成熟化と社会的自立を促進するための短期プログラム

成熟化と社会的自立を促進するための短期プログラム

Shortterm Programms Planned to Aid Maturation and to Develop Social Independence

Margaret R. Morgan, M. B. E.*

奥野 英子**

 青少年や青少年にかかわる諸問題に関する文献は数多くあり、また、10代の者たちが直面しているジレンマの各種側面に関する書籍や論文もどんどん発行されている。また、学校から職場への移行期の問題、職業評価、職員選考、工業・商業分野の現代的訓練方法等についても、広範囲にわたる情報が流布されている。障害をもった乳幼児に関する本や論文、特に、その診断、治療、教育に関するものは、すでにいっぱい出されている。しかし、障害をもった青少年や成人に関する詳しい情報ということになると、選択の余地がほとんどないのである。障害者自身によって書かれた自叙伝や、障害者について書かれた伝記類はたくさんあり、これらは、「障害者であるということはどういうことなのか」について生々しい映像を与えてくれる。しかし、これらの多くは、彼らの児童期にどんなことが起こったのか、またどんなに困難な日々を過ごしたかを記録するのにかなりのスペースを取っており、その反面、障害をもつ成人の感情や彼らが現実にかかえている問題について触れているものはほんの少ししかなかった。

 私の友人であり、この演台にもあがっていらっしゃるDr. Beatrice Wrightは1960年に、非常に面白くかつ人間味あふれた研究書「身体障害――心理的アプローチ」p>を発行なさった。同書において同女史は、種々様々な障害をもつ人々から提供された個人的データ、自叙伝的データをふんだんに盛り込んでいる。しかしDr. Wrightも指摘している通り、「障害をもつ人の真の感情について書いている研究文献を探そうと思っても、それがはっきりと描かれているものはほとんどない」のである。

 私自身は、障害をもつ青少年や成人と直接接触する仕事をしているが、それは別にするとして、障害をもった青少年がその人生の重要な一時期において直面している特殊問題を、我々は十分に把握しているのだろうか。

 英国において脳性マヒの青少年や若年成人グループに関する研究が二つ実施され、それぞれの研究報告書が1964年に出された。その一つの研究は、ロンドンに住んでいる脳性マヒ者を対象としたものであり、もう一つの研究はスコットランドにおける脳性マヒ者を対象としたものである。前者は学校卒業後5年間にわたって追跡調査したものであり、後者は特定地区を設定し、その地区に住んでいるすべての脳性マヒ者を対象に調査したものである。これら二つの調査は「脳性マヒ」という一つの主要要因による障害を対象にしているのだが、その調査結果は先天的障害をもつ他の人人にも該当するものであり、特に知能障害も併せもつ障害者にも妥当性をもつであろう。

 「脳性マヒ学卒者――実態調査」は、ロンドンに住む54名の脳性マヒ学卒者の生活実態を各種側面から調査・報告している。学校卒業後の5年間を追跡調査し、その対象者の年齢は16歳から21歳までになっている。

 「脳性マヒとともに生きる」はスコットランドのエジンバラおよび小さな町で実施された実態調査の結果を詳細に報告するものである。200名の脳性マヒ者が調査対象になり、そのうちの117名が男子、83名が女子であり、1938年から1947年の10年間に生まれた者を、1963年に調査したものである。調査時における彼らの年齢は16歳から25歳であった。彼らの生活の数多くの側面が研究されており、この報告書では「患者」という言葉が一貫して使われていることを見落としてはならないであろう。この「患者」という言葉から推察すると、調査にたずさわった者は調査対象者を医学的見地から見ており、彼らをたまたま障害をもっている男女としては見ていないことがわかる。

ロンドンの調査

社会生活

 54名の脳性マヒ者はその性格および気質において、他の若者と同様に、個人差がある。自分の障害に対する態度にも個人差があるが、しかし、ハンディキャップを否定する傾向はどこでも同じようである。

 本当に充実した生活を送っているし、自分と同じ年齢層の友人をたくさんもっていると答えた者は12名(22%)いたが、しかし残りの者たちはそうではないようである。

 充実した生活を送っている者は、学校を卒業後も多くの友人をもっており、また、コミュニティーへの興味ももっていた。他の者は社会的接触の機会を数多く与えられても、それを利用することが心理的にできず、そのような接触の機会を放棄してしまっていることが多いようである。しかし多くの者は自分たちの置かれている現状を認識しており、またそのような自分をなんとかしなければならないと感じているようである。

スコットランドの調査

 社会生活や人間関係に関する情報が200名の患者から収集された。患者は自分自身について率直に話してくれるよう頼まれ、その質問項目は、ソーシャルワーカーが関心を寄せている彼らの生活の側面に関して、できるだけ控え目なものを設定した。多くの患者は、自分たちが社会生活に欠けていることを告白するのをいやがった。

 調査の結果、対象者の送っている社会生活のタイプによって、以下のような七つのカテゴリーが明らかにされた。

1.21%の者は本人の年齢、性別、社会階級に即した正常な社会生活を送っていた。

2.25%の者は制約された社会生活を送っていた。

3.11%の者は障害者を対象とするクラブに参加し、その交友も障害者であった。

4.7%の者は障害者のクラブに参加しているが、彼らの社会生活は身近な家族にのみ限られていた。

5.20%の者の社会生活は、身近な家族にのみ限られていた。

6.4%の者は社会活動に参加するために家から足を踏み出したことがなかった。

7.12%の者は精神障害者施設に入所していた。

ロンドンの調査

学卒期における未成熟性

 彼らに雇用経験がないということを別にしても、ほとんどの脳性マヒ者はその他の面においても未成熟である。彼らは引っ込み思案であり、あまり反応がなく、親の保護のもとに身を寄せ、学校時代から継続する社会生活以外のものを求めようともせず、彼らの全エネルギーと冒険心は仕事の分野にのみ向けられている。彼らの多くは短期間のホリデー(行楽活動)や宿泊による評価コース(residential assessment course)のためでさえ、家を出るのをいやがる。

調査期間における成長

 ほとんどのケースの場合、調査実施期間(5年間)において、外見上の成熟度および社会的行為において顕著な成長がみられた。これは雇用の領域において特に顕著である。一定の仕事に就いている者のほとんどは、自分の能力の限界を知り、それを受容し、その限界の中で満足に仕事ができる能力を身につけていた(たとえ自分自身はその仕事に満足できなくても)。

 しかし、このように外見上の成熟とか社会的行動面で成長が見られても、それが私的社会生活にまで行きわたっていないことが判明した。

スコットランドの調査

家族関係

 患者は、自分の親に過度に依存しすぎる傾向が強かった。調査当時、親への過度の依存がなかったのはカテゴリー1(前述)のみであり、彼らの多くは若いうちは母親に非常に依存している。身体障害が重い場合には特にその傾向が強い。

 カテゴリー3および4の患者の半分以上は母親に過度に依存しており、母親からあたかも幼児のように扱われ、母親の助力なしに他の人々との関係をつくることもできないでいる。過度依存はカテゴリー5になるともっと顕著になっている。

 患者の家族に兄弟がいる場合には、この過度依存という傾向が薄らいでいることが明らかである。一貫して過度依存しており、赤ん坊のように扱われている患者は一人っ子の場合に多くなっている。

ロンドンの調査

異性との交際

 調査対象女子のうち3名は既婚であり(そのうちの1名は乳児がいた)、男子青年の2名は婚約中であった。これらの結婚および婚約の相手はすべて非障害者であった。他の14名はボーイフレンドやガールフレンドがいた。これらを除く残りの35名は異性と交際した経験が皆無であった。「異性」に関する質問への彼らの態度は非常に防御的であり、彼らのほとんどは「異性に対して興味を持っていない」と答え、また少数の者は交際の経験がないために美化したり幻想をもっている。

スコットランドの調査

異性との関係

 200名の調査対象者のうちの186名は結婚可能年齢層にあるが、そのうちの4名(男子1名、女子3名)だけが既婚であった。1962年のスコットランド戸籍統計によれば、もし彼らに障害がなかったならば、男子の18.4%、女子の33.4%は調査時にすでに結婚しているはずであった。これを見てもわかる通り、脳性マヒ者の結婚率は非常に低く、脳性マヒ者は異性を引きつけるには不利な立場にあることが示唆されている。障害をもつ人々の大多数は自分が不利な立場にあることを意識しており、また障害が非常に軽い者もとても内気になり、神経質になっていることが多い。彼らは外見上の魅力に乏しいばかりでなく、たとえ就職しても給与が十分ではないので、他の同年齢層と比較すると将来性において不利な立場にある。

ロンドンの調査

趣味と興味

 趣味や興味については普通の青年と共通しているが、ラジオ、テレビ、レコード収集、テープレコーディング、スポーツ観賞など、一人で楽しむものが多くなっている。

スコットランドの調査

趣味と職業

 患者の大多数は一日に何時間もテレビを見ており、調査対象家庭でテレビのない家は1件もなく、テレビの型も最新型であり大型のものが多かった。多くの家庭においては、テレビが部屋の中で中心的な位置をしめていた。レコード鑑賞も時間を過ごす方法として人気があり、これは多くの10代の非障害者と同じである。多くの患者はレコードプレイヤーの取り扱いが乱暴なために、故障しているものが多かった。

ホリデー(休暇)の過ごし方

 スコットランドの調査結果は以下の通りであった。

●23%は一人で、または一人の友達とホリデーに出かけたことがある。

●20%は障害者のために企画されたプログラムか青少年団体のプログラムに参加したことがある。

●34%は親または親せきとホリデーに出かけたことがある。

●23%はホリデーに出かけたことが一度もない。

ロンドンの調査

雇用への非現実的認識

 54名の調査対象者のうち8名だけが自分で選択した仕事に就いており、他の大多数の者が仕事に就けない理由を考えてみると、彼らは自分の身体的、知能的状況に合わない仕事を望んでいるのである。試用期間中に採用が決まらなかった者の多くは、自分の仕事ぶりが満足のいくものでなかったことに気がつかないし、なぜ自分が採用されなかったのかも自分ではわかっていないのであった。

雇用への過度の不安

 身体障害および知能障害がどの程度であろうとも、雇用の重要性を否定することはできない。重度障害者においては例外もあるが、すべての脳性マヒ者はその可能性があるか否かを別として、自分の生活費をかせぎたいと心から願っている。

スコットランドの調査

就職の難しさ

 脳性マヒ者が就職し、その職業を継続できるか否かは、多くの要素がからみ合っている。

 これらのうちで何よりも最も重要な要素は、自分自身に対する態度、自分の障害に対する態度、社会における自分の位置の正しいとらえ方などであり、これらは、自分の育った家庭環境、幼少期の育てられ方にも大いに左右される。

 何人かの患者、特に幼少期において親に過度に依存していた者においては、現実性のなさが著しい。これについては、CrothersとPaineが発表した研究結果(1959)と非常に類似している。

 非常に共通性のあるこれら二つの調査結果は、二つとも5年前に発表されたものである。その後、施設およびサービスは改善され続けてきたが、しかし基本的には以前と同じ状態であり、ことにエジンバラ調査の要旨は現在にも該当するものである。(このような意味において、“過多教育(overeducation)”は学問的研究への興味が過大すぎることを意味しており、それは成人としての生活を送るために広範囲にわたった準備をしなければならないのに、それができない一要因ともなっているようである。)

 脳性マヒ青年はむしろ過度な位に教育を受けているけれども、彼らは情緒的には未成熟であり、自分の障害のとらえ方も非常に非現実的であり、そのために職場においてもまた余暇時間においても満足のいく人間関係を保てないことが示されている。

 障害をもつ青年を地域社会に統合化することの困難性が広く認識されるようになってきているが、種々の教育的背景をもつ数千名の脳性マヒ青年を対象として仕事をしてきた英国脳性マヒ協会での経験によると、学校を卒業していく少年少女たちはおとなの社会を正しく認識しておらず、特にその中での自分の役割を正しく認識しないままで学校を卒業していっている。普通の10代の者たちは自分と同年齢層の者たちとの付き合いが多いのだが、障害をもつ青年は自分を助けてくれる大人、すなわち、親、年長の親せき、教師、セラピスト、介護人などとの接触が主であり、自分と同年齢層の障害者または非障害者との人間関係に満足を感じている者はほとんどないようである。事実、10代の者たちが子供との関係があるとしても、それは自分たちよりずっと年齢が下の8歳から10歳位の子供たちと一緒にさせられているのである。

 自己同一化(identification)の問題はすべての青少年にとって重要な課題であるが、障害をもつ若者にとっては、この問題はもっと複雑になり、また深刻なものになっている。自分をだれと同一化したらいいのだろうか。身体が丈夫で、社交的で、知能の優れた若者に同一化したらいいのか、それとも障害をもち、自分と同じように自己否定しがちな者に同一化すればいいのだろうか。

 好みも違い、価値観も違うひとりひとりの個人として自立するニードは、すべての青少年にとって差し迫ったニードである。しかし、身体面において他人の援助に依存せざるをえない者の場合は、そのニードを満たすことは困難である。買物も他人にしてもらい、自分自身で品物を選ぶことができないならば、その人は他人の目にどのように映るのだろうか。口で反論する以外の方法、すなわち、部屋からいきなり飛び出し、ドアをピシャッと締めることができないならば、親に対してどのように挑戦や反抗できるのだろうか。言語障害のある者は、口頭による反抗さえ拒否されているのである。

 多くの親は心配しすぎるがために、障害をもった息子や娘が自分で決断を下し、自分自身で行動をとることを妨げてしまい、それによって親への過度の依存問題が起こっているのである。児童期には医師、外科医、セラピスト、心理士、教師、ソーシャルワーカーなど非常にたくさんの“専門職者”がその子供にかかわってきたために、親は親としての役割を権威あるものとして持ちつづけることが非常に難しくなる。事実、その子供のためのプランやプログラムを変える権限はだれが持っているのか。親なのか、それとも医師なのか、について混乱が起きている。このような状況においてバランスを取り戻し、親としての役割を強調するがために、子供の親への依存を強めているようである。

 ここでOttawayによる「集団経験からの学習」を引用してみたい。著者は自己実現への成長(the growth of self-realisation)を扱っており、障害をもたない若者が直面している適応問題について言及している。若者が身体的にも経済的にも親に依存せざるをえない場合には、種々の困難なことが起きてくることは想像に難くない。

「若者の《第1義的》ニードは《自立》することであると、我々は益々考えるようになっている。“自立する”とはひとりになることであるが、またそれと同時に、彼らは我々大人の保護と援助も必要としているのである。これを我々は受け入れ、支持してあげなくてはならない。自立へのニードと同時に依存へのニードは、人が同時に感じうるアンビバレンス(相反感情を同時に持つこと)である。親への反抗的感情、親を拒絶したい欲求があると同時に、適切に与えられる愛情や援助もほしいのである。

もし子供が依存しつづけたり、依存することを強いられれば、当然のこととして成熟への成長が遅れ、精神的成長が難しくなるであろう。おとなの側からすれば、どんな時に介入すればよく、どんな時に介入してはいけないのかを知っていなければならない。ここに、青年期の子供を持つ親の難しさがある。子供がこのような成長段階にある場合には、親は非常に苦しい立場にある。青少年は親から情緒的に分離しなければならない。これも一つの乳離れである。これは自立するために必要な一過程である。これはパーソナリティー全体にかかわる一つの喪失を感じさせるような、痛みの伴う過程である。青少年は、親が認めている価値を自分自身で評価し直してみるために、一度はそれを拒絶しなければならない。その結果、また親と同じ価値観に帰着するかもしれないが、しかし何にしても一度は親のもつ価値感を離れ、自己決定能力を試した上で、初めて自分自身になれるのである。

どのように生きたらよいかを学び、自立と位地を獲得し、真の人間となるプロセスをたどるためには、権威ある者との満足のいく関係が必要とされる。権威を受容できるか否かは、その権威の種類とそれがどのように行使されているかに左右される。これは青少年だけに限られたことではなく、あらゆる年齢層にも言えることである。我々は、我々を納得させずに抑圧しようとする権威を拒否する。我々のためになると常に盲信しているような権威に対しても、疑惑を感じている。成熟した行動とは、動かしがたい規則に盲従することではない。我々は我々と意志疎通ができ、我々と相談し、その責任を我々にも自由に分かつ権威を受け入れるであろう。若者と同様に年配の者も言葉の裏に敏感であり、他人が自分をどのように見ているかにも敏感である。彼は本当に信頼されているのだろうか。彼はみせかけの自立を与えられているのではないだろうか。権威者とひとたびオープンでかつ自由な関係が築かれれば、お互いに誠実であり正直であることがもっと大切になってくるのである。

 この種の問題が討議される時に通常出される疑問は、「なぜ学校で、このような子供たちが成熟するための教育・訓練をしてくれないのだろうか」という疑問である。討議が進むにつれて、「より適切な幼児教育が必要である」という所まで議論が逆のぼることになる。確かに、教育者は彼らの現実的将来がどのようなものになるかを念頭に入れて、問題の所在を十分に認識し、これらの若者が人生へのより適切な準備ができるようにカリキュラムを改正するにいさぎよしとしなければならない。しかし私は、学校とはしょせん保護された環境であると考える。したがって、若者が学校から本当の意味で卒業し、児童期にかかわった人人と分離した時にはじめて、成熟という面での最も効果的な結果が達成されるのであろう。

 英国脳性マヒ協会は過去数年間次のような原則にのっとって仕事をしてきた。「同じような障害をもった同年齢グループと生活を共にした期間が、脳性マヒ青年にとって最も役に立つ時期である」と。そのうちの多くの者は非障害児の学校の中でもついていけるようになるし、その後就労の世界にも入っていけるであろう。しかし、これらの若者の大多数は、力不足と挫折感をもって学校生活を終え、常に“疎外された者”という感情をもっている。自分と同じような障害をもつ若者と共に過ごした期間は、たとえそれが2、3日であっても、彼らは自信を取り戻し、10代の者はより同じレベルで新たな人間関係を作れるようになるのである。

 入寮制の特殊学校に入ることが多いより重度な障害者にとっては、問題はより複雑になるが、しかし問題の本質は同じである。このような場合、彼らは学校でお互いにしのぎを削り合ったという経験が非常に乏しく、教育的成果についても正常の基準からは大幅に甘くなってしまう。彼らは自分たちが学校で一生懸命に成し遂げたことは、一般労働社会の中ではほとんど無に等しい価値しかないことを後になってから発見し、つらい落胆感を経験するのである。また、各種様々の障害をもつ若者たちと会ったり、意見を交換し合う機会を設けることによって、自分を全体の中で把握できるようになり、徐々に正常の基準と比較でき、現実を見つめられるようになる。

 英国脳性マヒ協会においては、各種のサービスを提供するように努めており、その中には、障害をもつ青年がこれらの問題に直面し対応できるように企画された短期プログラムや長期プログラムがある。主に職業評価やカウンセリングを主目的とした短期合宿コースがあり、そこにおける集団経験が参加した若者の成熟化に役立ち、彼らの自立および社会性を伸ばす新たな経験となっている。

 また、2日間から2週間位の期間にわたる短期合宿プログラムのほか、英国脳性マヒ協会では入所制の継続教育センター(Further Education Centre)を運営しており、このセンターでは、学卒脳性マヒ者42名のグループに対して1年間のプログラムを提供している。このセンター(Dene Park)の主要目的は、学生の潜在能力を伸ばし、大人として地域社会の中で生活してゆけるようにすることである。自分と同年齢層の者と小グループの中で生活することにより、かなりの成果が得られている。このセンターの所長は、「ここで成果があがるのは、コースの中に組まれているプログラムにもよると同時に、共感的環境において約40名の青年が共に生活をすることにもよるのである」と言っている。

 成長を妨げるような諸要因がこのような長期プログラムにはどうしてもつきまとう。長期プログラムにおいては、組織化や規律が必要となるが、短期合宿プログラムにおいてはこれらの枠組をなくすためにいくつかの試みをしており、そこでは、障害をもった青少年のニードを満たすような企画がなされている。

 我々は過去11年間にわたり脳性マヒ青少年および若者のための短期合宿コースを実施しており、この間にすでに2,000名以上の若者がこれらのプログラムに参加してきた。これらのコースのほとんどは、職業能力・作業能力の評価をしたり、その後の人生計画についてカウンセリングすることを主目的としている。これらのコースの職業面について詳しく述べた論文がすでに発表されている。

 基本的には、これらすべてのコースは同じような身体的および知的能力の脳性マヒ青年に対して2週間の合宿の機会を提供している。この2週間に、初対面の人と共に社会生活をし、身辺処理の仕方、家族や教師から離れて自分で決断を下し、お互いに責任を分かち合い、活動を計画組織し、家事を手伝い、遠足や見学活動に参加する。自己を表現し、お互いに援助し合う機会が一プログラムの中にすべて盛り込まれているのではなく、それぞれのコースが特定目的に合わせて企画されるのであり、レクリエーションだけを目的としたコースもある。

 しかし、どのコースに参加するかを若者自身が決断することにより、彼らは自信をもち、どのようにすべきかを学び、その後の経験も十分に活用できるようになる。親の感想によれば、これらのコースに参加したことが少年・少女の人生の転換期となり、また住み慣れた環境を数日間離れることによっても、自己同一化プロセスをスタートするのに十分な自信を与える機会となっているようである。

 これらのコースのプログラムはある意味では付随的なものであり、本当に重要な要素はこのコースにたずさわる指導者の質と彼らの理解のレベルなのである。小グループのリーダーやスタッフはこのコースの目的を十二分に理解し、彼らは障害者のために働くのではなく、若い障害者とともに何かをするのだということを、そして時には、何もしないで後ろに引き下っていなければならないこともあることを、実践的にも情緒的にも受け入れなければならない。ヘルパーに対して「援助の手を出さないこと。プログラムを組織しすぎないこと。または全く組織しないこと」を納得させるのは非常に難しい。若者たち自身にこれらをさせるのである。例えば洗濯やじゃがいもの皮むきのような簡単な家事も自分たちで一生懸命にやらせるのである。また、障害をもたない者には、このように何もしないでただだまって見ていることに耐えられない者がいることも認めざるを得ない。自分で積極的に組織し、援助せずにはいられないヘルパーは、重度障害者や依存度の高い障害者にとって非常に必要とされるが、しかし、青少年のための短期合宿コースのスタッフとしては必ずしも最良のスタッフではない。

 我々の実施しているコースを見に来た者は、「このコースはなりゆきまかせであり、法意力に欠けており、組織化されていない」と思うかもしれない。しかしここにこそ我々のめざしているものが潜められているのである。このような面は介護スタッフには理解しがたいであろう。例えば、障害をもつ若者に身辺処理を自分でさせ、自分のベッドを自分で作らせ、寝室をきれいに整頓させる。そのように放っておいたらどうなるかを2、3日見ている。コースのスタッフは本当に必要な場合にのみ助言したり援助をするが、しかしできるだけ若者自身から援助してほしいと言わせるようにする。自分の意志から援助を決して求めようとしない者もいることがすぐに明らかになる。その場合に職員はまずやわらかに「援助を自分から求めてみたら」と助言してみたり、それでも願い出ない場合は、自分で援助を求めるように説得をする。お風呂に入る順番を決めてしまった方がずっと簡単だし、障害者が衣類をよごれたまま着ていたり、ベッドのまわりに散らかしているのをそのまま眺めているよりも、すべての衣類を一括して洗ってしまった方が楽である。しかし、そうしてしまうと若者から自主性を奪ってしまうことになるし、このような身辺処理を若者たちが自分でできるのか否かをはっきりさせることができなくなってしまう。

 このような点において短期合宿コースは長期プログラムに優る利点をもっている。参加者数がより多く、期間もより長い場合には、サービスをより良く組織し、指導しなければならない。積極的な訓練も長期プログラムの重要な一要素であり、たとえ若者が失敗したり時間の浪費に終わるとしても、若者ができるだけ自主的に行動を取れるようスタッフにも徹底させる。しかし入寮制の学校にいる子供や、恒久的ケア施設にいる大人が、お風呂にいつ入るか、お風呂に入るか入らないかをさえ選択する機会が与えられているのだろうか、と私は時々真剣に考え込んでしまう。

 これらの短期合宿コースに参加するスタッフはすべて英国脳性協会社会サービス部の職員であり、彼らの主要機能と責務は学卒者アドバイザー、評価・訓練・就職あっ旋担当官、ソーシャルワーカーたちである。これらのコースやホリデープログラムの専従スタッフは一人もおらず、どのコースのチームも学卒者アドバイザー、評価・訓練・就職あっ旋担当官、ソーシャルワーカーから構成され、セクションの長がリーダーをつとめる。スタッフはコース開催期間中参加者と寝食を共にし、最重度の障害者がいない限り、彼らはケアスタッフの役割はしない。また、英国脳性マヒ協会のクラブやホリデー担当者およびその助手(いずれも脳性マヒ者)は、参加者が自主的になり自立するように方向づけたホリデーを実施する。ホリデーによっては、非障害者は一人も参加しない。

 昨年まではこれらすべてのコースやホリデーは青少年センター、大学、ホリデーホステル、キャンプ場、船の上などで開催されていたが、これらの施設のほとんどは通常障害をもたない若者たちによって利用されている。そのうちのいくつかは障害者にも利用できる設計になっている。現在、英国脳性マヒ協会はロンドン中心部に家族サービス・評価センター(Family Services and Assessment Centre)をもっているので、これらのコースやホリデーのいくつかはこのセンターにおいて実施されており、このセンターを使用しない場合には、英国中の各種施設が会場として利用されている。ロンドンに新しい施設が設置されたために、コースの進め方を変えたり、特殊グループを対象とした新しいタイプの短期合宿コースを導入できるようになった。

 見学に来た方々にこれら短期合宿コースの意義を知ってもらうことは非常に難しい。見学者たちは実際に行われている活動を自分の目で見たいのである。しかし見るべきものはとりたててないのである。とても静かでかつ思慮深い見学者でも、見学者が入ってくることによって合宿者のグループダイナミクスを完全に変えてしまうこともあるのである。

 もう一つの問題はスタッフの時間的限界によるのである。各コースにはほんの少数のスタッフしか配置していないので、スタッフの第一義的責任は若い対象者に向けられており、それもほんの限られた時間に若者と一緒にいるだけである。したがって見学者と活動について話し合う時間もないのである。短期合宿プログラムをじっくりと見学したいという方々のために我々が何もしてあげられない事情を理解していただきたい。我々の経験についてはいくらでも説明するし、我々がかかえている問題点についても話し合う用意がある。しかし我々は障害をもった方々とスタッフを、次から次へとやってくる見学者から守ってあげなければならないことを理解していただきたいのである。

 私が既に述べた通り、プログラムの内容は大して重要ではない。我々がめざしているのは若者に対して、個人としておよび集団として、各種の経験をさせることであり、参加者同士がお互いに意見を交換し合い、同年齢層の者たちと会い、大人としての場面で新たな人間関係をつくり、新たな方法で大人との接し方を学ぶ機会を与えることである。これらのコースで働いているスタッフの役割を参加者に理解してもらうのは難しい。スタッフは彼らの親ではないし、また教師でもない。我我は介護人(house-parent)と同じ方法で彼らを援助しない。また我々は家庭訪問をしたり、1時間事務所で面接したりするソーシャルワーカーや職業カウンセラーでもない。

 自分に注意を向けてくれとか、援助をしてほしいと要求を強く出す者がいるが、そのような人は毎回1グループに少なくとも1名か2名はおり、スタッフが使用している部屋のドアあたりにいつもうろうろしている。時間の許す限り我々はこのような若者に対して、「大人をあてにしないこと、できるだけ自分の力や友達の力を活用すること」などを指導しているが、しかし、2、3日間の合宿で、彼らの態度を変えさせるのは無理である。Dene Parkにおける1年間のコースにおいては、このような依存性の高い者の成熟化に効果をあげている。

 すでに概説したロンドンとスコットランドにおける2調査結果は、多くの脳性マヒ青少年の社会生活が貧困であることを指摘しており、彼らは家族や家庭以外での人間関係をほとんどもっていないことが強調されている。私は英国脳性マヒ協会で過去12年間働いており、その間、数千名に及ぶ脳性マヒ青少年と会う機会を持ってきたが、この二つの調査結果は確かにその通りだと思う。しかし、脳性マヒ青少年の社会的状況は、同年齢層の障害を持たない青少年たちとそれ程決定的に異なるものではないとも考えている。しかしながら、普通の若者は正常な人間閣係や、健康的な反抗などを通して得られる基本的経験を持てるのに、障害をもった若者にそのような体験をする場が与えられていない場合、それをはっきりとさせなければならない。障害をもった若者が広範囲にわたる人間関係や個人的挑戦を経験できるような機会を我々は用意しなければならないが、しかし何よりも重要なことは、彼らが適切な市民に成長できるよう、そのための時間と適切な枠組を提供しなければならないことであろう。

要約

1.障害青年の大多数は、大人として十分に成長するために、正規教育プログラムのほかに特別の援助を必要としている。

2.短期合宿コースは成熟化を助け、社会的自立を促進するための機会を与える。プログラム、その設定の場およびプログラムの内容は付随的なものであるが、スタッフの質や理解の程度が基本的に重要なのである。

3.脳性マヒにおける身体障害や知能障害は広範囲にわたっているが、他人の援助をあてにしている若者は決して身体的、社会的、経済的自立を達成できないであろう。しかしながら、これらの若者の多くは、思考上の自立、自分で決断を下すこと、個性を伸ばし、自ら選択する機会を与えられることにより、成熟が促進されるのである。

4.一般市民の態度や障害者のために働いている者の態度を変えなければならない。知能が高い者があたかも自分で権利をもたない子供や知能の低い者のように扱われていることが多い。まわりの人による障害者の扱い方がその障害者に基本的な影響をもたらすのであり、もし我々が障害者を第3級の市民として扱うなら、障害者は自分自身を第3級の市民と思いこみ、そのように振る舞うようになるであろう。

5.しばしば、障害者の身体的および知能的障害を補うために、非障害者は不幸な人のために何かしてあげなくてはならないと思いがちである。もし障害者が大人として完全に成熟しているならば、彼らも他人に対して何かを提供でき、他人の問題を理解し、それを分かち合えるようにならなくてはいけない。最小限の健常者ヘルパーのいる中で同年齢層の仲間と共に生活することにより、自分たちのペースで進むことができ、同年齢層の健常者や援助者に対して過度の劣等感をいだかないような環境の中で、お互いに助け合い、成長することができる。障害をもった青少年は常に他人から何かをしてもらう立場にあり、自分のまわりにいる者の問題やニードに気づかないでいる。そのような“専門的不具者(professional cripples)”にしてしまう前に、彼らが他人に対しても責任感をもてるような人になるように、援助をすることが特に重要である。

 Mr. Paul Huntという重度障害者の言葉を引用することにより、私の講演のしめくくりとしたい。この引用文は「らく印-障害者の経験」というタイトルの随筆に出ていたものであり、私は1967年にプラハで開催された世界リハビリテーション会議での講演においてもこれを引用したが、私の講演をしめくくるのにこれより良い方法が思いあたらないので、再度これを引用させていただきたい。

 「我々は施しよりももっと深いものを求めたい。我々は施しをもっと高いものに高める力がほしい。ただ上からのお恵み(物質的およびその他の)でなく、自己を与えてほしい。我々のように外見上“劣等”な者を、あなた方と平等な人として愛し尊敬するためには、真実の謙虚さと寛大さが必要である。このように扱ってほしいと願うことは、すべての者は人間として認められなければならないという真実に基づくものであると、私は信じている。それゆえにここで特に強調したいのである。

 しかし、そのような態度を身につけ維持することは、ある人々に深く根づいている衝動や偏見に反することかもしれない。しかし地域社会の人々が最も恵まれない市民とどのような人間関係を保っているかが、その地域社会の健全性を計る尺度ではないだろうか。」

引用文献 略

英国脳性マヒ協会(The Spastic Society)のソーシャルワーカー。本論文は1969年、アイルランドのダブリンで、「リハビリテーションへのコミュニティ責任」というテーマに基づいて開催された第11回国際障害者リハビリテーション協会世界会議において「障害を持つ青少年のための社会的・心理的施策」分科会で発表されたものである。
**日本女子大学大学院生


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1978年7月(第28号)28頁~37頁

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