リハビリテーション研究(第96号) NO.9 ガジャマダニ等兵、インドネシアを行く-インドネシア・ソロ・職業リハビリテーションプロジェクト報告-

 

ガジャマダニ等兵、インドネシアを行く

-インドネシア・ソロ・職業リハビリテーションプロジェクト報告-

 

日本障害者雇用促進協会国立職業リハビリテーションセンター 山田 文典

 

1.はじめに

 ガジャマダ二等兵は、1995年1月から1997年12月までの3年間、南方軍インドネシア・ソロ職業リハビリテーションプロジェクトに派遣された。
初めての海外長期滞在であったためにとまどうことも多かったが、同国での暮らしや仕事は、予想以上に楽しく、意義あるものであった。
 この度、この間の活動を報告する機会が与えられたので、役不足ではあるがあえて筆を執ることとした。与えられたテーマは、「インドネシアにおける職業リハビリテーションの構築に携わって」というものであるが、高尚なテーマはさておき、ここでは彼が3年間駐屯して演じた醜態を生々しく報告することにより、インドネシアの職業リハビリテーションの現状を垣間見ていただければ幸いである。
 なお、ガジャマダニ等兵の「ガジャマダ」は、インドネシアの英雄の名前から借用したもので、現在は、ガジャマダ通り、ガジャマダホテルなどの名称として使用されている。二等兵の名前としては立派すぎるが、ヤマダとガジャマダの発音が類似していることからあえて借用した。
 

2.いざ出陣

(1) 縁あって

 ガジャマダ2等兵は、縁があってインドネシアに赴任した。国際化時代だから珍しいことではないが、それなりの覚悟が必要であった。家族、健康、言葉、仕事等気になることもあったが、戦死すると決まったわけではないので、赴任することを決めた。
 さて、より良い二等兵として赴任するためには、まず国際兵学校が実施している研修を受けなければならなかった。この研修は、業務や生活に必要な知識・技術に関する一般研修と語学力の向上を目的とする語学研修から構成されている。一般研修では、国際業務、兵法、安全・エイズ対策、健康管理、異文化理解などの講義と実習が行われ、休憩時間には、子女の就学相談などが行われた。
 教官は、時間が限られていることもあって事務的に説明されたが、受講者は、いよいよ赴任だなという期待と不安が交錯し、みんな懸命にメモを取っていた。休憩時間には、コーヒーをすすりながら「予防接種はどうしますか」、「携行兵器のリストを早く出せと言われているんですが、何がいいですか」、「徴兵検査でひっかかっちまいましてね」等と真剣にミーティングをやっていた。彼もへそが曲がっていたため、徴兵検査で再検査となった。
 

(2) ここはインドネシア

 彼が、ジャワ島のヘソに位置するソロ市の国立肢体障害者リハビリテーションセンター(以下「ソロセンター」という)に着任してから、まず困ったことは、戦闘体制がなかなか整わなかったことである。電話が特にひどく、新規加入が難しい上に通話完了率も低い。機材が届くまではパソコンやコピーがないので文書も作れなかった。みんなで手分けしてボールペン1本から揃えた。もともと停電は多いと聞いていたが、日本兵が来て電気製品をやたら使うものだから1日に何回も停電した。文書のサイズも違う。祖国日本はA4で統一されたが、インドネシアはF4といってA4よりも縦横に少し大きく、コピー、ファクス、ファイルのときにA4とF4が混在して困った。時々ため息をつきながら日本は便利な国だと感心したものである。
 

3.天国と地獄(労働事情)

(1) 勤労者の横顔

 ガジャマダ二等兵が勤務していた.駐屯地では、多くの障害者が、企業戦士をめざして訓練を受けているが、この訓練生が入っていく職業の世界は一体どうなっているのだろうか。友人の紹介を通してインドネシアの労働事情を紹介する。ソロ近郊の村で生まれたヤンティ(22歳、女)は、高校を卒業してソロのスーパーに就職して2年目の働き盛り。給料は月7,000円で、縫製会社やタバコ工場で働くよりははるかに高く仕事もきれいだが、立ちっぱなしの仕事は楽ではない。たまに日本兵がシャツやズボンを買いにきて、下手なインドネシア語で派手だ、地味だと注文をつけるが、「似合いますよ。それに今買えばカッコイイ帽子がもらえます」と商売上手。自宅通勤はできないので、寮にはいっている。「寮では4畳半に3人が生活し、ベッドはひとつ。2人がベッド、1人は床に寝ている。部屋にはエアコンも扇風機も無くラジカセがひとつあるだけ」という。ちなみに1カ月の寮費は、1,000円とのこと。
 彼女の場合は、大手のスーパーということもあって、最低賃金以上の給与、週1回の休暇、年1ヵ月分のボーナスと恵まれているが、地元新聞では連日、縫製会社の最低賃金違反、給与遅配、倒産、不当解雇などのニュースが報じられている。
 ソロの月額最低賃金が5,000円(1995年度)なので、これと比較すると彼女の生活は中の上と思われる。単純に比較はできないが、日本の1995年度の日額最低賃金(全国加重平均)5,500円は、インドネシアの1カ月分に相当する。さらに驚いたことには、勤労者全体の3人に2人が従事しているメイド、農園労働者、商店の手伝いなどは、これよりもさらに安い賃金で仕事をしている。
 

(2) 天国と地獄

 一般的な労働力事情を統計資料(Buro Pusat Statistik,Statistik dalam 50 Tahun Indonesia Merdeka,1995)で見ると、年300万人の労働力人口の増加、完全失業率の上昇等がうかがえる。産業別構成比では、2人に1人が農林漁業に従事しているが、この比率は年々減少している。一方、事業所の状況は、1993年の統計で全260万事業所のうち、従業員100人以上の大企業及び20人以上の中企業は2万社で、事業所の大半は従業員19人以下の小企業又は自営業である。
 インドネシアの労働事情を一言でいうと、労働力の供給過剰である。就職を希望する人は掃いて捨てるほどいる。このため、賃金は低くならざるをえない。公務員は、民間企業よりもさらに賃金が低いので、生活を守るために自衛?(自営)をしている人が多い。
 労働安全衛生に対する配慮も不十分である。いつ事故がおきてもおかしくない工場がたくさんある。電気もつけない暗い作業場で、しかも裸足でバイクの修理をしている人をよく見かけたし、高層ビル建設現場では、頻繁に落下事故があった。インドネシア労働省は、1994年度の労働災害死亡者数を300人と発表したが、実態とかけ離れていると言わざるを得ない。それともここでは、オートバイの値段が人の命よりも高いので、配慮する必要がないと考えているのであろうか(1997年11月、ソロの縫製工場で従業員が死亡し、災害補償として企業から14万円が支払われた。オートバイの値段は16万円)。いずれにしても雇う側にとっては天国、雇われる側にとっては地獄である。
 

4 障害者雇用

(1) 障害者法成立

 インドネシア社会省が作成した「インドネシアにおける障害者福祉の開発」(The Development of the Social Welfare of Disabled Persons in Indonesia,1993)によると、全障害者数は、総人口の3.11%で560万人と推計される。障害者の雇用状況については、一般の労働市場が地獄とすれば、障害者の労働市場は「超」地獄である。たとえ軽度な身体障害であっても、障害があるというだけで面接さえ受けられない。このため、障害者は、せっかく小学校や中学校を卒業しても行き場がなく、家事の手伝いをするか、なにもしないでブラブラしているしかない。 インドネシア政府は、このような事態を改善すべく、1997年2月に障害者法を成立させた。この法律では、事業主に対して1%の障害者雇用義務が課せられているが、法律が事業主に十分周知されていないこと、いつ、誰が、どのように雇用率調査や未達成事業所の指導をするかという具体策が明記されていないこと等から、今のところ単なるスローガンにとどまっている。
 

(2) 障害者雇用状況

 ソロセンターは、肢体障害者を対象として、定員350人、職業前訓練期間6カ月、職種はラジオ修理、時計修理、縫製、溶接、印刷、木工、手芸、編み物など約20種で運営されている。過去10年の就職状況を見てみると、企業への雇用は修了者の約20%であり、大半は自営となっている。インドネシア全体の労働力人口の構成比を見ても、自営(農業、屋台、行商等)が63%、雇用32%と、企業への就職はきわめて難しいので、数字から見るとソロセンターはよく健闘していると評価できる。
 ただし、ガジャマダ二等兵が3年間、実際に職場開拓をした経験で評価すると、この数字はできすぎと言わざるを得ない(戦友の皆さんゴメン)。例えば、自転車部品を製造している事業所は、ソロセンターから100人もの障害者を雇用しているモデル的な事業所であるが、実際に訪問してみると半分以上の障害者がすでに離職していた。また、自営についても、資金不足で開業をあきらめた者、商売にならなくて止めた者等が含まれている。自宅で自営(ラジオ修理)をしている者を訪問してみると、なにもしないでブラブラしていた。
 

(3) 職業リハビリテーションプロジェクト

 働く意欲と能力のある障害者に雇用機会を提供する目的で始められたインドネシア・ソロプロジェクトでは、3年間の協力期間中に、60人の障害者を職業訓練することができた。
 職業訓練は、縫製とコンピュータの2科で実施された。コンピュータ科は、企業の一般事務部門への就職を目標に、アプリケーションソフトの操作を中心に、OSや基礎的なプログラムの知識を組み込んだカリキュラムで訓練を行った。縫製科は、縫製工場への就職を目標に、動力ミシンの操作を中心としたカリキュラムで訓練を行った。両科とも、就職先の実態にあわせて個別指導できる弾力的カリキュラムになっており、期間は10カ月、訓練時間は1,000時間以上であった。
 

(4) 4万キロの職場開拓

 訓練生の職業指導と職業評価(募集、選考、就職等)を担当していたガジャマダ二等兵は、3年間、職場開拓に明け暮れたといっても過言ではない。ある時は穴のあいたカマボコのような道を通って山の中へ、またある時は片道6時間もかけて新興工業団地へと、訓練生の職場開拓に走り回った。走行距離は延べ4万キロで、地球1周に相当する。3年間で300社以上を回った結果、企業への就職率は約80%。これは、日本との共同プロジェクトということで、事業主の特別の理解が得られた結果と考えられる。
 企業回りは苦労も多かったが、仕事を終えて戦友と食べた夕食の味は忘れられない。焼き鳥のような焼きヤギはパワーの源、ニガウリの油炒めはビタミン豊富な健康食品、デザートとして路上で食べたドリアンは果物の王様。ドリアンを初めて食べたときは、色も臭いもほとんどウンコであったが、今は人の分まで食べるほど大好きになった。
 職場開拓の際に宿泊するホテルでは、室内に蚊やヤモリがいたり、洗面用具がなかったり、長時間停電になったりすることがある。このため、サンダル、洗面用具、香取線香、懐中電灯、医薬品等の7つ道具を必ず持って出張した。地方のホテルの施設・設備は決して満足できるものではないが、スタッフの客のもてなし方には感心した。下手なインドネシア語でディスカウントを要求する彼に対して、笑顔を絶やさず接してくれる。またここに泊まろうという気にさせてくれる。
 

5.インドネシアからアセアンへ

 1997年12月、ガジャマダ二等兵は、ソロ職業リハビリテーションプロジェクト業務を終了し、次のジャカルタ近郊で始められた新しい職業リハビリテーションプロジェクトにバトンタッチして帰国した。インドネシアでの3年間は、彼にさまざまな体験と思い出を残してくれた。また、多くの戦友に支えられてインドネシアと深く関わることができた。彼の軽薄な人生に少しでも厚みができたとすれば、これはひとえにソロ駐屯地の戦友の支援のたまものである。彼はインドネシアでの体験を国際理解の第一歩と位置づけ、また機会があれば、マレーシアでも、フィリピンでも、もちろんインドネシアでも国際協力業務に深く関わって行きたいと考えている。わが国の職業リハビリテーション分野の国際協力が、インドネシアからアセアン諸国へ、アセアンから世界へ広がることを願って止まない。
 Terima Kasih,Indonesia! (ありがとう、インドネシア)


主題・副題:

リハビリテーション研究 第96号
 

掲載雑誌名:

ノーマライゼーション・障害者の福祉増刊「リハビリテーション研究 第96号」
 

発行者・出版社:

財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
 

号数・頁数:

96号 36~39頁
 

発行月日:

西暦 1998年10月20日
 

文献に関する問い合わせ:

財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
〒162-0052 東京都新宿区戸山1-22-1
電話:03-5273-0601 FAX:03-5273-1523

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