくてはならないかのようである。ほかのだれよりも、専門職者は、性的関心を解決することがリハビリテーションに響く自尊心を築くために重要な役割を果たしうることを知っておかなくてはならない。

 ここで補足しておきたいが、この分野に熱心すぎる専門職者は、他の専門分野における場合と同様に、クライエントの感情をそこなわないように配慮してほしい。大多数の障害者はうまく自己の性を処理しているので、性に興味のないクライエントにまで無理じいすべきではない。

機関

 機関は往々にして、就職でき、家庭で身の回りの始末もできるよう導くことにのみ興味がある。生産能力や収入によって考えるので、クライエントとズレがある。そのため、クライエントの性的関心については、専門のカウンセラーよりもなお知らないでいる。機関は、専門職者(医師、ソーシャルワーカー、カウンセラー、心理学者)たちよりも意識の変革が遅いので、専門職者がクライエントの性能力に関心を示し始めてきていても、機関の関心は大変うすい。性の問題にかかわり合うことは、国家の予算、財団の基金、宗教関係の機関による仕事としては不向きであるというイメージや思考に強くしばられている。このような見方は次第に変わってきており、もし人間としての個人の価値が再認識されれば、人は今よりもはるかに教育しやすく、雇いやすく、自己とその環境に満足感が得られることが、専門職者にも、機関にも、徐々に認識されてくるものと思われる。

家族

 次に、家族の見方について考えてみよう。ここでは問題が全く異なったものとなる。明らかに、家族もまた、性の問題は個人的なことで公の話題にすべきでないと考え、クライエントを扱う機関や専門職者の範疇であって、自分たちは部外者であると思っている。しかし、往々にして家族は、その立場に葛藤を覚えている。この問題を重大事と認めながらも、彼らは一般に無視しておけるよう望んでいる。この問題をうまく処理するのがへたで、どうしたらよいかを本当に知らないため、「忘却」されるよう望んでいる。また、性が個人的なもので、公の話題にすべきではないという社会的価値観にとりつかれている。

 常々、特に若者においては、性が話題にされないならば、決して彼らは性の問題で悩むことはないと家族は想像している。健常者に対しても同じだが、家族は、マスターベーションにしても、異性に対する愛情表現にしても、明らさまにセックスを話し合う方法を知らない。内心では強い葛藤があり、一方では家族の中の障害者を他の人と同様に考え、すべての機会を許したいと思っているが、また一方では誤まった期待や望みを与えたくないと思っている。さらに、家族というのは、子供や親が性的であることを認めるのが困難である。年齢に関係なく、老いた両親は「もう性に関係なく」、子供たちは「まだ早すぎる」と考えられている。

恋人

 最後に、「恋人」について考えてみよう。クライエントが性的関心を向ける相手についてである。これも個人的、私的なことを考えられているが、特定の個人という者は、たとえ意思表示がなされなくても、障害者がどのようにかかわってくるかが気になる。恋人がそれに対しどうすることが可能かが問題となる。この問題は公に話し合えるものであろうか、それとも、あまりにも感覚的すぎて明確にはできないものであろうか。常々、恋人同士は互いに性の感情、関心、能力や期待を話し合わずに、他の一般人や専門職者のアドバイスを求めたり、相談をする。

特殊な問題

 広範にわたる前置きと視点の説明の次に、これらの観点に立って処理ができ、処理していかなくてはならない以下の特殊な問題について語ることにする。1)遂行と期待、2)罪悪感、3)コミュニケーションの三つである。私は障害者の問題を扱っているが、この問題は健常者にも全く同じようにあてはまるものである。

遂行と期待

 多くの人々は、自己の性的表現がある種の一般的合意に基づいて決められた行為とみなしている。性的であるには、あたかも「正しい方法」と「誤った方法」があるかのようで、「正しい方法」以外のすべてが批判されるべきものとなっている。我々の社会は、確かに、この期待を皆に強制している。そして、我々は、毎日、その古風な姿のまま生活している。クライエントのために、現実にそい、よしあしの判断は度外視して、行為上の期待を遂行能力に合わせて再調整してみなくてはいけない。この問題に対する唯一の許容しうる規準を、恋人同士、または各人がその能力内で好む所のものに置かなくてはならないからである。

 能力は当然期待を制限するが、個人が特定の恋愛関係・性的関係・生殖関係・結婚関係に置く所の価値体系は、一般社会に迷惑をかけない限りにおいて、個人のレベルもしくは恋人同士のレベルに置かれなくてはならない。個人的行為には、永遠に石に刻まれた標準などはない。我々自身、自己の個人的活動に社会の加護を求めないのだから、クライエント自身も本人が受容できる解決に到達できるように認められるよう、心から援助の手をさしのべていかなくてはならない。我々は、高貴さに関係なく、彼らの解決を是認すべきであり、さらに最高の満足に至るために、多くの可能性を試みるようすすめなければならない。

罪悪感

 ここで罪悪感の問題にうつる。常々、クライエントは自己を異質の者と考え、多くの問題を抱いている。性に関して正直に述べておきたいのは、寝室での個人的行為は当事者にのみかかわることであるから、異質感はさして現実に重要なことではないという事実である。性表現は個人的な性の満足であり、それは公の是認に優先する。そして、この目的が愛を与えたり、受けたりすることであれば、特定の公式的行為や公の受容に依存するものではない。

 こう考えると、クライエントは劣った能力を持っているわけではなく、健常者かどうかにかかわらず、すべての人々に対して標準というものを合法的に負わせることはできないのであるから、罪悪感がまちがった感情であることに気づかなくてはならない。機能し、相互の受容可能なものすべてが行われるのであるから、性的な異質感を気に病む必要はない。唇による刺激、手による刺激、恋人同士や各人の満足できるすべての行為は是認される。そして、我々は専門職者および機関として(許す権限を持つ者であるから)、はっきり許可および是認をしなくてはならない。マスターベーション、唇による性器刺激、女性上位、その他二人が満足できるすべてを含めて、受容可能な行為に否定的評価を与えてはいけない。

 このため、よしあしの判断をしたり、特定の行為を他の行為より好ましいと考えるようなことをしないように、我々自身訓練しなくてはならない。これは、クライエントがいやがる行為でも強いるべきであるという意味ではない。また、我々は自分たち自身や社会の罪悪感に基づく価値観を強いるべきではない。人々や社会でタブーとなっていた分野に新しい試みをすすめた方がよいであろう。性の歓喜に至るのを妨げる不適当な罪悪感は、なんであれ、取り除けるようにできる限りの援助をしなくてはいけない。

コミュニケーション

 恋する者同士のコミュニケーションを増やせば、性的関係や性的状況に役立つ。よりよいコミュニケーションにより、期待と遂行能力を現実的に高揚できる。そして、誤った印象を減じられる。常常、多くの健常者もそうだが、障害者は、恋人と一緒の立場を現実にテストせずに、予想される困難に多大の価値を置いてしまう。例えば、性との関連において、自分の体つきを気にしている人は多い。障害者も健常者もこの点は同じで、ハゲ、小さい胸、ろう、盲、老け等を気にしている。恋人とのコミュニケーションによってのみ、お互いに興味があるか、どの程度の関心があるかが知り合えるであろう。

 専門職者として我々は、性の問題を正当な話題として、心を開き、率直に語るようすすめなくてはならない(性について話すことの罪悪感を取り除いていかなくてはならない)。さらに、コミュニケーションが言葉によるだけのものではないことも知っておいてほしい。接触、一べつ、ほほえみ、しかめっつらも話しかけている一部である。しかし、それでも大半は適切な言葉が、考えや感情を伝える最良の手段となっている。残念なことに、すべての人が適切な語らいを持っているわけではないので、専門職者の我々が適切に話せるよう援助することが好ましい。例えば、ろう者のために、国際的に理解できるよう性や生殖概念を表す記号をうめ合わせられると思う。十分な用語が、一日も早くでき上がることを望む。

 これで一応の概説を終えた。よいコミュニケーションは、それ自体役立つばかりでなく、遂行と期待を結び合わせ、罪悪感を減じ、様々の問題解決の助けとなる。この短い提言にそえて、会話を示しておくので、いくつかの問題をどのように実際に例証しているかを見てほしい。***

 ジェリー:背中の手術後、物事が全く変わってしまうかもしれないとは考えていませんでしたが、完全に違ってしまいました。

 ミッキー:まず思うのは、生活の中で情緒的な面がすべて欠落し、ロボットや廃人のような人生を送る宣告が下されたという絶望感を感じました。

 フランシス:女性と話すと、私はどぎまぎします。というのは、話しているうちによだれをたらしたり、口につばがたまるからです。

 ジョージ:心臓発作は、肉体的にも精神的にも大きな影響を与えます。そのため、他人との関係が疎外され、憂うつになり、生活のあらゆる面に影響してきます。あまり知られていないことなので、もっと注意深い研究が必要です。

 ビル:僕はマヒしてから20年にもなる。ずっと昔のことなので、「正常」な性がどうだったかを忘れてしまった。しかし、思い出してみると完全にオルガスムに達した状態だった。しかし、体がマヒして、セックスの機会があまりなくなってからは、オルガスムに達することはさして重要ではないと思うようになった。

 ダイアモンド博士:性の果たす役割は、喜びを分かち合い、緊張を解き、親密さを増す上で考えていかなくてはなりません。こう考えるならば、「よい」性はペニスをヴァギナに挿入する唯一の正しい方法しかないという、きまりきった形式から解放されます。あなたは、オルガスムの価値は神話だと思いますか、ビル。

 ビル:はい、本当にそうです。実際、オルガスムに達したら、もう終わりです。ずっと続いていた方がいいですよ。

 ダイアモンド博士:君は、今、どうすると最も喜びを感じますか。

 ビル:はい、ペニスだけでなく、乳首、胸やわき腹をさわることもです。僕は、腕の裏が大変感じやすいのです。

 ダイアモンド博士:それでは、君は自分なりの喜びを得る方法を見つけて、自己の性欲を解決できたのですね。

 ビル:はい、でも他の人にやってもらうほうがさらによいです。皆さんもやってみるべきだと思います。適切な相手を見つけることです。適切な相手とは、お互いに感情を分け合えるものだと思います。

 ダイアモンド博士:ミッキー、あなたはどうですか。

 ミッキー:はい、マヒして、重度の状態からぬけ出てきたので、性行為が異なる以外は全く正常であると思っています。足と背は完全にマヒしています。感覚の方は、どちらかといえば、ポリオのタイプの特性のため敏感になっているので、感じやすい方です。ただ妨げとなるのは、主に、性行為だけです。それに、もちろん私が車いすだから、「彼女を困らせるな。彼女はどうすることもできないのだ」という、夫の先入観もあります。

 ダイアモンド博士:そうですね。健常者でも、普通の体型以外にも方法があると気づき始めていますし、障害者の方が、おそらくもっと早くに方法を見い出せるでしょう。ジョージ、心臓の状態はどうですか。

 ジョージ:セックスに関しては、皆さんがおっしゃるような安堵感を持てないでいます。心臓発作が起こったとき、医師はしばらく性行為を差し控えるように命じましたが、いつから再び始めてよいとは言ってくれませんでした。僕は大変な認識不足と戸惑いを感じました。

 ミッキー:セックスに恐怖を感じていますか。

 ジョージ:ええ、この種の行動に伴う恐怖感は大変大きいと思います。というのは、それが体をそこなうものだからです。

 ダイアモンド博士:君の奥さんはいかがですか。明らかに二面から(君の愛が欲しいということと、しかし君に死なれたくないということ)見ることができますが・・・・・。

 フランシス:そうですね、僕は全く正常な男性と同じようにありたいと思います。僕は就学前に脳性マヒになりました。医師が僕の機能を改善させたいと思っても、なかなか伸びていかなかったのですが、今では健常人ができるような行為はすべてできるようになりました。

 ダイアモンド博士:今、君はデートをしていますか。結婚は。

 フランシス:依然として、デートの最中です。

 ダイアモンド博士:ジェリー、君の背骨の調子は。

 ジェリー:私は自分の新しいイメージを作り出すことが課題です。私は男性的な人間にならなくてはいけないし、妻の期待にそうように(妻は期待などしていなかったが)生きなければいけないと思っていました。私が事故の後彼女にしてやれることに彼女は全く満足していましたが私はいつももっとしてやろうと努めました。そして、ついに私が背をもたせて座り、セックスを楽しんだのです。それはすばらしいものでした。

 ダイアモンド博士:なぜ、前にはそのようにできなかったのですか。

 ジェリー:私はできない、不能になってしまったという苦悩にとらわれていたらしいのです。

 ダイアモンド博士:これは私たちみんなの問題ではないでしょうか。私たちは参加者というよりも観察者になっています。私たちは、「自分は何ができるか」よりも、むしろ「今なすべきことは何か」を問うてみるのです。失ったものよりも、まだ持っているものに注意を集中するべきではないでしょうか。

 ビル:そうすれば恐怖をぬぐい去れ、不安感もなくなります。いったん障害者となったら、過去に教えられた期待にそって生きることができなくなるだろうという不安をもって、周囲の人々も本人も行動します。車いすになれば、彼らは前と同じ期待を持っていません。彼らはあなたができるかどうか疑問を抱いています。一度性交可能とわかれば、性交への正常なステップと考えられることも示せます。そして、オルガスムはもう重大なものではなく、典型的な性交方法もまた重要なことではなくなるのです。

 ダイアモンド博士:あなた方は、年齢が違うように、異なる経験をしてきましたか。あなた方はほぼ同じ時期に障害者になっていますね。

 ミッキー:私はやや異質の人生を送ってきました。自分の病気のために最初の夫と別れました。彼は障害を持つ妻と2人の小さな子供を持つことに面と立ち向かえませんでした。二番目の夫との生活はすばらしかった。しかし、夫は死ぬまでの2~3年間、大変重病だったので、多くの人々が考える程の性行為を持たなかったのです。しかし、それでも、私たちの間には深い愛情がありました。一生を通して様々の活動をしてきましたので、あまり不足を感じていません。というのは、彼はとても愛情があって、大変優しく、たくさんの愛と関心を示してくれたからです。そして、私も彼に同じようにしてあげるよう努めました。典型的な性行為をしていないことが二人にとってさほど重要ではなくなりました。

 ダイアモンド博士:あなた方の中で、配偶者、恋人または周囲の人が障害のために性行為をちゅうちょしていると感じている人はおられますか。どのように、それを克服していますか。

 ジョージ:家族が許可してくれないのが一番困まります。自分の回復力に大変疑いをもち始めています。私の言いたいのは受容力ということですが、回復力がないので許可が与えられません。自分のこととなると自信がないのです。

 ダイアモンド博士:相談できる担当医や奥さんはいますか。

 ジェリー:少しはいます。もっと助けてくれたらと思います。

 ダイアモンド博士:フランシス、悩みをだれにうちあけますか。

 フランシス:両親やカウンセラーにうちあけます。さもなければ、交際中の女性にです。女性たちは理解してくれていると思います。悩みをうちあけると、彼女たちは同情してくれ、理解してくれると感じます。

 ダイアモンド博士:今まで一番悩んでいて、解決できたと思う問題はなんですか、ジェリー。

 ジェリー:私にとって最大の問題は、男性として全く期待されていなかったけれども、期待に恥じない生活をしてきたことです。

 ダイアモンド博士:今はそのことに全く悩んでいないのですね。

 ジェリー:はい、悩んでいません。なるようになってしまいました。私の妻はすてきな女です。彼女は大変愛してくれ、私たちは全く別のレベルで新しい関係を結んできました。

 ダイアモンド博士:もうその事実は否定できないのですね。

 ジェリー:そのとおりです。

 ダイアモンド博士:ビル、どうですか。

 ビル:私も全く同感です。最も大切なのは、自信を持ち、恋人といる時は自然の気持ちに従うことです。

 ダイアモンド博士:でも、どうでしょうか。それにとらわれている人はどうやって捨て去りますか。

 ビル:それは自信の問題ですよ。第一に、恋人の意志であると受けとめたことにつけこんではいけない。出そうになる言葉をおさえること。次に、二度と同じあやまちを冒さないこと。そうすれば積極的に行動するようになり、うまくやれるでしょう。

 ダイアモンド博士:ミッキー、あなたは禁欲を取り除くことが大事だと言いましたが、罪悪感についてはどう感じますか。他人が正常でないというようなことも、あなたはしていることになるでしょう。

 ミッキー:罪悪感にうち勝つのは大変むずかしいですが、決心はできると思います。今そこにある幸福をつかむか、それとも、幸福を忘れ去ろうとするかいずれかしかありません。というのは、もうあともどりも、再び取りもどすこともできないからです。

 ダイアモンド博士:性行為の意味での性も大事ですが、人格上で、他人とうまくやっていくことと自尊心を守ることがさらに重要なことかもしれません。

 この討論によって、罪悪感がなくなれば、期待と能力間の溝がどのようにせばめられるかが理解できよう。つまり、誤った期待を正しくぬぐい去ることにより、罪悪感を減じ、期待と能力間の溝をうめなければならないのである。例えば、要するに性的に自己を表現し、歓喜に達するただ一つの完璧な手段は、ペニスをよく潤ったヴァギナに挿入することであるという「神話」を捨て去ることである。障害者ばかりでなく、健常者もこの行為をせずとも性的満足は可能であり、事実もっと大きな満足がえられると思われる。手、口、足その他の体の一部を歓喜に達する手段として使用できる。そして、どの方法が他の方法よりもよいというものではない。この考えを確信をもって教えこむことが、クライエントへの大きな助言となる。

 さらに、「結婚の手ほどき」の公式や思考、つまり前戯、後戯等の動作、“真戯”の単一的な性交、各戯の時間配分とその状態を示したものを捨て去るべきである。時間や状況に関係なく、すべては自然に行えると提唱すべきである。これは知覚神経マヒ者にも運動機能不全の人にも同じことで、失われた機能をなげくより、残された機能を最大限に活用するようすすめなくてはならない。

 仕事の能率を上げ、能力と期待間の溝をうめるのに使う補助具を使用して性の能力と期待の溝をうめていける。例えば、補装具においても、機能的な義手、義足、義眼、さらに装飾用の補装具さえ使用が推られめている。性に関しても同様で、義胸の使用は乳癌切除をした女性に普及しているし、ダミー、バイブレータ等クライエントが性的関係を持つ上で使用可能で役立ち、もしくは見ばえがよくなるような物の使用をすすめたり、少なくとも推薦してみたりしている。

 これは不道徳だと批難されるかもしれないが、他の補助具が一般的に日常生活で使われているのと同じ理由を、性器具の使用にあてはめることを理解しなくてはならない。健常者が日常的に使用しているのだから、障害者にも全く適切なものと考えられる。実際、健常者には現実の使用に応じる主要市場が提供されている。手の機能を失った老人、関節炎患者、手を切断した人は、バイブレーターをつかうとよい。また、人工ペニス、人工ヴァギナも一人の、もしくは互いの喜びのために使用できる。クライエントとその恋人がそれらの器具を受け入れられるようある程度の教育を要する一方、専門職者のすすめで、その使用や配慮にともなうような罪悪感を捨て去れば、器具を受け入れたり、やめたりが可能となる。これらの器具は現在入手でき、健常者にはごく一般的に使用されているのであるから、障害者に特別悪いというべきではないことを強調しなければならない。

 知覚神経マヒ者も運動機能不全の人と全く同様、すべての残存感覚を最大限に生かすとよい。ろう者や盲人の場合も他の感覚器管を最大限に使用することである。感じやすい場所を軽くさわったり、愛撫、接吻をすると大変刺激になる。性に関する書物を読んだり、ポルノ写真を見たりし、香水、おいしい食物、ムードのあるろうそく、音楽等を使ったり、様々な方法でもって残存感覚の使用を増すことができる。くり返し述べたいが、最も基本的伝達手段である話し合いと接触を増やさなくてはいけない。目によるかたりかけや一言が好ましい。高貴さと自発性も最高に性欲を啓発するエロチックな色調を帯びている。

 また、前に提示した討論にはもう一つ重要な点がある。つまり満足はオルガスムと全く異なるものであること。さらに性それ自体は深い感情を伝えあう手段として一般に使用されていること。この感情には単なる接触、ほほえみや心のやりとりが含まれ、これは念の入った動作や理想化された人体を必要としない。満足は、常によい性的コミュニケーションをし、親交をあたためた結果、得られるものであり、オルガスムとは別個のものである。満足とオルガニスムは同時に求められるが、別々に得られる。クライエントにこの考えをうけ入れさせれば、本当の援助が行えたことになる。

 最後に、私があやまっておきたいのは妊娠や避妊に関する問題を詳細に討論しなかったことと、精神薄弱者の特殊問題を扱わなかったことである。これらは今後の出版物を待つ以外にない。しかし、私の主張したかったことは、

1) 公的性と私的性の差異

2) 性的満足、愛、生殖、結婚は別々の概念

3) クライエントの世代間の様々な差異

4) 様々の視点からみた性

 さらに、期待と遂行、罪悪感、コミュニケーション等、障害者にふりかかる問題の概念的処理方法を示した。そして最後に、性の問題に対処するために役立つ特殊な思考を提示してみた。

 くり返すが、各人の性生活をよくするには、

1) コミュニケーションを増加すること

2) お互いの満足が得られるならば罪悪感を減少させること

3) 期待が遂行能力にそってより現実的になるように教育し、性の問題を開放的にとり扱うことである。これらは自己評価と人間関係とにおいて、満足感を得るという人間的要求を満たすのに役立つ。この満足感は、特にリハビリテーションへの導入の第一段階とみなされるが、広く人生の豊かさそのものである。

 あなた方に理解してもらいたい概念は莫大な予算や特別の、念の入った訓練を要するものではない。必要なのは感情移入であり、一生の職業として選択してリハビリテーションに従事している者は十分な感情移入を常に示している。

* ハワイ大学医学部解剖学・生殖生物学教授。性的行動・姙娠・産児制限・中絶の分野で、数々の研究を行っている。現在米国保健研究所(United States National Institutes of Health) および米国人口協議会(The Population Council of America) から後援されている研究に取り組んでいる。本稿は米国リハビリテーション協会太平洋地区会議(1973年6月14日、ハワイのホノルルにて)で発表されたものである。

**東京江戸川区役所厚生部嘱託

***1973年全国リハビリテーション協会ハワイ地区会議において、ハワイリハビリテーション協会の援助により製作した障害者と性に関する参加者討論の模様を記録した、30分のビデオが発表された。この会話はその一部を修正したものである。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1976年4月(第21号)33頁~40頁

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