特集/第18回RI世界会議 社会参加と平等の実現に障害者がもっている資源を

社会参加と平等の実現に障害者がもっている資源を

Bengt Lindqvist

 世界の障害者運動の中で、私たちは長い間、万人のための社会、つまり、そこに住むすべての人の要求に基づいて設計、建設、開発が行われた社会への夢をもち続けてきた。私たちのこの夢は、いかなる違いをこえたすべての人間のためにある、世界人権宣言の原理と真意に完全に沿っている。私たちの運動の大きな課題は、私たちの夢が本当に意味するものと、それを実現するためにはどのような具体的方策、計画、政策が必要かを、世界に示すことである。

 国際障害者年が制定されたとき、この課題に向けての重要な一歩が踏み出された。国連は、障害分野発達における目標として「完全参加と平等」というテーマを採択した。このことは、実質上最高の政治レベルで障害者が平等に社会参加する権利が承認されたと見なければならない。これは、世界の障害者のコミュニティに提供された、最もすぐれた機会だと考える。これはすばらしいことだが、このテーマが本当に意味するものは何か。私たちは、完全参加の概念に、どう命を吹き込めばいいのか。障害という観点で、「平等」は何を意味するのか。

 まず最初に言いたいのは、それぞれ異なる事情で、障害者コミュニティに属している私たちが、この概念を解釈し、具体化しなければならないということである。障害者の経験こそが、その解釈の基礎とならなければならない。私たちがこのことを終えたとき、次のステップは、完全参加と平等への権利の行使を妨げる障害物をすべて明らかにすることである。

 私が指摘したいもう1つの点は、私たちは特権を要求しているのではない、ということである。私たちは、他の人々がすることをしたいのである。私たちは、私たちの仲間にとってはなじみ深くてありふれた日常生活での行動について話しているのである。私たちは、家族と一緒に暮らしたいのである。私たちは、学校へ行って友人を作ったり、仕事のための訓練を受けたりしたい。そして、これは重要なことだが、私たち自身の生活を自分のものとする方法を学びたいのである。他の人たちと同じように、私たちは住む場所を見つけたいし、それを家庭の中に作りたい。また、娯楽を楽しみたいし、文化の刺激を受けたい。年を取っても、他の人のように尊厳を持って生きていきたいのである。

 私たちは不可能なことをを要求しているのではない。盲人である私は、レンブラントの絵を観ることを求めているのではない。私のろうの友人が、モーツァルトの音楽を聴くことを求めているのではない。車いすの人々が登山できるようになることを要求しているのではない。しかし、私たちは、日常生活や普通のサービスと活動が技術上及び実質上可能な限り利用できることを求めている。

 結論すれば、たまたま障害をもった私たちは、宇宙からやってきた生き物ではない。私たちは、あたりまえの感情と、要求をもった、普通の人間である。これを指摘することは大変重要だ。なぜなら私たちはこれまで障害をもつ人間がいることを恥ずかしく思う家族によって、しばしば隠され、施設に隔離されてきたからである。不幸なことに、現在でも、多くの国でこういうことが現実に起こっている。

 結果として、家、道路、学校、職場、交通機関、広報活動等々が、あたかも私たちが存在しないかのように、つくられてきたし、現在もそうである。もし、「完全参加」がなんらかの意味をもつのなら、このような無視はやめなければならない。そのようなことは、国連総会が採択した原則に基づき、差別として非難されなければならない。(昨日聞いて大変勇気づけられたのであるが、ニュージーランドの首相が、障害者に対するすべての差別を禁止する新法に言及したということである。これは進歩である。)そのような社会である限り、私たちはその行動を根本から変えるべく主張していかなければならない。

 考えてみるに、私たちはこの15年間、長い道のりをやってきたが、思想と行動との間には大きなギャップがある。私たちは、国連総会で採択された原則が適用された、多くのすぐれた法律やプログラムの実例に注目している。しかし、私たちの進歩は、しばしば断片的で、偶発的なものである。進歩の中に持続性が欠けている。これは、多くの場合責任の所在を、私たちが明確にできなかったという事実による。実のところ、大半の国でこのことがきわめて重大な問題になっている。私は、障害問題を効果的に扱うため、3つの重要な責任を決めなくてはならないと考える。

 最初に私たちがすべきことは、障害者にとって容易に利用できる、製品、サービス、環境をつくり出すための責任をもつことを当たり前のこととすることである。通常、人々のために何かをデザイン、建築、または提供する者は皆、その製品を利用可能なものにする責任を負わなければならない。基本的にこれはまた、利用可能なものを作るコストは、企画段階で本来含まれていると考えるべきだということを意味する。言い換えれば、これは20年来私が唱え続けていることだが、本来のやりかたをせよ、ということである。しかし、そこには1つ危険が伴う。もし、なにも強制的なシステムがないまま、この統合され、当たり前のこととされた責任の原則を採用すれば、結局なにも変わらないだろう。そのような例はいくつも見てきた。不幸なことながら、目下のところ、この原則にはある種の法律による支援が必要なのである。

 2番目に、障害者の福祉の最終的な責任についてである。政府は常に最終的な責任を負っている。それは、決して第三者に委任できないし、それによって、免れることはできない。これは、政府の関わってきた、人権に関する公約と国連の決定からみて当然のことである。実際には、これは障害者の社会参加を一層すすめる施策に着手する責任が、政府はもたなければならないということを意味する。

 最後に、3番目の責任に関することである。これは、もっと非公式で、道義的な性格を帯びている。障害者団体を先頭とする障害者コミュニティにいる私たちは、変化と進歩を主張する責任をもたねばならない。私たちはまた、常に状況を評価し、すべての関係者に私たちの経験と意見を伝える立場に立つべきである。この点を怠れば、残念ながらほとんど何も変わらないだろう。

 さて、ここにいらっしゃる多くの方々は、「リンドクビストは世界を変えることを話しているが、私の持っている資源が少なくて、ものの見方も限られている私に何ができるだろうか」とおっしゃるかもしれない。私の答は、「自分を低く評価しないでください。あなたが特に他の人々と力を合わせれば、重要な政治力に育つでしょう。なぜなら、あなたが非常に重要な問題を提起しているからです。」

 ここで、今まで述べてきたことをまとめてみることにしよう。最初に完全参加と平等という目標が設定された。これらの目標に向かって私たちが行うすべてのことを関連づけていかなければならない。私たちの仕事は、ことばから行動へ、紙の上のガイドラインから効果的な施策の具体化へと移っていかなければならないことである。世界各国の政府は率先して、差別と排除を阻止し、参加への施策を創案するという行動の法的な枠組みを具体化しなければならない。1人ひとりの障害者は、自分自身の生活の主たる行為者として行動するよう、力をつけなくてはならない。制限をうけるのは、ただ、自らの障害だけである。責任を統する原則を実行しなくてはならない。排除的な行動を阻止しなくてはならない。

 最後に大事なことを言い忘れたが、すべての国において、私たちができる限り発展していくことを必要に応じて、支援するような強い力を形作っていくことこそが、私たち自身の役割である。

 最後に、私たち自身の責任について語っている、スウェーデンの詩を(私の翻訳で)引用し、肯定的かつ楽観的な意見を述べたい。詩人の名前は、バーント・ローゼグレン(Bernt Rosengren)といい、彼の詩はこんな風である。

私たちは、

  目を閉じることによってのみ、

  自由が存在すること、

  平和があることを

  信じることができる。

私たちは、

  目を開けていることによってのみ、

  自由が存在するだろうこと、

  平和があることを

  確かめることができる。

ある種の必要な狂気というものがある。

  それは世界を変えられると信じること。

  狂気―それは、抜群の才能に近く、

  同時に常識そのものでもある。

あなたたちは、それができる。

そしてそれをするのだ。

他の人々と一緒に。

私たちは、

  目を閉じることによってのみ、

  自由が存在すること、

  平和があることを

  信じることができる。

私たちは、

  目を開けることによってのみ、

  自由が存在するだろうこと、

  平和があるだろうことを

  確かめることができる。

皆さん、
 「完全参加と平等」を、障害分野における発展の目標として認識することは、私たちすべてに大きな機会をもたらしてくれる。この機会を利用しよう。私たちが力を合わせれば、世界を、すべての人たちにとって、もっと住みやすい場所に変えることができるだろう。

 ご静聴ありがとうございました。

(訳:馬橋由美子)

国際連合「障害者の機会均等化に関する基準規則」特別報告者


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1997年2月(第90号)7頁~9頁

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