用語の解説 優生思想

用語の解説

優生思想

 優生学とは,「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」である(『広辞苑 第6版』岩波書店,2008)。
 その歴史を遡れば,優生(学)的な思想は,すでに,ソクラテスやプラトンら古代ギリシャの哲学者のなかに見られるが,C・ダーウィンの従兄弟であるイギリスのF・ゴルトンが「人間の優良な血統を増やすことを研究する科学」を優生学(eugenics)と定義したことから,ゴルトンが優生学の創始者であるとされている。
 1904年に開催された第1回イギリス社会学会で,ゴルトンは,「優生学―その定義,展望,目的」という講演を行なった。彼は,その講演で,「優生学とは,ある人種(race)の生得的質の改良に影響するすべてのもの,およびこれによってその質を最高位にまで発展させることを扱う学問である」と定義し,学問的活動としては,遺伝知識の普及・国家・文明・人種・社会階層の消長の歴史的研究,隆盛を極めている家系についての体系的な情報収集,結婚の影響の研究を行うこと,とした(米本昌平ほか『優生学と人間社会』講談社,2000)。ゴルトンによるこの講演が学会に参加していた知識人らの反響を呼び,1907年,イギリスで優生学教育協会が発足,優生学の啓蒙活動と優生政策を推進する活動が国際的に展開,浸透していった。
 従来,優生学は,社会ダーウィニズムや遺伝決定論に依拠した人種改良論と強制的な優生政策の行使に特徴づけられてきた(松原洋子「優生学」『生命倫理とは何か』平凡社,2002)。そしてその形容し難い究極のあり方を,私たちは,度々ナチスドイツの優生政策とその背景にある優生思想に求めてきた。
 相模原障害者殺傷事件の容疑者が,「私の目標は重度重複障害者の方が家庭内での生活,及び社会活動が極めて困難な場合,保護者の同意を得て安楽死できる世界です」と書かれた手紙を,あの忌まわしい残虐な犯行に及ぶ前に衆議院議長に宛てて書いていることから,容疑者の背景にある優生思想的な考え方とナチスのT4作戦と呼ばれる障害者「安楽死」計画との連続性が至るところで語られている。それは,同事件がナチスによる歴史的な残虐行為に匹敵する事件であると多くの人が考えていることの証左である。
 だが,容疑者を悪の存在と同定し,葬り去ることで問題は解決しない。「ナチズムの悪」を狂気に因るものと考えるのと同様に,相模原障害者殺傷事件とは,私たちとは本来的に異なる狂気が生んだ悲劇なのだと了解してしまうと,私たちは事の本質を見失うことになる。
 容疑者が,「障害者は不幸を作ることしかしません。障害者を殺すことは(人類の)不幸を最大まで抑えることができます」(括弧内筆者)と言うとき,そこには,「生きるに値しない生命を殺すことで人類に幸福をもたらすことができる」という積極的な信念がある。
 ナチスの「安楽死」計画の根拠となったと考えられる,K・ビンディングとA・ホッヘの『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(邦題『「生きるに値しない命」とは誰のことか』窓社,2001)のなかで,A・ホッヘは重度の知的障害者は完全なる精神的な死の条件を満たすとともに,誰にとっても最も重荷になる存在であると定義する。彼は,ドイツにおいて推定で2万人から3万人いる重度知的障害者に対し,莫大な財が国民負担から「非生産的な目的」のために費やされていると指摘し,重度知的障害者の世話をするだけで施設は精一杯,介護職員はまったく実りのない職務に拘束され,生産的な仕事から離れざるを得ないのだと述べる。
 さて,私たちは,A・ホッヘのこの言葉を完全に否定することができるだろうか。「重度の知的障害者は完全なる精神的な死の条件を満たす」という,人間の生命に対する線引きを一度は拒否することができたとしても,それと財政的な負担や介護労働の困難さとがパッケージで示されたときに,私たちは「生命への線引き」に抗うことができるだろうか。生活感情に迫る素朴な功利主義へと滑り落ちていくことはないのだろうか。
 「生きるに値しない生命」などない。人間の生命に対して人間がそのような問いを持ち出すことは許されない。私たちは,あらゆる人間の生命に対する線引きを頑なに拒否しなければならない。人間がこの世に存在するための特別な条件などどこにもない。
 私たちの意識のなかにそのような考え方が深く根を張らない限り,真の共生社会の実現などありえない。

(冨永 健太郎 /日本社会事業大学社会福祉学部)


主題・副題:リハビリテーション研究 第170号

掲載雑誌名:ノーマライゼーション・障害者の福祉増刊「リハビリテーション研究 第170号」

発行者・出版社:公益財団法人 日本障害者リハビリテーション協会

巻数・頁数:第46巻第4号(通巻170号) 48頁

発行月日:2017年3月1日

文献に関する問い合わせ:
公益財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
〒162-0052 東京都新宿区戸山1-22-1
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