特集/第7回 アジア・太平洋地域リハビリテーション会議 女性と国際リハビリテーション

特集/第7回 アジア・太平洋地域リハビリテーション会議

女性と国際リハビリテーション

Women and International Rehabilitation

Danise Tete*

小野有紀子**

 

序章

 全世界の女性の3分の2が、アジア、アフリカ、そしてラテン・アメリカ諸国に暮らしている。その文化、生活状態、そして環境は場所により異なっていても、彼女たちは同じように政治的、経済的に不利な立場に置かれている。

 女性の貧困と低い地位が、障害の主たる原因となっている。全世界の障害者の80%が住む発展途上国において、障害を生む主たる原因の1つは、母親たちや子供、特に少女たちの栄養不足にある。1981年の国際労働機関の報告が示しているように、この悪循環は世界のある地域では、女の赤ん坊には父親や兄弟が残した食物しか与えられないという事実により、さらに深まっている。このような、文化的習慣は、その年の収獲が悪く、食物は若く健康な者のみが受けるに値するような時、早く年をとる傾向にある障害女性にはより一層重くのしかかる。

 社会的に見ても、多くの女性はその人生において、男性に比べて、多くを望まないように、サービスを行う種類の仕事や活動で満足するようにと、家族や社会によって仕向けられてきている。女性に対する差別的な壁は、ほとんどすべての文化に存在する。このような根の深い伝統的態度は、自己進歩しようとする女性の機会を限定してしまい、人間社会から女性の発展と公的サービスへの最大限の貢献を奪ってしまう。

 文盲や貧困の問題に加えて、障害を持っているということは、世界の多くの女性にとって打ち勝ちがたい障壁となるかもしれない。これは、資源が非常に限られており、障害者にはほとんど何の援助もないような発展途上国に住む女性については特にそう言える。世界中の障害を持つ多くの女性が幾つかの分野において差別されており、その1つひとつが、彼女たちが経済、社会、政治的生活に参加すること、そして教育を受けることの選択と機会を制限してしまっている。

 障害を持つ女性と国々における彼女たちの地位について、というテーマに関する参考文献や研究データが非常に少ないがために、この論文は一般的な女性の国際的状況についての史実に多くを頼ったものである。この資料の不足はまた、合衆国や、そして特にラテン・アメリカ、アフリカ、アジアなどの発展途上国において、女性であり、そしてまた障害者である者には今のところ、ほとんど注意が向けられていないという仮説への論拠を強めるものと言えるであろう。

 

女性に対する機会と障壁

 1975年以降の国際的な増進にもかかわらず、依然として女性は教育の全ての水準において少数派であるし、中等教育におけるその総入学者数の割合は、いくつかの国々では、減少してきているのが現実である。

 読み書きが、多くの発展途上国における大多数の女性の第一の問題点となっている。世界の文盲の、およそ3人中2人が女性であり、文盲の母親達が次の世代の文盲者を作りあげる役割を果たしてしまっている。また、文盲ということのために女性は改革に参加することから切り離され、それが彼女たちの依存と従属を長引かせ、そしてさらには近代化が広がるにつれて、文盲は以前にも増して軽蔑されるようになり、従って女性の経済的地位と自尊は腐食されていることが認識されている。

 Harfouschによると、アラブ諸国では成人女性の約85%が現在文盲である。そしてイエメンやサウジアラビアのような国においては、女性の文盲率は98%位にものぼるかもしれない。

 産業発展国においてさえも、男性より女性の方が文盲率が高い。これは特にヨーロッパの移民労働者の間で顕著である。しかし、アメリカや他の先進国の女性にとっては、初等、中等教育への進学は、世界の他の国々に比べれば大きな問題となっていない。

 エチオピアにおいては、他のアフリカの国々と同様、適切な教育を受けられないことが、都市部での男女双方の高い失業率の主な原因の1つであると指摘されている。管理、経営技術の不足はまた、多くの高学歴女性の昇進の機会をも否定してしまっている。エチオピア女性のこの低い教育レベルは、この国の女性の進歩をひどくおさえつけてしまっている。

 加えて、多くの女性の為の職業訓練プログラムには、農業生産、あるいは雇用、収入を生む活動に関連しては、非常に限られたものしかなく、伝統的な家事労働のみに焦点があてられている。バイン(Byrne)によっても述べられているように、女性の職業教育の発展のためには、女性文盲者の根絶という以上の問題はないという事は明らかである。これは特に、ほとんどの農作業が女性によって行われているアフリカ諸国では、非常に重要な点である。用具の近代化に伴って、文盲の女性は、より高度な技術の修得はおろか、機械の使用法も、新しい用具の初歩的手引も読めず、基本的な技術試験にも受かることができない。

 アフリカは、人的資源の訓練に関しては、非常に未熟である。1975年に、アフリカの学齢人口のわずか11%が、中等学校に在籍しているにすぎなかったが、それに比べ、アジアでのそれは35%、南米では45%、そしてアメリカでは91%であった。一方、インドや中国は、それよりも多くの人口をかかえているが、アフリカ諸国に比べると、よりよい政治構造土台があるし、自国の発展への必要性に向かって着工するだけの人材基盤がある。アフリカ全土において人材資源訓練の状況が悪いとすれば、女性について言えばそれは世界中で最悪の状態であろう。アフリカサハラ地方において、女性はすべての教育水準において問題外の状態なのである。

 大変印象的な事は、実際すべての国において、もちろん正確な割合には違いはあるとしても、高等教育において女性が、同じような学問的分野に集中していることである。限られた進学率、限られた高等教育への進出、そして性別によってステレオタイプ化されたコースや専門学校への進路は、職業の差別的分離を永続させ、増大させる。それによって、事実上ほとんどの女性は男性よりも稼働能力が低くならざるを得ない。1980年のユニセフ報告がのべているように、女性は今なお教育を受ける上での不利をこうむっているのみならず、男性が、経済、社会、そして政治的な力を得るのと同等には、自分達の受けた教育を役立たせることが出来ないでいるのが現状である。

 

障害女性の教育

 多くの障害を持つ女性が、彼女たちの人権を奪われており、また社会は、彼女たちの才能と能力を奪われてしまっている。障害を持つ少女や女性の能力は、しばしば過少評価されているし、彼女たちの実際持つ可能性以下の職業活動への道しか与えられていない。

 伝統的な役割観念によって、障害を持つ女性は自分自身をささえていかなくてはならないという事実─しばしばこういうことすら考えられないのだが─のもとにおいてさえ、勉強を継続してゆくことは、あまり奨励されていない。障害を持つ娘は、他の人よりも傷つきやすいというおそれから、親の過保護が生まれ、その結果、彼女は自分自身のための社会的経済的自立の準備をする勇気を失ってしまう。

 障害を持つ女性の教育的、職業的訓練への妨害のもう1つは、適切なリハビリテーションの設備やサービスの不足である。その差は、産業発展国でも明らかにあるが、発展途上国においてはさらに大きな差がある。世界の障害者の80%は、発展途上国に住んでいるわけであるが、障害者を援助する全資源の90%は産業国家において消費されている。その結果、5%にも満たない障害児が特別なサービスを受けているにすぎない。発展途上国には、障害を持つ少女たちが利用できるリハビリテーションの施設はほとんどないという事実に加え、すべての障害者たちにとってもそれは利用し難いものである。訓練やサービスの対象者の選択は、あえて仮定するならば、生産的な労働力として長くとどまるであろう人々に味方しがちである。

 しかしそれとは対照的に、インドのオリッサやマハラストラ地方では、目に見える障害を持つ少女に対し、それが先天的なものであろうと幼児期に受けたものであろうと、もちろん義務ではないが、親は教育を受けることを奨励する。障害者に対する態度についての研究をも含めた慢性障害に関する医学生態学の調査で、オリッサとマハラストラでは目に見える障害は、少女にとって結婚への明らかな障害物と見なされていることがわかった。それ故、彼女たちは生きてゆくために必要な技術を手につけるために教育を受ける。このような中で、もし学校が遠かったり、その少女が歩くことができない場合には、その父親は、彼女を背負って学校の送り迎えをすることをもいとわない。少年の持つ障害は、必ずしも学校へ行く機会を増加させるものとはなりえず、それと対照的に、幾つかのケースにおいては、それ以上の障害物となることは興味深い点である。

 

雇用

 労働市場において女性の果たす役割の大きさに対する認識は、徐々に公的政策の土俵への道を切り開きはじめている。国内・国際会議、報告、決議、そして政策は、女性に対する雇用の新たな現実に本気で取りかかり始めている。伝統的には男性の労働分野であった場への女性の進出という最近の傾向は、西洋の産業発展国、東ヨーロッパや東アジアの共産主義国において最も進んでいる。

 発展途上国(アジアの共産圏の国々を除く)では、女性の雇用についての記録は非常に様々で、文書をもって明らかにすることは、かなり困難である。その原因の1つは、雇用統計が当てにならない点にある。労働力統計は、多くの女性労働者を見落している傾向にある。特に、自営労働者、サラリーをもらっていない労働者や無償の家庭労働者の正確な数を把握することは困難だが、この範疇に、第三世界の女性が多く含まれている。

 アフリカや南アジア、そしてほとんどのラテン・アメリカ諸国において、女性の雇用は二つの矛盾した圧力に左右されている。一方で、職種開発は労働力の増加と足並みがそろわなくなり、これが正式の雇用における競争を高めている。このような情況の下で、明らかに女性は、男性より低い賃金で雇われる以外には男性と張り合うことは出来ない。他方で、増々多くの女性が、生存ぎりぎりのための賃金を得るために、仕方なく働かなくてはならない。この融和しがたい矛盾の逃げ道とも言えるのは、正式ではない分野での自営、特に露天行商や家事奉公などの職業である。多少の改善にもかかわらず、職業の水準においては、女性労働者は、低賃金、低地位で、ほとんど昇進の機会もなく、ステレオタイプ化された仕事に集中している状態のままである。

 この否定的な圧力の中で、女性を賃金労働へとかり立てるものは、(a)男子の収入だけでは、伝統的な家庭生活を維持していくことを困難にしている世界的な経済窮境、そして(b)ある家庭においては、女性が唯一の稼ぎ手であるという事実、である。これは特に、男子が都市部へと職探しに、あるいはより良い賃金を求めて出稼ぎするアフリカ諸国やラテン・アメリカにおいて見られる現象である。

 しかし一部の女性の賃金労働従事増加の傾向に対し、まだ男性の無給の仕事や家事労働へのかかわりの増加は、それに匹敵するまでに到っていない。働く女性の圧倒的多数にとって雇用とは、賃金を得るための仕事と家庭での責任の両方を両立させる為、働く時間を延長することを意味する。この二重の負担、あるいは二重の労働時間という現象は、女性の雇用に関する問題の中でも最も重大なものである。

 ニューランド(Newland)によって指摘されているように、職業を持つ女性の有給・無給労働の二重の負担を軽減するための最も確実な方法は、多分男性が家事と育児を今迄以上に分担することであろう。キューバでは、この義務について、1975年に公布された新しい家族法の中に記されている。中華人民共和国では、国内の先導的理論的刊行物を通じて“男性と女性は家事雑用を分担すべきであると唱道することが必要である”と認めている。又、スウェーデンにおいては、この新しい姿勢は、親子関係において現われてきている。子供はもはや女性だけの独占的な関心事ではなく “親”であることが、母であることに取ってかわっている。

 地方では、食物生産はしばしば女性の仕事の主要な構成要素となっており、食品加工は、ほとんどすべてが女性によってなされている。通常、経済状態についての国内統計は、生活の糧を得るという分野における女性の労働をなおざりにしてしまっているが、これらの発展途上国では、少なくとも国内の食物生産の50%を地方の女性が担っている。

 このように、農業分野における女性の参加は、逆にその地域の発展に関連しているといえる。女性の技術に関する慣れ不慣れは、その国の社会経済的発展水準の堅実な指標である。新しい技術が紹介されていない地域では、働く女性のパーセンテージは高い。しかしながら、その国がより社会経済的に発展すれば、技術の進歩が一層の雇用の機会を増すということを強調することが大切である。

 この三大陸において、伝統的農業の形の変革と新しい技術の導入は、主として営利本位の農作物と輸出に対して行われた。これらの変革は、家庭内外での労働における、新しい性別区分を生み出している。アフリカにおいては、生活の糧を得る分野は、女性のものとして残されているが、一方で男性は、輸出農作物生産や、都市への出稼ぎ、鉱山業へと方向転換し、それによって女性の仕事での負担は、増加している。女性の仕事の本質は厳密に言って国によって、あるいは階層によって様々であるが、不変的に日常生活維持、生活の糧を得ること、そして子供や家族の世話の責任を負っていることが見うけられる。

 ほとんどの国々において、女性の教育と仕事の間に見られる関係に、二つの主要な傾向がうかがわれる。その第一は、教育水準の向上と、労働勢力参加への増大とが、明らかに相互関係にあるという肯定的な関係である。そして第二の傾向は、貧しい国の、ほとんど教育を受けていない女性は少しでも教育を受けた者よりも労働参加の割合が高いこと、しかしある一定の地点を超えると、その関係は再び肯定的なものになることを示すU型又は、不定期なカーブである。

 

雇用と障害を持つ女性

 一般的に障害者、特に女性は、しばしば失業しているか、低賃金の仕事についているかである。社会の一般的な傾向を考えてみると、重度の障害を持つ女性は、さらにそれより低い収入しかないと仮定できるであろう。さらに、幾つかの国においては、労働市場において、資格を持たない女性や、既婚女性は好まれないとされている。実際の統計は、断片的にではあるが、障害の軽い女性の雇用の型は、障害を持たない女性のものに近いことを示している。言い換えれば、労働における文化的性的役割区分は、労働市場において、損傷による障害よりも、より決定的なものなのである。障害を持つ女性は、一般的に男性の障害者よりあまり励まされもせず、訓練もされず、ほとんど機会を持たないことがわかる。

 米国における、女性と障害についての1981年のILO報告から得られたデータは、重複障害の男性と女性、そして軽い障害の男性と女性それぞれの間の雇用に関する強いコントラストを明示している。

 この調査は、91%の重度障害を持つ女性が失業しているか、労働戦力の内に入っていないことを示しており、それに比べると、重度障害男性のその数字は79%である。軽い障害を持つ女性の46%が失業しているか、労働戦力の内に入っておらず軽度障害の男性のその数字は12%である。

 障害を持つ女性の雇用に関する文章の中で、キャンプリング(Campling)は次のように述べている。“教育と同じように、理屈では女性は雇用において男性と同等の機会を持っているが、実際問題としては、労働市場において女性はしばしば差別をされている。このことは、障害を持つ女性の場合はさらにであるが、これは彼女たちは家に居ることに甘んじているからと仮定される。障害を持つ女性はまた、男性よりも障害ゆえに登録もされない傾向にある。”

 キャンプリングが指摘しているように、仕事探しの過程で、障害を持つ女性は男性よりも差別されているというのは遺憾なことである。年齢、貧困、あるいは文盲という状態が、性別と障害とに合わさって、三重の差別を生み出している。サフィリオス・ロスチャイルド(Safilios-Roschild)は次のように述べている。“多くの社会において、女性は長生きである。そしてそれ故に、老齢による慢性的障害者グループは、圧倒的に女性によって構成されることになる。我々は、世界中に技術も持たず、教育も受けていない多くの女性がいることを認識している。その多くが、限られた機会ゆえに乞食となってしまう。(P.4)”

 1975年に、ガーナ盲人福祉協会は、国内の地方の盲女性のための包括的な訓練プログラムを作り上げた。このプログラムは、職業訓練と同時に、掃除、料理、家計のやりくり、育児など、基礎的な家事訓練を含んでいた。職業訓練は、市場向きで職を得やすいように、地域的に適切なものが注意深く選択された。雇用・職業訓練は、盲女性のグループによる、あるいは村で共に働く障害者と健常者のグループによる共同組合の創設を通じて行われた。盲女性が実際に生産的、かつ彼女の家庭にとって経済的な助けとなるように、地方の共同組合は彼女たちが家庭で忙しく働いている間に、最も技術のある人が市場に商品や生産物を売りに行くことができるような形で組織された。これは、西アフリカで、市場で働く晴眼の女性が行なっていた形にならったものである。

 

サービス供給における女性の役割

 歴史を通じて、治療や医療的サービスは女性によってなされてきたということは、単純かつ、しばしば見過されている事実である。これは、女性が伝統的に家庭内で健康への配慮の提供者であったゆえである。多くの発展途上国の地方では、未だ正式な近代医療サービス組織はなく、病人の世話は、母親、叔母、祖母や、治療力があるがゆえにそこで尊敬されている者の独占的勢力範囲である。又、産業国においても、その他の所と同じく看護は家庭内でなされていることも事実である。

 女性は、事実上どの社会においても、伝統的に産婆役であり、あるいは出産介助役となってきた。1つの世代から次の世代へと引き継がれてきた技術と知識をもって、発展途上国の地方の女性は世界の赤ん坊の内の多くを世に生み出しつづけてきている。保健サービスの近代化の中で、新人採用と経営における女性差別は、同時に女性の健康に対しても差別をしていることと結論づけることも可能である。

 多くの文化の中で女性は、男性の医療スタッフに、不承不承、診察してもらっているのだ。村落において女性が、男性に診察をさせないこともあるかもしれない。

 セネガルでは、女性は、村のよい良い健康に積極的に貢献するように助産婦(経験の豊かな女性)として訓練される。昔は、伝統的な助産婦の役割は、消極的・儀式的なもので、胎盤を埋めたり、最も初歩的な子供と母親の世話をすることに限られていたが、現在行われている訓練は、出生前後の世話を含む、すべての段階にかかわるものである。資格を持つ各助産婦は、いくらかの薬と道具の入った基礎的なユニセフの産婆用具箱を受与される。

女性の健康状態

 女性も男性同様に、人類のあらゆる病気の対象範囲であるが、出産や育児という役割があるゆえ生涯を通じて彼女たちは、より広範囲に健康問題の潜在的犠牲者になってしまう。発展途上国においては、出産時の死亡は、女性の短命の主たる原因となっている。有力な証言によると、アフリカや、東南アジアの多くの地方では、毎年50万人の女性が、出産やそれに関連する事が原因となって死亡している。産業発展国においては、1976年ではその割合は、1万の出産について、約0.5件で、年々減少してきている。

 寿命に関するデータは、おそらく第三世界の女性の健康状態を測る最も有効なものであろう。平均的に見て、発展途上国の女性の寿命は、普通平均の75歳に比べ、55歳である。幾つかの国においては、女性は男性よりもその一般的社会的地位の低さゆえに高い疾病率をもつ。アフリカの4か国では、女性、特に地方の女性の健康状態は、より重い労働負担、地方の不十分な医療施設、そして仕事における技術導入の不足ゆえに、男性と比べて悪いと述べられている。又、インドにおいては次の理由により女性の健康状態は男性より悪い。その原因は、医療サービスの利用に対する無知、早婚、たび重なる出産、大変な手仕事、そして家族計画のアドバイスを求めることへの抑圧などである。

女性と障害

 ヨーロッパの国々では、障害というのは主に、身体的、心理的、知覚的、そして精神的の4つの種類に分類される。第三世界の国々では、それと対照的に障害の第一は、飢え(全障害の20%は栄養不足が原因となっている)と戦争によるものと見られている。第三世界に住む女性の精神衛生はまた、増大する家族への責任や、重労働による疲労に直面する経済的困難と栄養不良、政治的動乱、そしてそれらの国々に存在する社会階層の苦闘といっしょになって、ますます脅かされてきている。産業発展国では、ストレスによる心理的、精神治療的病気は、男性の間よりも、女性の間で、2~3倍も多く見られる。

 アジアのある地域では、新婚女性の自殺率が他の年齢層に比べてかなり高いことが知られている。インドのギィアラット州における自殺者の高さについて、詳しく調査を行った委員会によるとそれは15歳から30歳の間の女性によるものが最も高いことがわかった。

 ウォルフ(Wolf)によって述べられているように、自殺は中国の女性にとって、他に取るべき解決の道がない多くの問題に対した時の、社会的に受容された解決法である。又、日本では、障害児を持つ母親が、自分たちの持つ問題を解決できないと思うと、子供を殺し、自分も自殺をすることがある。障害児を持つことは、親にとって大きな苦しみとなり、親、特に母親にとっては大きな苦労となり、もはやそこをぬけ出す道を見い出せなくなる。彼らは、よく考えた末に自分たちのため、そして自分たちの障害を持つ子供のために死を求めるのかもしれない。何故なら、彼らはもはや生涯続く負担に耐えることが出来ないと信じ、多分そんな彼らには、ほとんど援助がなされていないからである。

 

恩典とサービス

恩典

 ほとんどの先進国において、特に福祉国家と呼ばれている所では、恩典とサービスはそれを必要とするすべての人に与えられている。たとえばスウェーデンは、1974年1月1日から、出産休暇を親業休暇へと変更した。子供が生まれると、母親同様、父親も新生児の世話をし、より良い一家庭を作り上げるために、6か月の有給休暇をとる資格がある。働く女性に関するILOの協定を支持してきているいくつかの先進国では、12週間の出産休暇のような恩典を規定している。つまり出産前の6週間と出産後の6週間である。この協定はまた、働く女性に、30分間の有給の育児休憩をとることを認める授乳恩典を制定している。

 中国では、生理中、妊振中あるいは出産・子育て中の女性労働者の保護を認め、実施している。女性は56日分の有給休暇を与えられ、加えて子供が乳離れするまでの育児休暇を与えられる。又、妊娠中の、あるいは生理中の女性を、重労働や水田作業のような水の中で行う仕事から免除することなどが考慮されている。特殊な身体状態にある女性、特に地方の田園で働く女性を保護することは、重要なことと考えられている。

 ILOは、東欧諸国(たとえば、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ソ連など)の社会下部構造の役割について調査し、これら調査の行われたすべての国々では働く母親のために子供の世話を保証するサービスや設備が確立している事がわかった。一般的にこれらのサービスは、労働組合や国によって十分に財政援助がなされている。

 ユーゴスラビアでは、女性は男性よりも有利な条件で老齢年金を受ける資格を持っている。20年間掛金を支払った後、女性は55歳で老齢年金をもらうことができるが、男性は60歳からである。重度な障害の場合の障害年金の受給資格は、たとえばその人が、以前の仕事、あるいは新しい仕事を続けることが完全に不可能となったとき、そしてその人の状態が職業リハビリテーションを通じて進歩しない時である。

 一般的な性的役割分担のステレオタイプ化ゆえに、重度の障害を持つ多くの未婚女性、離婚経験のある女性、そして夫を亡くした女性や、扶養すべき子供のいる家の長である女性は、しばしぱ男性が受けているのに比べると障害関係の恩典を受けていない。この傾向は、女性の約3分の1が、一家の長である発展途上国にとっては、重大な意味を持つ。女性が等しく、身体的リハビリテーション同様、職業リハビリテーションを受けられるようにすることや、家庭の長である重度障害女性に、重度障害男性が受けるのと同じ水準の公的援助を与える必要性は大である。すべての障害を持つ女性が、仕事をやめて経済的に夫に依存するという意見を持ったり、それを好んでいるというわけではない。多くの障害女性が、夫のあるなしにかかわらず、家族や子供のすべての経済的責任を持たなくてはならないのである。

サービス

 発展途上国において、保健サービスの普及には、都会においてや地方において、様々な社会経済水準、そして多くの民族、又は少数グループの中で大きな差がある。多くの国が、少数派やより危険性を持つグループや、地方に対するプログラムを通じて、この差を縮める努力をしており、移動診療を行ったり、伝統的な産婆や地方の保健ワーカーや土着の保健ワーカーなどの訓練を行うなど刷新的なアプローチを取り入れている。しかしながら、妊婦や子供の保健プログラムは別として、ほとんどの国が、女性を対象としたプログラムを持ってはいない。

 有力な証言は、リハビリテーションサービスの利用の難易に関して、スウェーデンや合衆国のような高度に発達したサービスを持つ社会においてすら、深刻な問題があることを指摘している。リハビリテーションサービスにおいて、利益を生み出す雇用にもどる可能性が、決定的な基準である限り、ほとんどの障害を持つ女性は、取り残されるであろう。その理由は、女性は、たとえ障害を持つ以前に働いていても、結婚している多くの女性の場合は、もとの仕事に戻るのでなく、かわりに家事労働に引きさがってしまうと報告されるために、役に立たないリハビリテーションの冒険と見なされているのである。この“利益を生み出す雇用に戻る可能性”という基準は、これらのプログラムの完全なる一部分として、リハビリテーションプログラムにおける性差別を広げている。さらに、家事と言うのは、広い、そして多かれ少なかれ融通のきくような仕事や責任を必然的に伴なうゆえに、たとえ身体的リハビリテーションサービスを受けていない重度の障害を持つ女性でも、不必要な痛みや限界を感じつつ行うとしても、これらの仕事のいくつかを時には行うことが出来るかもしれない。主婦や母親の役割というのは、ある程度、障害を持つ女性自身によって経験される限界への仮面となりがちである。それゆえに、わずかな研究を除いては、主婦や母親のリハビリテーションに対しては、ほとんど注意が向けられていない。

 

教育/訓練

 この論文のはじめに述べたように、ほとんどの発展途上国において、かなり高いパーセンテージの数の女性が文盲である。印刷された媒体が最も安価であることを考えてみると、文盲ゆえに女性はその権利、機会、恩恵や利用しうるサービスについての多くの情報知識を得ることが出来ないでいる。

 ユニセフによって行われた、1975年の調査は、全世界の女性の40%が新聞に縁がないと指摘している。その割合は、アジアで51%、アフリカで83%、そしてスラブ諸国で85%にもおよぶ。印刷された媒体に加えて、ラジオは世界中のほとんどの女性にとって、情報と教育のもう一つの源となっている。多くの国々で人々が田畑での仕事や市場で教育的ラジオ番組を聞いているという報告がなされている。エジプトでは、たとえばラジオの文学番組の聴取者の70%を女性が占めていると見積もられている。

 女性の教育と訓練水準の向上は、もし女性が自らの社会経済的地位を向上させようとし、それぞれの国において社会において与えられる様々な機会を得るために男性と同等に競争しようとするならば“絶対必要なもの”である。ケニア出身の19歳の女性は、彼女の将来の夢の中で、この気持ちを表現していた。「女の子も男の子も同じように教育されるべきです。私はきまりを作り、教育を受けていない、あるいは学校に行ったことのない女性を教えたいのです。そして私は、男性が、女性と女性の持つニーズを理解し、今のように彼女達を打ったりしないように法律を変えたいのです。」

 

ネットワーク作り

 女性問題について討論し、解決方法を見つけるための女性のグループや団体の組織は、障壁について扱うもう一つの効果的方法を代表しているといえる。このネットワーク作りのアプローチは、女性が、交通機関の利用や収入を得るための仕事や育児などの基本的な問題についての解決を見つけだすことの必要なアフリカの国々で大変効果的に採り入れられている。

 たとえば、地方の女性の間で、自助という観念の大変強いケニァでは、村の女性は、どうにかして自分たちの地域のバスを買い、管理しようとする。バスを手に入れるために、このグループは、卵や、マンゴー、炭、まき、にわとりやカゴを売る、資金あつめのオークションを毎月行なった。1975年にメキシコで採択された行動計画に答えて、ユネスコによって組織されたネットワーク計画は、国連の全人類活動のための基金の資金援助を受けて女性に関するニュースや関連情報を促進している。5つの女性のための地域ネットワーク(アラブ諸国はまだ計画の段階にある)が設立され、その4つが活発に活動している。現在、これらは、女性の問題についての情報をアフリカ、カリブ、アジア、そしてラテン・アメリカの女性に広めるためのネットワークも含んでいる。

 

結論

 一般的な女性と、他の国々の障害を持つ女性の状態について振りかえることにより、我々は、雇用、教育、保健とリハビリテーションサービスの供給、そして恩恵を受ける資格などにおいて、平等な機会から女性を排除している、同種の障壁を確認することができた。

 ある発展途上の国々では、健常の女性、障害を持つ女性の双方が、過保護に扱われ、その結果が、社会における彼女たちの完全で、平等な参加の機会を制限してしまっている。別の国、特に社会主義国家では、女性の労働能力は、男性に近い地位と権利とを彼女たちに与えている。

 労働倫理が強調されている国においては、障害を持ち、働くことの出来ない女性は、健常者とはまったく異なるとされている。彼女たちは、その生活の質を向上させることを目的とした様々な恩恵や、その他の形の援助を受ける資格を与えられてはいるが、これらの特権がさらに女性を完全統合から差別し、隠してしまうかもしれないとも言える。

*ミシガン州立大学准教授
**(財)日本障害者リハビリテーション協会


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1983年7月(第43号)40頁~48頁

menu