特集/第18回RI世界会議 人間の多様性を理解する

特集/第18回RI世界会議

人間の多様性を理解する

Dr. Oscar Arias

 第18回国際リハビリテーション協会(RI)世界会議にご参加の皆様方にお話しできる機会を得ましたことを光栄に思っております。

 この世界会議への案内状のなかに、次のような言葉がありました。

 「世界中で、生活、学習そして就労のできることは、障害をもたない者でさえ困難なことです。しかし障害をもつ者にとって、こうした選択は限られているため何重にも制約を受け、その結果、社会への参加の可能性が奪われています。」私も、まったくその通りだと思います。

 しかし、付け加えたいことがあります。障害は決して個人の可能性を制限するものではない、と。むしろ障害があるということは、人間の多様性を物語る証明です。人間生活の、最も美しくそして豊かな特性とは、その多様性にあるのです。この多様性で、不平等を正当化することは、決してできないのです。それぞれの団体、性別、1人ひとりは、皆独自の異なった方法で自らを表現します。個々にはそれぞれ魅力があり、知性があり、創造力があってそれらは真似できるものではないのです。これらの長所を抑えこむと、人類を不毛にしてしまいます。我々すべてにとって、より一層平等な世界が実現するためには、この多様性を助長し強化しなければなりません。

 平等のためには、「普通」の人間生活はどうあるべきか、もしくは成功や幸福をつかむための「普通」の方法とは何なのかを定義する標準を避けなければなりません。人間に存在する「普通」ということは、人生そのものしかありません。それ以外の方法で、「普通」の生活を定義しようとすれば、それは画一性を求めることになるのです。ご存知のとおり、画一性が強要されれば、ある規準を満たさない者は、締め出されてしまいます。こうなれば画一性という名のもとに、他と異なるものが差別を受け、普通であるという見解からはずれるものは虐げられることになるのです。

 多様性というのは無限です。人類という家族の中にある様々な特性を受け入れることを学ぶ時には、社会を一層寛容な光のもとでとらえることから始めなければなりません。加えて、多様性を取り込むにつれて人権を保障し、守ることを続けなければなりません。人権というのを、単に意味論として語っているのではありません。我々1人ひとりは、言葉の上では人権を守ることができると確信しております。

 しかし、この同じ権利が沈黙という単純な行為によって侵害されることがあるのです。障害をもつ人たちは毎日いろいろな形での沈黙によって、人権を侵害されています。こうした侵害のうちでも最も残酷なことは、健康や教育といった人生に尊厳をもたらす基本的サービスが受けられなくなるということでしょう。人間の多様性やその促進について語るのは、同時に人権についても触れなければ無意味となります。

 政府の最も重要な目標の1つは、公正で平等な社会を形成することです。個々の人々は社会におけるその身体的、文化的、社会的地位を斟酌することなく自己実現できなければならないのです。政府のこの定義は倫理的原則に則しており、我々すべての中にある才能を尊重し、守り、育てることの重要さを強調しています。同時にこの原則は我々に、機会の不均等に対して闘うことを促しています。残念ながら、多くの人がこの基本的な原則を軽視しています。

 興味深いことに、ある指導者、ある運動、またはあるイデオロギーがこの指針となる考え方から離れるたびに、暴力、退廃、残虐があらわれてきます。

 我々が目指している、最も高い志は、隣人の人生を満たされた幸せなものにすることです。かかる理由から、私は、個人的にも人間の人生は神聖なものだと確信しており、政府の仕事に人生を捧げることを選択したのです。

 リハビリテーションと教育の違いを、明確にするのが難しいことは認めます。しかし両方とも、個人の才能を開発し、すべての身体的、知的限界を克服していくという意味では、同等ではないかと考えています。教育と同じくリハビリテーションも基本的な権利です。教育のように、リハビリテーションは社会のためになることです。残念ながら教育と違って、リハビリテーションという行為は公民権の枠組みからはずされ、日常生活の一部ではなくなっています。目に見える障害があろうとなかろうと、我々は皆つねにリハビリテーションを必要としています。我々の社会をリハビリテーションし、障害に対する間違ったイメージを払拭することは、真の民主主義と人権の尊重に向けた必要な一歩です。

 数ヵ月前にコスタリカは、ある特別な法案を承認し、その民主主義を強化しました。その法律とは「障害者のための機会均等法(No.7600)」です。この法は、障害をもつ個人に対しての機会均等を定めているので、基本的に重要なものです。また、この法は、今後の政策の方向性を示すものでもあります。障害をもつ米国民法(ADA)が米国において画期的な公民権法と呼ばれるにふさわしいなら、このコスタリカの法律は、わが国において社会正義を達成するための架け橋だと思います。

 特にある人物が、この法の実現に貢献し指導力を発揮しました。皆さんもご存知の方が多いでしょう。彼はコスタリカ人の医師で、ラテンアメリカ、特に中央アメリカにおけるリハビリテーション・プログラムの促進に努めてきた、フェデリコ・モンテロ(Federico Montero)氏です。

 モンテロ医師は私の友人でもありますが、彼の名を挙げるのは他にも重要な意味があります。障害をもつ人々の権利を保障しようとする、彼の疲れを知らぬ努力と苦闘には頭が下がります。

 特に市民の福祉に尽くした多大な貢献としては、中央アメリカにおけるリハビリテーション・プログラムの導入が挙げられます。このリハビリテーション・プログラムは、この地域を荒した戦争の直接的な結果として、障害を負った人々のために特別につくられたものです。

 特筆すべき点は、通常中央アメリカでは聞いたことのなかった資源や機会へのアクセスが、可能になったということです。さてモンテロ医師の話から、少しこの場で戦争という議題について触れてみたいと思います。

 人類として、戦争をつくりだすことを誇りに思うなどという議論は考えられません。実際戦争を非難する理由は、我々は皆たくさん考えつくことができます。おそらく、戦争は阻止でき、不要な何百万もの障害を直接引き起こすものと指摘するだけでも十分でしょう。

 さらには、戦争のもたらす深刻な結果である貧困も、障害の大きな原因の1つです。ご存知のように、栄養不良、疾病、無知は貧困のあらわれです。衛生や栄養といった基本的な生活水準が満たされないと、障害をもつ人々はその権利を行使することができません。戦争は貧困と同様に、障害をもつ者に好ましからざる影響を及ぼします。

 9年前、私は中央アメリカの戦争で引き裂かれた地域で銃を鎮まらせようと、和平案を提案しました。和平の到来―これは中央アメリカ平和協定が結ばれたすぐ後に、訪れて欲しいと願っていたものです―は、長いリハビリテーションの過程の始まりを意味していました。社会のリハビリテーションだけでなく、戦災者すべての人々のリハビリテーションです。

 中央アメリカの戦争により、我々は克服しなければならない障害物を抱えることになりました。それは社会の分裂と、破壊された社会基盤です。こうした問題から立ち直るには多くの年月がかかるでしょう。この地域を通じて、そして主にニカラグア、エルサルバドル、グァテマラでは、何千もの人々が戦争によって身体障害を負い、また情緒面での緊張を感じたりする障害をもつに至っています。深刻な影響を受けた人々の中には、戦闘員ではない、罪のない市民がいました。死と破壊は市民の家々や、その職場や、彼等が逃げ延びた難民キャンプへと広がりました。近代の戦争行為の最も不条理なもの、それは罪なくして犠牲となった市民でしょう。

 皮肉なことに、市民は戦争が終った後でも、いまだにその影響を感じ続けています。戦場や地方では、過去の戦争の残がいである地雷により、手足をとばされる人々がいまだにいます。地雷が埋められてから何年も経った後に、農民がこれらの地雷に気づかずつまづいてしまうのです。残念なことに、戦争が終わったことを地雷に知らせるような装置は存在しません。また元戦闘員が、戦闘に使用した武器を保持して、暴力行為を続けるということも少なくありません。

 実に嘆かわしいのは、暴力による多くの犠牲者のうち最も被害を受けるのが子供たちです。皮肉にも子供たちは、自分たちを取り巻く悪によってもたらされた肉体的、精神的苦痛のわけを最も理解できないでいます。

 軍国化という言葉が連想させるものは、戦争のもたらす苦い結末だけではなく、軍隊が拡大していく一方で、生き残るためにもがいている何百万という子供たちの姿です。

 要は、逆説が成り立つのです。社会はその資源を使って、障害をもつ人達のための機会均等を保障しようとはせず、それどころか兵器を大量に集めたり、戦争を助長することに直接資金を振り向けているのです。今世紀だけで、戦争により何億人もの人間が障害を負っており、しかもそのほとんどは貧しい国におけるものです。被害をこうむっているのは、明らかに豊かではない方の国々であり、そこには、国民のためのリハビリテーション・プログラムをつくるだけの財源もありません。

 いつ起きるかわからない戦闘を理由として、武器を集め、軍事を拡大するのは資金の無駄使いです。それよりもこうした資金は、社会が抱える緊急課題―貧困、無知、疾病―を解決するためにこそ使われるべきです。

 忘れてならないのは、暴力による衝突を回避できている国でさえ、巨大な兵器庫と軍隊を維持しているので、人類の発展への歩みを失っていることです。

 ブレジンスキー(Prof.Brzezinski)氏の有名な著「アウト・オブ・コントロール」の第一章は、『百万人の死者の世紀』となっています。この本で彼は20世紀に戦争や大量虐殺で引き起こされた死者の数を数えなおしています。そして結論として、今世紀中におおよそ1億7,500万人の命が、戦争や、政治的暴力により人為的に奪われたとしています。

 こうした殺人行為が起きるたびに、何十人もの人間が身体障害や、重傷、それに精神的外傷による障害を負います。こう見ると、今世紀に生じた障害のほとんどは、同じ人間によって故意に引き起こされたものといえるでしょう。今この瞬間にも、世界のどこかで―ニカラグアで、カンボジアで、モザンビークで、ベトナムで―大人のつくった地雷の爆発により、子供が殺されなかったとしても怪我をし、手足を失っています。

 ブレジンスキー氏の本も、第一章のタイトルを『百万人の死者の世紀』ではなく『あまねく狂気の世紀』と書き変えた方がよさそうです。

 我々は、孫たちの世紀も同じような暴力とともに生きなくてすむために、できる限りのことをしなくてはなりません。どんな理由であろうと、世界中の国々が軍隊や兵器庫を縮小し、政治的道具としての戦争を放棄するために、最大限の努力をしなければならないのです。

 あまりにも多くの貧しい国が、国内外の安全を脅かされているわけではないのに、その限られた財源を軍事に費やしています。軍が、自国の人々をしばしば圧迫します。軍事力を縮小することで、政府は自由になった資金を、もしくは平和の配当金を社会の抱える問題の真の原因に立ち向かうために使うことができます。

 軍隊を大幅に削減することこそ、正真正銘の軍縮への道だと私は信じています。にもかかわらず、それを達成するための条件を整えている国は数えるほどしかありません。自分たちの子孫が武器のない世界に生きるのだという夢を捨てなければ、少なくとも地球規模での非武装化へ、大きく踏み出すことができればよいと信じています。

 私の住む地域、中央アメリカのコスタリカとパナマ、それにカリブ海の2つの島国、ドミニカとセントキッツ・ネヴィスでは、憲法上軍事力を廃棄することを決めました。アリアス財団の非武装化プログラムに刺激を受けたハイチでも、戦時編成を解くための施策をとりました。多くの方々にとっては、これらは小さな成果に見えるかもしれません。しかしこの行動が模範となって、広く国際安全保障にも前向きな影響をもたらします。

 とりわけ先進国は、発展途上国へ販売する武器を削減する責任があります。冷戦が終結し、武器があり余っていることは明らかで、またそれは多くの武器が安い値段で売買できることを意味しています。我々の国々に暴力が蔓延するのを喰い止めるためには、武器取引を終わらせなければなりません。そこで私はノーベル平和賞をとった仲間に呼びかけて、武器取り引きに関する国際行動規約の草案をつくっています。

 この行動規約は非民主主義の国、国際的に認められている人権を侵害している政府、他の国民に武装攻撃をしかけている国に対し、武器の販売を禁止するものです。最後に、この規約は武器を購入する国に対し、国連の通常兵器登録に完全に準拠することを義務づけています。規約案ができたら、世界のほとんどの国々が勇気と強さと先見の明をもって、この規約を採択してくれることを願っています。

 かかる規約の取り決めには、時間がかかるでしょう。しかし人類は待つことができません。貧しい国の貧しい国民は待つことができないのです。我々の将来を求めるための叫びは待つことができません。迅速に行動しなければなりません。その迅速な行動が、今問われているのです。

 皆さん、今と異なる世界をつくることは可能です。私は地球の顔を変えていくための豊富な知識と資源を、我々は持っていると確信しています。これまでより一層、それぞれの責任を自覚し、これに取り組んでいかなければなりません。

 正確とはいえませんが、人々を考える人と行動する人に分けることができるとよく言われます。しかし、現実は決してそれほど単純ではありません。知性は、理想を達成しようという強い志がなければ無意味です。思考や思想も、全く無関心であれば、何も実を結びません。研究や分析をしたり、絶え間なく世界を旅して歩いたりすることはできます。しかし解釈し、明確に説明をし、教育をするために立ち止まらなければ、その結果は乏しいものになるでしょう。

 今日直面している問題は、情報の欠如ではなく、こうと決めたらやりとげようとする強い意志の欠如なのです。

 ここにご出席の皆さんの中には、自分が世間知らずで無学であると主張なさる方は、ほとんどいらっしゃらないでしょう。我々は、直接にかかわったのであれ、「怠慢の罪」によるものであれ、国家の不正そして国際的な不正が蔓延することに責任があると考えなければなりません。以下の犯罪において、我々自身も共犯だと責められる可能性があります。

・栄養不良や病気で毎日34,000人の子供の命が失われていること

・15億人が保健サービスへのアクセスを欠いていること

・発展途上国における対外債務が2兆米ドル以上にまで拡大していること

・安全な飲料水を確保できない人が13億人もいるという事実

・世界における非識字者の人が10億人もおり、その60%が女性であること

 皆さん、今挙げたものに加えて、人類による仲間の人類への、考えられる限りの侵略、攻撃も然りです。

 かかる事態があってはならず、我々は真の、持続可能な和平に向けて努力することを誓わねばなりません。この道のりは長く、骨の折れるものだということは、皆認識しています。しかしながら今日ここにおいでの皆さんは、隣人の精神を平和の方向に向けていくために必要な忍耐力を備えています。この意味では、連帯と利他主義が少しずつ普通となってくるでしょう。

 我々の労苦は、同時代やその次の世代に実を結ぶものと考えないことでしょう。しかしその労苦は、今後何世代も先の子孫のための遺産として、受け継がれるでしょう。だからといって、この事が我々の努力を妨げたり、意気喪失したりする理由であってはならないのです。

 ルードウィッヒ・ウィットゲンスタイン(Ludwig Wittgenstein)という哲学者が、その格言の中で「たった一歩しか踏み出さない者は、その時代に足を取られるであろう。」と警告しています。

 さて現代の最も好ましくない時期については、すでに検証をし、生き残っていくためには、人類はこうした戦争を好んでする時代から抜け出さなければならないことを知りました。

 最も遠い子孫たちの幸せという遠大な計画を立ててこそ、我々の時代の悪から子供たちを救うことができるのです。

 孫たち、ひ孫たちが尊敬と寛容さをもつ環境で生活できる世界をつくらなければなりません。私は再度、多様性が無限であることを強調します。我々も然り、その子孫たちも人間の多様性がもっと当たり前の世界に生きることになるでしょう。地球上で穏やかに共生するためには、隣人の持つ違いを美しいと見ることを子孫たちに教えなければなりません。

 隣人の経験から学ぶということを教えなければなりません。ある人と同じ特性を持つことが貴重だと思うと他人に依存してしまいます。しかし人生を尊重することで、こうした特性をすべて受け入れ、大切に思うことができます。

 こうした受容の枠組みの中では、障害は人間のもつ多くの様々な特性の1つとして考えられます。障害は人生の妨げとなるものであるとか、通常と異なるものであるというようには、みられないのです。むしろ、子供たちは多くの点から人生を経験することができるでしょう。この意味において、皆さん、将来はもっと豊かなものになることでしょう。

(訳:加藤裕子)

元コスタリカ大統領、'87年ノーベル平和賞受賞者


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1997年2月(第90号)2頁~6頁

menu