埼玉県健康福祉部看護福祉系大学設立準備室主査 朝日 雅也
本稿では、国際障害分類改正案(以下、「ICIDH-2」)を用い、ある聴覚障害者の現状と経験について、特に職業生活の質の確保と環境の観点から理解することとした。また、それらの分析を通じ、援助を進めていく上での課題の整理を試みた。事例は、過去に筆者が職業リハビリテーションカウンセリングを担当した聴覚障害者である。
事例の概要は、表1に示すとおりである。数回転職を繰り返し、現在の職場は4カ所目になる。採用時から嘱託社員であり将来に不安があること、職場において聴覚障害者は本事例1人のみで、社内でのコミュニケーションや各種情報の確保、研修機会の不足などに不満があることが現在の職業生活上の主な課題である。
項目 | 内容 |
性別 | 男性 |
年齢 | 40歳代 |
職業 | 重機械製造会社に勤務。コンピュータを利用した機械設計業務に従事。 |
居住区域等 | 首都圏在住。自宅は持ち家。 |
家族構成 | 妻、子3人の5人家族。妻は聴覚障害あり。 |
障害種類 | 聴覚障害(身体障害者手帳記載:「感音性難聴による大声言語理解不能(耳介)音声・言語機能喪失)」身体障害者手帳等級:1種1級 |
程度と原因・受障の状況 | 2歳時に高熱を発し、ストマイを服用した結果聴力を損失。 主たるコミュニケーション手段は手話、読話、口話。発語は語音が不明瞭。 |
おもな生活歴 | 首都圏で出生。幼稚部から一貫してろう学校に学ぶ。高等部卒業後、家具製造に従事するが、会社倒産。29歳で結婚。東京刷会社、図書販売会社に勤務したが、それぞれ職場におけるコミュニケーションに起因した自己都合で退職。39歳の時にKリハビリテーションセンターに入所し、機械製図の職業訓練を経て現在の勤務先に入社。 |
社会生活の特徴 | 転職は比較的多めであるが、職業生活は一貫して継続している。現在の職場は嘱託社員としての採用で、正社員への登用は望めない。同じ職場の健聴者とのコミュニケーションに起因する人間関係や仕事に関する情報の獲得の面で不満や課題が多いが、最近では、年齢も考慮し家庭や子供の成長の方に目を向けるようになっている。 |
本事例における状況、特に職業生活への参加の観点について、ICIDH-2を利用して分類を行った。全般的な状況については、表2に示すとおりである。それぞれの主な制限や制限の種類、性質、程度及びそれらに影響を与えている環境因子についての特徴を以下にまとめた。
Health Condition 健康状態 (disorder/disease) 変調/病気 ・聴神経の障害 |
Impairment 機能障害 |
音声、会話、聴覚、前庭機能 ・感音性難聴による聴力低下 ・音声言語による会話不可能 |
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Activity 活動 |
見ること、叩くこと、そして認識すること ・補聴器を使用しても全く聞こえない コミュニケーション活動 ・非言語によるメッセージは可能だが音声言語を中心としたやりとりは困難である ・書字生成は可能だが限界がある 対人行動 ・同僚、上司との関係維持には、誤解を招きやすいなど制限がある 学習、知識の応用、課題の遂行 ・仕事に関連する新しい技術・知識の獲得には制限がある |
Contexual Factors 背景因子 |
A.Environmental 環境的 |
・職場には他に聴覚障害者がいない ・職場には手話のできる人がいない ・聴覚障害に対する理解の少ない職場 |
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B.Personal 個人的 |
・強力な家族との絆 ・高い非音声言語によるコミュニケーション能力 |
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Participation 参加 |
移動への参加 ・通勤途上で、電車の車内放送が聞こえず適切な対応が困難 情報交換への参加 ・話言葉による情報交換への参加は難しい 社会関係への参加 ・職場での良好な人間関係は難しい 教育、仕事、余韻、及び精神活動への参加 ・資格取得上の制限 ・研修などへの参加の制限 ・仕事上の成果が正当に評価されない ・昇進・昇格の機会がない |
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(注:表中の大字は、ICIDH-2の2桁分類の章をさす。) |
幼少時の感音性難聴による聴力の低下がある。発語については不明瞭で会話は困難である。
手話とそれ以外の表現力、表情に富み、全体的に勘が優れているが、音声言語によるコミュニケーションには制限がある。
書字の能力は高いが、専門用語や新しい知識を書字からのみ獲得するのには困難がある。
職業生活の質の観点からは多くの課題がある。社会関係への参加では、職場で人を呼ぶのに異性の屑をたたいたりすると、それだけでセクシャル・ハラスメントだと騒ぎになったことに代表されるように聴覚障害の特質が理解されず孤立を招きやすい。
仕事への参加の面でも、ミーティングで比較的ゆったりした場面では隣の人がメモを取って見せてくれるが、議論が沸騰してくると「後で教えてあげる」ということになり、結局仕事に関する重要な情報から取り残されてしまう。あるいは、努力して達成した仕事の成果が、聞こえないために本人の知らないうちに他人の手柄に変わってしまい、それに気づいてもなす術がない。
また、仕事に関する研修、特に新しい知識・技術を習得する機会への参加が制限されている。手話通訳の配置などの情報保障はなく、新しい機器をめぐる何気ない同僚との会話などから得られる情報は大きいが、そこに参加する機会に乏しい。
個人的な因子としては、強力な家族との絆が本人の職業生活における大きな支えになっている。現在の職場に対する不満は大きいが、家族との生活を優先的に考え、不満を抑えようとしている。諦めの境地に達しているといえなくもないが、定年を迎えるまで家族のために「食べるためと割り切って」今の仕事を続けようと考えている。
コミュニケーション上の制限についての職場の上司や同僚の理解不足があげられる。上司や同僚が手話を覚えてコミュニケーションするまでには至らなくても、音声言語によらないコミュニケーションへの理解があれば活動の制約、参加の制限は軽減するものと考えられる。
さらに、職場では聴覚障害者が本人1人であることが職場全体の情報保障や上司、同僚からの理解を得る上でマイナスの要素となっている。職場において聴覚障害者がある程度の人数を占めることは、本人の安心感にとどまらず、聴覚障害に対応した配慮に結びつく環境上の因子となりうるものと考えられる。事務所としては法定の障害者雇用率を達成すれば一定の社会的責任を果たすことになるので、複数採用のメリットは認識しつつも新たな雇用は考えにくいのかもしれない。
また、同事業所では障害者については正社員ではなく、嘱託社員として採用する方針であり、採用後の正社員登用の道はない。よって本人は今も嘱託社員であり、毎年1回の契約更新毎に賃金の伸び率は鈍化していると感じている。
障害者雇用率という本人の職業生活への参加を促進する制度的環境がある一方で、必要な量を達成すると、本人の職業生活の安定や昇進・昇格という質的な面では必ずしもプラスの要因ではあり続けない難しさがある。
本事例では、機能障害は固定していると思われ、活動や参加の状況が聞こえの低下や逆に改善に結びつくことはないと考えられる。
聴覚障害の場合、本事例にも示されるようにICIDH-2の2けた分類の「活動」にあっては、第3章「コミュニケーション活動」と第8章「対人行動」及び第9章「特定の状況への対応」の中の「仕事や学校に関する行動」が制約の大きいものと考えられる。また、それらの活動は、「参加」の中で、第3章「情報交換への参加」、第4章「社会関係への参加」、「教育、仕事、余暇及び精神活動への参加」と強い関連をもっているということができる。特に、本事例にあっては、職業生活における活動と参加における制限が大きいといえる。そこでは、聴覚障害に起因する「情報障害」の大きさが改めて認識させられるが、環境の要因(現在の職場の状況においては解決されない、マイナスの因子であるが)によって、その情報障害が減少し、結果としてコミュニケーション活動の制限が減少する、具体的には、音声言語によらなくてもコミュニケーション活動が活発化し、ひいては対人行動における制限が減少するという関係が想定されよう。
また、「仕事に関する行動」についてみると、会社が倒産した1回を除き、3回の転職経験があるが、今の仕事の前の2回の離職理由は職場におけるコミュニケーションに起因するものであり、「参加」としての「仕事への参加」を保障する雇用機会の確保が、「活動」のレベルでの行動の確保につながっていることがわかる。
次に本事例において、特に解決・軽減がめざされる参加の制限として、職場におけるコミュニケーションと職業生活の質の向上について考察することとしたい。参加の制限の要因と関連する要因は、表3に示すとおりである。
― | <職場における参加の制限の具体的状況> | <要因> | <関連要因> | |
職業生活の質の確保 | 職場のコミュニケーション | 公式な場面におけるコミュニケーションの制限 ・朝礼・ミーティング ・会議 ・打ち合わせ 等 |
・聴覚障害者のコミュニケーションに対する職場の理解の不足(過大評価、過小評価) ・情報障害への、認識不足 ・上司・同僚へのコミュニケーション戦略の未構築 |
・事業所の聴覚障害者雇用経験不足 |
非公式な場面におけるコミュニケーションの制限 ・昼食時 ・勤務終了後 ・その他の場面 等 |
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全体情報についてコミュニケーションの不足 ・事業所のおかれた状況 ・人事、技術等に関する情報 ・うわさ 等 |
・本人の教育背景 | |||
教育・研修機会及び身分の保障 | 他の健聴者と同様な教育・研修横合が得られない | ・聴覚障害を受け入れる教育・研修機会(事業所内外)の不足 ・手話通訳の必要性の認識の低さ ・管理職としての能力に対する過小評価 |
・障害者雇用の質的視点の不足 | |
正社員登用の道がない | ||||
昇進・昇格の可能性が低い |
職場のコミュニケーションの制限の要因としては、聴覚障害者のコミュニケーション及び情報障害に対する職場の理解の不足があげられる。事業所の雇用経験不足も関連要因として考えられるが、手話通訳の効果的な利用、情報伝達のプロセスにおける補助的手段の確保等についての事業所への働きかけが重要である。同時に、職場の特性や人間関係を踏まえ、本事例がコミュニケーション戦略を構築するための具体的援助(カウンセリング)も必要となろう。
聴覚障害者が職業に就くばかりでなく、職場において向上する機会を確保していくためには、手話通訳の配置等について配慮した教育・研修機会の確保が必要であり、その結果としての昇格・昇進に見通しをもてる職場づくりが職場への適応を高めていく鍵であると思われる。さらに、援助にあたっては、管理職的な業務遂行の可能性と条件について事業所に対し具体的事例を提示しながら理解を促進するような関わりが求められよう。
ICIDH-2は、聴覚障害が情報障害であり、職業生活への参加に多くの制限があることを構造的に理解する上で有効と思われる。「聞こえないだけで後は問題は少ない」と考えられがちな聴覚障害の職業生活について、特に「参加」の観点からみた問題の所在が明らかになる。また、自己理解や行動課題の明確化にも有効であると思われるが、ICIDH-2は障害の諸側面を言語により分類した概念であるので、聴覚障害のある人がより理解しやすいよう工夫していく必要があろう。
1.佐藤久夫他訳:「国際障害分類第2版、機能障害、活動、参加の国際分類-障害と機能(働き)の諸次元に関するマニュアル(フィールドテスト用草案(ベータ1草案)日本語仮訳)」、原典名ICIDH-2,International Classification of Impairments, Activities, and Participation -A Manual of Dimensions of Disablement and Functioning, 1997
2.佐藤久夫:「WHO国際障害分類の改正動向と1998年東京会議」、『障害者問題研究』26(1)、1998
リハビリテーション研究 第96号
ノーマライゼーション・障害者の福祉増刊「リハビリテーション研究 第95号」
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
96号 20~23頁
西暦 1998年10月20日
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