脊髄損傷の適応に関する心理学的考察

脊髄損傷の適応に関する心理学的考察

psychological Considerations in the Adjustment to Spinal Cord Injury

Thomas D. Stewart*, M. D., Alain B. Rossier**, M. D.

能美 真理子***

 脊髄損傷によるマヒの心理的側面には、最も痛痛しい、そしてフラストレーションを起こさせるような人間的諸経験をいくつか含む非常に広範囲な問題が示される。発病の時の年齢と関連している様々な症状を考えると、このようなマヒの心理的影響を全面的に論じることは不可能であろう。

 ところで、この損傷に対する心理的反応は二つのパースペクティブから分析される。ひとつは、この損傷で苦しむ人各々に独自の反応を形成する混在した特殊諸要因に関連している。すなわち、この論文のこの部分は、このマヒの情緒的な衝撃を分析するためのひとつの型(format)である。他のひとつは、マヒのある人全部に共通する一般的要因である。マヒのある、もしくはない生活への適応と、これら一般的諸要因との相互関連性が強調される。

 マヒに対する心理的反応を分析するためにその概要として考えられる特殊な要因としては次のものがある:ライフサイクルの中での位置、発病の原因、罪障感の役割、マヒした部分の意味、マヒする前のパーソナリティ構造、随伴する障害の役割と意味。

ライフサイクル

 考えるべき最初の特殊な要因は、マヒした時の年齢である。発病の年齢は、マヒによる混乱がライフサイクルの中でいつおきたかを知る手がかりとなる。生まれて死ぬまでのライフサイクルのそれぞれの時期には、マヒの心理的影響と関連するそれぞれ特別に傷つきやすい点がある。三つの時期をとりあげて考察しよう:誕生時、青年期、中年期である。

 二分脊椎のような生まれた時からの障害は、他人と比べて自分自身を知覚する能力が備わり始めた時、不完全さに気づくようになる。マヒした状態と比べるための基盤となる正常な機能がない:したがって患者は、身体的に完全だと一度でも感じる経験を奪われている。以前にあった状態を嘆くことが問題になるのではなく、他の人がもっているもの、できることへのねたみが、こうだったらよかったのにという嘆きと関連して重要になってくる。運動活動と結びついた発達は少しずつ損なわれる。これは、移動力が少ないため、感覚経験の領域の発達が損なわれるためである。

 また別の要因は、子どもの障害が親に与える影響である。この問題はPoznanskiによって論じられている。Poznanskiは二つの重要な問題に焦点をあてた。ひとつは、障害のある子どもに対して、親は怒りを表現できないという問題であり、これは、子どもの状態に対する親の罪の意識にもとづくものである。このため、子どもは、成長と発達に必要な言語的、身体的禁止が与えられない。もうひとつの問題も親の罪の意識と関係がある。それは過保護の問題である。こうした行動は、子どもに与えてしまった障害に対する両親の「償い」の努力としてしばしば現れる。この過保護は、外傷を受けた子どもをもつ親の場合にも見られるもので、それは多分子どもを障害から守ることができなかったという罪障感から生ずることが指摘されるだろう。現実の要求や現実から生ずるフラストレーションから過度に子どもを保護すると、その子どもの自主性を育てる機会を奪うことになる。加えて、医学的リハビリテーション計画でなされる独立心の発達を損なうことになる。

 青年期というのは大荒れの時期であり、生活の型、職業の選択、性、といった問題についても大いに不安定な時期である。マヒは、このように種種な問題が入っている大きななべのような時期への歓迎されない侵入物である。さらにマヒは、不安定さにもうひとつ要素を加わえることになる。青年期は、マヒによって歪められたパーソナリティを溶かし、再結晶させる時期として記されている。不完全に形成されたパーソナリティにマヒを統合するのは確かにむずかしいことである。この時期の仲間意識と仲間による受容(acceptance)が重要なことはよく知られている。マヒによる混乱は、この最も大切な受容を実際に、あるいは想像の上でおびやかし得る。それに、この時期のマヒは普通のライフサイクルの連続性を混乱させる。

 なぜなら、普通なら年をとることによって生じる問題、すなわち喪失や退化、に若い人を直面させるからである。マヒは青年に、その時期が来る前に年をとらせる。これは、リハビリテーションの病室で、青年よりずっと数の多い脳卒中の患者や、年をとって体の機能を失った人たちとしょっちゅう会う場面におかれているということでも強められる。ひとりの片マヒの青年は、「僕が若かった時は」と口をすべらせ、彼のこの早熟な老いの意識を明らかに示していた。

 中年期というのは、髪の毛や力がなくなり、友人の死がありふれたことになったりして、退化や喪失の感覚がすでに作用している時期である。マヒに関連する損失は、何の抵抗もなくこの流れの中に適合してしまう。しかし、マヒは、先在する退歩とかおとろえの感覚をさらに増大するように働いてしまうかもしれない。ある人にとっては、この損失に適応する経験は、すべてのマヒが与える打撃を、それがいつおこっても、柔らげる働きをするかもしれない。

時期

 マヒのおこった時の原因と時期は、患者の情緒的適応にとって重要な意味を持つ。よく見過ごされる特徴は、外傷性マヒ者の記念的な反応である。よく患者は一見説明しがたい抑うつを経験する。医師はもちろんのこと、患者はしばしばこの抑うつがその傷を受けた記念日におこるということには全く気づかない。記念的反応についての質問は、マヒのあるなしにかかわらず、強い抑うつについての精神分析的評価の一部とするべきである。

 記念的反応に加えてマヒを発生させた時の自己と他者の役割を考えなくてはならない。自己の行動がその損失に役割を果たしている。たとえば水泳の飛込みやバイクで事故をおこした人たちの場合には、激しい悔恨がしばしば見られる。この悔恨は次のようなことばにふとあらわれる「もし、ああしてさえいなかったら……」とか、「あんなことをするなんてなんてバカだったんだろう」。こういう患者の経験する自責の念は一生続く。

 だれか他者が、マヒの原因に大きな役割を果たしている時には、適応は別の型をとる。けがをした人たちが通行人であるような、バイクの事故がこの例である。ここでは、加害者への慢性的な怒りが存在するに違いない。この強い怒りは強烈で、この結果、抑圧を伴って「内部化される」(turned inward)可能性をもっている。つまり、この怒りは、加害者よりも自分にむけられるようになる。加害者への罰を追求することは、人生をむしばむ不愉快な経験なのである。

 しかし、マヒは大体において、患者にも他の人にも積極的役割を果たしていない。この例は、様様な多発性硬化症や心臓血管の病気にも見られる。これらの患者は、しばしば「運命」に対する救いのない怒りに苦しむ。これには、自分を見捨てた神への苦々しさもある。「なぜ私がこれを甘受しなくてはならないのか」ということばは珍しいものではない。もちろん、運命への怒りは、外傷的な傷を負った人にも同様にみられる。この感情は横断性脊髄炎による片マヒの患者によってうまく表現されている。それは「私は歩けるようにはならないという事実はうけとめよう。しかし、『なぜ私が』という疑問を認めることはできない。」。

罪障感

 「なぜ私が」という疑問は、しばしばマヒと結びついた罪障感に注意をひきつける。損失は、現実と、想像上の両方の罪悪に対する罰とみなされる。四肢マヒの若い男性はこう要約した「僕はこんな状態になるようなことをしただろうか。たしかに僕は、女性に対して、こんな状態になる程悪い考えをもったつもりはない」罰と、はっきりしない「罪」の間のこのような断絶感は、カフカの「ある流刑地の話」に書かれている。

 この短編では、残酷でサディスティックな処刑が、あいまいな理由で人々に課せられる。拷問される人も、拷問する人も、このような罰には十分意味があるのだという漠然とした感じにもとづいて、この行為を行っている。同様に、マヒのある人々も、その状態はなんらかの意味で当然のことだと考えて黙って耐えている。この罪というものは、その根を、個人の情緒的本質の奥底にもっている。

マヒした部分の意味

 マヒした部分の性質と意味は、情緒的反応を決定する有力な要因となる。マヒは通常、手足とそして、あるいは仙髄部を含むので、以下の話は三つにわけて行う。仙髄マヒ、下肢マヒ、上肢マヒである。それぞれ単独に、そしてまとめて、これらの機能のもつ個人的意味を考えることが、患者の直面している情緒的困難を専門的に理解するのに役立つ。

 仙髄の機能不全には、特に情緒的な意味がある。pudendal nerve(外陰神経)の名前が選ばれた意味を思い出すべきである。Pudendaとはラテン語で恥を意味する。すなわちこれは恥の神経である。だから、性、排便、膀胱のコントロールに障害のあることは、不自由さに対する恐れ以上のものを生みだす。特に、性行為中に、膀胱のコントロールを失うことを考えた時は、特にそうである。恥と屈辱、それは当惑と結びついているが、生後12~18か月の間の初期の人間の知覚の領域の奥深くに、その源がある。

 Eriksonの考える排便と膀胱のコントロールは、この時の生理学的情緒的な発達の問題と関係がある。これらの機能をコントロールできるというプライドと結びついた自律心は情緒の中心的な問題である。このコントロールを失うことは懸念や屈辱と同じことである。恥ずかしいという気持ちは子どもの中に生まれ、コントロールしそこなった時によく両親に叱られて恥の気持ちが強化される。ある程度年をとってからこの機能の随意的コントロールを失うということは、もっとずっと若くて括約筋のコントロールが難しかった時の恥の感情に戻ってしまうというのは、ほとんど疑いもないことである。この当惑の感情を理解するために過去をひきあいに出す必要はないけれども、恥の感情は、現在を超えた全生涯の中で理解されるべきである。膀胱の調節が上手にでき、規則的な排便のパターンができることには医学的意味合いを超えた重要性がある。それには、もともと括約筋の支配と関連しているプライドをとりもどすのに役に立つ。

 排便や膀胱の機能が失われると、普通、性的な障害も同様に起こる。勃起しないことは、特に、男性の力強さに対して非常な打撃となる。これは特殊な損失である。なぜなら、マヒする前でも、男性が直接随意的にコントロールできない体の部分が含まれているからである。満足させたり、満足させられたりする能力は忘れられた感覚が発達するのにとって代わられる。この忘れられた感覚については、四肢マヒの男性が最近うまく書いた。それは、彼が障害を受けたあと始めて妻と性行為を試みたことについての回答である。

 彼は反射的な勃起について「妻は喜びました」と言った。性的な部分のマヒと関連して、愛することができるという感覚が少なくなったことは、男性、女性両方にとって自尊心に対する重大な打撃である。人をひきつける力が弱くなり、マヒによって傷つきやすくなったという感情で、性行動はますます弱くなる。

 さらに、仙髄の機能障害は男性の生殖能力をなくすが、他方、同じ神経的損傷を負った女性にはこの能力が残っている。そこで、マヒのある女性は、体の内部からなにか完全なものを生みだすことができるが、他方、男性には個人的に肯定される機会はないことが多い。

 下肢のマヒは、結果的に車いすに依存しているが、様々な情緒的問題をおこす。ここでは、そのうちのひとつに焦点をあてることにする。

 すなわち視線の接触性である。車いすに座っている人は、常に仲間を見上げざるを得ない。だれかが、人を見上げるよりも、見つめる方が重要だと次第に気づくようになることについて書いている。直立することが、単なる姿勢を超えた意味をもつ人間にとって、この問題は大変な影響を与える。若い片マヒの患者の多くは、結婚式ではどうしても立って、自分がいくら努力してもつらくても、重い矯正靴をつけて歩きたいと言いはる。彼らは自分の結婚は「1人だけ座った」状態で始め、そのような形で世界にむかいたくないのである。

 他人を見上げざるを得ない居心地の悪さは、恥の感情に根ざしており、これは、Eriksonが、子どもが大人と比べどんなに自分が小さいかを悟る時の経験だと言ったものである。Eriksonはまた、乳児が「歩行という新しい状態と姿勢に気づく」時に経験する増加した自尊心について述べている。大人の仲間入りをし、世間を歩いていくというこの状態は、病気によって弱くなる。このように、下肢のマヒに対する反応も、その源は、長く忘れられていた幼児期の知覚にあるのである。膀胱と排便の機能障害の場合と同様に、機能的損失の十分な意味を知るためには、現在と同様過去にも目をむけなくてはならない。

 上肢のマヒは、脊髄症状の場合を除けば、通常下肢のマヒと合併している。そこで、下肢マヒと仙髄のマヒについて述べたことは、この状態にもあてはまる。しかし、上肢のマヒは、最も根本的な機能と関係している特別な無力さを生みだす。性、膀胱、排便のコントロールを失うことが、自分の身のまわりの仕末をするという名誉にかかわるような能力の損失と一緒におこるということは、さらに衝撃を大きくする。ほかの人に、この情緒的身体的に最も基本的な活動の手ほどきをうけたり、世話をされたりしなくてはならない。

 実際、四肢マヒの患者が排泄の世話を他人に頼るというのは新生児の状態と似ている。食べさせてもらわなくてはならなかったり、食べ方が不器用だったりすることは、排泄の世話になる人を必要とするのと同じ位、深い屈辱感を生む。C5のレベルに損傷のある若い男性が無力感について書いている。「あなたには障害がないから、マヒのある状態がどんなものかはわからない。大きなことには比較的早く慣れる、つまりおきあがれないとか、歩きまわれないとかである。ごくつまらないこと――自分の鼻をかけないとか、自分で食べられないこと――で傷つけられる。」

 上肢にマヒのある患者は手を伸ばすための装具が必要である。手というのは表現のための道具であるが、これは冷たいスチールとプラスチックでできている。これらの道具は、日常的に使われる必要があり、患者がこれを自分自身の感覚と同じになるように努力しなくてはならない。つまり「私ではないもの」が「私」の一部にならなくてはならない。異なるものを自分の感覚の一部にすることはうまくいかないことが多く、補装具は拒否されたり、戸棚の中にしまいこまれたままになったりする。これは患者にとっては個人的損失であり、提供した社会にとっては経済的損失である。

 次の話は、コミュニケーションのために体に補装具をつけなければならなかった人に共通の経験をうまくとらえている。その患者はC6-7レベルの四肢マヒで、関節のまがる腕のスプリントをつけていた。デートの時、彼はガールフレンドの体に腕をまわそうと決心した。彼は障害をもってから一度もこんなことをしようとは思わなかった。こうした後、彼は自分の腕が彼女の肩にのっているのを見、また締め金に反射した光が彼の目をとらえた。この晩、彼はスプリントをとりはずし、二度とつけなかった。

パーソナリティの型

 マヒ以前のパーソナリティ構造は、マヒに伴って患者が特に傷つきやすくなっているのを評価する際には考慮する必要がある。パーソナリティの型に注意を払うと、効果的にスタッフが援助する助けとなる。次の分類はDr. KaharaとDr.Bibringが、ボストンのベス・イスラエル病院(Beth Israel Hospital)の患者から得たパーソナリティの型にもとづいたものである。どんな人もひとつの範ちゅうにはあてはまらないが、多くの人がパーソナリティの中に、主なものとして、これらの性格特徴をもっている。

 まず、依存的で過度に要求を出す患者がいる。この人たちは、しきりに要求を出し、興味と世話と注意を際限なく求める。自分の要求が職員に受け入れられないと非常にうろたえる。このような患者にとっては、どんな病気や障害でも、見捨られ、無力のまま放っておかれるという深い恐怖を生みだす。病院から得られる継続的な関心と世話についての保証は、特に退院後の時期には、こういう人たちの不安を軽くする助けとなる。

 普通の、よく統制された患者には、かなりの自己統制ができており、ストレスのある時期に不安を軽くするような知識や情報を信頼する。彼は問題を理性的に処理するよう全力を尽す。マヒは、彼の知識のある理性的な行動では完全に正すことのできないような恐ろしいコントロールの喪失を与える。この患者は、自分の状態について十分説明されることによって非常に救われる。

 演技的で感情的な患者は、しばしば暖かく、表情豊かで人に好まれると述べられている。マヒは個人的弱さとか欠陥を意味し、そして、大切な他人の関心や注意をあつめる能力が低くなることを恐れるのである。これらの患者は、彼らにかかわる専門家の着実で持続的な関心によって大いに救われ、ほんのちょっとでも注意が払われないと、簡単に軽んじられたように感じる。

 長く苦しんでいる自己犠牲的な患者は、苦しみと病気を一生続く歴史としてかかえている。このみじめな気分は、彼が職員の世話とか注意を価値のあるものと感じるのに役立つ。マヒは専門家の世話と関心が長く続くことを保証している。

 West Roxburyで、この種のに我片マヒ患者は、自分自身の性格をこう言っている。「私は傷つく、故あり」。このタイプの患者の治療をする時は、彼の苦しみの感情を取り去らないようにすることが大切である。それどころか、苦痛を軽減することも正しくはない。

 「ある程度の回復は期待しています。しかし、回復してあなたの感じている苦しみをとりのぞくことは期待できません」ということばは、いかなる報いがあってもこういう患者には幸運であるとして受け入れさせるのに役立つ。こういう患者は、医師に、もう直りましたと言われると泣きくずれることで知られている。

 偏執病患者は、彼の世話をする人たちの意図と目的に気を配っている。彼は他人が自分をしきりに傷つけようとしていると思っており、マヒは彼のこの感情を正当化しているように思える。治療計画とその方法をていねいに説明することが役に立つ。

 優越感を持つ患者は、力強く、すべてが重要だという感情をもっている。だれのニードも彼のものほど重要なものではない。彼は、うぬぼれが強く大げさにみえる。彼のマヒは、完全で不死身だという自分自身のイメージをおびやかす。マヒがあっても、彼は人間として依然受け入れられていると元気づけることが役に立つ。

 人に愛されず、冷淡な患者は、人から離れており、情緒的接触をすることが少ない。マヒする前に、彼は、人間関係のつらい失望から自分を守るため他人とのかかわりを最小限にしていた。マヒによって、この生活の型がくずれる。なぜなら、病院生活が長びくと他人とかなり親しくなるからである。患者同士の接近や、医療専門家と長く接触することで不安がおこる。ひとりでいるとか、他人から離れていることが、この種の人たちが入院生活やマヒにうまく適応するために、きわめて重要である。

関連した諸障害

 これらが、マヒの情緒的適応に関係している。しかし、これに伴う多くの問題も認めなくてはならない。感覚喪失、皮膚の傷、感染症の問題もある。それぞれ、人間の完全への感情をおびやかす。マヒに関するこの論文で述べられていることは、これらの状態にあてはまる。

一般的要因

 マヒのある人全体の心理的適応について共通の要因がある。これはマヒのある人にだけ特別に見られるものではなく、マヒがあってもなくても、人間の行う経験に共通の要素である。このように、ある意味では、マヒによる情緒的問題は人生の過程の中で生みだされる問題と質的に異なってはいない。人生というのは難しく、マヒがそれをただ一層難しいものにしているだけであるということは疑いのないところである。従って、マヒのある人がない人とわけあっている問題の強さに関して、マヒは量的な違いを生むだけであり、質的な違いを生むのではない。こういう一般的要因には、アイデンティティ(同一性)の危機****、不安、抑うつがある。

アイデンティティの危機

 現実に共存している要因の最初のものはアイデンティティの危機である。人間の発達の過程は一生のうちで様々のアイデンティティの危機を生み出す。確立はしていないが安定した性格構造が、強力でおそろしい衝撃によって混乱させられると、人生の危機がおこる。その良い例は、児童期後期から青年期への移行期である。急速に高まってくる性と攻撃の衝動を考えると、新しいパーソナリティのバランスはくずれるにちがいない。このような流動的な状態は、個人の中に進歩か退行かの変化の可能性を生みだす。

 たしかに、マヒの進行は、個人のパーソナリティの中に、新しく潜在的に恐ろしい現実を統合させるような人生の危機である。

 これは、破局に通じるようなひとつの危機で、発達的な危機は単なる転換点以上のものである。マヒは個人のアイデンティティの中に変化を強いる。この変化を、新しい損失と考えなければならない。

 マヒのあとであらわれる新しいアイデンティティは失ったものを克服する努力の中で発達する新しい強さをもっている。他方、マヒを正当化の手段として使うもっと依存的な生活に移行することもある。変化の方向は、はじめには分からず、多分予測も不可能である。

不安

 不安というのは、人生の正常な部分である。それは、事故や先天的な不幸のような、人生の現実からくる無力感に気づくことで生まれる。同様に機能を失った体の部分に対する無力感からも生まれる。人は、この不安に耐える力を持たねばならず、Zetzelが「不安と忍耐度(Anxiety and the Capacity to Bear It)」に書いたように、不安に圧倒されてはならない、彼女は、よく知られている次の例を引用して、特徴をわからせてくれる。

 大学の試験準備中の不安は、もし耐えられれば、個人の最高の能力を発揮できるよう手助けする可動性のある経験である。他方、試験の恐怖によって能力を失ったり不安に圧倒される人はたくさんいる。ある意味で不安はマヒすることができる。からだにマヒのある人が不安によって動かされ、それに圧倒されず、そして彼らの最大の可能性を実現することができるというのは重要である。不安に耐える力は、このように、マヒのあるなしにかかわらず生活に適応する上で大切である。

抑うつ

 マヒに共通する別の反応は抑うつである。不安の場合と同じように、この特有の反応について論じている人は多くはない。抑うつは、マヒにより自尊心が失われることが原因でおこる。自尊心というのは、強く、愛情深く、人に好かれるという三つの基本の上に存在する。このうちのいくつか、あるいは全部の感情と関係して、無力感を感じると、それは抑うつとして経験される。体のある部分をコントロールできないという無力感は、それ自体として抑うつの原因となる。

 抑うつは、マヒにのみ特徴的なものではない。離婚と失業はマヒのある人にもない人にも、その生活に影響を与える挫折である。抑うつは、不安と同じく能力を失わせるものであることはよく知られている。これをおこさないためには、将来における理性的な希望をもってこの衝撃に耐えなくてはならない。非常に重度の障害を持つ時には、この望みを持ちつづけることはいつでもできるというわけではないかもしれない。抑うつに耐える能力の中心は、どうあるべきか、どうあるべきだったかということではなく、今どうであるかということを受けいれる能力と密接に関連がある。この能力には嘆き悲しむこと、抑うつと深く結びついた情緒、を含んでいる。嘆きというのは、どうだったか、どうあるべきだったか、どうならないかということに気づいて湧きおこるさびしさの感情である。嘆きは、自尊心を相対的に損なわず、また比較的短期間なので、抑うつとは区別される。機能を失ったことへの嘆きが解決されないと、嘆きは抑うつと一体になる。

 適当な嘆きはZetzelの「抑うつと忍耐度(Depression and the Capacity to Bear It)」という小論文に上手に書かれている。これには2人の3歳の男の子のことが書かれている。それぞれの子どもの父親は、町を出ていた。男の足音がドアに近づいてくるのを聞いて、1人の男の子は、これは父親に違いないと思って興奮した。別の男性がドアを入ってきた時、この子は、来た人が父親でないことでがっかりして怒りくるって慰めることができなかった。この子は、その男の人がいる間中みじめな気分だった。

 別の子も同じ場面で観察された。この別の子も客が父親でなかったことで最初はがっかりしたようだった。数分後、この別の子はがっかりするのをやめて、この人と一緒にいることを楽しもうと手を差し出した。この別の子どもは、彼の失ったものへの感情に圧倒されず、得られたもの、すなわち、父親でなかったその男の人を受け入れ、利用することができた。マヒ者の直面する状態は、この2人の子どもの状態と類似している。マヒ前の標準、あるいはマヒのない人の楽しみの標準にあわせて生きることのできない体に、マヒ者は受け入れ、マヒと共に生き、その体を最高に用いることができなくてはならない。もし彼がもう持つことのできないもの――正常の機能――を追い求めることをあきらめられないと、最初の子どものように、つねに欲求不満と抑うつの下にいることになるだろう。

 しかし、マヒによる情緒的な重荷は、生活の普通の部分におこる喪失感より、もっと上位にある。このように、マヒ者の喪失感は強調されるが、これは、マヒのない者が経験する喪失感とは量的な違いである。これはHohmannが25人の片マヒ男性患者を健常の統制群と比較した研究で確かめられた。マヒ者は、統制群に比べて、怒り、恐れ、性欲が少ないことが報告された。しかし喪失感は統制群より大きかった。

社会的・経済的考察

 この論文の焦点は、脊髄損傷に対応する心の内部の要因にある。もちろん、心の内に影響を与える外部からの影響は多様に存在する。これには、家族、社会環境、それにもとづく貧富が含まれる。この病気からくる多額の医療費の点からは、国や個人の十分な健康保険のあることが、個人の適応の際の重要な要因である。保険が十分でないと、医療費による経済的消耗による屈辱感が適応への個人的努力をさらに複雑なものにする。しかし、このような社会的・経済的要因について十分に討論することは、この論文の目的ではない。

結び

 個々人の独特な反応形式を作りあげている混在した特殊要因を述べてきた。これらは、ライフサイクル、発病の原因、マヒのある部分の意味、先行するパーソナリティ構造、罪障感である。抑うつと不安という一般的要因が、この個々の特殊なパターンの中を貫いている。実存主義的作家が我我に気づかせるように、抑うつと不安と罪は、マヒのあるなしにかかわらず、人間の状態の一部分なのである。しかし、これら苦痛の感情は、脊髄損傷と必然的に関係する喪失感によって強められる。

Rehabilitation Literature, March 1978から)

参考文献 略

*Dr. Stewartは、マサチューセッツ州西ロクスバリーにある傷い軍人行政病院の脊髄損傷部門の精神分析医で、マサチューセッツ総合病院とハーバード大学でも仕事をしている。
**Dr. Rossierは、同病院の脊髄損傷部長及びハーバート大学医学部の脊髄リハビリテーションの教授である。さらに多くの病院の顧問をしており、国際両下肢協会マヒ(International Society of Paraplegia)の発行している雑誌「パラプレジア」の編集委員でもある。
***筑波大学大学院生
****アイデンティティ(Identity)とは、自己意識の安定性と不変の上に成立する立体的な自己意識でアイデンティティの危機とは“自分がわからなくなる”という類いの経験を指す。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1978年7月(第28号)19頁~26頁

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