特集/第7回 アジア・太平洋地域リハビリテーション会議 差別の痛み

特集/第7回 アジア・太平洋地域リハビリテーション会議

差別の痛み

北原一身*

 日頃日常事務処理に忙殺され、自分の手掛けている仕事の意味や効果、他の関係者の仕事との関係など、よく問うてみる暇のないままに毎日が過ぎてゆく筆者などにとっては、国際会議は、それを問うて見る絶好のチャンスである。それに参加することで、日常業務から隔離される。各問題分野について、少しづつニュアンスの違ったさまざまな扱い方に接しられることで、豊かな刺激に事欠かない。

 コミュニティ・ベイスのなどと日頃言われても、そうできれば復帰すべき社会の近くでのリハ活動には、それだけいっそう利点があるという側面だけに目がゆきがちだった。つまりナショナルベースで考えるのよりは、さらに問題を発展させた考え方だと単純に思い込んで過ぎてきたが、国民の大多数は都市を離れたコミュニティに住み、都市施設には近より難いなどと言われると、あっそうかと、問題のその側面を忘れかけていたことに、改めて気づかされる。

 筆者の職場は零細寄付金を障害者福祉へと、不特定多数に呼び掛け、寄せられたものの有効分野での活用を考えるのが基本であるから、今会議のどの分科会をとっても、筆者は門外漢のしろうとである。どの分野の専門家にとっても自明のことであっても、筆者には新しく蒙を聞かれた想いのする問題もある。たとえば予防の問題である。それに先天的異常に医学の進歩を武器に挑むという側面がないわけではなかろうけれど、この分野での議論の大部分はワクチン使用や早期発見を可能にする社会体制の整備という、いわゆるアジア的貧困の問題であることを教えられる。

 豊かな社会の言葉に酔って、いわゆる先進国社会の経済的達成を過大に評価してはいけない。第一段階のテークオフで新しい展望が開けたことは十分に評価しなければならないが、完全参加と平等を可能にする体制を今の方向で求めるなら、さらに第2次、第3次のテークオフが必要で、それには今の競争企業社会の活力にいっそう依存せざるを得ないとする現状の把握の仕方、それに反対の立場、年金を中心とした高齢者福祉や、中曽根内閣の福祉切捨論議を日頃のマスコミで見聞していると、貧しい日本の今後を考える為の合意の基盤の未成熟を改めて提示されている想いがする。今度日本の代表団の皆様のうち2、3の方から、ご注意が頂けた。日本は既に身障者福祉の成熟社会である。筆者の協会にご芳志を寄せる皆様の中には、海外での活用を願ってのものもあるのではないかと。データに基づいてその有無を論議できるほど、成熟したデータは、今は求めても入手不能だが、貧乏な日本、貧乏な協会の中で、その問題もつめてゆかねばならないことは確かである。

 筆者の所属する協会の基本目的は、身障者差別のない社会を目指す啓蒙活動の実施である。福祉活動資金の造成は、いわば結果である。協会の目的に対する賛同をまずお願いする。賛同頂けるだけに終わっても、それは一つの成果である。もし強く賛同頂けるのであれば、その運動に対する支援協力の意味で、何がしかの金銭的負担もお願いしたい。それが協会の基金活動の本旨であるが、本旨貫徹のためには差別の厚い壁を肉体的実感として強く意識していること、その厚い壁をいつかは突破できる確信を堅持すること、突破の具体的方策の選択には、差別がどのような形で現れても、それを差別と指摘できる鋭敏な感覚を磨くことなど、いずれも不可欠の前提条件である。

 いわゆる健常者の差別認知の度合いは、差別の重圧を全身で受けとめて苦闘を続けている障害者の戦列から見れば、所詮は甘さだらけと評価されて当然であろうが、日常生活ではその評価はわれわれの耳にとどきにくい。戦列のはしくれに連るものも、枯木も山の賑いと寛大に包みこむのがエチケットである。よほど利害の対立などさしせまった場におかれない限り、甘さの指摘が欲しいなど言って見てもそれこそ甘えである。

 問題の重大さを訴える衷心からの声が、多少とも甘く構えのある誰の耳にも届くようにする。それこそが大きな会議の最大の利点と筆者は思う。今回も自分の感覚のなまりを強く指摘する幾つかのスピーチに心洗われる想いであった。

1.“あそこポリオがゆく”“第2号室の第1ベッドがきた”などと言うが、番号や病名は私ではない。……ちえおくれの共同作業所に2つ3つゆけばすぐわかることだが、クライエントが機械ロボットと余り変わらぬ様子で、しつけられた動物のように並んでいる所もあれば、同じ作業を品位も活気もそなえた人間としてやっている所もある。入所者のIQの違いからこうなっているのではない。スタッフの社会的人間的IQの差から来ているのである。

2.(復帰を妨げているものは)インフェリオリティと人は言う。確かにそれはあるし、耐えねばならぬ障壁の制約を考えればあって当然である。弱者と扱われることに適応するにはインフェリオリティを身につけねばならぬ。人は笑いものにし、あわれみ、どなりつけ、顔をそむけ、あざける。毎日毎日、手を変え品をかえて、お前は無能だ、役立たずだ、お荷物だ、お先まっ暗だと言いきかせる。

3.昔からわれわれには創造の才は認められていない。耐えて、楽しげで、言われたとおりにし、じゃまにならぬよう、受け身で柔順で、静かに人生の本流を離れた場所にいるべきものとされている。

4.障害のある人も、われわれと同じように何でもでき、どこへでも行け、働き遊ぶことができなければ間違いだと言っているだけでは駄目であなた方にはいろいろ制約がある。われわれはその障壁を除くのに、何がしてあげられるだろうか、どこへでも行き何でもするためには、あなたにはどういう訓線や補装具がいるのだろうか、と社会が感じ言えなくてはいけない。

5.われわれは永い間、こわれもの注意の荷札を首に下げて暮らしてきた。こわれものとつき合う責任など誰もとりたくない。誰もこわれものに仕事のじゃまはされたくない。この見えない荷札をひきちぎる路は一つしかない。それは自信と誇りを持ち、人に頼らず、同等に働き、人生の本流にさをさす身障者の姿が、世界いずこの地にも見られるようにすることだ。

 以上ロナルド神父のスピーチからである。永井博士の講演にも多く示唆されるところがあったが、本誌に掲載されているので引用は避ける。会議開催地はまだ車優先社会である。車イスの会議参加者が道路横断する時には、われわれが廻りをとりかこんで安全を守る。その群のもう一つ外には、好奇の目をそばだてたマレーシアの人達の人だかりがあって、交通がとまる。永井氏の指摘された1964年のパラリンピックの話が立場を変えて今の世の中で見られる。パラリンピックの1964年は筆者所属協会創始の年でもある。

*日本チャリティ・プレート協会


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1983年7月(第43号)33頁~34頁

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