特集/第7回 アジア・太平洋地域リハビリテーション会議 障害児のソーシャルケースワーク(援助)

特集/第7回 アジア・太平洋地域リハビリテーション会議

障害児のソーシャルケースワーク(援助)

大塚隆二*

飯笹義彦**

はじめに

 障害児療育の理念と施策については、1947年に制定された児童福祉法によって定められた。しかし、戦後の社会的、経済的混乱期においては、地域社会の中には障害児の療育の場は皆無であり、したがって施設に収容して療育を実施することに主眼がおかれた。例えば、1961年、それまで社会的には放置の状態におかれていた、いわゆる重症心身障害児のための施設、島田療育園が民間有志の人々の努力で開園したが、その背景には1963年、「中央公論」に発表された水上勉の「拝啓総理大臣殿」の一文が新聞紙上にも取り上げられ、社会的に放置され、全面に父母・家族の責任の下で重症児の療育がなされなければならない状況を批判したものであり、重症心身障害児療育が社会問題化の契機になり、以後施設整備が急速に進んだ。

 他方、障害児殺しや、障害児を道連れにした親子心中事件が起こるたびに、世論は障害児を療育する父母・家族の精神的、肉体的労苦に対して同情し、障害児福祉対策の遅れ、特に“施設”の不足を批判する声が起こったことも忘れることはできない。

 このように、肢体不自由児施設や重症心身障害児施設中心の療育が進められてきたのではあるが、時代が推移するにつれ従来の施設療育中心の動きについての強い疑問、反省とともに在宅障害児に対する療育、福祉対策の強化の声が強くなってきた。このことは、従来の施設は一部の施設を除き、市街地から遠く離れた交通の不便な場所に建設される傾向があり、地域に生活する障害児家族が日常的に利用しにくいこと、児童の生活面においては管理上、入園児童の個々のニードに応じた個別的対応が困難であり、特に児童の入園期間が長ければ長いほど児童の社会的経験は狭められ、結果的に社会適応能力の低下、そして社会参加への遅れの原因にもなりかねない理由からである(もちろん、児童によっては集団生活の効果があることも否定はできない)。また、家族とともに生活できない障害児は(父母の病気、死亡、経済的困難、父母・家族の障害に対する理解、受容に問題がある場合)、父母・家族との交流も少なく、ついには父母・家族の間に“障害児の仲間と施設で生活することが一番幸福である”とか、“1人の子どものために家族全員が犠牲になることはできない”との考え方になりかねない 。このような父母・家族をもつ障害児が引き起こす情緒不安定のための問題行動も多い。

 近年、特に問題として指摘されているもののひとつとして、障害児(者)に対する社会的理解の不足がある。障害児に対しての理解の遅れ、または在宅障害児福祉対策の遅れた原因のひとつとして、一般の社会から障害児を隔離してきた施策に対する批判である。このことは、我が国の障害児療育の歩みから考え、施設療育中心とならざるを得なかったとはいえ、必らずしも無関係であったとはいえない側面をもつ課題として認識する必要がある。

Ⅰ ケース紹介

ケースA 氏名○沢○子(以下、T子と略す)

 昭和42年生まれ 診断:先天性骨形成不全症

1)入園までの経過

 正常満期産、出生時体重3400g、3人兄弟の二番目。離乳開始時期は普通だったが、体重が増えず父母は心配して時々近医を訪ね栄養指導を受けた。つかまり立ち12か月ころ、ひとり歩き1歳1か月、歩容がおかしいので1歳8か月ころG大学病院で受診。種々の検査を受けた後、“骨が折れやすい病気なので要注意”といわれた。3歳11か月に最初の骨折(右大腿部)、娘の悲鳴に近い泣き声に驚いた父母は日ごろ受診している近くのC医院に急ぎ受診、始めて骨折の治療を受ける。以後、4歳時2回、5歳時3回、計6回(右大腿部、左上腕部)の骨折を繰り返しその都度C医院で治療を受けた。T子が6歳の春を迎えるころ、就学準備のため松葉杖歩行の訓練を開始。

 他方、T子の就学については父母は特に心配し、教育委員会に再々出向き相談した結果、父母の希望(普通校では危険、生徒数も少なく先生の数も普通校に比べ多い肢体不自由児養護学校入学)が関係者の意見と一致し、正式に肢体不自由児養護学校への入学が決定した。

 しかし、入学式に出席した後1週間目にT子は再び家で転倒して7回目の骨折を起こした。これを聞いた養護学校側もT子の身体の状況が予想外に危険であることを知り、T子の身体的状況が改善するまで就学猶予期間を与え、訓練に励むよう強く父母へ働きかけた。他方、父母側も再々のT子の骨折に大きな不安を抱いていたので、学校側の勧めに応じた。以後のT子の生活は、骨折を心配する父母の下で、身体をなるべく動かさない安静を強いられる生活が続いた。

 T子10歳のとき、市に訪問学級の制度が発足し、T子は週2回各2時間の授業が受けられることになった。そして、T子は文字の読み書きを学習し、読書を楽しむ生活を送ることができるようになった。そして12歳のとき、T子が書いた作文が県知事賞を受賞したことを契機に、父母および訪問教師の気持ちの中に“T子にもっと学習の機会を与えてやりたい”、“友達を作ってやりたい”との希望が生まれ、児童相談所を訪問し相談した結果、T子は当センターへ紹介され受診した。以下は、T子の当センターの入園目的の概略である。

(1)骨折の予防と併行して各筋力強化、歩行能力の向上

(2)学校教育

(3)集団生活経験の付与、社会性の向上

(4)本人および父母の障害に対する理解と受容

(5)地域の関係機関(教育、福祉)の障害理解とT子の指導、援助の方法確立

 特にソーシャルワーカーである私達の役割としては、①他の園内関係職員(医療、生活)とともに、父母がT子の障害について正しく理解し、T子の養育態度ができるように援助すること。②将来の退園にさいしては訪問学級ではなく、学校へ通学できるように地域の教育・福祉関係者の理解と協力体制を構築する、などの点にあった。

2)入園後の経過

(1)医療面

 入園当所のT子は、日常的には車イスを使用、主としてPT訓練を受け、各種の筋力強化の訓練を受けた。入園後、幸いにも骨折は右大腿部に軽度の骨折が一度あっただけですみ、約半年後には短下肢装具を使用しての立位訓練、松葉杖歩行訓練へと進んだ。そして、約8か月後の退園の時期には、長距離は車イスを使用するが、松葉杖歩行の実用性を獲得した。階段昇降も可能となった。

(2)教育面

 入園後、学籍どおり小学校6年生のクラスへ転入学した。精神発達検査、知的にはほぼ正常、ただし数量の計算、図形、または一般的知識に欠けるなど、学力にはアンバランスがみられた。しかし、その後の学習の結果、国語、社会については著しい進歩をみせた。

(3)生活面

 入園当初のT子は、他者、特に大人に対しては寡黙で表情に乏しく、また子ども集団の中ではおとなしく目立たない存在であった。しかし、次第に子ども集団の中では明るさを取り戻し、人の話をよく聞く優しい人柄ということもあって、友達の数も増えていった。日常生活動作は、すべて自立して問題がなかった。

(4)父母について

 訓練と教育を受けられ、友達もできることの期待が大きい反面、終始骨折の心配は離れなかった。しかし、障害のある子はT子だけではないこと、その子ども達が障害を忘れているかのように明るいことなどから、精神的に励まされた。また医師をはじめPTより病気の性質、将来の見通し、訓練の目的などについて具体的に説明を受けてからは次第に骨折の心配はあるにしても、必要以上の心配をするよりも身体的、精神的に強くする配慮の大切さを知ったとも語った。

 他方、ワーカーから紹介を受けたD君(退園児、先天性骨形成不全症、普通小学校3年在学中)の母からの話の影響もあり、退園後の進路についても積極的に取り組む姿勢を示した。

3)退園準備について

 入園後のT子およびその父母の変化に伴い、退園後、進路として園内関係職員の一致した意見は、普通校へ転校することであった。T子の普通校への入学については、T子自身の考え、希望を取り入れながら、父母との話し合いを重ね、その意志を確認したうえで地域関係機関との相談が開始された。T子入園6か月後の11月上旬、父母より地元の教育委員会と普通中学校就学の希望がだされた。他方、T子を担当する医師、PT、教諭、看護婦、保母、そしてワーカーのT子に関する紹介状と就学についての意見書を同教育委員会、および児童相談所へ送付した。以後、T子の父母は数回の教育相談を重ねた。教育委員会(就学指導委員会)では、T子の性格的明るさ、努力する態度、学習意欲の豊かさを認めながらも“普通校での骨折の危険が強いこと、その責任のあり方”、“健康児との生活が、T子の性格をゆがめないか、劣等感の助長”などの心配が大きく、なかなか結論をだすことができなかった。しかし、2月下旬になって市の嘱託医の判定で了解を得られれば、中学校への受け入れを認めるとの最終案がまとまった。3月上旬、T子、父母、児童相談所職員が同行してK医師で受診、当園の医師の紹介状で表明した意見が了解され、T子の中学校就学が決定した。

4)退園後

 T子は、中学校登下校には車イスを使用し、学校内では松葉杖歩行で移動、学習に励んでいる。交友関係も良好、幸いにも骨折は起こしていない。なお、T子は6か月ごとに定期検診に来園している。

ケースB 氏名:○沢○夫(以下、M夫と略す)

 昭和53年生まれ。診断:脳性マヒ

1)受診までの経過

 M夫は、早産、出生時体重1350g、父親(34歳・飲食業自営)、母親(32歳・美容室経営)の次男としてG病院にて出生した。出生後(3か月間、保育器の中で過ごす)約4か月G病院で入院生活を送った。昭和55年1月、G病院より紹介され当センター受診。

 受診時の状況は、寝返り、座位保持、四つ這い、不安定ではあるがつかまり立ちが可能であった。他方、上肢の機能、言語発達とも大きな問題はなしとされた。診察の結果、直ちに訓練(ボイタ法)の必要ありと診断され入院(母子入園)を勧められた。しかし、父親が自宅と離れた所で飲食店を経営し、かつ経営状態が不良で手が放せないこと、母親も兄の養育と仕事の関係で手が放せないなどの理由で母子入園は難しく、その代わりに外来訓練のプログラムが母親へ提案された。以後、M夫の当センターでの外来訓練が開始された。

 昭和56年2月、M夫の担当PTより母親への面接要請があった。以下がその理由である。

(1)決められた訓練日に来園しないため、M夫に対して十分な訓練ができない。また、母親指導もできない、(2)理由としては、父親が無理解で協力を得られない。母親は家業と兄、M夫の養育で忙しいらしい。また経済的にも問題が多いらしい。以上の情報に基づき、1週間後、M夫の母親と面接する。以下は面接時の母親の話の要約である。

●父親の協力はほとんど得られない。父親の経営する店が赤字続きで、母韓の収入から赤字を補っている。そのためもあり、美容室の仕事はどうしても続けなくてはならない。兄やM夫の養育も十分にできない現状である。

●M夫の訓練については、その必要性はわかっている。PTに心配をかけ申し訳なく思っている。しかし、家庭の状況を考えれば仕方がない。

●母親自身については、自分は子どもにとってよい母親ではない。もともと子ども好きではなかったほうだ。結婚せず仕事で生きたほうがよかったと考える日も多い。

 要約は以上のような話であり、母親の表情は暗く、M夫の訓練に対しても投げやりな態度ともとれる話であった。

 以後、M夫の母親との面接は、以下の点について継続した。(計7回)

①母親自身が問題を現実的に受けとめ、問題解決の方法を見いだせるように援助すること。

②母親自身が抱いているM夫に対する罪障感、または自暴自棄的な感情を克服できるように、精神的支持を続けること。

③現在利用できる社会福祉制度の利用。

 なお、相談開始後3か月目にM夫の母親は父親との協議離婚が成立した。その間、当園関係職員(医師、PT)および児童福祉司と以下の問題についての検討と指導(援助)方針が決定された。

①保育園入園─母子家庭であるので入園の対象と考えられるが、欠員がないこと。さらに障害児の受け入れが困難であるので緊急に保育園入園は不可能。

②ホームヘルパーの派遣─週2日間各半日のみでは問題の解決には遠い。しかもヘルパーの人数が少なく対応は難しい。

③経済的援助─身体障害者手帳の申請と障害児福祉手当てなど福祉制度を利用すること。

④M夫の訓練について─早期の継続的訓練および保育が必要であるが、現状では最低の訓練時間もとれない。

 当園の単独入園も考えられるが、幼児期の入園はM夫の心理面、または精神発達の面で好ましくない。しかも、母親の性格行動面から考え、M夫に対する感情(興味、感心、愛情)の低下が好ましくない方向へ進まないか。

 以上の点を検討した結果、M夫の単独入園を決定した。入園決定にさいして前記④の点について母親と相談を重ねた結果、M夫の週末帰省を母親が努力することになった。

2)入園後の経過

 M夫は初めての集団生活ではあったが、特に大きな問題も起こさず、生活、機能訓練および保育指導を受けて、毎日元気に過ごしている。他方、母親は仕事が特別多忙な日以外は、週末のM夫の外泊を実行している。また、母親の表情も明るさを取り戻し、近い将来、兄とM夫とともに生活できるような仕事に代わるべく計画を立てている。

Ⅱ 考察

 ケースAについては、T子12歳(小学校6年)まで、医療と限られた教育(教育とは教科学習だけではない)しか受けられず、社会的に放置されたといっても過言ではない。1981年(昭和56年)は国際障害者年として官公民一体となった運動が展開されたことは記憶に新しい。

 国際障害者年では、個人の特質である“身体的・精神的不全(impairment)”と、それによって引き起こされる機能的支障である“障害・能力不全(disability)”そして、能力不全の社会的結果である“不利(handicap)”の間には区別があることを明確にしたうえで、障害者の完全参加と平等をテーマにした運動であった。

 T子のケースは、機能不全のほかに先天的に骨折しやすいということもあり、父母および関係者の心配することは理解できるがT子に対しての精神的、社会的、教育的保障は不十分であったといえる。

 その原因として考えられるのは、①父母に対してT子の障害についての正しい理解と現実的な受け入れが適切に指導(援助)できなかったこと、②医療、福祉、教育関係者が骨形成不全症児の療育の在り方について十分な情報交換をせず、関係者が各々の立場と判断でT子および父母への指導にあたったこと、③行政的には、在宅障害児に対して特に教育保障が十分でないこと、などの問題が指摘できる。

 特に、普通校への入学を希望する障害児(父母)に対しての学校側(教育委員会)の姿勢は厳しく、上述の能力不全を克服し、社会的ハンディキャップに陥らないよう努力する障害児とその家族にとっては狭き門であり、今後は療育関係者相互の努力とともに、地域医療、教育、福祉関係者との連絡を密にし、相互理解を保たなければならない。

 ケースBについては、夫婦間の問題がM夫の出生に伴い憎悪したケースである。母親の葛藤は、母親である責任と職業人として生きたい、ひとりの女性の悩みであった。しかし、現在の医療、福祉の現状は、障害児の療育には父母、特に母親の力なくしては難しい。しかも養育困難、また保育に欠ける障害児の保育所の利用は、種々の制限があり児童福祉法または児童憲章で保障されている児童の権利は守られていないのが現状である。

 したがって、M夫の場合は施設入所を配慮する必要があった。他方、訓練については地域ごとに十分な通園施設がない現在、施設利用も積極的に活用する必要があると考えられるが、乳幼児期からの単独入園については、家族との交流は十分配慮されなければならない。

おわりに

 障害児の療育は、医療、教育、生活、福祉関係者、関係機関とのチームワークが重要であることはいうまでもない。我々医療や公衆衛生の領域で働くMSWもこのチームの一員として初めてその役割が果たせることを再認識しておきたい。

 本稿については、心身障害児総合医療療育センター福祉相談科長大塚隆二氏が『小児看護』1982年3月号(へるす出版)に発表した原稿を抜粋し、1983年4月、アジア・太平洋リハビリテーション会議にて発表したものである。


アジア・太平洋リハビリテーション参加国人員
国名 参加人員
1 FRANCE 2
2 PAKISTAN 2
3 SRI LANKA 5
4 BRUNEI 3
5 THAILAND 10
6 INDONESIA 22
7 SINGAPORE 9
8 NEW ZEALAND 13
9 HONG KONG 31
10 PHILIPPINES 7
11 INDIA 14
12 AUSTRALIA 21
13 GUAM 1
14 INTERNATIONAL AGENCIES 5
15 JAPAN 55
16 AUSTRIA 2
17 SWEDEN 3
18 U.S.A. 5
19 MACAO 2
20 ENGLAND 1
21 NIGERIA 1
22 SOUTH KOREA 2
23 PAPUA NEW GUINEA 1
24 REPUBLIC OF CHINA 19
25 SAUDI ARABIA 6
26 WEST GERMANY 1
27 FIJI 1
28 NEPAL 1
29 ALGERIA 1
30 MALAYSIA 125

*心身障害児総合医療療育センター
**日本肢体不自由児協会


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1983年7月(第43号)20頁~24頁

menu