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特集/世界精神保健連盟1993年世界会議

国際的なユーザー活動

The International User Movement

Mary O'Hagan

はじめに

 お話しする前に、ユーザー(user)とサバイバー(surviver)1)についての議論がありましたが、私は両者を同じ意味で使いますので、ご了承下さい。

 では、最初にひとつの逸話から始めます。深くて青い海に囲まれた島の大きな古い家に、ある家族が住んでいました。彼らはそれぞれの技能、能力を認め合い、みんなで仲良く力を合わせて暮らしていました。

 しかし、その家族の画家であるひとりが、だんだん変わっていきました。彼女はひとりでいろいろやるようになり、自分でも他の人も理解できないような絵を描き始めました。他の者はその絵を見て怖くなり、どうしていいかわからなくなり、途方に暮れてしまい、ついに彼女に出ていくよう言いつけたのです。「お前の描く絵はこの家にふさわしくない。あのような絵があると、私たちに害を及ぼす。」そして、番人に言いつけて、崖下の海岸沿いのほったて小屋に彼女を閉じ込めてしまいました。

 その小屋の中で彼女は以前よりもっと具合が悪くなりましたが、やがて海が彼女に絵の意味を教えてくれる友だちとなりました。そしてまた絵を描き始めました。彼女は番人に家へ帰りたいと訴えましたが、家族は、彼女が家にいるとまた家の秩序が乱されると考え、家の中ではなく裏のべランダに住むようにと言いました。食べ物と毛布は与えるが、許可があったときのみ家に入ってもいいということでした。海岸の小屋も、裏のべランダもひどいことには変わりはありませんでした。彼女は心の中で叫び声をあげていました。

 番人は彼女のようすを見て、彼女を家に入れてやってくれと家族に訴えました。そしてやっと家に入れてもらい、清潔で安全な環境で再び暮らせるようになりました。そして筆をとり、無我夢中で絵を描き始めました。家族は最初彼女の絵を理解することはできませんでしたが、しばらくしてその絵の力強さがわかるようになりました。なぜそのような絵が描けるようになったのかと聞いたところ、彼女は、海岸の小屋にいたとき海と友だちになった。その海は私に絵の描き方を教えてくれた。でも、あなた方に長い間絵を描くことを禁じられ、やっと筆をとって描けるようになって初めて、このような絵が描けるようになったことを知ったのだと答えました。

 家族は自分たちの過ちを認め、それ以後はみんな幸せに暮らしたということです。

精神保健医療ユーザーをとりまく現状

 私自身もサバイバーで、精神保健サービスのユーザーでもあります。この逸話の女性のように、ほとんどの人々があたりまえのようにとらえている社会への参加を拒否されました。精神病院にも入院したこともあります。いわゆる社会のほったて小屋、社会の裏ベランダに住んでいたようなものです。本当に苦悩に満ちた人生だったと思います。自分にとって難しい時代でしたが、最も辛かったのは周りの人の反応でした。

 社会から孤立したことが、私にとっては一過性のものだったことは非常に幸運ではありました。友人がいつもそばに付いていてくれて、話をし、私のことを見捨てなかったということは幸いでした。帰る家も、生活費もあり、大学も退学せずに戻ることができました。私自身が白人だったということ、私の出身階級のために、差別を受けることもなかったという利点もあったと思います。しかし、社会の精神保健制度がもっと良ければ、こんなに長く孤立していることもなかったのにと思います。

 21歳の終わり頃でした。衣服も信用も、夢もすべて奪われ、もう二度と生産的な人生は送れないのではないかと恐れていました。病気が遺伝するという理由で、もう子供は持てないと言われたこともありました。いろいろな薬を与えられ、睡眠薬も飲みました。しかし、私の雇ったヘルパーは、私がいろいろな苦悩に満ちていることを全く理解せず、失った人生を取り戻す手伝いをしてくれるどころか、どのような精神保健サービスが私の助けになるかということを尋ねもしませんでした。そして私は自分の能力を信じることもできず、消極的で空虚な暮らしを送っていました。

 しかし、何百万人というユーザーやサバイバーが各国におり、こういう放置、虐待、干渉から救われなければなりません。メキシコでは、グァダルーペという女性が精神病院に入院中、看護者に拘束服を着たままレイプされました。アメリカでは、ローラという女性がお金も援助も与えられず、ひどい施設に住んでいました。また、ニュージーランドでは、あるマオリ族の若い男性が外と隔絶され、電気ショック療法を受けて孤独に亡くなりました。日本では、家族の恥ということで家に閉じ込められた者もいますし、カナダではヴィッキーという女性がレズビアンということでむりやり治療を受けさせられ、ザンビアでは、デーヴィッドという男性が政治的な意見を述べたために精神病院に入れられたということなど、各国のいろいろな事例があります。そしてどの国においても、ユーザーは薬の処方を受けますが、それはしばしば体に悪影響を及ぼすという説明を受けることはありません。強制的に電気ショック療法を施され、記憶障害に苦しむ者も多いのです。

 どのようなサービスを選択するか、どのように自分の人生を決定するかという能力さえ失われてしまっています。みんな貧困、無気力、自己に対する尊厳の低下、住宅の不備、孤独などからくる、さまざまな耐え難いストレスに苦しんでいます。

ユーザー活動の始まり

 このような状況のもとで、ユーザー活動が始まりました。私たちのような活動は、もうこれ以上耐えられない抑圧状態に対抗するものです。いろいろな人々の善意もありましたが、実際、社会や精神保健制度が私たちをこのような状態に貶めていたということを、ユーザー活動は示しています。私たちの活動はサバイバーたちがこのような抑圧の状況を理解し、変えていこうとする枠組みを与えました。1970年代初めに本格的なユーザー活動が始まるはるか前、個人個人のユーザーがそのことに気づき、立ち上がろうとしています。同じ頃、欧米では、市民権運動、ゲイの権利の運動、女性開放運動、先住民の運動など、さまざまな形で運動が始まっています。ユーザー活動も含めて、これらの運動には自決権を求めるという共通点があります。そしてこの20年の間に運動はどんどん変わっていきました。小規模で、資金も少なく、ラディカルな運動から、より大きくて多様な運動に変化していきました。

 しかしどのような場合でも、解放を求めて、個人個人の達成感を得ようという西欧民主主義のスタイルを表現する傾向があります。しかしサバイバーの活動は、ユーザーの立場がもっと悪い他の国々にも広がっています。メキシコやニカラグア、ヨーロッパのかつての共産圏、日本でもサバイバーたちは活動を始めています。日本のユーザー活動は、ここ数年特筆すべきものがあります。私たちも大変勇気づけられます。西欧においてもこのようにユーザー活動が広がり、白人だけでなく、先住民、他の少数民族など精神保健サービスの外に置かれていた人々自身の活動も確立しつつあります。ニュージーランドでも、マオリ族のユーザーたちは独自のネットワークを作っています。彼ら毎年1回マラエ(marae)と呼ばれる集会場で、フイ(hui)という会議を行い、文化的で安全な環境のもとで自分の経験や問題を話し合います。

 文化、国境を越えて、サバイバーには多くの共通点があるということに気づきました。しかし、西欧以外の国々や西欧の少数民族からの参加が増えるようになると、私たちは文化的な相違とその尊重を認識する必要に迫られます。このように、それぞれの文化を背負ったユーザーたちは私たちの活動にアクセスします。今以上に増して、ユーザー活動は文化や国家を越えて協力し合い、国際的なロビー活動を展開していく必要があると思います。

ユーザー活動の展開

 こういった理由のもとに、世界精神医療ユーザー連盟(World Federation of Psychiatric Users)が2年前メキシコで設立されました。この段階では私たちはまだ散漫で、資金不足の上、十分なネットワークもありませんでした。これだけ人的・物質的資源の少ない中で、この連盟がどのようにネットワークを作り、国際団体に働きかけていくのかという問題については、答えはなかなか見つかりません。

 ユーザー活動には、自助活動(self-help alternatves)と政治活動(political action)という2つの側面があります。自助活動は、私たちの経験に基づいて自己変革と回復を目指すもの、政治活動とは、一般の人々や制度を変えること、福祉の向上を目的とするものです。

(1) 自助活動

 自助活動は、ユーザーがサービスを運営するということで、主にアメリカで発展してきたものです。定義としては、その活動は全てユーザーによって運営され、例えば、互助グループ、青空劇場、悩み事相談所、住宅あっせん、緊急避難施設、小規模事業などいろいろな形で展開されています。主流の精神保健サービスもこれらを提供するものですが、自助活動の運営方法は伝統的なサービスとはかなり違います。

 従来のサービスが大きな官僚型の組織によって展開されるのに対して、自助活動は主に草の根的なサバイバーのグループによって行われています。これは、従来のサービスが制度の枠のどこかから多少の干渉を受けるのと違って、自助活動は独立した決定権があるということを意味します。

 自助活動というのは、メンバーが意思決定に加わることもできるし、援助する側から援助される側へ交代するなど、参加型の活動です。しかし、そういった柔軟性は従来のサービスにはありません。また仲間どうしで援助し合うことは自助活動の中では非常に重要であるのに対して、従来の医療を中心とした方法では専門家の判断、介入が最も重視されます。自助活動の中ではユーザーの選択および自主性が何よりも大切だと考えられているので、強制などは問題外です。しかし従来のサービスにおいては、症状を排除することに最高の価値を置きますから、本人の意思に反して治療をするということが正当化されてしまうのです。

 最後に、最も重要な点かもしれませんが、従来のサービスでは、一般に患者に対する見方が否定的であるのに対して、自助活動のユーザーはお互いに対して楽観的な傾向にあるということです。もちろんこういったすべての自助活動が理想的というわけでもありませんし、幸いにも従来の精神保健サービスがすべて悪いということはありません。しかし大半はまだ悪いものであると私は信じています。サバイバーが作り出したサービスと、押しつけられたサービスとの相違を考慮してから、意思決定や政策決定をする人たち、マネージャー、専門家の方々がどういうサービスをすべきか検討する材料にしていただきたいと思います。

(2) 政治活動

 政治的な行動というものがこの運動のもうひとつの側面になっています。これは、精神保健制度に対するキャンペーンと、私たちを弾圧するものに対して反対していく運動でもあります。また、意思決定、政策決定をする人たち、マネージャー、専門家に対して影響力を及ぼそうというものです。発足当時から私たちの運動の特徴は、特に強制治療、有害な治療に反対することにありました。ユーザーが、従来の精神保健サービスの企画、供給、評価において、活発で対等な参加者として認識されるまでには長い時間がかかりました。その中で私たちの意見は無視されてきました。私たちの運動は精神保健制度とは大変矛盾の多い関係にあります。一切関わりたくないと思っているラディカルな姿勢をもったサバイバーもいます。精神保健サービスをなぜここまで拒絶し、矛盾した関係とみなしてしまうかというと、その障害の性質上からくる考え方の相違であるわけです。

医療モデルに対する異議

 精神保健制度は多くの精神科の専門家や医療モデルを採用し、それが何十年も支配的な存在でした。医療モデルはユーザーを無力な存在に貶しめ、そして能力や合理性のない存在として扱います。障害をもつ人々に対して、社会秩序の安全装置として、親のような態度で接することを正当化するのです。医療モデルは、サバイバーに対して特に強圧的で、科学的な価値に関係なく2つの帰結に至ります。ひとつは、投薬とか電気ショック治療などの強力な技術によって、これらの技術の専門家のみが治療を管理する力があるということを意味します。もうひとつは、医療モデルでは診断あるいは予後などに執着しますが、これは、いわゆる精神病というものはかなりあらかじめ決められたコースをたどるという見方を意味します。特に主要な精神病の場合には、再発あるいは悪化のおそれが避け難いとみなしています。病状が悪化する人もいる事実を私も否定しませんが、医療モデルでは一律にそうみなしてしまいます。

 ユーザー運動に参加している人たちはこの医療モデルを疑い、また否定し、親のような態度で接することの正当性に反発しています。障害者にもさまざまな能力があり、自分の運命を決める権利があるという前程のもとに私たちは活動しています。少なくともそれを目指しています。我々はどちらかというと「病気」についてより、「苦悩」とか「生活の問題」について話し合います。私たちのモデルを使うことによって、医療モデル以上にもっと自己尊重や自主性を高めることができると思います。

 私たちの運動は、精神医学や社会学における狂気への二者択一の視点に対する反発から来るものです。ユーザー運動の中には、「狂気」というものがそんなに悪いものだろうかという疑問もあります。その人が幸せで、他人に対して害を及ぼさないのであれば、どうして精神医療や社会は「狂気」のままでほっておいてくれないのでしょうか。このまま病気とつきあい、それが私たちに何を語りかけようとしているかを理解しながら生きていくことより、有害な薬物投与や治療を受ける方が、「狂気」を増すことになりませんか。もし価値を認められ、地位を与えられたなら、私たちの経験はどんなに違ったものになることでしょうか。私は単なる知的な遊びとしてこういう議論をしているのではなく、「狂気」の本質についてお話ししているのです。医療モデルとサバイバーモデルのどちらを支持するにしても、狂気に対する理解のあり方がどういうサービスを提供するか、利用するかに大いに影響するということです。

 最近イギリスの、Rogers、Pilgrim、Laceyにより、「精神医学の体験:ユーザーの視点から(Experiencing Psychiatry:Users Views of Services)という調査がまとめられ、出版されました。サバイバーに対する見方についての他の調査と違って、私たちの考え方を支持した調査です。500人以上のユーザーからの聞き取り調査の上、著者はユーザーの苦痛と医療モデルとのギャップについて指摘しています。また、ユーザーが好むサービスと、実際に提供されているサービスとの格差についても指摘しています。例えば、調査の中のほとんどのユーザーは、自分たちの苦痛は非常に複雑な要因により、日々の生活の継続からくるものであって、ひとつの原因というものはないと考えていますが、精神科医は、ひとつの生化学的なアンバランスが基本的な原因だと診断してしまいます。さらにこの調査の中で着目しているのは、医療モデルではかえって偏見が生じ、自分たちの苦痛を理解するためには役立たないことに、ユーザーたちが気づき始めたということです。ユーザーを医療的な方法で治療する精神保健の専門家はあまり助けにならず、むしろ社会的物質的なニーズに対応する人たちの方が助けになるとみなされます。また、看護婦や医者に対する不満は、身体的な病気を持っている者よりも精神保健ユーザーの方が強いということです。この著者によると、このように満足度が低いのはおそらく、精神保健サービスが強制型のサービスを提供しているからであろうと述べています。さらに、サービスがユーザーの普通の生活に密着したものであればあるほど満足度が高い、という結論に達しています。

 彼らの結論としては、「精神保健の問題に関して医学のアプローチおよび病院におけるサービスは精神科医にとって有利かもしれないが、患者にとって不利である」ということです。そして、もし精神科の制度化された方法のように、専門家が医療モデルによる方法を支持し続けるなら、新しいコミュニティサービスは利用者の満足度を増すことはないと、多くのユーザーと同じく、著者は強調しています。依然として医療モデルを使った、精神科医療の今のやり方では満足は得られないということです。

新しいコミュニティサービス

 新しいコミュニティサービスの多くは、依然として病院において主に身体に対する治療を続けています(小規模病棟やデイホスピタルなどの形で)。そして「従わないユーザー」に対して、登録、ケースマネジメント、保護という、より微妙で陰険なコミュニティの治療秩序による強制治療を続けています。ユーザーがこのようなサービスを望んでいないことは明白ですが、ではいったいどういうサービスを望んでいるのでしょうか。さきほどの逸話の中、我々の苦しい経験や我々が狂気を認識する方法、我々の運動の原則、実践、前述の調査などのどこかに答えがあるはずです。

 私たちが世界中で訴えているのは、強制型のサービスではなく、もっと自主的なサービスを、ということです。投薬をせず、私たちが失った物質的社会的なチャンス、より良い所得、安全な住宅、仕事、友人、パートナー、自己尊重、社会における役割を与えられることを望みます。そして私たちは自分の望むサービスを選ぶ権利を主張しますし、また私たちが好まないサービスの閉鎖を訴えます。私たち自身でサービスが行えるような技術と資源を望みます。私たちの価値観、体験に合ったサービスや、さまざまな機会を与えてほしい、自分で認識しているニーズを満たし、自分の能力を活かせるチャンスがほしいと思います。

 しかし問題は、医学による精神保健サービスは現在、多くの強力な利害集団が関わっているということです。精神科医、その他の専門家、薬品会社、家族団体、労働組合、そして偏見をもった隣人などです。それに対して、ユーザー運動は非常に少人数であり、資金や有力者とのコネも不足しており、直接的な知的な伝統もなく、研究や教育の分野の支持者も少ないのです。大学でサバイバーが勉強しているところを想像してみて下さい。実践経験もなく、活動の前例というものもありません。

 しかし、これだけ私たちに反対する人々、制度にもかかわらず、サバイバー運動への関係を通して人々の生活はだんだん変わってきました。さきほど述べた何人かのユーザーのことを思い出して下さい。病院の中でレイプされたメキシコのグァダルーペはこの運動に参加し、その恐ろしい体験についてのビデオを作成しました。またローラは腐っていくような思いのするケアホームにいましたが、自助グループを作り、自分の生活を変えることができました。そして今や、権利擁護推進者として活躍しています。電気ショックの合併症により死亡した若いマオリ族の男性については、その後調査が行われましたが、それよりも他のマオリのユーザーや仲間たちが、彼を悲しみや怒りの決意をもって思い出すことになったのは重要なことです。また監禁された日本人の男性はユーザー運動に参加していますし、カナダのレズビアンの女性、ヴィッキーも自分の体験に関する本を著しました。ザンビアのデーヴィッドも本の中で政府官僚と自分の体験について対談し、国際会議にも参加しました。前述の逸話の中の女性と同じように、これらのサバイバーたちはごみためや裏小屋のような施設から解放され、自分の家に戻り、希望や人生に対するより深い理解をもって、何世紀も耐えてきた排除や弾圧と闘う決意で人生に取り組んでいます。

終わりに

 では最後に、この運動の創始者のひとりであり、リーダーのひとりでもある、アメリカのジュデイ・チャンバリン(Judi Chamberin)の言葉を申し上げたいと思います。彼女は本大会に参加しております。

 「精神病患者というのは、あまりにも長く、顔や声のない存在だった。人間以下の怪物であり、良くてもあわれな障害者としか考えられなかった。そして我々は些細な仕事、わずかな生活費しか与えられず、常に専門家のサポートが必要とされてきた。こういったステレオタイプを他人だけでなく我々も信じてきたのだが、精神障害者の解放運動を通じて、我々、元患者は自分自身の姿を見つめられるようになったのだ。長所、短所、さまざまな能力、ニーズがあり、自身の考えを持つ、さまざまな人間から構成されているのだと。」

(訳 佐藤久夫、松山ちづる)

編者註

1)ここではユーザーとサバイバーとを同義に使っているが、患者の選択権を確保した上で精神保健サービスを「利用」しようとする考えや、精神保健サービスに痛めつけられた後に「生還」したという考えなど、内部の論争も活発なようである。

世界精神医療ユーザー連盟(World Federation of Psychiatric Users)会長、ニュージーランド


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1994年3月(第79号)20頁~25頁