対象者別障害者福祉法の制定

<講座>

 

●障害者福祉法制の史的展開・2

 

対象者別障害者福祉法の制定

仙台大学教授 宇山 勝儀

 

はじめに

 障害者が福祉政策の対象とされ、社会的自立のための支援を公の責任において実施することとされた歴史は短い。社会福祉の理念や概念がわが国の法制に登場したこと自体が古くないことだから、障害者福祉もその枠内の事象と考えれば、当然のことともいえる。
 扶養する者のいない障害者を、自活不能の救貧の対象者ととらえ、米代の給付を公的責任において給付すると定めたのは、恤救規則(じゅつきゅうきそく)(明治7年太政官達第162号)であり、これがわが国における公的扶助の最初の法制であるが、公的責任の発動は看過できない対象者に限るものとし、救済責任に関しては「済貧恤救ハ人民相互ノ情宜ニ因りて其方法ヲ設クヘキ筈ニ候得共………」と、基本的には公的責任を回避したものであった。
 その後、救護法(昭和4年法律第39号)が制定され、また太平洋戦争終結後、旧生活保護法(昭和21年法律第17号)が制定された時点でも救貧視点は変わらず、最低限度の生活を維持するのに必要な物質的側面の保障に終始し、リハビリテーション視点での配慮は見られない。
 戦争中の戦傷病者等に対する手厚い軍事法制は、敗戦によりその存在基盤が揺らぎ、非軍人等で戦地に赴き、あるいは内地で戦禍に遭遇して障害を得た者等に国家責任を追及する契機となり、さらに戦後、欧米の福祉思想流入の中で、欧米諸国の身体障害者福祉施策との比較の上に立った制度の充実が求められ、わが国で初めて全国民を対象とした、リハビリテーション視点での法律として身体障害者福祉法(昭和24年法律第283号)が誕生することとなった。
 精神薄弱者のための法制も、身体障害者の場合と同様、長い間生活困窮の視点でとらえた救貧法制の中で行われ、慈恵、施与、恤救の対象とされ、また障害の故に差別、侮蔑、隔離等の対象ともされてきた。このような思潮の中で、昭和22年に公布され、翌年施行された児童福祉法(昭和22年法律第164号)では、本法を全ての児童を対象とする福祉法とし、その理念は救貧ではなく健全育成であること、さらに特に保護的対応の必要な児童に対しては、健全育成の理念の具体化、実践化としての法政策を盛り込んだ。
 それらは、例えば保育所、養護施設、教護施設、里親等の諸施設であるが、これらと並んで身体障害児や精神薄弱児に対する施策も組み込まれ、健全育成視点での特別な保護、指導を要する対象児を児童相談所が所管するシステムも創設された。続いて昭和24年には身体障害者福祉法が制定されたが、その検討の中で、精神薄弱者と精神障害者の福祉法制をどうするかについては議論があり、当時の状況から将来の課題とされた経緯もあって、精神薄弱者福祉法の制定は行政課題となっていた。
 身体障害者福祉法の制定による身体障害者のための福祉施策の法制化、精神衛生法の制定による精神障害者のための医療を中心とした施策の法定は、比較的医療になじみにくい精神薄弱者のための法制の欠落が明確となり、精神薄弱者の親の会等の立法要請活動の契機となり、また当時超法規的に存在したGHQ(占領軍総司令部)の要請等もあって、精神薄弱者福祉法(昭和35年法律第37号)が制定された。
 一方、精神障害者は、長い間隣憫と社会防衛視点で遇され、あるときは警察規則の中で、またあるときは監禁、拘置の対象とされてきた。1900年に制定された精神病者監護法(明治33年法律第38号)から1988年に精神衛生法の改正として制定された精神保健法(昭和25年法律第123号)へのあゆみは、精神障害者関連法制の生成・発展・変容が後に述べるように、いかに社会的事件等を契機として来たかを物語っている。
 概して障害者を、生産活動に従事できない、いわば一般の社会構成員と異なる属性をもつ者と把握し、あるいは一般社会の規範にそぐわない者として特別視し、特別の視点、特別の処遇理念で対応してきたといえる。
 本稿では、慈悲、恤救、保護、隔離、隣憫、そして時には社会防衛の視点で遇されてきた障害者に対し、福祉法制により遇するに至る経緯を障害種別ごとに概観し、併せて障害者の福祉法における更生理念が職業的更生から社会的更生に変容していった経緯等についても触れてみたい。そして共生社会の構築における平等性(normalization)とは何かについて、障害者福祉法制の展開の中で考えるよすがとしたい。
 

1.身体障害者福祉法の生成と発展

1)戦傷病者援護から身体障害者援護へ

 障害者基本法(昭和45年法律第84号)が障害者とする者のうち、最も早く福祉法の成立を見たのは身体障害者福祉法である。身体障害者は、古代より労働不能等の理由により経済的自立が困難で、扶養を期待できない者について救貧の視点から経済的救済の対象者とされてきた。律令における鰥寡条(かんかじょう)や明治7年制定の恤救規則でも、さらにその継承法制たる救護法でも考え方は同じである。
 恤救規則では救済対象としての障害者について、扶養者のいない「窮貧」、「独身」、「廃疾」に加え「産業ヲ営ム能ハサル者」を対象要件としており、また救護法では、救護対象者の中に「不具、廃疾、疾病、傷痍其ノ他精神又ハ身体ノ障碍ニ因り労務ヲ行フニ故障アル者」(同法第1条第4号)を加え、さらに勅令によって障害程度を「不具廃疾ニシテ常ニ介護ヲ要スルモノ、又ハ管用ヲ辮ズルニ過ギザルモノ」(同法施行勅令第1条第2項)と定めた。ここに既に要救済障害者の範囲を労務不能、要介護等として線引きをしていたことがわかる。このことはやがて身体障害者福祉法の性格に大きな影響を与えることとなっていく。
 どこの国でも戦傷病者に対する国家責任の履行として、援護施策を講ずることは一般的、不可避的であり、フランスにおけるナポレオン治世下での傷病軍人対策や米国におけるベトナム戦争後の戦傷病者援護施策等、枚挙にいとまがない。わが国でも明治政府以来、軍人恩給、各種戦傷病者施設、職業訓練等の施策により戦争遂行に資して来たが、敗戦によって価値観が激変し、身体障害者のうち戦傷病者のみが優遇されることへの疑問が噴出した。
 それらは第1に、戦争の災禍による被害者が旧軍人や留守家族ばかりでなく、軍属や内地での戦災犠牲者等も当然に含まれるべきであること、第2にこれまで生活困窮についての救済義務が基本的には国になく、扶養義務者や「人民相互の情誼」にあるとしたこれまでの考え方は戦争の国家責任が糾弾される中で、広く障害を得た一般国民をも援護の対象とすべきであるとの考え方が一般化してきたこと、そして第3に、それまでは唯一ともいうべき身体障害者援護のための行政機構(軍事保護院)が敗戦とともに、解体への道を選択せざるを得なくなったことである。
 かつて軍事保護院が一手に所管していた旧軍人に対する医療、生活援護、職業補導等一連の援護施策は分割され、職業補導は労働省職業安定局へ、医療は厚生省医務局へ移管され、生活援護、医療費、軍人恩給等が厚生省援護局へ移された。この時点で傷痍軍人施策は、一般国民を対象とする関連施策との調整を図りつつ敷衍化する契機となった。
 この間、昭和22年には身体障害者収容授産施設ともいえるものが9都道府県に22か所設置され、また同23年には失明軍人寮として運営されてきた国立光明寮が一般失明者の利用に供されることになった等、一般の障害者を対象とする施策が事実上、進展していった。また、同年7月にはヘレン・ケラー女史の来日を契機に身体障害者援護施策の立法化について世論の高まりを見せ、その実現は政治的問題となっていった。
 

2)身体障害者福祉法の成立

 このような時代背景の中で、昭和22年、国は広く有識者に委員を委嘱して、身体障害者援護のための基本施策の検討を開始し、同年8月には厚生省社会局に更生課を新設し、専管課として立法の企画検討に入るとともに、同年12月、厚生省は身体障害者福祉法制定推進委員会を設置し、立法のための検討に入った。
 しかし時あたかも昭和25年度予算編成の中で、ドッジラインによる財政均衡上の問題点の指摘や地方財政におけるシャウプ勧告による修正等の問題に遭遇したため、内容の十全を図るよりも、とにかく身体障害者福祉法という受け皿づくりこそ肝要との共通認識から政府提案方針を議員提案に変更し、同一法案を両院の厚生委員会が委員全員により提案して、双方の合同の審査会で検討の上、衆議院から先に上程するという異例の取り扱いが決定された。
 法案は昭和24年10月31日GHQ(占領軍総司令部)に提出され、同年11月23日その承認を得て、同月24日衆参両院の厚生委員会に付託、同月30日衆議院で可決され、続いて同年12月3日参議院で可決した。このように複雑かつ異例づくめの過程を経て身体障害者福祉法(昭和24年法律第283号)は成立した。
 

3)身体障害者福祉法の性格の変容

 ここで制定当初の本法の基本的性格とその後における性格の変容の推移等について概観する。
 

 (1)法の性格について

 成立した法文では、法の目的として「身体障害者の更生を援助し、その更生のために必要な保護を行い、もって身体障害者の福祉を図る」(旧法第1条)と規定し、さらに身体障害者の意義を「別表に掲げる身体上の障害のため、職業能力が損傷されている18歳以上の者………」(旧法第4条)と規定する等職業的能力の損傷に対する自立更生を援助する更生法と位置づけた。
 従って労働戦線への復帰を期待して医療、補装具、訓練等を実施し、労働戦線への復帰が困難な者に対しては保護を行うものとなっていた。しかし、やがて重度障害者を対象とする法の適用で更生の法理念は、柔軟な実質上の変容を認めざるを得なくなり、また保護をあくまでも副次的なものとこだわることはできない状況になってきた。
 現行法では、法の目的として「身体障害者の自立と社会経済活動への参加の促進」を掲げ、その目的のために身体障害者を援助し及び必要に応じて保護することとしている。また法第2条では「すべて身体障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与られるものとする」と規定するが、これらの法文から見ても、身体障害者福祉法の理念には職業的リハビリテーションを前面に打ち出した旧法の色彩は著しく褪色し、完全参加と平等や社会的リハビリテーションの色彩が濃くなっていることがわかる。
 

 (2)対象について

 法制定以来18歳未満の身体障害児は児童福祉法で対応することとしているが、法上の身体障害者の障害種別は、当初の種別から逐次追加されて現在に到っている。当時議論のあった精神薄弱や精神障害は将来の課題とされたが、それは判定の客観性や画一的基準の研究が未成熱であったことにもよる。
 身体障害者福祉法の目的の一つに、障害に由来する不利の克服に向けた支援があるが、不利は障害の部位や程度ばかりでなく、社会的要因等も加味した個別妥当性が重要であることから、生活障害基準の開発も今後の重要な課題である。
 

 (3)就労について

 更生法の性格から更生の鍵をにぎる職場開拓は、いわば本法施行の究極的な課題であった。しかし身体障害者のための固有の職場開拓が困難な状況から、一般求職活動については職安行政に依存しつつ、法上の施策としてささやかながら公共施設内での売店の設置(身体障害者福祉法第22条)、たばこの小売り販売業の許可(同法第24条)、身体障害者の製作品の地方公共団体等の購入(同法25条)を列挙したに過ぎなかった。
 事実身体障害者の職業的自立は、自営業によったものが少なくないといわれており、また近時、職業分野が多様化し、例えばパソコンやワープロ等による在宅就労も可能となってきており、障害者の職域拡大にも寄与している。
 障害者の雇用の促進等に関する法律(昭和35年法律第123号)には、本法制定時議論された雇用割り当て制度ともいえる法定雇用率が定められている。しかしその達成率は不十分といわざるをえず、とりわけ重度障害者に対する雇用は決定的に低い現状にある。身体障害者の更生の意義は、職場戦線への参加以外に、広く障害者自身に自己の社会的存在の認識が可能となる所まで拡大して理解する必要があろう。
 

 (4)施設について

 本法に基づく施設は、当初各種の収容訓練施設と補装具製作施設を中心とし、労働能力の取得、回復に向けた指導、訓練を中心とした処遇が行われたため、住宅提供的施設や介護を中心とした生活施設は旧法には見当たらない。当時の重度障害者のための入所施設は、生活保護法に基づく救護施設が該当していた。これは職業的リハビリテーションを中心に構成された法の一つの帰結であった。
 また、旧法ではその設置が国、公立に限られていた(旧法第5条)。これは日本国憲法第89条が「公金その他の財産は………公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対しこれを支出し、又はその利用に供してはならない」と規定するため、民間社会事業に対する公費助成が禁止されていたためである。
 昭和26年制定した社会福祉事業法(昭和26年法律第45号)では、設立、運営、指導、解散等に関して公の支配の対象となる社会福祉法人を制度化し、社会福祉事業の実施主体として位置づけるとともに、公費による助成を可能とする法理論を開発した。これにより、民間による多様かつ大量の身体障害者更生援護施設の増設が可能となった。
 施設種別の多様化では、障害種別ごとの施設が法内施設として認められ、障害種別ごとの需要に応える態勢が整備されていった。ろうあ者更生寮(昭和29年)、内部障害者更生施設(昭和42年)、身体障害者療護施設(昭和47年)等は、その例である。
 身体障害者更生援護施設は、その目的において職業的更生を期しているが、しかし実態としては生活更生的な状況も少なくない。施設種別に身体障害者療護施設を追加したあたりから、社会的リハビリテーションを基本視点とする法解釈に転換していったと考えられる。
 

2.精神薄弱者福祉法の制定

1)法制定経緯

 精神薄弱をもつ者に対し福祉的視点で制定された法律は、児童福祉法(昭和22年法律第164号)が最初である。それまでの精神薄弱者(児)については、他の障害者と同様、救貧視点でこれを把握し、慈恵、恤救ないし救貧の対象とされてきた。
 昭和22年に公布された児童福祉法では、児童福祉施設の一つとして精神薄弱児施設を規定するとともに、都道府県知事に対してこれらの施設への入所の措置権を与えた。児童福祉法制定当時、児童ばかりでなく、成人についても福祉法制が必要であるとの意見は出されており、昭和24年の身体障害者福祉法制定脚には、これとの対比で精神薄弱者についても福祉法を制定すべきであるとの意見もあったが、客観的基準策定の困難や具体的な福祉施策検討のための時間が不十分である等から、当時先送りされた経緯もあり、単独法制定には引き続き強い関心がもたれていた。
 このような状況の中で昭和25年制定された精神衛生法では、精神障害者を精神病者、精神病質者及び精神薄弱者としているものの、同法では精神衛生相談所の設置、都道府県に対する精神病院の設置義務、自傷他害のおそれある者に対する知事による措置入院等医療を中心とした規定に留まったため、比較的医療の対象になじみにくい精神薄弱者については、精神衛生法制定の恵沢は少なかった。このことはやがて精神薄弱者援護に関する法政策を求める社会的機運を高める結果ともなっていった。
 さらに成人のための援護法制に関心が高まったのは、第1に児童福祉分野で教育や施設の施策が進展をみせ、成人との均衡上著しい差が目立ちはじめたこと、また第2に成人収容施設のない中で、児童施設での年齢超過児が増加し、弾力的運用が限界に達していたこと等が挙げられる。すなわち特殊教育における、盲学校、ろう学校及び養護学校への就学奨励に関する法律の制定、児童福祉法の改正による精神薄弱児通園施設の法内施設化及び社会福祉事業法における第一種社会福祉事業への位置づけ、さらに二重、三重の障害等多重障害をもつ精神薄弱児を収容するための国立精神薄弱児施設設置に向けた児童福祉法の改正や国立の精神薄弱児施設における利用対象者の年齢制限の事実上の廃止等は、その例である。
 このような成人のための施策の未成熱が顕在化した状況を背景に、精神薄弱者の親たちで結成する全日本精神薄弱者育成会による精神薄弱者援護のための法制定にむけた国会陳情や、成人精神薄弱者のための施設づくりの先駆的実践等が展開されていったが、この背景には精神病者に対しては精神病院への収容が制度化されたものの、精神薄弱者については収容施設に関する法的根拠が不存在であったことにもよるといえよう。
 かくて昭和34年厚生省社会局更生課は、精神薄弱者のための援護法の立案に着手、昭和35年3月31日に衆議院で上程可決。同日参議院でも可決されて精神薄弱者福祉法(昭和35年法律第37号)が成立し、同日付で公布され、翌年4月1日から施行された。
 

2)立案過程における主要論点

 本法の立案過程にあっても、身体障害者福祉法の場合と同様、いくつかの議論があったといわれているが、特に関連他法との調整に腐心したようである。種々議論の結果、関連法制との調整については、ほぼ以下のような結論に達した。
 第1は児童福祉法との調整である。精神薄弱児の援護については、すでに児童福祉法において立法措置が講じられているため、精神薄弱児を対象外とした。第2は、精神衛生法(精神保健法の前身)との調整である。精神衛生法は精神薄弱者もその対象としたが、法の目的が援護よりも医療や身体的保護を重視しているため、福祉的措置については別の視点での立法施策が必要であるとされた。第3は身体障害者手帳制度との調整である。これは立案当時、精神薄弱の程度の判定技術や客観基準定立の困難等から手帳制度を導入しないこととした。
 このようにして立案された精神薄弱者福祉法は、これまでの精神障害者法制に共通的に見られた社会防衛的色彩が薄れ、更生支援法的色彩が濃いものとなった。しかし、身体障害者福祉法が職業的更生を中心に据えたのに対して、精神薄弱者福祉法は、更生可能な者に対する援助の他に精神薄弱者の特性も考慮して、保護法的色彩を併存させているところに一つの特徴がみられる。
 

3)精神薄弱者福祉法と自立更生

 精神薄弱者福祉法第1条ではその目的として、精神薄弱者に対し更生を援助するとともに必要な保護を行い、精神薄弱者の福祉を図るとしているが、ここにいう「更生」とは何かについて、法の立案過程でも議論があったといわれている。
 「改訂児童福祉法、母子及び寡婦福祉法、母子保健法、精神薄弱者福祉法の解説」(厚生省児童家庭局編 時事通信社 1996)では「更生とは、心身の障害、その他社会経済的な諸種の原因により、正常な社会生活が困難な者が、自らすすんで、あるいは他人の援助によりその障害を克服し、健全な社会生活、家庭生活を営むようになることをいう。一般的には、独立自活の生活ということで、職業的な自立更生が重要視されるが、必ずしもそれに限るのではなく、重度の精神薄弱者で身辺の世話一切を他人の介助によっていた者が、施設において指導訓練を受けた結果、着脱衣や食事等を一人でできるようになることも更生と解すべきである」とし、さらに保護に関しては「保護とは、精神薄弱者に必要なすべての保護をいい、たとえば家庭において精神薄弱者が不当な地位に置かれないような家庭環境の調整を行うことも含まれる」としている。
 精神薄弱者福祉法が「更生の援助」と「保護」を並列したことについて、同書に記載された国の見解では「更生援助のほかに必要な保護を行うとしたのは、重度の精神薄弱者については、社会的自立を中心とした更生を期待することが困難であるので、これらの者に対しては、必要な保護を行うことにしたのである。この点身体障害者福祉法が第1条において『………身体障害者の更生を援助し、その更生のために必要な保護を行い………』と規定し、かつ更生援護を法の目的としているのと趣を異にし、重度の精神薄弱者にも等しくこの法律を適用し、各人のおかれた状況に応じて必要な保護を加えようとするものである」としている。
 

4)更生と保護

 精神薄弱者の処遇で、更生と保護を対象の特性や環境状況に応じて使い分けるのは、実際的な処遇場面ではある程度やむを得ない場合が考えられる。しかし、法理念として重度の精神薄弱者について更生理念を除去してよいかについては、疑問が残るところである。
 障害者福祉の視点では、人間の尊重はゆるがせにできないことであり、意義の広狭は別にせよ、更生理念の希薄化は適切でない。精神薄弱者の更生が身辺自立までも含むとし、自立程度を問わないならば、重度の精神薄弱者についても処遇理念での「更生視点」は不可欠である。処遇にあたる職員等が月単位、年単位、さらにはもっと長いスパンで更生視点の具体化に向けた実践を行っている状況を重視し、ささやかな変化でも処遇効果と認識する必要があろう。身体障害者についても、法制定当時から見れば、重度障害者の処遇問題は大きなシェアを占めるに至っており、その更生概念は限りなく広く解されるようになってきている。身体障害者と精神薄弱者に処遇理念上の差異はなく、最広義の社会的リハビリテーション理念を両者に適用すべきであると考える。
 身体障害者福祉法において身体障害者処遇の理念が救貧から更生に移ったが、精神薄弱者福祉法において障害者福祉の法理念としての更生概念は、職業的更生という最狭義のリハビリテーション概念から社会(的)リハビリテーションに変化していったと考えられるのである。そしてこれは、社会構成員の資格要件としての生産従事要件からの変容を意味する変化であると評価すべきである。
 

3.精神障害者と福祉法制

1)精神障害者をめぐる法制の展開

 精神障害者の処遇と福祉理念の結合は、身体障害者や精神薄弱者の場合に比し、大きく遅れた。精神障害者に関する法政策で、福祉の片鱗が窺えるのは精神保健法が初めてである。
 精神障害者は身体障害者や精神薄弱者と同様、律令、恤救規則、救護法、生活保護法等で貧窮者視点でとらえられ、憐憫や物的支援の対象とされ、あるいは社会的防衛や社会的偏見から、苛酷な処遇を受けてきた。そして、精神障害者の処遇をめぐる法政策は、社会の耳目をそばだてるような事件等の発生によってゆれ動き、その生成、発展、消滅等の道を辿ったが、その顕著さは身体障害者や精神薄弱者関係の法制の遠く及ぶところではない。
 わが国の近代における精神障害者を対象とした最初の単独法は、明治33年制定の精神病者監護法(明治33年法律第38号)であるが、この法律の特徴は、(1)監護義務は国になく、後見人、配偶者、親族、戸主等にあるとしたこと。(2)精神病者を隔離、監置する法的根拠を明らかにしたこと。(3)監置の場所として、私的監置室、公的監置室及び精神病院を規定したこと。(4)監置状況等に関する監視、臨検等を医師のほか警察官にも行わせることとしたこと等である。
 この法律の制定契機となったのは相馬事件(注)であり、精神医学の未成熟や精神病院の絶対的不足状況の中で、処遇に対する不信の疑念が座敷牢での不法監禁、精神病者の野放し等世論の喚起を生じ、これに応えるためのものであった。
 当時の私的監置状況を調査し、統計的分析を試みた呉秀三の報告書によれば、欧米諸国の精神病者処遇に比して、わが国における監置の実態は悲惨この上なく、彼はこの報告書を通じて、医療を受ける権利の剥奪のみならず、非人間的処遇の実態を公表して、法改正を強く世に訴えた(資料)
 精神病名監護法は、精神病院の絶対的不足を私的または公的な監置により代替しようとするものであり、その設備、処遇基準及び公的支援も制度化しないまま、もっぱら保安的、社会防衛的視点で制定され、運用されたため、官公立精神病院設置促進運動が各方面から起こり、1919年に至り精神病院法(大正8年法律第25号)が制定された。
 この法律では、(1)主務大臣が府県等に精神病院の設置を命ずることができる(第1条)、(2)入院措置可能な精神病者の範囲の特定(第2条)、(3)国庫補助(第3条)、(4)精神病院長の患者に対する監護上必要な措置権の法定化(第4条)、(5)入院者または扶養義務者からの費用徴収(第5条)、(6)いわゆる代用精神病院に関する規定の整備(第6条)、(7)不当処分に対する訴願の提起、違法処分に対する出訴権の明記(策8条)等が盛り込まれた。
 精神病院法は、終戦後1950年制定された精神衛生法(昭和25年法律第123号)に引き継がれたが、精神病院法では精神病院を同法第1条に規定する公立精神病院に代用することが認められた結果、公立精神病院の設置は、財政事情等から遅々として進まず、法制定から終戦時までに5府県に留まっていたといわれている。精神衛生法は精神病者監護法と精神病院法にとって替わり施行されたが、その立法化及び施行については、私立精神病院長の組織的活動もさることながら、GHQの強い要請と議員立法という手段によるものであり、政府のイニシアティブは少なかったとされている。
 精神病院法においてはじめて精神病者の社会生活への適応について、国、地方公共団体の努力義務が明記されたが(第1条)、これまでの代用病院は、指定病院と名称を変えて制度の実質的存続が図られた(第5条)。精神衛生法の制定をめぐる各方面の議論の中には、通常の社会活動を行うことが困難な者を入所させ、医療に併せて職業指導を行うことによって更生を図ることを目的とする「精神障害者更生施設」構想も見られ、精神障害者に対する社会的リハビリテーション視点の萌芽も見られたが、これがささやかな緒実を迎えるのは1988年施行の精神保健法まで待たなければならなかった。
 精神衛生法は、1965年改正されたが、これは1964年に起きたライシャワー駐日米大使刺傷事件を契機としている。加害者が精神分裂病の青年であったため、危険な精神病者が放置されていることに対する社会的指弾が強く、警察庁は厚生省に対し、事件直後の同年4月30日付で、精神病者による重大な犯罪の発生が治安上放置できないので、所管省としての検討をされたい旨の申し入れを行った。改正の主要点は、(1)地方精神衛生審議会の新設、(2)緊急入院制度の新設、(3)通院医療費公費負担制度の新設、(4)精神衛生に関する保健所の位置づけの明確化等であり、ここでも精神障害者に対する社会的更生の視点は見あたらず、もっぱら社会的防衛の色彩が目立っていた。
 1987年、精神衛生法は装いを変えて精神保健法となり、翌1988年施行されたが、これも1984年に発生した宇都宮病院事件が直接的な契機となっている。これは、一私立精神病院における入院患者の処遇で、著しい人権侵害が行われていたとして全国的に報道され、他の精神病院の経営者や関係者を震憾させ、とかく閉鎖的な処遇場面での患者の人権の軽視が世間の耳目をそばだてる結果を生じた。精神保健法はこの事件の反省の上に立ち、精神病院入院患者の人権保障と社会復帰施設の整備を主な改正内容とし、これまでのもっぱら隔離、監置、閉鎖的処遇等を許容してきた法理念の修正とその具体化を図ろうとするものであった。
 精神保健法では、入院処遇を中心とした精神障害者に対する人権に配慮した処遇が求められたのを契機に、入院中心主義からノーマライゼーション理念の導入や在宅援護、社会参加をも視野に入れた法整備を行った。生活訓練施設や精神障害者授産施設を社会復帰施設として法定したこと等はその例である。形の芽生えにすぎないが、精神障害者の法制に社会福祉施設が登場したのは、本法が最初である。
 また、精神保健法では、付則第9条で、政府はこの法律施行後5年を目途にこの法律の規定の施行状況を勘案し、必要があると認められるときはこの法律の規定について検討を加え、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものと定めた。この付則の効果として、福祉視点でさらに整備され、先行の身体障害者福祉法や精神薄弱者福祉法との制度的整合に配慮して改正され、1995年には精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(平成7年法律第94号)として改定された。
 

2)精神障害者法制における福祉理念

 精神保健及び精神障害者の福祉に関する法律は、目的においても、内容においても、精神病者監護法以来一世紀近くを貫流してきた精神病者処遇の視点から見ると、著しい転換を示している。これまでの精神障害者法制が避けてきた福祉理念を精神保健法で萌芽させたとはいうものの、内容的には精神保健・医療の法としての色彩が強く、目的規定と法の内容に違和感が見られたが、本法に至って上述した障害者2法との制度的整合が感じられるものとなっている。
 それは第1に、精神障害者関係法制に「福祉」視点が明確に組み込まれたこと。これまで医療と予防拘禁的保護に終始してきたわが国の精神保健法制に、福祉が前面に現れたことは、内容や質に未成熱を認めながらも、評価されるべきであろう。これは国際障害者年を契機にすすめられた各種のグローバルな障害者施策の中で制定された障害者基本法で、障害者対策の理念として「障害者の自立と社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動への参加の促進」(第1条、3条第2項)が示され、その対象となる障害者の範囲に、精神障害者が明確に組み込まれた結果(第2条)、精神障害者についても、身体障害者や精神薄弱者と同様に福祉的立法政策が必要になってきたことにもよると考えられる。
 第2は、これまで技術的機能を中心に編成されてきた精神保健センターが、技術中心機能から脱皮し、精神障害者に対する福祉的処遇や支援のための機能をもつ地域の総合的精神保健福祉を所管する機関として位置づけられ、精神保健福祉センターとして福祉事務所機能に近づいていることである。
 第3は精神障害者保健福祉手帳制度の創設である。これは身体障害者に対する身体障害者手帳制度や精神薄弱者に対する療育手帳制度とのバランスの上で創設されたものである。制度が定着するまでには、他の手帳制度と同様、多くの曲折を経る可能性はあるが、この制度の定着と拡大が精神障害者に対する社会的バリアフリーの状況を示す指標ともなるものであり、重要かつ適切な施策と評価したい。
 第4は精神障害者社会復帰施設の充実(第50条)である。このささやかな受け皿は、精神障害者在宅援護で今後重要な役割を果たすに違いない。その他福祉事務所との連携、市町村の都道府県への協力、精神保健福祉相談員制度、地域活動援助事業、社会適応訓練事業等先発障害者福祉法制度などの組み込みを図っている。
 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律は、今後一層の整備を求められている。それらは、例えば「精神保健福祉」概念の整理、精神保健福祉センターにおける福祉機能の開発、手帳制度の問題点、在宅支援サービスの実践における予想される諸問題への取り組み等、あまりにも多い。すでに本法の充実に向けた法改正の検討は、関係各方面ですすめられているといわれる。
 しかし法に多少の不備があろうと、予算の裏付けが不十分であろうと、本法の制定自体は高く評価すべきである。それはかつて「監置」、「拘束」、「閉鎖」、「強制入院」、「隔離」、「社会防衛」等をキーワードとし、あるいは予防拘禁的保護を中心とした精神障害者の処遇に、「自立」、「更生」、「社会参加」、「地域生活の支援」等が法理念として明記されたことである。
 将来の課題は、法の目的や理念が実践プロセスのなかで合目的に具現化されることである。社会的事件等を契機とするのではなく、他の障害者と同様、否同じ社会を構成する一般の人達と同様に完全参加と平等の視点で法改正どこれに基づく実践が期待される。
 

まとめにかえて-

 障害者福祉法制の推移は、とりも直さずわが国における障害者観変容の推移でもある。障害者の対象別福祉法は一応出揃ったものの、法の具体化、実践化の過程では、幾多の解決すべき困難が予想される。
 法は社会・文化・政治との関数関係で生成・発展・変容・消滅を繰り返すものであり、障害者福祉法制のありようについても、その基底には常に国民の障害者観という究極の要因があることを忘れてはならない。今後の障害者法制の展開の鍵をにぎるのは、まさに国民の意識なのである。
 本稿の執筆では、精神障害者関係で宮城県精神保健福祉センター所長相澤宏邦氏の協力を得た。記して謝意を表する。

 

(注) 相馬事件

 明治20年代に精神病の鑑定及び精神病者の処遇をめぐって世間の耳目をそばだてたお家騒動。東京府華族の相馬誠胤(旧奥州相馬中村の藩主)を狂気に仕立て、お家乗っ取りを図る悪臣があると忠臣と称する家臣が訴訟を提起した事件。相馬誠胤が精神病と診断され、鎖室(座敷牢)での収容保護や精神病院への入院保護が行われたことに対し、家臣の一人が処遇の不当を提訴。司法や警察を巻き込む事件に発展した。この事件は、お家乗っ取りをめぐる悪臣とそれを阻止しようとする忠臣によるお家騒動の様相を呈したことや、当時の内務省衛生局長後藤新平、相馬誠胤の父充胤の側室西山りう、相馬家家令志賀直道(志賀直哉の祖父)、初代東京府癲狂院院長長谷川泰、帝国大学医科大学教授榊俶、同佐々木正政吉、同医師ベルツ等を登場させる結果となった。精神病の鑑定及び治療方法の研究の未成熱の中で、精神病者の処遇の適否をめぐって騒がれた事件であり、悪者の鑑定、身柄拘束の法的根拠を明確にする必要から、この事件を契機に、わが国初の精神病者関連法制ともいうべき精神病者監護法が制定された。(本文へ戻る)

 

資料 「精神病者私宅監置の実況及び其統計的観察」より抜粋

 ……………此法律ニヨリ精神病者ノ法律上ノ保護ハ初メテ確立シ、私宅ニ於ケル精神病者ノ待遇モ従前全ク私人ニ放任セラレシ時代ニ比スレバ大ニ面目ヲ改メタリト云フベク、我邦ノ精神病者ノ保証ハ之ニヨリテー大進歩ヲナシタリト謂ハザルベカラズ。然ルニ之ヲ他方ヨリ観察スレバ、此法律ノ趣旨ガ精神病者の法律上ノ保護殊ニ其不法ナル監禁等ヲ禁制スルニ偏局シテ、更ニ精神病者ノ待遇ヲ衛生上又ハ社會上方面ヨリ観察シテ、之ヲ擁護セントスル旨趣ヲ忽諸ニ附シタルハ遺憾と云フベシ。……………
 ……………此ノ如クニシテ我邦ニ於ケル最大多數ノ精神病者十三四萬五千人(原文のまま)ハ公私ノ精神病院ニ収容セラルルコトナキニ彼等ハ果シテ如何ナル処置ヲ以テ遇セラルルカ。之ヲ観察スルニ其処置ハ大別シテ之ヲ三種トナスヲ得ベシ。第一種ハ私宅又ハー般病院ニ在リテ醫療ヲ受クルモノ、第二種ハ私宅監置室ニ在ルモノ及ビ私宅ニ起臥スルモ監置セヲレズ而モ醫療ヲ加ヘラレサルモノ、第三種ハ神社仏閣ニ於テ祈祷・禁厭・水治方等ノ民間療方ヲ受クルモノトス。此ノ内第一種ハ富裕者又ハ恒産アルモノニシテ、國民ノ少数ニ見ル所ナリ。第二種・第三種ハ民間最多ク行ハルル所ニシテ、資産中等以下ノモノニ多ク、私宅監置ト民間療法ト此二ツハ實ニ我国ニ於ケル精神病者ニ對スル現代ノ代表的処置ナリト謂フベシ、謂フニ國民は国家ノ基礎ナリ。国家ハ須べカラク民心ノ嚮フ所ヲ知リ、欠陥ノアル所ヲ察シ、之ガ為ニ法ヲ立テ、又之ガ為ニ備ヲ施サザルヘカラズ。国家ノ精神病ニ對スル立法・施設ノ如キモ亦然ルベキモノナラズヤ。吾人ハ須ラク精神病者ニ對スル園内ノ實状ヲ知り其現況ヲ弾究シ、法ノ適否・施設ノ完不完ヲ省察シ、時代ノ進歩ト共ニ之ガ改善ヲ促シ進歩ヲ計ルベキモノナリ 。之ヲ将来ニ計畫セントスルニ當リテハ必ズ之ガ基礎ヲ現代ノ實状ニ求メザルベカラズ。……………
 ……………之ヲ要スルニ今日ノ所謂監置室ハ即チ監禁室ニ通ギズシテ、監督官廳ハ最小限度ノ設備ニ於テ其使用ヲ許可シ、而モ其構造ニ就キテハ只管堅固ナランゴトヲ望ミ、被監置者ノ逃走又ハ自殺ヲ防ギ得ルヲ能事ト爲ス如キ觀ナクンバアラズ。又実際ニ於テモ悪者ノ逃走ヲ遂ゲタル如キ例モ小數ナガラ之ナキニアラズ。然レドモ此小數者ノ為ニ多数ノ監置室ヲ律スルニ、昔日ノ牢獄ニ髣髴タル構造ヲ以テシ、勢ヒ衛生ノ設備ニ不備ヲ伴ハシムル如キバ吾人之ニ奥ミスルコト能ハザルコトナリ。……………今茲ニ良好又ハ普通トシテ挙ゲタルモノト雖ドモ前記諸實例ニ就キナ容易ニ之ヲ看取シ得ルガ如ク、略〃患者ヲ遇スルニ同種人類ヲ以テスルマデニシテ、纔ニ觀ル人ヲシテ嫌忌ノ念ニ面ヲ掩ハシムル迄ニアラザルヲ得ルノミ。其ノ不良ナルモノニ至リテハ給養ノ薄キ、看護ノ疎ナル轉タ人ヲシテ酸鼻ノ極、憶隠ノ情ニ堪ヘザラシムルモノアリ。……………
……………之ヲ要スルニ被監置者ノ命運ハ實ニ憐ムベク又悲シムベキモノナリ。彼レー度監置セラルルヤ、陰鬱・狭隘ナル一室ニ躅蹐シテ、醫藥ノ給セラルルナク、看護ノ到レルナク、家族ハ猶ホ此ノ如クニシテ多少トモ其回春ノ機ノ來ダランコトヲ期待スルモノモアリ。殊ニ知ラズ、此ノ如クニシテ病勢ハ日ニ日ニ癡呆ニ傾キ行キナ、治スベキモノモ不治ニナリ了ルハ自然ノ數ナルコトヲ。是ニ於テカ病者ハ遂ニ終生幽囚ノ身トナリテ再ビ天日ヲ仰グニ由ナキハ無期徒刑囚ニモ以テ却ッテ遙ニ之ニ劣ルモノト云フベシ。囚人ニアリテハ尚ホ此病者ヨリハ多少廣濶ナル自由ノ天地アリ、狭シト雖ドモ猶ホ清潔ナル檻房アリ、疾病アルニ際シテハ又監獄醫ノ診療ヲモ受クルコトヲ得ベシ。精神病者ノ私宅ニ監置セラルルモノニ至リテハ、實ニ囚人以下ノ冷遇ヲ受クルモノト謂フベシ。……………
……………之ヲ要スルニ現行の精神病者監護法ハーニ希有ナル不法監禁ヲ取締ランコトヲノミ眼中ニ置キテ、精神病者ノ待遇保護ヲ衛生上又ハ社會上ノ二方面ヨリ観察シテ之ヲ完整スルコトヲ顧ミザリシガ故ニ。従来猥ニ精神病者ヲ制縛・監禁セシガ如キ悪弊ヲ取締リ得タルコトハ多少ハ之アリシナラン。而モ之ガ為ニ病者保護ノ主眼タル治療ノ利得ヲ阻礙スルコト多大ナリシナリ。之ヲー面ヨリ言ヘバ、明カニ其処置ハ此法ノ命命ニヨル醫療ノ權利ヲ侵犯スルモノト云フベシ。精神病者ニ對スル我邦ノ法律ニ不備アルハ、惟リ監護法ノミニ止マラズ、我刑法ニハ精神病者ノ犯罪行為ヲ以テ心神喪失者ノ行爲トナシ、之ヲ罰セザル規定ナルモ、此ノ如クニシテ免訴トナリシ犯罪的精神病者ニツイテハ、其後ノ処置ニ關シ法律上ニモ何等ノ規定ナク、行政上ニ於テモ何等ノ処置ヲ講ゼザルハ奇怪ニ堪ヘザルコトナリ。吾人ハ我邦ノ精神病者ニ對スル法律ガ社會ノ進歩ニ伴レテ改正セラレ、或ハ新ニ立案セラレンコトヲ希望シテ已マザルナリ。……………
……………方今我邦ニ於テハ官公立精神病院ノ施設殆ンド全ク之ヲ闕キ、之ガ代補タルベキ私立精神病院ノ収容カモ亦甚貧弱ニシテ、全国凡ソ十四五萬ノ精神病者中、約十三四萬五千人(原文のまま)ノ同胞ハ實ニ聖代醫學ノ恩澤ニ潤ハズ、國家及ビ社會ハ之ヲ放棄シテ弊履ノ如ク毫モ之ヲ顧ミズト謂フベシ。今此状況ヲ以テ之ヲ歐米文明国の精神病者ニ對スル國家・公共ノ制度・施設ノ整頓・完備セルニ比スレバ實ニ霄壌月鼈ノ縣隔相異ト云ハザルベカラズ。我邦十何萬ノ精神病者ハ實ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此國ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ。精神病者ノ救濟・保護ハ實ニ人道問題ニシテ、我邦目下ノ急務ト謂ハザルベカラズ。(下線筆者)
(注):本資料内に用いられている漢字は、文字コードの関係で一部新字体に変更してあります。(日本障害者リハビリテーション協会)

呉秀三・樫田五郎『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」(大正7年)昭和48年復刻版(精神医学神経学古典刊行会 社会福祉法人新樹会)よリ抜粋(本文へ戻る)
 

<参照・引用文献>

・松本征二「身体障害者福祉法解説」中央社会福祉協議会 1951
・厚生省児童家庭局編「改訂 児童福祉法・母子及び寡婦福祉法・母子保健法・精神薄弱者福祉法の解説」時事通信社 1996
・厚生省保健医療局精神科保健課監修「精神保健福祉法新旧対照条文・関係資料」中央法規出版 1995
・秋元波留夫「精神障害者リハビリテーション-その前進のために-」金原出版 1991
・金子嗣郎「松沢病院外史」日本評論社 1982
・秋元波留夫・竹村信義「ライシャワー欠使刺傷夢件」 内村裕之ほか監修「日本の精神鑑定」所載 みすず書房 1976
・相沢宏邦「地域精神医療の改革に向けて」病院・精神医学(35巻1号)病院・精神医学会 1993
・大谷 賃「精神保健法」有斐閣 1991
・宇山勝儀「社会福祉の法と行政」光生館 1997
・宇山勝儀「身体障害者福祉法制史点描」雑誌「障害者の福祉」所載 日本障害者リハビリテーション協会 1989

 


 

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1998年3月(第94号)22頁~31頁
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