講座 知的障害をもつ人達のソーシャルスキルとその訓練につい

講座

SST・2

知的障害をもつ人達のソーシャルスキルとその訓練について

廣瀬貴一

1.はじめに

 筆者は厚生省心身障害研究で地域生活援助を主題としており、平成2年度には「ソーシャルスキル」を課題としてとりあげた。小論はその研究報告をもとにその後に得た知見を多少付け加えたものである。

2.ソーシャルスキルの定義と概念

 ソーシャルスキルは、なかなか定義しにくい概念である。他の社会科学分野の用語の例にもれず、国の内外を問わず、共通した定義はないように思う。われわれ研究班は、一応『社会生活上、あるいは世間の人々と交際していく上で、上手にふるまっていけるわざ(技能)』と定義してみた。

 周知のごとく、人間はみな一人だけの世界(プライバシイ)をもつとともに様々な集団に所属しながら生活している。集団は一生を通じて家族から近隣の人々、そして友人、学校、職場、同好サークルへと広がっていく。このような個人が所属しながらとり囲まれている集団の総体を社会=世間(ソサイェティ)と称している。われわれは日常生活していく上で、この社会でふるまっていく技術=ソーシャルスキルが欠かせない。

 「一般の社会であたりまえの生活」を目指している知的障害者にとっても、社会生活が重要なことは明白である。ハンディキャップの定義でも明白なように、障害が社会との関係によって論じられる今日、このようなスキルは重要な意味をもってくる。知的な障害をもつ人達の自立をいうとき「自分の人生を自分で決めること(自己決定)」に重きをおくならば、このことは、なおさら強調されなければならない。

 このような観点から、知的な障害を判定する際にIQではなく(SQではもの足りないので)ソーシャルスキルという基準を導入することも当然であろう。近年、AAMRでも知的発達障害の判定に際し、社会適応能力が重視され、その項目にソーシャルスキルがふくまれている(注1)

 また、知的障害をもつ人達の福祉の主体を地域生活援助とするとき、障害基礎年金は大切な経済的支援(所得保障)と考えられる。年金の受給の根拠となる評価も医学的な判定やIQよりソーシャルスキルという尺度を考慮するのは当然である。

 さて、ソーシャルスキルを、個人の社会性と対人関係の技術に大別し、さらにそれぞれを3つに分類したのが次の表である。

ソーシャルスキル 個人のもつ社会性
 ①基本的な自己表出
 ②基礎的な知識
 ③基本的社会資源の利用
対人関係の技術
 ①基礎的なコミュニケーション
 ②1対1の対応態度
 ③集団におけるふるまい

 個人の社会性は家族を出発点に社会での他者との触れ合いの中で育っていく。最近の発達心理学の研究によれば、生まれたての赤ん坊はわれわれが想像するよりずっと早い段階で、母親はもちろん近くに存在する人達を認知しているらしい。そして、要求があれば泣き声やゼスチャーで表現するし、満足不満足も原始的ではあるが顔の表情で表出する。これらの表出は周囲の人々によって受け止められ、反応がかえって来ることになる。そして強化され、汎化される。このような①基本的な自己表出はソーシャルスキルの核に当たる。

 きわめて重度の知的障害をもつ人達の場合さえ、たとえ言語によるコミュニケーションを欠いていても、喜怒哀楽の感情表現があり、受けとる側が注意深くさえあれば、要求や主張を伝える能力があることが分かる。周囲の人達がこれをよく見つめ、聴く態度がなければ、このような表出は豊かに発達しない。①に対しては周囲の人達が耳目を傾ける態度がこのスキルを促進する鍵なのである。やや高い次元になるとこの表出には、周りの人達を和やかにする微笑み、はっきりと拒否する態度(たとえば嫌いな食べ物に口を開かない)などがふくまれるであろう。

 「人見知り」を経て、家内(うち)と社会(そと)の異なる他者を認知していく過程で、幼児の自我の発達が促進される。②基礎的な知識は主として、自分の周囲にいる人達と自分の関係をある程度把握する能力である。この事実は発達の初期の段階でも観察できる。例えば大概の幼児は園長と若い保母の違いが分かる。また、これは社会の様々な組織や集団の役割や機能を理解する能力をも指している。さらに進めば、組織や集団のもつルールを理解する能力も要求される。

 知的な障害をもつ人達にとっても、限られた範囲の人達との関係を理解することはさほど困難ではないが、接触が少ない人達との関係を理解することは難しい。自分の通っている学校、通所施設、作業所の組織や機能、人間関係はある程度理解しているが、社会一般の組織や集団の機能についてはなかなか理解が難しい。

 ③基本的社会資源の利用は②を基礎にして、年齢に応じて、自分が所属している集団(学校、クラブなど)を通して経験し、学習する。これによって②の知識はさらに深められる。交通機関、商店、食堂、郵便局、銀行、レジャー施設の利用などがその例である。これらの社会資源の利用は、さほど複雑な交渉や人対人の技術を要求しない。今日、一言も口をきかずにスーパーマーケットでは買い物ができるし、電車の切符の購入や銀行での金銭の出し入れも可能であろう。

 知的障害をもった人達の場合はそう単純にことは運ばないであろうが、もし適当な援助者が適切なアドバイスをしながら数多くの経験を積めば、③は多くの障害をもつ人達にとっても可能なことが多いといえよう。

 次にソーシャルスキルの核心である「対人関係の技術」についても考えてみよう。前述の「個人のもつ社会性」も人間関係の入り込む要素が少ないものに対し、比較的高度の技術が要求されるものを扱っている。一応これら①②③がそれぞれ上記の①②③に対してより洗練されたスキルであると考えて欲しい。

 ①基礎的なコミュニケーションが不足していると、よい対人関係をつくることは難しい。知的な障害をもつ人達は言語活動に障害があり、それらは千差万別である。そこでまず第一に、発達期に様々な工夫をして、言語のみならず総合的なコミュニケーションを促進するようにしなければならない。家庭でも学校でも常に「話し合う」「伝え合う」環境が設定される必要がある。

 筆者の経験から、知的障害をもつ人達のコミュニケーション不足は、本来のImpairmentよりも、むしろ情緒=感性の発達阻害に起因する場合が多い。しかも、これらは往々にして間違った教育・訓練によって生じる例が随所に見られる。親、教師、施設指導員がどうせ分からないからと、言葉をほとんど使用しなかったり、高圧的な命令口調で叱ってばかりいる環境に置かれることでこの人達をより引っ込み思案にし、情緒障害を助長する。これらコミュニケーション障害はよく二次障害といわれるが、むしろ二次災害といった方が適切とさえ思われる。自閉症といわれる人達の行動にも明らかにこれらが増幅されたものがみられる。このような行動は、乳幼児からの基礎的なコミュニケーションの上手な促進によって改良されることが最近の研究・実践によって報告されている。

 幼児は親―子を出発点に発達段階に従って、対人関係を学び、それは個人的関係から社会的関係へと発展していく。この際基本になるのは、1対1の人間関係であり、②1対1の対応態度が重要な意味をもっている。

 知的な障害をもつ子供達の場合、ややもすると母子分離と集団の療育、訓練が強調されるが、基本はやはり1対1の関係であることを再確認する必要があろう。知的な障害があっても、幼児期には母親の他に、他の肉親を始め〈そと〉の人達との1対1の濃密な関係をかたちづくることが大切である。心から好きな人が多くできることはどんなにか感性を発達させることであろう。②はこのような環境の中で育まれる。

 確かに、肉親以外の1対1対応は依存的態度ではなく、親密度=心理的距離を計りながら、関係に応じて態度を変えなければならないので、容易なことではない。しかし、これも数々の体験によって学習が可能である。われわれは従来彼等に対して、そのような機会をつくらなかったのではないだろうか。知的な障害をもつ人達は友達が少なく孤立しがちなことも、幼児段階から1対1対応の少なさに起因すると思われる。

 ③集団におけるふるまいとなると、高度なスキルであり、知的障害をもつ人達にとって援助なしには思うように発揮できないであろう。豊かなコミュニケーションスキル、社会的な常識、さらに交際術が要求される。人間関係が希薄になった今日、知的障害がなくとも特に若い世代にはこのスキルを使いこなせる人達はなかなかいない。

 知的障害をもっている人達の場合、新しい集団での挨拶や自己紹介でさえ極めて困難な場合が多い。まず、一つの組織の目的、仕組み、構成員としての自分の立場を理解することが必要となる。さらに、自分の意見を開陳する、討議をし決定するといったような手続きを理解しなければならない。加えて、これらが一般的な集団、組織であった場合はもっと困難になる。

 しかし、もし知的障害をもつ人達の地域生活援助を心から望むならば、われわれはこの困難さを乗り越える工夫をしなければならない。

3.実際のソーシャルスキルトレーニングはどうあるべきか

 ソーシャルスキル訓練に関するメソッドを研究し、マニュアルを作成、実際に活用しているのは、なんといってもアメリカである。なぜソーシャルスキル訓練はアメリカにおいて盛んなのであろうか。それは、アメリカの知的障害の教育・訓練に多くの心理学の専門家がかかわっているからと考えられる。最近ではアメリカの心理学の実践も変容し多様になって来たが、まだまだ行動心理学の影響が大きい。ソーシャルスキルトレーニングの背景には行動心理学があり、その手法に学習理論や条件づけが応用されているのである。

 もう一つは、アメリカ人のメンタリティも考慮に入らなければならない。その第一は、自己主張抜きでは暮して行けないアメリカ社会では、発言力が弱い障害者も自分を主張することを要求されることである。アメリカ流の考え方では、障害者はソーシャルスキルを高めることによって自立し、自己主張ができ地域生活が可能になる。知的障害をもつ人達も例外ではない。

 さらにアメリカ人のマニュアル好き(マクドナルドなどの外食産業のマニュアル)の一面も見逃せないであろう。

 丸抱えこ生活を提供する入所施設(交際範囲を限った特別の社会)では、ソーシャルスキルの訓練は必要はないだろうが、知的な障害をもつ人達が一般の社会で生活していくためには、これらの訓練は極めて重要であると言わねばならない。

 筆者の知るかぎり、日本のソーシャルスキルについての論文は障害児教育の分野で多少あるぐらいで、しかもそのほとんどがアメリカの研究や実践の報告である(注2)。これらの研究や報告はそのままわが国の実践場面に応用することはできない。

 ほとんど紙面も尽きたので、同研究にまとめた考え方を中心に、今後わが国でのソーシャルスキルの訓練にはどのような点を重視しなければならないかをあげて参考に供したいと考える。

 (1)第一にコミュニケーションの問題を取り上げなければならない。知的障害の分野では、コミュニケーション手段として言葉の他に身振りや表情にも十分に配慮するべきである。また言語を補う手段としてピクトグラム(絵文字)の活用を勧めたい。言語訓練というととかく話す(発声)訓練に傾きがちであるが、知的障害の場合は、コミュニケーションを総合的にとらえる必要がある。

 どのようにして障害をもっている人に社会的な情報を伝えるかは重要な課題である。最近、障害者に関係する情報(広報など)を本人にも理解できるやさしい表現で交付する地方自治体が出てきたことは評価してよいと考える。

 (2)次に大切なことは、ソーシャルスキル訓練は実社会の中で行なわれ、体験によって習得されるようにしなければならない点である。もう一つそれが強制や「ごっこ遊び」ではなく普通の生活のなかで自然に体得できるよう工夫すべきである。日常の挨拶にしても、金銭の使用にしても実体験によって培われたものが身に付くわけで、入所施設での疑似体験では本当のスキルは獲得できない。

 通勤寮での生活でさえ普通とはいえないであろう。スウェーデンの学生寮での訓練のように青年期の早い時期(高等部)から普通の生活によってソーシャルスキルを訓練できないものだろうか。

 (3)知的障害をもつ人達のソーシャルスキルの訓練はマニュアルを作成したから一件落着というわけにはいかない。障害をもつ人がそのマニュアルを上手に使いこなせるように支援する援助者がいなければ、それは絵に描いた餠になってしまう。もしマニュアルを作成するならば、「本人用」と「援助者用」の二つが必要となろう(注3)

 ここで強調したいのは、決して軽度の障害で社会適応が可能といわれる人達のみをこれらスキルの訓練の対象とは考えていないことである。筆者は、援助者の質量両面の充実があれば、障害の程度にかかわらず地域生活は可能であると信じている。この意味で障害をもっていても誰もが自立が可能なのである。援助を受けながら彼等のソーシャルスキルはより向上し自立度が高まっていくことは、先進諸国の多くの実践が証明している。

 端的にいえば、マニュアルよりも人である。しかも援助者は複数である点が肝要である。グループホームの援助職員が生活上のすべてのことを引き受けるのではない。親・家族、職場での相談相手、デイセンターでの援助職員、ソーシャルワーカー、余暇活動をともにする友人(注4)など多くの人材が支援することが彼等の豊かな地域生活を可能にするのである。さらにこれらの援助者が役割を分担し、必要に応じて医療、人権擁護、財産管理など専門的な援助機関に紹介できる態勢をつくれば理想的である。このような個人をとりまく援助のネットワークをつくることが地域生活援助の要諦であるといっても過言ではない。

 (4)最後に最も大切なのは障害をもつ本人の意思の尊重である。なにゆえにソーシャルスキルが重要でその訓練が必要なのか、つまるところ知的な障害をもつ人達が自分の人生を主体的に生きるためであることを忘れてはならない。

 生活のいろいろな場面でなるべく多くの情報を知的な障害をもつ人達に対し提供し、その中から選択してもらう。その自分で決めたことを援助者の支援によって実行する。その過程で、情報を受けるスキル、選択するスキル、主張するスキル、決断する力の習得が必要になってくるのである。

(注1)AAMRの1993年の定義ではIQとともに、Intellectual FunctioningとAdaptive Skill(Communication, Self-Care, Social Skills, Home Living, Community Use, Self-Direction, Health & Safety)を評価の基準としている。
(注2)相当量のアメリカの研究に目を通し、その課題と訓練方法の概略を「ソーシャルスキルの基礎的研究」に概略記述した。
(注3)自立生活ハンドブックⅡ「わたしにであう本」〈1994年手をつなぐ親の会編集〉は本人用と援助者用の二つのマニュアルがある。
(注4)スウェーデンにKontakt Personという制度があるが、これは友人と相談相手の働きをあわせもっている。公の援助者(職員)の他に同年代の障害をもたない人の中から共通の趣味をもつ人を募集し、本人同士が会って決める制度である。活動に対する実費のみで報酬はなく、職業的、法的な責任はない。FUB(スウェーデンの知的障害をもつこども、青年、大人とその親・家族の会)が力を入れ、Kontakt Personは急増している。

光の園々長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1994年9月(第81号)34頁~37頁

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