~私にも、あなたにもある、「権利」~
■■ 講師 大石剛一郎氏の自己紹介 ■■ |
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私は20年前に弁護士になりました。そして15年くらい、障害のある人の事件や事故、相談に関わっております。最初は、一緒に仕事をしていた弁護士が「子どもの権利委員会」で活動していたこともあり、そこで、学校との交渉や少年事件などに携わりました。子どもの事件では障害児のいじめがけっこうあって、それがきっかけとなって、障害者の事件や相談に関わるようになりました。 今日は、この15年に遭遇した事件や事故、相談などをもとに、話をしたいと思います。レジュメでは、具体的な事件や相談の例をあげてみました。このような内容のことが1件あったということではなく、けっこうたくさんあるという趣旨で載せています。順番にご紹介します。 |
障害のある人の受ける12の権利侵害例
事例① 学校でのいじめ
学校(がっこう)でからかわれた、いじめられた。自分(じぶん)の言(い)うことを信(しん)じてもらえなかった。 |
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Aさんは、難聴であることから、学校で日常的に、からかい・悪ふざけの対象にされ、更には、財布を盗んだ犯人にでっちあげられた。しかし、教師は、表面上の事実だけで判断して、Aを犯人扱いし、でっちあげた生徒らについては、疑いはあったものの、放置した。 |
最初の事例は、「学校でのいじめ」です。耳の不自由な方で、学校で日常的に、からかい、ふざけ、いじめの対象になっていました。あるとき、ずるい、でも優等生というグループに、財布を盗んだ犯人に仕立て上げられるといういじめを受けました。教師は、目撃者がいるという表面上の事実を真に受けて、障害のある人を犯人扱いしているということで相談を受けました。
私は、子どもの権利委員会の相談員としていろいろ話を聞いているうちに、先ほどお話したようなことが真相だろうということがわかったのですが、決定的な証拠を見つけることができませんでした。そのため、弁護士会として、きちんと事実を把握して対応するよう学校に勧告を出そうと思ったのですが、弁護士会の中でもコンセンサスをとることができずに、調査しただけで終わってしまった事件です。
他の事件でも同じようなことが言えるのですが、時間がたてば記憶も薄れる、物もなくなるなどのために、証明しづらくなってしまう。早い段階で、本人の立場に立って話を聞ける機関がないと、いじめもうやむやになってしまうということを感じた事件でした。このような事件がきっかけとなって、障害のある人の難しさというか、権利がないがしろにされやすいということが気になり始めました。
事例② 会社の搾取
会社(かいしゃ)で 働(はたら)いた。でも、自分(じぶん)のお給料(きゅうりょう)がいくらもらえるのか教(おし)えてもらえなかった。 |
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Ⅹ社は、知的障害のある人を積極的に雇用することで評価されていたが、実は、知的障害のある人を雇用することによる助成金や最低賃金の除外というメリットを最大限に利用したうえで、知的障害のある従業員の給料からは色々な名目で控除し、月1万円程度の給料しか支払っていなかった。 |
これはマスコミでも大々的に取り上げられた事件です。ある会社が、知的障害のある人を積極的に雇用するということで地元では評価されていたのですが、実はそこの社長がひどい人で、住み込みで働いている知的障害のある従業員に暴力をふるったり、給料をきちんと支払わなかったという事件です。
書類を調べれば給料の未払いはすぐにわかった事件だったのですが、そういうチェックシステムがありませんでした。資料には暴力のことは書いてありませんが、本当は暴力のことも含めて、第三者が入って点検するチェックシステムがないと表に出づらい。この事件は、給料をきちんと支払わなかったという点で民事事件としては成立したのですが、刑事事件としては検察庁がきちんと事件として取り上げず、相手にされませんでした。
この事件は会社の中でのことでしたが、入所施設でも暴力や性的な被害、作業工賃の搾取などの権利侵害が実は頻繁に起きていて、外からのチェックが入らないと表面化しづらいということが言えます。
こうした事件をきっかけに、チェックシステムの必要性を感じて、湘南福祉ネットワークオンブズマンという、オンブズマン活動に参加しました。その組織は神奈川県南部にあり、施設と契約をしてオンブズマンとして施設の中をチェックするというシステムで、今も続いています。
事例③ 兄弟の成年後見人による財産奪取
自分(じぶん)の年金(ねんきん)や、自分(じぶん)のために両親(りょうしん)が残してのこしてくれたお金(かね)を、兄弟(きょうだい)が自分(じぶん)に相談(そうだん)なく、勝手(かって)に使(つか)った。 |
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Cさんは、うつ状態が高じて不安定になって入院したことを機に、弟が成年後見人になり、その弟が「これまでCには迷惑をかけられていたのだから」という理由から、Cさんの年金管理・処分についても、親の遺産の分割についても、思うままに処理してしまっている。 |
こうした内容はよくある相談です。弟さんは、お兄さんの精神障害が原因で小さい頃からいやな思いをしていて、さらに成年後見人としてお兄さんの負担を背負うのだから、お兄さんのお金を自分が使ってもいいと思っていました。そういう人が成年後見人*になってしまったので、親の遺産なども弟さんがどんどん使ってしまって、お兄さんの入院にかかる費用もきちんと支払わないという事態になってしまったケースです。
先ほどの②の事例は会社や施設でのチェックシステムがないことが問題となるケースでしたが、この③のケースは、成年後見人の活動をチェックする機関やシステム、人がなかったことが原因で起こったといえます。成年後見制度が家族に利用されてしまうシステムになってしまっているという事例です。 成年後見人については、本来であれば家庭裁判所がチェックをするのですが、実際には家族が後見人になった場合、チェックが甘くなるという傾向があります。以前に比べれば、家族が後見人になった場合でもきちんとチェックしましょうという流れになりつつあるのですが、まだまだチェックが十分でない。そのために、結局は、障害のある人の財産がどんどんとられてしまうということになっています。
事例④ バスの乗車拒否
バス(ばす)に乗(の)って買(か)いものに行(い)こうとした。でも、バス(ばす)の運転手(うんてんしゅ)さんは、「お客(きゃく)さんがいっぱいだから」と言(い)って乗(の)せてくれなかった。 |
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いつも電動車椅子を利用しているDさんは、買物に行くため、手動車椅子に乗り替えて、(通勤時間帯ではなく)日中の時間帯を選んで、バスを利用しようとしたが、他のお客さんに迷惑がかかるから、という理由で、運転手に乗車拒否された。 |
普段は電動車いすを使っている人が、バスに乗るために軽い手動の車いすに乗り換えて、しかも通勤時間帯を避けて利用したにもかかわらず、他のお客さんに迷惑がかかるからと乗車拒否されたということでした。相談を受けた後、バス会社に直談判に行きました。バス会社は平謝りで、「これからきちんと指導します」ということでしたが、その後も何度も同じ相談がきました。そのたびに、オンブズマンとして苦情を言いに行きました。
このケースは、障害のある人も公共交通機関を利用するということや障害のある人が地域で生活を送ることへの理解や意識を高めていく必要があり、そのためには何度でも交渉するし、事実を表に出していかなくてはいけないということを学ばされたケースでした。
事例⑤ 職場での不当な扱い
仕事(しごと)が見(み)つかった。でも、「仕事(しごと)が遅(おそ)い」、「 上手(じょうず)に話(はな)すことができないから」と、自分ではできない仕事(しごと)をするように言(い)われ、苦(くる)しくなって仕事(しごと)を辞(や)めた。 |
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Eさんは、大手スーパーに掃除の仕事で雇われたが、仕事が遅い、コミュニケーションが俊敏にとれない、といったことからいやがらせを受け、また、セクハラも受けたが、反抗できずにいた。そのうち、不景気に伴い、到底無理な仕事場に回され、結局辞めざるを得なくなった。 |
このケースは、一般就労されている障害の軽い方のケースです。大手スーパーに清掃の仕事で雇われていた障害のある人が嫌がらせやセクハラを受け、担当の社員に相談をしたところ「少しくらいのことは我慢しろ」と言われ、誰にも言えずにいました。そのうち不景気になって、とても無理な仕事場に配属させられて、結局辞めざるを得なくなりました。
会社とも交渉したのですが押し問答の繰り返しで、最後には本人が「もういいです」ということで、作業所に勤めるようになりました。その結果、スーパーで働いていたときには10万円近くもらっていたお給料が、作業所では数千円しかもらえないということになりました。今は、スーパーで働いていたときの蓄えで、グループホームでなんとか生活しています。本来であれば、就労支援をしてくれる資源があるとか、労働組合のような組織があってしかるべきと思うのですが、現実にはその地域ではそのような機関も組織もなくて、今後どうしようかということで、作業所に通いながら、誰か支援してくれる人がいないかと探している状況です。
事例⑥ 入所施設における、必要なケアの懈怠
施設(しせつ)で生活(せいかつ)していて、お風呂(ふろ)で事故(じこ)が起(お)きた。職員(しょくいん)さんがよく見てみてなくて、おぼれて 死(し)んでしまった。職員(しょくいん)さんは、1時間以上(じかんいじょう)、おぼれているのに気づかなかった。 |
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てんかん発作のために眼球が上転してしまうことが日常的によくあるあるFさんは入所施設で生活していたが、入浴中に溺死した。職員らは、日頃からの慣れで、Fさんに対するケアが緩み、少なくとも1時間以上の間、Fさんに起きた異変に気づかなかった。 |
この人は、知的にも精神障害としても、障害としてはそれほど重くないのですが、てんかん発作で眼球が上にあがってしまう特殊な障害を持っているために、発作時には前が見えなくなってしまう人でした。話が通じるという理由で、施設の職員も、その人にそれほど注意もせずに接していたところ、恐らく入浴中に発作が起きて、お風呂で溺れて亡くなってしまったのです。この人は普段はお風呂に入ってもすぐに出てしまう人なので、もし自宅だったら、「1時間も風呂に入っているなんておかしい」と家族が心配するはずですが、施設では1時間以上も誰も気がつかずに、見に行ったら湯船に浮いていたということでした。
入所施設は衣食住の面倒をみてもらえて、少なくとも生命の安全は保障されるという信仰があるようですが、実は、けっこう多くの人が亡くなるところでもあります。
この事件は裁判になり、第1審は敗訴し、第2審で和解をして終わりになりました。裁判所は、本人の知的、精神的な障害は軽いので、濃密にケアをする必要はなかった人と見なし、しかも発作をそれほど重視しなかったために、お風呂で溺れることを施設としては予測できなかっただろうと判断しました。私たちは、常識的に考えれば、急に目が見えなくなったら転んでしまうこともあるし、そのときに大量の水を飲んでしまったら立ち上がれないこともあると判断するだろうと思いましたが、裁判官の判断はそうではありませんでした。
これは、障害のある人に対する裁判官の無知、深く考えないということがよく表れた事件だと思います。もし一般の人たちが裁判員になってこの事件を見たら、結論が違ったのではないかと思ったりします。裁判官の人たちは難しい議論をするし、いろいろなことを知っていますが、障害のある人の事件というのはまだあまり表に出てきていないのでよく知らないし、施設の職員が「普通はこのようにケアをします」とか、「そういうことはできません」と言うと、そういうものかと思ってしまう傾向が強くあります。裁判員制度が始まって、市民の方がどんどん裁判に参加するようになると、障害のある人への理解も広がって、こうしたケースの判断も変わっていくのではないかと思います。
事例⑦ ホームヘルプの利用
ヘルパー(へるぱー)さんにお家(いえ)に来てきてもらって、一人暮(ひとりぐ)らしをしていた。でも、法律(ほうりつ)がかわり、今と同じくらいヘルパー(へるぱー)さんに来てきてもらうためには、お金(かね)をたくさん払(はら)わなければいけなくなった。でも、お金(かね)がなくて支払(しはら)えない。ヘルパー(へるぱー)さんが来(こ)なくなると、一人(ひとり)で暮らせなくなる。 |
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Gさんは、たくさんのホームヘルパーをつかって、地域で1人暮らしをしてきたが、法律が変わり、これまで使ってきたホームヘルパーの利用量を、経済的に維持できなくなった。そうなると、Gさんは地域で1人で暮らすのは非常に危険である。 |
これは、重度の身体障害の人のケースです。
障害の程度が重くて、周囲から見るとよく地域で暮らせるなと思うような人でも、ホームヘルパーのやりくりをすれば、地域でなんとか暮らせるもので、この人もそういう生活を送っていた方でした。
ところが、法律が変わって、ヘルパーの利用料が維持できなくなった。そうなると死活問題で、地域で生きていけない。「山奥とか遠くに施設があるよ」と言われても、そんなところには行きたくないし、住み慣れた地域にいたいということで、裁判をおこしました。
本来、障害があってもなくても地域で普通に生きることは当たり前のことだと思うのですが、きちんとした支援がないと、そんなに簡単に実現できるものではない。なんとか支援を組み立てて地域で暮らしている状態のなかで、法律や制度を変えられた結果そうしたサービスの利用が困難になるということは、「地域で生きるな」と言われているのに近いことです。「そんなことが許されていいのか!」ということで裁判が起きている例として、ご紹介しました。
事例⑧ 微罪の繰り返しの末に重罪
養護学校(ようごがっこう)の高校(こうこう)を卒業(そつぎょう)した。みんなには、ほかの人(ひと)と話(はな)すことが上手(じょうず)と思(おも)われているが、実(じつ)は分(わ)からないことが多(おお)い。でも、周(まわ)りの人(ひと)は、そのことを知らないので、うまく生活(せいかつ)できなくて、あちこちで、悪(わる)いことを続けてしまった。その間(かん)も、助(たす)けてくれる人(ひと)が現(あらわ)れず、他(ほか )の人(ひと)を傷(きず)つける事件(じけん)をおこしてしまった。 |
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養護学校高等部を卒業したHさんは、表面上は会話が可能だったため、実はコミュニケーションをとることが難しいという障害の特性が理解されず、必要な支援を受けないまま、放浪生活を送り、軽微な反社会的行為を繰り返した後、人を刺して死なせる事件を起こしてしまった。 |
この人は、表面上は普通に会話ができるので、軽度の知的障害があるように思われていたのですが、実は自閉症の障害があって、コミュニケーションをとるのが難しい。話したことを違う内容で理解したり、話が伝わっているようで全然伝わっていない、という難しさを抱えた人でした。けれども、養護学校の高等部を卒業するまでそのことを周囲に全然理解されなかった。そうしたなかで、いきなり一般就労することになりました。
就労しても、本人の障害について周囲に理解されていなかったので、「全然言われたことをやらない」とか、「人の気持ちを逆なでするような行動をとる」などが原因で、職場での人間関係がうまくいかなくなりました。そのうちいじめられたり、嫌がらせを受けたりして、放浪生活になりました。放浪生活になるとお金がなくなって、無銭飲食や自転車泥棒などを繰り返して、たびたび捕まるようになりました。1回目は許されるけれど、2回目は警察で絞られて、3回目は逮捕されて裁判になる。4回目では執行猶予もつかず実刑になり、刑務所に入る。その後は刑務所から出たり入ったりを繰り返すことになりました。何回重ねたって、地域で暮らしていくうえで必要な見守りのような支援がなければ、この人は小さい犯罪を繰り返す。そのうち、生活がぎりぎりになって、ちょっとしたことがきっかけで、包丁で人を刺す殺人事件を起こしてしまいました。この事件は無差別殺人とか通り魔殺人とか好き勝手に言われて、最終的には無期懲役で一生刑務所から出られなくなってしまいました。そのような、究極的に悲惨な事件です。
事件としては人を死なせてしまっているので、そのことを放置できるはずもないですが、この人の事件を担当して、「その人のことについて少しでもわかっている人が見守っていれば、事件にはならなかった人なのに」ということを非常に強く思いました。この人の場合、知的障害としては軽いので、障害の特性に応じた見守りがあれば、なんとか地域で暮らせる人だったのです。そういう意味では、この人は全然福祉につながっていなかったのですが、福祉にどうやってつながるのか、ちょっとでも福祉につながることで事件を未然に防げる、ブレーキになるんだということを痛感した事件でした。
事例⑨ 自殺・殺人未遂
一人暮(ひとりぐ)らしをしていて、ほかの人(ひと)と話(はな)しをすることができなかった。友達(ともだち)ができなかった。つらくなって、死(し)んでしまおうと思(おも)った。なんども死(し)のうとした。でも、怖(こわ)くなって、だれかに 死刑(しけい)にしてもらおうと思っておもって、家(いえ)がなく外(そと)で寝起(ねお)きしている人(ひと)の首(くび)をしめてしまった。 |
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1人暮らしのIさんは、周囲とコミュニケーションがうまくとれず、周囲に溶け込むことができないことを苦にして、自殺を試みたが、失敗した。しかし、その後も何も状況は変わらなかったので、再度自殺しようとしたが、怖くてできず、死刑にしてもらおうとして、ホームレスの人の首をしめた。 |
この人は一人暮らしをしていて、周囲とうまくコミュニケーションが取れませんでした。本人にとってはそのことがとてもプレッシャーで、自殺を試みました。でも失敗をして、死にたいのだけれど死ねない。一度自殺を試みたら今度は怖くなり、死刑にしてもらおうと思って、ホームレスの人の首を絞めてしまったのがこの事件です。
この事件は、こういう人を支援するものが何もないところで起きました。そのことを、法律や司法はどう考えるのかという論点で刑事弁護をしましたが、ほとんど見向きもされずに、障害があるということで多少刑を大目にみてもらったのですが、実刑になりました。
ただ、障害があるということで刑を軽くされたとしても、この人がまた地域へ出て、自殺しないと身が持たないくらいのストレスを感じながら生きなくてはならないとしたら、事件は解決したと言えないですよね。結局、地域で生きていくにあたって何が必要なのかということを掘り下げるような議論や運動、支援ができていかない限りは、また同じような悲劇が繰り返されることになる。
事例⑩ 病院タライ回し
看護師(かんごし)さんのケア(けあ)を受けながら家族と暮らしていたが、だんだんと家族(かぞく)ではできないことが多(おお)くなって、家(いえ)で生活(せいかつ)できなくなった。そこで施設(しせつ)で生活(せいかつ)することになったが、施設(しせつ)の看護師(かんごし)さんとケンカ(けんか) して追い出(おいだ) された。別の施設(しせつ)で生活(せいかつ)しようと思(おも)ったら、看護師(かんごし)さんがするようなことが施設(しせつ)でできないから、施設(しせつ)に入いれてもらえなかった。仕方なく、まだ 若(わか)いのに、お 年寄(としより)の病院(びょういん)で生活(せいかつ)することになった。 |
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常時医療的なケアを必要としている20代の男性Jさんは、家族状況から、自宅でのケアができなくなり、重度心身障害者施設に入ることになったが、そこで看護師とケンカして追い出された。そこで、別の身体障害者療護施設に入ろうとしたら、医療体制が不十分で入れず、高齢者向けの病院を転々とすることになった。 |
これは重度心身障害者施設でのケースです。この人は、常時医療的な支援が必要なので施設で暮らすのが安全だということと、家族が支えきれないということもあり、施設に入所しました。けれども、この人の場合、話すことは全く問題がないので、看護師のずさんな対応に文句を言ったり、医者とも喧嘩をすることが多く、施設を追い出されてしまいました。ところが、自宅からは戻ってくるなと言われ、体制不十分ということで他の施設でも受け入れてもらえず、たらい回しにされていたというケースです。
このケースについては、本人の気持ちを代弁する人や施設側の対応をチェックする機関やシステムがあれば、施設を出されずに済んだし、帰ることができたのだけれども、そういうものがないので、たらい回し生活になってしまいました。
最終的には、行政の中にもそういう問題を強く感じる人もいて、心ある行政の人が間に入ってくださり、なんとか元の施設に戻れました。元の施設に戻ってそこで一生過ごすのはどうかという問題はありますが、常時医療的なケアが必要な人なので、やっとなんとか安全な生活を送れるようになったというケースです。その人は今でも看護師や医者に文句を言っていますが、どうやったら自分の言い分が通るのか考えて文句を言っているという状況です。
事例⑪ 通所途中の不当な逮捕
いつも通っている駅のホーム(ほーむ)で、飛び跳(とびは)ねたり、手(て)をたたいたり、ホームに顔(かお)を近づけるちかづけることがある。たまたま女(おんな)の人ひとに近(ちか)づくようなことをしたら、悪(わる)いことをする人(ひと)を捕(つか)まえるために駅 (えき)にいた警察(けいさつ)の人(ひと)に捕(つか)まって、手錠 (てじょう)をかけられた。 |
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Kさんは通勤途中、自閉症の常同行為の一つの表れとして、電車のホームで飛び跳ねたり、手をたたいたり、ホームに顔を近づけたり、女性客に近寄るような形の行動をしたところ、たまたま痴漢の取り締まりのために駅にいた警察官に逮捕され、手錠をかけられた。 |
こうしたことは自閉症の障害をもっている人にはよくあることで、よく相談を受けます。公共交通機関を利用していて、自閉症の特徴の一つである常同行為について理解のない周囲の人が、痴漢の取り締まりのために偶然いた警察官に「変な人がいる」と言いました。警察官は状況を把握せず、障害のこともよくわからないまま、職務質問をしました。本人はそのやりとりをしているといつも乗っている電車に乗り遅れてしまうので、抵抗しました。すると公務執行妨害ということで、逮捕されてしまったというケースです。
こうしたケースについては、警察に行って、自閉症の特徴について説明をし、自閉症協会から出されているパンフレットを各警察に配るように言います。このケースでは、比較的すぐに釈放されて、警察は今度から気を付けますと言いました。ですが、そう言いながらも、あちこちでそういう話を聞きます。こうしたケースについては、繰り返し伝えていって、そのくらいは常識というレベルになるまで伝えていく必要があると思っています。
事例⑫ 医療保護入院
「夜中(よなか)に大(おお)きな声(こえ)を出(だ)す、不思議(ふしぎ)なことをする」と近所(きんじょ)の人(ひと)からいろいろと言(い)われた。一緒(いっしょ)に住(す)んでいる家族(かぞく)もいろいろと言(い)われて、とても辛(つら)くなってしまった。病院(びょういん)に入院(にゅういん)することになったが、食(た)べることも、外出(がいしゅつ)することも、自由(じゆう)な時間(じかん)を楽(たの)しむことも、自分(じぶん)がしたいことはできなくなった。 |
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Mさんはずっと家族と暮らしてきたが、Mさんの夜中の大声や不可解な行動から、近所の目やうわさ話に耐え切れなくなり、家族は、Mさんを病院に入院させた。その結果、Mさんの居住・移転の自由を奪われ、食事やレクリエーションなども大きく制限されるようになり、Mさんは不安定になった。 |
家族が、精神障害のある人の面倒をみるのが大変になって、精神病院に入院させるケースです。いったん入院すると、ずっと出られない。そのことは周囲の大変さからすると当然と思われ、疑問視されない。よくある相談です。
これも、少しでも地域生活を送る上での支援につながれば、ずっと病院にいる必要はなく生活できるはずなのに、そういうものがないと一生病院生活となってしまう。このケースは、まだ入院中で、どうやって出そうか相談をしている状況です。
以上、12の事件や事故、相談を紹介しました。これらのケースは、タイトルにあるように、全部「権利侵害」と言っていいケースだと私は思います。おおざっぱに言うと、障害のある人も、私たちと同じように、地域で普通に暮らすことが当然保障されなければならない。地域で普通に暮らすことが権利であることを前提とすれば、今ご紹介したケースは全部権利侵害であるといえると思います。
1番目の「学校でのいじめ」のケースは、差別されない、偏見を持たれない、そのような扱いを受けないということが権利と言えると思います。
2番目の「給料未払い」のケースでは、自分の給料をきちんともらうことは当たり前ですし、障害があって会社に勤めていたり、施設で暮らしている場合には、会社や施設に対してきちんと意見を言えるシステムを保障してもらう権利があると思います。
3番目の「成年後見人制度」のケースについては、成年後見制度は本人の代弁をしてくれるシステムのはずなので、それがきちんと機能するようチェック、監督することを要求する権利があって当然だろうと思います。
4番目の「バス会社の対応」のケースでは、1番目の学校でのいじめのケースと同じように、差別されないこととともに、どこかへ行くために移動するのは当たり前に保障されている権利ですが、それが侵害されている。以上のように、どれも権利侵害であるといえると思うのですが、実際にはあちこち至る所で日常的に権利侵害が起きているのが実情です。
何が、根本的に問題なのか
□「障害」があってもなくても、「人権」は保障される(当たり前のこと)。 |
○「人権」とは、「権利」とは、「法」とは? ・人権とは = 人である以上当然に保障されるべきもの ・権利とは = 恩恵ではないもの ・法とは = 社会における「最低限」のルール |
冒頭に「「障害」があってもなくても「人権」は保障される」とありますが、このことについては誰もあまり何も言わないと思います。これは当たり前のことだと思います。
その前に、そもそも「人権とは何か」という問題があります。「人権」とは、人が人であるというだけで、それ以外に何の理由もなく当然に保障されるものと言われています。ですから、障害があっても、人であるかぎり人権が保障されるのは当たり前の話です。
人権は「権利」の一種ですが、では「権利」とは何かと言ったら、「恩恵」のように与えられるものではなく、自分で主張できるもの、法的に主張できるものが「権利」です。 その権利を侵害したら「違法」ということになりますが、それでは、「法」、「法律」って何? という問題も出てきます。とても根本的な話なのですが、実はこのあたりを押さえておくことが重要になります。
「法」と似たようなものに「道徳」や「決まり」、「倫理」という決めごとがありますが、「法」は「社会での最低限のルール」です。これを違反したら、損害賠償をかけられたり、刑罰を受けるということが決められている、最低限のルールです。
以上をまとめると、「権利を侵害すると、法に反する」ということは、今お話した、最低限のルールに反するということを意味します。しかも、「人権を侵害する」ということは、社会での最低限のルールを犯して、人を人でないように扱うということになります。
□「障害」がある場合、「支援を受ける権利」がきちんと保障されないと、 人権保障のスタートラインに立てない。 |
○「普通に生きていくこと」が保障されなければいけない、という前提 憲法13条:幸福追求権(人権一般)、憲法14条:法の下の平等 例えば) ☆ 情報へのアクセス権、意見表明権、適切な支援の請求権 ☆ プライバシーを侵害されない権利、虐待されない権利 |
○障害があること = 普通に生活していくうえで支援が必要ということ =平等に権利が保障されるためには、支援が必要だということ =支援がないと保障されるべき権利を保障されないということ |
○支援を受ける権利とは何か 例えば) ・ホームヘルパー、移動介護の確保 ・エレベーター、スロープ、点字ブロックの設置 ・グループホーム、バリアフリー住宅の確保 ・就労場所確保、所得補償、医療的ケアの確保、成年後見人の確保 |
○請求できるか。選択できるか。←「権利」と言えるための分岐点 ◇ 憲法、個別の福祉法規、差別禁止法、「合理的配慮」 |
教育を受ける権利や表現の自由、虐待されない権利や職業を選ぶ自由、もっと広く、自分のことは自分で決める権利や、幸福を追求する権利などは、憲法で保障されているわけですが、こうした権利は、障害がない人の場合、普通に生きていくうえであまり意識されることはありません。けれども障害がある人の場合、人権が保障されるためには、まずその障害の特徴に沿った支援を受ける必要があり、その支援を受けなければ人権は保障されることにはならない、という特徴があります。
例えば、成年後見を例にすると、法律的な判断が十分にできないとしたら、代弁をしてくれる適切な人をつけてもらう必要があるということです。
地域で普通に暮らすということについても、まさにそうです。先ほど、ホームヘルパーの利用料が払えなくなり、地域で生活することが困難になったケースについて紹介しましたが、そういう支援がなければ、地域で普通に暮らすことが保障されるということにならない。つまり、支援がないと、そもそもの人権のスタートラインに立てないということが、障害のある人の特徴といえます。
そのため、障害のある人の場合には、障害の特徴に応じた「支援を受ける権利」が必要で、「支援を受ける権利は人権だ」と言い切らないといけない。少なくとも、“障害のある人も人間だ”という以上は、そう言い切らないと“障害のある人は人間ではない”ということになってしまう。憲法第13条の幸福追求権や、第14条の法の下の平等ということに照らせば、支援を受けることは権利であると法的に根拠づけられると思うのですが、そのことが正面から語られることは、これまでにあまりなかったと思います。
「憲法13条:幸福追求権(人権一般)、憲法14条:法の下の平等」の下に、「情報へのアクセス権」と書きました。これは必要な情報を得ないと、自分の意思を反映した判断ができないわけですから、情報をキャッチする、接近する権利ということです。また、「それはいやだ」とか「自分はこうしたい」と自分の意思を表明する「意見表明権」や、自分が普通に生活するうえでこれだけのヘルパーの支援が必要だと要求する「適切な支援の請求権」などが、支援を受ける権利の内容としてあげられると思います。また「プライバシーを侵害されない権利」や「虐待されない権利」というのは、実際に目に見える形で侵害されている、非常に多い権利侵害の例としてあげました。
繰り返しになりますが、平等に、普通に、人間として暮らしていくことが保障されるためには、何らかの支援が必要で、障害のある人の権利や人権を語る場合には、まずそのことが大前提になければいけない。このことを裏返せば、支援がないと、どんなに権利を口にしても、保障されることにはならないということでもあります。そのため、支援を受けることが人権だと位置づけることが重要だということだと思います。
では、支援を受ける権利とは具体的にどういうことかというと、具体的に「これ」を指して請求したり、「これは嫌でこっちがいい」と選ぶことができないと、権利として意味がないということです。レジュメに書いたように「*請求できるか」「*選択できるか」というのは、それが権利であると言えるための分岐点というか、判断基準になるということです。
□現在の日本では、「支援を受ける権利」は、保障されているとは言えない (国にとっては、パンドラの箱?)。 |
○財源問題:皆で負担するのか、「障害者ないしその家族が負担せよ」というのか。 →人権保障に財源が要求されるのか。財源に左右されてよいのか。 |
実際に、今の日本で、支援を受ける権利が保障されているかということですが、理論的には憲法があり、また差別禁止法のようなものができれば、それによって保障されていると解釈することは可能です。しかし現実問題としては、請求しても聞き入れられないことも多いし、選択できる対象も少ない。また、「そういうことを請求・選択できるシステムを作りましょう」という議論も出ていないし、「選べるといいですね」とは言っても実現にまでは至らない。
障害のある人が支援を受ける権利は人権として保障されていないのが現状です。そうなると、障害のある人は人として扱われているのか、物なのかという議論になると思います。実は、それが最も根本的な問題なのですね。
□「障害」のある人にとっては、支援が保障されていないということは、人権が保障されていないことを意味する。人権が保障されていないということは、「人が人であるということだけで当然に認められる権利」が保障されていない、ということである。 |
○ 障害のある人は人ではなく、物か。 ○ いずれにしても、そのような社会的事実を皆が知ることが不可欠。 |
その根本的な問題に対して、障害の問題と関係のない人は全く目を向けていない、という現実があります。「障害のある人も人だとしたら、何が保障されないと普通に生きていけない、と考えられますか?」と投げかけたとしても、それ以前に、多くの人は、障害のある人が人として扱われていないに等しい状況があることをあまりよく知らない。目を向けたら、「それはおかしいだろう」と思う人もけっこういると思うのですが、実際にはそういう実態を知らず、「障害のある人って怖いわね、かわいそうね、大変ね」というふうに思っているだけです。
ですから、その知られていない状況を表に出さないといけない。表に出すことが第一歩だし、「人なのに人として扱われていない実態をどう考えるのかみんなで考えよう」という場を、まずつくらないといけないと思います。
それに向けて、いわゆる支援者と言われる人たちがどのように戦略を立てて動くのか、またその実態をどのように伝えて、一緒に動いてくれる人をどのように増やすのかということがとても大事なことだと思います。
今、福祉と財源の問題が話題になっていますが、そもそも人が人であることを保障するために税金を使わないで他に何に使うのか、と思います。人が人であることを保障するということが最初にあって、その後に道路を造るという話がくるはずなのに、道路を造るために財源が足りませんというのは、本末転倒と思います。
そのような話にならないのは、実態がどうなっているかを見ずに、「この社会は障害のある人を人として扱っていないじゃないか」という疑問と向き合わずに、これまでずっと進んできてしまっているのだと私は思います。
私はもともと障害のある人の弁護をしようと思って弁護士になったわけではないので、法律家として見て、障害のある人は人として扱われていないという現実に、正直驚いています。それでいいのか。どうやって現実を変えていくのかということを考えて、これからやることがたくさんあると思っているところです。
私は、弁護士、法律家という立場でそのように考えていますが、人権や権利というのは、とても法律論だけで済む話ではありません。先ほどから何度も言っていますが、大事なのは、みんなが事実を知ることです。障害のある人が人として扱われていないこと、そのことが原因で事件も起きているし、人も死んでいる。そのことをみんなが知り、知った人のうちこれは放っておけないと思った人が何か行動を起こすこと。何かにつなげていくこと。それが絶対的に大事で、私は自分の活動の主要な場面である裁判を、障害のある人が地域で普通に暮らすことにつなげていくひとつの場面として使いたいと考えています。
今の話をわかりやすく表現すると...
自分(じぶん)を大切(たいせつ)にして生(い)きることは、障(しょう)がいがあっても無(な)くても、私(わたし)たちみんなにとって、とても大切(たいせつ)なことです。一人(ひとり)の人(ひと)として、自分(じぶん)らしく生活(せいかつ)する「権利(けんり)」があります。 |
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・自分(じぶん)がやりたいことをはっきり言(い)って、それを優先(ゆうせん)する権利(けんり) ・自分(じぶん)のやりたいことを人(ひと)を使(つか)ってやり、それを自分(じぶん)でしたこととする権利(けんり) ・能力(のうりょく)のある平等(びょうどう)な人間(にんげん)として尊重(そんちょう)される権利(けんり) ・難むずかしいことをわかりやすく教(おし)えてもらい正(ただ)しいことを知(し)る権利(けんり) ・思(おも)うとおりに「はい」「いいえ」をいう権利(けんり) ・気持ちきもちをかえる権利(けんり) ・「わかりません」「できません」という権利(けんり) ・楽(らく)をする権利(けんり) からだを気持(きも)ちよくする権利(けんり) |
私(わたし)たちは、障(しょう)がいがあっても、なくても、生(う)まれたときから、当(あ)たり前(まえ)のこととして、一人(ひとり)の人間(にんげん)として、自分(じぶん)らしく生(い)きることを認(みと)められています。 幸(しあわ)せになることは、誰(だれ)にでも認(みと)められています。 |
・会社(かいしゃ)で楽(たの)しく仕事(しごと)をしたい ・自分(じぶん)で食(た)べたいものを買(か)いたい 食(た)べたい ・一人(ひとり)でアパートで生活(せいかつ)したい ・好(す)きな人(ひと)と暮(く)らしたい ・お家(うち)で幸(しあわ)せに家族(かぞく)と暮(く)らしたい ・行(い)きたい場所(ばしょ)に安全(あんぜん)に行きたい ・言(い)いたいことをみんなに分(わ)かってもらいたい ・やってみたいことをやってみる |
こんなとき、他(ほか)の人(ひと)たちの助(たす)けが必要(ひつよう)なときがあります。 他(ほか)の人(ひと)の助(たす)けを必要(ひつよう)とすることは、とても良(よ)いことです。 「私が幸(しあわ)せに暮(く)らすためにこんな支援(しえん)が必要(ひつよう)です」と言(い)うことは、 とても良(よ)いことです。 みんなが必要(ひつよう)とする支援(しえん)は、みんなが尊(とうと)い一人(ひとり)の人(ひと)として、 当(あ)たり前(まえ)に、認(みと)められるべきなのです。 |
質疑・意見交換
~主な質疑・意見交換(以下、□は質問者、▼は講師の回答です)
□お話をうかがって、スウェーデンやオランダのように、お金をかけて障害のある人を支援しているかということと、支援を受けることが権利として認められているかいないかが一番大きな分かれ道だなと実感しましたが、そのような理解でよろしいでしょうか。
▼ 法律的に言うと、ヨーロッパ型とアメリカ型とで分けられると思うのですが、今おっしゃったスウェーデンなどは、自分に適切な支援を個別に受ける権利があり、パーソナルアシスタントを公費で雇える権利を法律で保障しています。そのような法律があるので、当然権利として主張できるという社会になっています。そうした考え方が、福祉の先進国では一般化してきているといえると思います。一方アメリカでは、ADAという障害者差別禁止法があり、「合理的配慮義務」というかたちで権利を保障しています。支援を必要とする人は、合理的な配慮を要求する権利があるということです。イギリスもそうです。
つまり、要求する権利を社会保障として保障するというスウェーデン型と、アメリカやイギリスのように、差別をしてはいけない、合理的な配慮をしないと平等にスタートラインに立てないということで権利を保障している国と、そのようなかたちで先進的な国では進んでいます。
日本では、そもそも支援を受けることが権利なのかということがうやむやで、「社会で余裕があればそちらの分野にもまわせますよね」ということで動いている状態です。
実は、立法や行政は、それを権利として認めていません。日本ではまだまだそこは遅れていて、権利として位置づけていないし、位置づけることを怖がっているというか、ふたをしているという感じがします。それが先ほどお話しした「国にとってはパンドラの箱」ということです。支援を受けることを権利として認めてしまうと、社会保障や差別禁止のための合理的配慮の分野にたくさんお金をまわさなくてはいけなくなるので、権利かどうかにふれることをうやむやにしているという状況です。
繰り返しになりますが、それはつまり、障害のある人を人として認めていないことになると思うのですが、そうなると「それは違うだろう」という人が多くいるので、その話自体を表に出さないようにしている。それで、「自立生活はいいですよね、それを支援しましょう」となんとなくきれいな言葉で飾って法律を作って執行しているという状況だと思います。
□今日は、主に大人の障害のある方の事件のことをうかがったのですが、まずは子どもの教育の分野で、障害があってもなくても一緒に学び合うことで、お互いを尊重し合うことができるようになる。そのための環境をつくる道筋をつけることが重要ではないかと思いましたが、いかがでしょうか。
▼ 今日ご紹介したような事件や事故などの話ばかりを羅列すると、絶望的になるのは当然ですよね。ですが、実際にはこのような話を知っている、認識している人は、あまりにも少なすぎると私は思っています。現実を知った上でどうするのかをみんなが考えるということが必要だろうと思います。
また、教育については本当に大事で、これから先の将来を担うのは今の学生や子どもたちですので、その人たちの思いや認識が変わっていかない限りは、社会が変わるということにはならないですよね。その意味では、これから社会を担う人たちの何が変わってほしいかというと、まさにおっしゃるとおりで、障害がある人がクラスにいたよね、地域にいたよねということが、普通に認識できるようになっていくことです。そうなれば、社会は変わっていくと思います。その実現のために教育は大事なもので、次世代やその先の世代に対して、障害があってもなくても同じ人間だという認識をどうつくっていくかということが根本的に大事な問題だと思います。
□自閉症の子を持つ母親です。子どもの自立が進んできていることを喜ぶ半面、親の目が届かない部分も多くなってきました。裁判や相談などの場面で、障害の特性に応じて、どのように聞き取りをされているのか、どのような機関が担っているのか。また、地域でそのような機関の整備が確立されているのか、整備の状況や予定についてうかがえればと思います。
▼ 今おっしゃられたようなことが、裁判では一番大きな問題で、実際にはこれまでそのような機会は用意されてきたことはなく、また、そのような機関も全くありません。ようやく、どの時点で、誰がどういう聞き方をするのが有効なのかという研究が始まったというところです。そうした研究は、子どもの虐待などの事件で先駆的に進んでいるので、そうした内容を参考にしながら、どうやって組み立てていくか、というのがまさに始まったところです。
ただ、本人が「はい」といったから犯人だ、と判断することが難しいということは、だんだんと広まってきています。警察や検察庁でも、「このような聞き方が有効だ」とか、「このような聞き方では誘導になってしまうので注意が必要」ということで広まっています。万が一そのような場面に遭遇したら、警察、検察、弁護士に対して、障害の特性への配慮について具体的にどのように考えているのか、と問題指摘をすれば、ある程度そこに問題意識を置いて事件が動いていくという流れになってきています。
□子どもが25年前に中途障害者になり、今重度の障害者として車いす生活をしておりますが、先生がお話された事例の2つを実際に体験しました。
市内を走るコミュニティバスには、車いす用のスペースがきちんと確保されていて、ドライバーの方にも親切にしていただいています。ですが、2度ほど乗車拒否をされたことがあり、悲しい思いをいたしました。その際、行政にもバス会社にも抗議をしました。人権侵害だ、差別を受けたということを強く感じた出来事でした。
また、市の24時間のホームヘルプを利用させていただいておりますが、お正月には人が不足しているから利用できない、自分で探してくれと言われました。市として最終的な受け皿をどう考えているのか、権利侵害だと訴えていいのかおうかがいしたいと思いました。
▼ 最後におっしゃられたことが、まさに権利かそうでないかというところです。自分で探してくれというのは、「余裕があれば(ヘルパーを)まわすけれど、ないんだから仕方ないでしょ」ということでもあり、それは権利ではないと言われているに等しいですよね。
それは支援を受けることは権利ではないのかという問いかけとイコールだと思います。そのことが日本では曖昧にされているし、もう少し言うと、日本では権利として保障されていない。それをきちんと権利として保障させる必要がある、ということまでしか私には言えないのですが、今のお話はまさにその権利を認めなくていいのか、という話につながることだと思います。
その意味では、これを保障しなければ人権を保障しないということですかと、行政にきちんと意見を言っていいと思うし、言わないといけないと私は思います。
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