特集/第18回RI世界会議 参加・平等へのステップ

参加・平等へのステップ

Mary O' Hagan

はじめに

 今日は、まず私自身精神障害をもつ者としてお話しをさせていただきます。18歳から26歳まで、私は抑制できない激しい気分の揺れに苦しんでいました。精神科の患者になったとき、私は裸にされ、服をはぎとられ、私の信用や夢もはぎとられました。

 医師から、このような気分の変化とこれから先もずっとつきあわねばならず、2度と完全に生産的な人生は送れないだろう、といわれました。私の悪い遺伝子が受け継がれないよう、子供はもたないほうがいいと警告されました。沢山の飲み薬をもらい、枕まで与えられたこともありました。しかし通常私が雇ったヘルパーたちは、私の苦悩を感じようとはせず、私が失った生活を取り戻すことに手を貸そうともしませんでした。何年もの間、空虚な、受け身の依存型という品位を下げた生活をすることを押しつけられて、私自身のもつ力への期待も自覚もありませんでした。

 私自身は、1950年代の後半、比較的恵まれた中流階級の家庭に生まれました。ロックンロールが誕生してから、避妊用ピルが登場するまでの時期でした。1960年代から1970年代初頭に子供時代を過ごし、その頃は多くの伝統的な信念や方法が、やり玉に挙げられたり、くつがえされたりした時代でした。当時は、通説に従うことに疑問を持つことと、1つの特定な団体やイデオロギーに対する忠誠よりも、人間の多様性を受け入れるといったことが尊ばれた雰囲気でした。

 また私は、過去10年にわたってニュージーランドで精神保健サービスを利用する側の運動を開始した人々の1人として、同時にWorld Federation of Psychiatric Users(世界精神医療ユーザー連盟を1996年4月にWFPSurvivors Users = ~医療ユーザー・アンド・サバイバー連盟に名称変更)の設立メンバーであり、初代会長として話をしています。

 これらすべてのことを申し上げたうえで、私がより広い意味の障害者運動や、発展途上国の人々や、男性や、世代を越えた人々を代表して、お話しすることはできないことを是非ご理解下さい。単純に私自身の話をしたいと思います。

 精神保健サービスの消費者運動は、障害者運動の周辺に位置しますが、多くの共通の課題を抱えてもいます。そこで、そうした課題をお伽話形式でお話ししてみたいと思います。

 昔、ある深い海に囲まれ、青々と茂った豊かな島で、古い大きな家に住むある家族がいました。家族はその家を安全で住みやすく美しい場所に変えていこうとそれぞれの生活を捧げていました。それぞれの才能と技量を持ち寄り力を合わせて調和のとれた仕事をしていたのです。けれども、家族の1人で画家の娘に徐々に変化が起こりました。自分でもまた、家族も理解できないような、奇妙な支離滅裂の絵を描きだしたのです。皆はこわがり困惑しました。

 しばらくして、家族が娘に言いました。「おまえは出ていくべきだ。おまえの絵は、この家にふさわしくない。おかげで我々の家は安全で快適ではなくなってしまった。」

 家族は介護人(care taker)に頼んで、娘を敷地のはずれの波寄せる低地にある物置小屋に閉じ込めてしまいました。その小屋で彼女はこれまでより一層苦しみましたが、やがて海と友達になり自分の芸術の意味を学んだのです。すると絵具や絵筆が恋しくなりました。そこで介護人に家に帰りたいと家族に告げて欲しいと頼みました。

 しかし依然として、娘が家を乱してしまうと信じていた家族は、「裏のベランダなら食べ物と毛布も与えて住まわせてもいい。ただし家には、家族がいいと言ったときだけ入ること」という返事をしました。裏のベランダでの生活は、物置小屋の生活とさほど変わりませんでした。まだ絵筆を持つことは許されませんでしたが、彼女のなかには、芸術への強い欲求が叫んでいました。彼女の苦しみを見た介護人は家族を説得し、もう一度彼女が家に住めるようにしてくれたのでした。

 娘は、またきれいで安心できる環境に住めることに大喜びでした。そして絵筆を手にとると、家族が見守るなかで絵を描き始めました。初めのうち、家族には絵の意味がわかりませんでしたが、やがて作品に力を感じ、「こんな絵の描き方をどこで学んだのか」と、彼女にたずねました。彼女は「物置小屋で、海と友達になったの。海が私の絵の意味を教えてくれたのよ。でもこれまで長いこと筆を握ることを止められていたから、こんなふうに絵を描けるなんていうのは、自分でわからなかったのよ」と答えました。

 家族は自分たちの過ちに気づき、それからは娘に部屋を与え、そこに住まわせ、自由に飾りつけをさせました。そして家族はひとつ屋根のもとで、いつまでも幸せに暮らしました。

自己決定

 歴史上、そしてさまざまな文化において、社会から逸脱していると見なされた人間に対して、主に3通りの反応が示されてきました。

 物置小屋型は、社会から異質な者を隔離して、施設へと送り込む方法です。裏のベランダ型は、コミュニティ・ケアやノーマライゼーションによって生まれた方法ですが、対象者が変化して、社会の規範に適応できるのなら、部分的なアクセスを与えるというものです。同居型は、コミュニティのあらゆる多様なメンバーが共存し、平等な参加をするというものです。

 精神保健サービスの消費者運動、さらに広範な障害者運動に携わる者にとって受け入れられるのは、同居型だけです。一言でいうと、これが自己決定です。

 ここ何十年の間、歴史的に物置小屋や裏のベランダに追いやられてきたいくつかのグループが、自己決定の原則にのっとるようになりました。男女同権主義や、公民権運動、同性愛、先住民、障害者運動は、「自分たちは隔離されたくない。合わない型に無理やり合わせたくはないのだ」と主張してきました。彼らの望んでいるのは、社会が変わることであり、それによって彼ら自身にアイデンティティ、生活様式、文化を決定する力と資源が与えられることです。

 さてこの自己決定ということを、女性として、また精神障害をもつ者として、もう少しお話ししてみたいと思います。

 著しい気分の変化が安定してきた10年ほど前から、私は精神障害をもつ人々の状況分析を新たに開始しました。これは、男女同権主義運動で女性の置かれている状況を分析するパターンととても似ていて、次のような点があります。

・精神保健上のサービスを利用する人々は、虐げられている。

・抑圧しているのは、社会と精神保健のシステムである。

・サービスの消費者は団結して意識を高め、抑圧に対して、組織だって闘う必要がある。

・社会と精神保健のためのシステムは、根本的な改革がなければ、自分たちのニーズを満たしたり、人生への自己決定ができるようにはならない。

 これは価値ある分析ですし、私も依然として同意見ですが、10年たった今では私にとって、もはや十分ではなくなりました。

 社会におけるすべての運動は、夢を追う人たちの小さな集まりによって開始され、複雑さや、実用性よりは、その人たちの革新性や明確さゆえに賞賛されるものなのです。しかしそうした社会運動を進めるためには、時には障壁や不道徳、賄賂や誘惑などによって、信頼できなくなっている世の中ともつきあうことがあるのです。こんな時でも急進的な分離主義廃止論者と、穏健な架け橋となろうとする改革派の間で分裂が起きていることがしばしばあります。運動が提起した挑戦課題に通常不充分で申し訳程度ではありますが、社会の主流が動き反応を示し始めれば、穏健派はその存在意義が出てくることがあります。私の個人的考えでは、熟成した運動により両方が力を発揮できる場所を作り出す必要があります。

 私の知る限り、あらゆる社会運動はまず抑圧された部分からスタートし、やがて新しい、あまり聞かれないことを口にするようになります。

 「犠牲者であるという考えかたに溺れ、他人を非難するというのはやめよう。

 我々は前進し、我々自身がそのことに対処していく必要があるのだ。」

 これは、女性運動や精神保健サービスのユーザー運動で、ここ数年聞かれるようになったものです。こうしたメッセージを言う人は、同胞に対してかなり厳しいことがあり、その運動の創始者たちが、どれほどのものを背負っていたか分かりにくいこともありますが、メッセージそのもののもつ意味はきわめて重要です。

 女性として、また障害をもつ者として、自分たちが受けている抑圧をしっかりと認識し、それを克服するために力を注いでいくべきです。ただし、運動として、また個人としてもこれまで慣れ親しんできた力のない、虐げられた状態に留まらないことは重要です。

 さて、これまで犠牲者である者が、自分たちの力―というのは物事を起こす能力のことですが―を主張する時に遭遇する困難について、いくつかの考えを取り上げ、ご紹介したいと思います。私自身の経験と、それから女性運動家ナオミ・ウルフ(Naomi Wolf)の最新作『ファイアー・ウィズ・ファイアー』から引用したいと思います。

・時として、我々は本質的に力をもつ人間は悪で、力を奪われた人間が善なのだと、決めてかかる。

 抑圧された人々というと、罪のない犠牲者、気高く、批判を超えた存在だというイメージを抱きがちです。ナオミ・ウルフはこう書いています。「女性運動家は環境の汚染から、肉食、幼児虐待に至るあらゆる悪は、男性の権力志向から派生している、と考えられるような思考形態をつくってきた。この考えによれば、男性は悪役で、女性は聖人とされている」。

 彼女は、男性が女性に対して行ってきた抑圧的な事柄は、その性別によって説明できるのではなく、人間性によって説明される、としています。

 同様に、私が常に自分自身で忘れないようにしてきたことは、もし私が精神保健サービスの受け手でなく、精神保健ワーカーとして提供する立場だったら、私がこれまで非難してきたことを行っていたかもしれない、ということです。

・我々は自分たちのもっている力に気づかない時がある。

 ナオミ・ウルフは、「女性は、自分たちへの抑圧を思い起こさせるものに、うんざりしている。しかし女性に強さがあり、資源も十分にあり、責任感もあることを訴えていくことで、ずっと効果的に運動を展開することができる」と示唆しています。

 しかし、常にこのように考えられるわけではありません。例えば、先日私は英国のニューキャッスルにあるプロジェクトを訪ねました。そこでは消費者団体が精神保健サービスの買い手にアドバイスをしていたのです。消費者は、「このプロジェクトは時間の無駄だった。自分たちが関わったが何も変わらなかった」と言っていました。でも私が話をしたマネージャーは、消費者がこのプロジェクトに関わってくれたことで、とても重要な変化がもたらされたと、心から思っていました。

 もし他の人たちがみて、たとえそれが自分たちの欲している程度や、内容のものでなかったとしても、我々のことを力をもっていると感じたとしたら、確かにそうなのです。

・時として、我々は自分のもつ力を恐れることがある。

 ナオミ・ウルフいわく、「女性は、権力をたくみに使い、またすでに自分たちがいかに強いかを理解できるようにならなければ、世界を変えることができない」。

 抑圧的な権力を味わってきた者は、どんな権力に対しても疑いを抱き、また権力を賢く、責任を持って行使するための模範となるものもありません。

 私自身もこのことに苦しみました。サービス利用者運動を指導する者として、自分が抑圧的な精神保健ワーカーのように振る舞っていることを非難されるのではないか、という懸念からその力を十分に発揮しきれないということがありました。

・時として我々は、その力を抑圧的に行使することがある。

 数年前、私は米国に消費者が運営する住宅プロジェクトを訪ねました。私が足を踏み入れた場所は、住居のような雰囲気のコミュニティ・ハウスではなく、今までで最も権威主義的な施設でした。

 責任者が家の中を案内してくれましたが、住居人に断りもなく勝手に部屋に入り込みました。すべての寝室の扉と寝台にも数字が書かれていて、職員用の階下の部屋はガラスで仕切られていました。はり紙には、「バリーは部屋でたばこを吸っているところを見られた。彼には1度に1本のたばこしか与えないこと」とありました。そして職員用のトイレは入所者のとは別になっていました。これは、住居人と職員との階層的距離を明らかに示すものでした。

 これは極端な例ですが、消費者が運営するサービスには、これまで私たちを抑圧してきた制度を繰り返しているものもあります。このことは、抑圧されてきたことが免疫となって、抑圧をする側にまわらないとは決して言い切れないということを、我々に警告してくれています。事実、それを示すかなりの歴史的、心理学的証拠があるのです。

・時として我々は、力に伴う責任を受け入れることが難しい。

 以前、私は地元の保健事業機関で、消費者団体と精神保健の担当者がともに新しく消費者が運営を始めたサービスを購入するプロジェクトに関わりました。

 消費者の中には、担当者と衝突をおこす人たちもいました。その新しい役割において、消費者は衝突の責任を一緒に取ることに躊躇し、私には非現実的だと思われますが、彼らよりもはるかに大きい力をもっているように見えた担当者をとがめたのでした。またその消費者は、障害をもつ仲間からはあまり歓迎されないような、難しい決定をしなければならないこともありました。

 それから私は、多くの消費者が運営するサービスが行き詰まり、失敗したのを見てきました。というのも新しい役割を担った消費者たちは、多額のお金を取り扱う際に必要な技量も責任感ももち合わせていなかったからです。

 このように力を主張する中での難しさを重点的に話してきましたが、だからといって、伝統的に権力を握ってきた、例えば精神保健制度を担う人々などが、やすやすとそれを手放すだろうなどと、主張するつもりはありません。いろいろな障害者団体を代表するものとしては、難しい役割がいくつもあります。

 これまで力がなかった自分たちの過去、そして力のないままでいる多くの同胞と、常に気持ちを通わせていかなければなりません。自分たちのもっている力に気づき、それを使うことですべての障害をもつ人の力を発展させていく必要があります。また我々の力を否定するものを認識し、それと向き合っていく必要があります。

おわりに

 さて、お伽話にもどりましょう。これは私が、力とそれに伴う難しい点に気づく以前に書いたものです。今私が同じものを書くとしたら、物置小屋や裏のベランダで苦しんでいた娘は、家にもどったとしても、すぐに楽園を見つけることにはならないでしょう。話の結末はおそらく、「家に帰ることになった娘は大きな喜びと同時に恐怖を覚えました。それから絵筆を再び握れるようになるのに時間がかかりました。彼女の家族も、寒さの中で娘が学んだ教訓をよくは理解できませんでした」となるでしょう。

 最後の文は、「家族はそれからずっと幸せに暮らしました」ではなくて、「彼らは一緒に暮らしましたが、その後の日々は喜びも、苦しみも、難題もありました」とするのでしょう。自己決定、言い換えれば「平等への参加」というこの話のテーマは旅の目的地でもあり、たどっていく道のりでもあります。私は、次第にこの道のりが抑圧をしてきた側のみならず、抑圧をされてきた側の決して容易ではない、自己追求と変化を必要としているということを、何年にもわたって理解するようになりました。

(訳:加藤裕子)

参考文献 略

世界精神医療ユーザー・アンド・サバイバー連盟(World Federation of Psychiatric Survivors Users)会長、ニュージーランド


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1997年2月(第90号)10頁~14頁

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