実践報告Ⅱ

14:10~14:40 実践報告Ⅱ

 

中本明子氏・吉岡孝氏・小林ミチル氏
(NPO法人ソーシャルハウスさかい)

 

~プロフィール①~
■吉岡 孝(よしおか たかし)
大阪府堺市在住 病歴30年 通院歴10年以上
退院促進支援事業の支援員歴5年目
ソーシャルハウスさかい「出前はぁと」に当事者講師として参加
ソーシャルハウスさかいの当事者理事
ほんわかクラブの主宰に携わる
病気になって元気になった。まだまだいけるもう10年。
仲間やスタッフに恵まれた。
地域で暮らしていく力となっている1つとしてお茶会があること。
1杯のコーヒーから人とのつながりができ、また力になったと思います。
これから先もそういうことでしょう

 

~プロフィール②~

■小林 ミチル(こばやし みちる)
出前はぁと講師
ヘルパーステーション「ふわり」ヘルパー
サポートセンターいんくる非常勤スタッフ
小学校高学年と中学時代にいじめに遭い、好きな英語を活かそうと入った大学時代 20 歳で統合失調症を発病。
大学を卒業していったん病気が治まり、老人ホームに就職するが長く続かず1年半で退職する。
視線恐怖の後遺症を抱えながらカーペットの染糸工場でパートとして働くが、友人と行った海外旅行先のデンマークで再発。奈良の病院に入院(1ヵ月程) 自分では病識が持てないままだが、幻聴に振り回される事がなくなったので退院する。
パート先の先輩とそりが合わず胃潰瘍になりかけて退職する。
胃潰瘍が治った後、ヘルパーステーションに登録し、ヘルパーとして働きはじめる。無理に働き過ぎて8ヵ月程で再発し、大阪の病院に入院(2週間)。
初めて作業所に通い始めて、仲間と出会い、初めて病識を持ち、自分のペースで働く事により、初めて幻聴がましになる。現在も通院治療中

■中本 明子(なかもと あきこ)

NPO 法人ソーシャルハウスさかい副理事長/サポートセンターむ~ぶ 精神保健福祉士
精神科病院PSW を経て、平成2 年よりソーシャルハウスさかいの活動に関わる。

 

【実践報告Ⅱ:中本明子氏・吉岡孝氏・小林ミチル氏】

 皆さんこんにちは。今回は、遠いところを呼んで頂いてありがとうございます。
 私たちは、大阪市の南にあります堺市からやってきました。堺市というのは、一番有名なのはO-157かなと市の担当者が言っております(笑)。
 今日のメインは退院対策と言いますか地域生活移行、その中でうちとして、ピアの力ということで呼んで頂いたのではないかなと思います。私はサポートセンターの中本と申しますが、私の役目はフレーム、枠組みを少し話させて頂きまして、後の2人の方から実践の報告をさせて頂きたいと思います。


堺市の概要

 概要ですが、大阪市の南にあり、「黄金の自治都市」と呼ばれ自由貿易をやって、わりと「自由が好きや」という地域性がありまして、千利休とか与謝野晶子を輩出したというのが市長の自慢でございまして。あとはですね、仁徳天皇陵っていうのがあって、いま世界遺産に登録しようと必死になっておりますが、周りが汚いためにあかんと言われています(笑)。
 もともと中核市で、「目指せ100万人」だったんですがなかなか人口が増えませんで、あかんって思ったときに人口条件の緩和がされまして、めでたく何年か前に政令指定都市になり、現在では隣の美原町を合併しまして(美原町の人は嫌やって言ったらしいんですけども無理矢理)、それで7区になっております。


堺市の障害者生活支援センター

 それで、堺市の障害者生活支援センターの図でございます。知的・身体が12か所、精神が6か所あります。精神は地域活動センターのⅠ型をとっていまして、知的・身体とは事業が違うんですけども、相談をメインとしたというところで支援センターでひとくくりになり、連絡協議会を作りまして、堺市から障害者自立支援協議会の運営を委託されております。
 その中で、精神の支援センター6か所が退促事業、堺市では退促事業のお金がないということで、生活保護の長期入院者の地域生活移行をせなあかんということになりそっちのお金を引っ張ってきまして、こういう「堺市精神科病院長期入院者地域移行支援事業」、そのケアマネの委託をしております。


堺市の退院促進支援事業の経過

 堺市の退促事業の経過を、ちょっと簡単にまとめています。
 もともと大阪で退促の事業が始まったと思っているんですが、平成5年に皆さんご存知の「大和川病院事件」がありまして、非常にひどいところがあったんですけども、それは関係者の中では何十年も前からわかっていたことで、それに誰も手をつけなかったんです。その病院が槍玉に上がったところでようやくつぶしたという経過があります。この中で問題になりまして、精神保健福祉審議会の中でその問題が取り上げられ、行政責任であるということで、退促事業が始まりました。言うならば国に先駆けて大阪府は自分のところの長期入院者を放っておいたという反省で始まったわけなんですけども、それが平成15年に国事業に位置づけられたと聞いております。
 平成16年に堺市が退促事業を開始しました。その時にはまだ堺市が政令指定都市になっていませんでしたので、大阪府の事業を引き継いだ形でやりまして、大阪府に習って復帰協(精神障害者社会復帰促進協会)に事業を委託し、3つの精神の支援センターにケアマネを委託いたしました。平成18年に堺市が政令指定都市になりようやく堺市の事業となり、でもやっぱり復帰協に委託しケアマネも継続しました。ここで支援センターが4か所になります。
 平成18年に障害者自立支援法の施行がありました。三障害の支援センターが一緒になったということで連絡協議会が発足し、障害者自立支援協議会も発足しました。ここで精神の支援センターが5か所になり、平成20年、支援センターが6か所になりました。この6か所で退促支援のケアマネを請け負っております。


退院促進支援事業の比較(大阪府・大阪市・堺市)

 ここで退促の比較をしておきたいと思うんですけども、大阪府と大阪市、それから堺市のやりかたが違っています。本家本元の大阪府は窓口が保健所になっており、コーディネートは保健所の相談員さん。復帰協に事業委託していて自立支援員さんが復帰協に雇用されていまして、その自立支援員さんが支援に行く、となっています。
 大阪市は全然違う形で、こころの健康センターが窓口になっていまして、コーディネーターが自立支援員さん。それからピアサポーターが一緒に支援する形をとっています。
 堺市はですね、窓口を地域活動支援センターにしておりまして、その支援センターの相談支援専門員のスタッフがケアマネ、コーディネーターをやっております。支援者は自立支援員ですけれども、この中にピアの方がいらっしゃって、復帰協の方針に従って1人で動いておられる方もおりますし、うちではピアの方と健常者の支援員さんのセットというか、ペアで動いて頂いております。


NPO法人ソーシャルハウスさかい

ここでソーシャルハウスさかいのお話をしたいと思います。
これはうちのミッションです。


NPO法人になるまでの道のり

 平成元年に任意団体として発足して、専門家によるネットワーク作りをやってきたんですけども、当事者はいつもついていくだけ?ということで、会員制度を発足させました。


NPO法人になるまでの道のり

 市民の会となった途端に、専門家が離れていきまして、第1回目の潰れかけがあります。
 今度は地域拠点の作業所活動をしようということでやっていったんですけども、今度は喧々諤々になって、福祉関係者が出て行ってしまって、また2回目の潰れかけになります。
 そしてお金も場所もなくなって、当事者と家族と若干残った者が、でもやっぱりNPO だということでNPO を作りまして、


NPO法人になるまでの道のり

 じゃあ、みんな同じ立場で何を目指すのかということでNPO になったんですけども、大事にするものは、「障害を持ったこと自体がすごい価値じゃないの?」っていうことや、「体験者にしかわからないことってあるんじゃない?」というのを大事にしようということで、活動をしています。


会員総会

 現在ではピアの活動と、それからやっぱり知ってもらうという活動をとても大事にしているんですけども、それらを理念の形にするためにはやっぱり拠点が必要ということで、事業としてはまず支援センターがあり、それからヘルパーステーションがあって、グループホーム、それからリサイクルショップ、これは補助金をもらわずにやっています。


ソーシャルハウスさかいピアサポート活動

 ソーシャルハウスの中のピアサポート活動を、ちょっと挙げてみました。
 今日の「出前はぁと」の講師、お二人ですが、講師派遣事業ということで当事者の話を講師としてやって頂いております。それから「ニューウェーブ」というボランティアグループ、このグループの代表は当事者の方です。「ぽかぽかはぁと」という当事者の電話相談や、ホームヘルプの中でピアヘルパーとして働いて頂いております。それから退促のピアの自立支援員さん、あとは家族会とか断酒会の当事者活動への協力をやっております。
 ピアの活動をいろいろやっている中で、退促支援員の活動をして頂いています。

 

ピアサポート活動の実践報告~ピアでしかできないこと

 今日は、「ピアでしかできない」ということを話して頂くわけですが、近島さんは今日臨時で急用があり来られなくなりまして、まず吉岡さんに退促の話をして頂いた後、小林ミチルさんに、お手元の資料の中には小林さんのプロフィールが書かれてありますけども、ピア活動について話して頂こうと思っています。よろしくお願いします。

 

  <吉岡氏>
 こんにちは。吉岡孝と申します。「出前はぁと」の吉岡です。よろしくお願いします。
 私が所属しているところは、NPO 法人ソーシャルハウスさかいという団体の「出前はぁと」、当事者が講師をやらせて頂いてます。普段は「む~ぶ」っていう生活支援センターに行くことが多いんで、よく利用させて頂いてます。
 それから退院促進事業の自立支援員、これはピアの自立支援員をやらせて頂いてます。それからセルフヘルプグループで「ほんわかクラブ」という、まあ、お茶飲み会ですね、そんなこともちょこっとやらせて頂いてます。そんなところです。
 今日お話したいことは、退促、退院促進事業の自立支援員としてやっている仕事なんですが、これを2つ3つ例を挙げてお話したいと思います。私も退院促進の事業が堺市で始まって最初から関わっているんですが、もうかれこれ5年になります。その間、退院促進にうまーく乗せて、退院に至った患者さんを見ているんですが、今現在も退院して、元気に過ごしております。その方は年齢は30代でまだまだこれからというものですから、元気に今は過ごしております。その一番最初に関わった、その時に2人掛け持ったんですね。1人は退院促進に乗って「うまく成功した例」、というのはおかしいんで「退院して頂いた方」なんですが、もう1人は女性の方で、もう高齢の方ですが、その人にも同時に関わらせてもらいました。
 そんなんで一方(若い人の方)はうまくいって。まあ、たまに会うように僕もしているんですけども、会おうと思えばすぐ会えるし、また何か話が出てくれば声をかけてきてくれると思うんで、僕も安心しています。グループホームにも入っていますしね。
 それから今現在ずーっと5年くらい関わっている方(高齢の人の方)なんですが、この方は退院促進という名の下で行っているんですけど、なかなか退院にはならない。「病院のほうがいいわぁ、慣れてるもんなぁ」って言って、75、6歳とかいかれるとね、そりゃそうかと思うのやけどね。それでも僕たちが行くことによって、「楽しいです」とか、笑顔の一つでも見せてくれはったり、お話しすることがこないだも聞いたことですけど「楽しかったです」と言うてました。そんなん聞くとね、やっぱり楽しみにしてくれてるのやなと思ってね。2週間に1回の面会、面会って言ってもまあ、お寿司を食べに行ったり、喫茶店行ったり、買い物行ったり、ちょっとそこらに「目新しいケーキでも食べに行こうか」とかね。そんな食べたりするようなことが多いんですけどね。やっぱりそんなことも大事なことで、院内におるとなかなかそうもいかなくて。まぁ、結構楽しんでいると思っています。
 それから、僕たちが行くことになっている病院の中の、看護師さんの応対の仕方とか、言葉づかいとか、そういうのも変わっていくんじゃないかなっていう気もしてね。看護師さんもいろいろやけど、この頃は丁重やなて思ってね、これは院内もずいぶん変わってきたんかなぁと思う節があります。
 それから、本人がどんどん変わっていってくれるというか、一番最初の高齢の方なんて、僕と一緒で白髪ですけどね、もう「ご老人」っていう感じで。それが髪の毛染めて口紅つけてね。「たまにはネックレスしいやー」って言ったら「はい、はい」って言ってね、なかなかネックレスまでいかないけどね、「もてるようにちゃんとつけなあかんでー」と話をする事もあるんですけど。
 そんな具合でこれからも先、堺市のほうではなかなか止めとは言いませんしね、続けたいなと思っています。病院側もこんなんぽっつんといられるのはちょっと可哀想やし、病院もそう言ってくれているし。僕たちもできる限り会いに行って、そうやってご飯食べに行ったり、またお茶したり、そういうことも必要なので、それこそその人が元気になる一つの方法であれば、これはぜひ続けたいなと思っています。
 それから、僕たち自立支援員と言っても、僕一人で行っているんじゃなく、健常者の方(病気じゃない方)が一緒にペアで行っていまして。ペア組んでいますから、僕が「ちょっとしんどいなぁ」っていう時だったら、パスすることもなきにしもあらずということもあって、2人で行くことでずいぶんと気持ちが楽になります。1人で行くとなかなかいろんな責任感も重大だと思うんですけどね。ましてや女の人やご老人だったら大変なこともあります。まあ、とりあえず「元気になった」っていうのがね、一番うれしいことです。
 それからもう一人の方は、その方も長期間入院していまして、それで今現在は授産施設(作業所)に通っている。もう毎日コツコツよう通ってね、皆勤賞貰うくらいの通いようでね、堅い人できっちり通ってくるようですね。ずる休み全然ない。その方も高齢の人ですけど、体力あるからずいぶんとあちこち一人で行きはるねん。外出たことなかったもんやから、友達のところ行ったり、映画鑑賞行ったり、結構一人で出歩いてます。そんな状況です。
ありがとうございました。(拍手)

 

  <小林氏>
 こんにちは。大阪の堺から来ました、先ほど中本さんより紹介頂きました小林ミチルと申します。
 本来近島さんが退院促進事業をやられているんですが、私は退院促進やっておりませんで、今はピアサポーター、ピア活動をしておりますので、それの報告をさせて頂きたいと思います。
 障害当事者でありまして、「出前はぁと」、事業自体は6年ほど前からやっております。私は4年前からしているんですけども、横にいる中本さんや他のスタッフとも、パートナーシップという、いわゆる上下の関係ではなく対等な関係の中で、横にいる吉岡さんもそうですし、他の7人の仲間と一緒に、当事者の生の声をお届けする仕事をしております。私はその会計の仕事を請け負っております。
 そして3年前から、当事者のヘルパー、いわゆるピアヘルパーの仕事を週2~3日やっておりまして、去年の10月からは、週2回支援センターの非常勤ピアスタッフとして、当事者による電話相談の仕事をしております。
 はたから見ると、特に当事者の人から見ると、いろんな仕事をしていて「私とは違う特別な人」のように思われたりするんですよ。「私とは違うわぁ」と言われるんですけども、そうではなくて。
 ヘルパーの仕事自体は、私が普段所属する「ヘルパーステーションふわり」は、3分の1が私と同じ当事者のヘルパーであって、3分の1が家族会の方で、3分の1が一般の元気な方っていう所属になっていまして、とてもしっかりしたサポート体制があるので、安心して働けますし、ピアスタッフの仕事では、「当事者」と「スタッフ」という垣根があまりなくて、いいコンビネーションがあります。
 それはスタッフが私をサポートしてくれているのはもちろんなんですけども、私がスタッフをサポートする時も、時にはあります。
 「出前はぁと」では、吉岡さんのように退院促進事業をしている人がいたり、当事者で現在大学に通われて、「PSW の資格を取って専門職になりたい」とおっしゃられている方もいてはります。
 またアルコール依存で断酒会の活動をしておられる方もいらっしゃいます。様々な活動をしている人が多いんですけども、人としてお互いを尊敬しあえる仲間で、とても心強い仲間で。月に1回世話人会で、今度の講演に誰が行くかとか決めているんですけども、いつも笑いが絶えない。大阪ですから笑いが絶えませんし、みんなにとってもとても心癒される場所、特に中本さん自体も癒される場所だそうで、情報交換できる大事な会になっております。当事者の派遣講師の方が入院されていても、外出してまで会に来られます。「ここには行きたい、行かせてくれ」と言って、来られたりします。
 このように当事者であっても、皆さんそれぞれ能力があるんです。これまではスタッフが作業所等でメンバーさんのお世話をする、メンバーはお世話をされる人っていう形でしたけども、最近では「ピア」とか「ピアサポート」っていう言葉があちこちで聞かれるようになっていますし、今日も話がたくさんありました。それはセルフヘルプグループの形として、仲間の支えあいが大事なことはもちろんですけども、それぞれにあったサポート体制があれば、皆さん自分の能力を生かすことができるんです。それはその人がエンパワメントすることであり、それぞれの自信につながっていけることだと思うんです。だからこれからももっと、ピアの方が活動できる場所が増えればいいなぁと思っております。
 これで発表を終わらせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

 

(終了)

 

 

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