T県にあるB大学薬学部は最近設置された6年制のカリキュラムで、聴覚障害学生が1名在籍している。調査者は平成20年12月にB大学薬学部を訪問し、聴覚障害学生の所属クラス担任のS教授および当該学生本人に別々の聞き取り調査を行った。(記録②-1、②-2)また、T県聴覚障害者情報提供施設も訪問し、高等教育機関で学ぶ聴覚障害学生への支援について聞き取り調査を行った。(記録②-3)
在籍する聴覚障害学生は両耳ともに100デジベル以上の聴力損失があり、1対1で相手の音声による話を聞き取る方法には比較的対応できるが、集団の中では対応できない様子である。当該学生の発話は発音が明瞭で相手や周りが理解できているようである。そのために、大学ではとくに講義での教員や学生の発言が読み取れないという問題が起きている。聴覚障害学生の所属するクラスの担任教員がこの問題を担当し、学部内での協議及び当該学生との話し合いの中で情報保障の方法を検討し、実行に移している状況である。
ノートテイクの方法は、当該学生が薬学部が開設されて最初の学生であるため、依頼できる上級生がいないという特別な状況の中で断念している。同大学は他にも学部が以前から運営されているが、講義の内容の専門性によりノートテイクを依頼することは難しいという判断がされている。
そこで、授業担当教員に対しては細かい資料を配布する努力、同じクラスの学生に対してはノートのコピーの提供の協力を依頼する方法としている。当該学生自身は教室での発言内容が100パーセントは理解できずとも、細かい資料とノートのコピーの提供を受ける方法で、「問題はないと話している。
ただし、講義ではなくゼミや実習が始まったときに、細かい資料とノートのコピーの提供で対応することは考えられないことを当該学生本人は認めており、筆談や口話で乗り切るしかないと考えているようである。実習を始めるにあたってOSCE(客観的臨床能力試験)を受けることが国によって定められているが、患者への対応を見る場面ではパソコンのディスプレイを設置して筆談と口話にて対応する方法をクラス担任教員との間で確立している。
当該学生は全国に薬学を学ぶ聴覚障害を持つ学生が多くいることを知っているが、大学における情報保障の方法など情報を得ている状況は見られない。また、親元を離れて生活しているT県でも聴覚障害を持つ知人や友人を持っていない。
聴覚障害者情報提供施設では、B大学薬学部に聴覚障害学生が在籍している事実を把握していなかった。薬学の専門性からノートテイク派遣などの支援をすぐに準備することは簡単ではないようであるが、これからの聴覚障害者の医療など専門分野への進出を支援していく必要性からも、このような課題には前向きに取り組んでいく気持ちと用意が同施設所長以下職員の皆さんにあることが確認された。
B大学薬学部に学ぶ聴覚障害学生が生活面でも腕時計型の振動式目覚まし時計の提供など、同施設ができる支援はいくつかあるので、聴覚障害学生が在籍していることの連絡、相談、支援要請を受けられるようなシステムがほしいという意見があった。
この調査で浮かび上がった課題は、①孤立的な状況にある聴覚障害学生自身が学外、全国の同じ問題を抱える聴覚障害学生と連絡を取って、情報収集及び聴覚障害学生としてのアイデンティティの確立を行えるような仕組みが用意されること、②医療系高等教育機関における情報保障および学生生活の両面で相談を受ける全国レベルの機関を中央に設置し、当該高等教育機関、中央の支援機関、地域の支援機関(県聴覚障害者情報提供施設等)の間にネットワークを構築し、役割分担を明確化することにあると考える。
調査者:大杉 豊
調査日 2008年12月8日
聞き取り調査相手 B大学薬学部 聴覚障害学生所属クラス担任 S教授
■S教授は当該学生が入学したときからクラス担任。(3年生は120名)
■入学時、当該学生の保護者より、学生自身で何事も対応できるので特別の配慮は必要ない、という話があった。しかし、大学の講義のレベルの高さもあり、当該学生の希望を聞き、同級学生のノートを薬学部事務局でコピーし手渡すことになった。この方式が最近うまく行っているかどうかは不明。遅刻、欠席が比較的多いため、当該学生がノートのコピーを頼みづらいという悩みもあるようだ。
■当該学生とのコミュニケーションは正面でゆっくり話す方法、難しいときは筆談としている。授業時は資料を多くするなどの配慮を行っているが、授業中に当該学生1名のために時間を割くようなことはしていない。他のクラスでも当該学生本人は一番前に座って口を読み取ろうとしているが、100パーセントは無理であるようだ。
■また、当該学生はヨット部に入っており、顧問によると、友人より口頭(向き合って)で技術を教えてもらっているとのこと。細かい事に関しては実技を見て学んでいるようである。
■他の授業では、当該学生の存在に対して教員が細かい資料を配布するなどの配慮をしているので、それが一般の学生にも役に立っているとの共通認識がある。
■今は講義形式であるが、5,6年次からは研究室配属となり(配属先の教員が担任となる)、そこでの総合演習を行うとともに、薬学実務実習(病院、薬局:5年次)、講義(6年次)も行われる。(S教授は4年次まで担任)
■OSCE(客観的臨床能力試験)については、フロントでの患者との話のやり取りについて、平成20年11月までに2回(OSCEトライアル(2007年)、OSCE 体験学習(2008年))を行っている。OSCEでの情報収集に関する課題(フロントでの患者との話のやり取り)に関しては、1回目は筆談ボードを用いる方法。2回目はタブレット形式のパソコン画面を2面用意して、患者が画面に書く内容がフロント内側(当該学生)の画面に出てくる方法を試みた。
■大学には障害者支援室があり、カウンセリング制度もある。ただ、当該学生は利用していないようである。(学内では肢体不自由の学生に介助者の派遣をしている。)
■当該学生が1 年次のときに教員会議で1度話し合ったが、特に研修などは行っていない。教員それぞれができる範囲で支援・対応している現状。
■学内でノートテイク支援を呼びかけること自体は問題ないが、薬学部の講義の専門性が高いことから、他学部学生には内容が理解できずノートテイクできないと考える。薬学部の学生も授業がびっしり入っていることから難しいし、当該学生が最上級学年であるため、上級生、大学院生はいない状況。教員しかいないが、現実的には無理。外部の薬剤師に依頼できるかどうかもまったく予想できない。
■当該学生は遅刻と欠席が多いが、目覚まし時計を枕においておいてもそれが布団から離れてしまったりして起きられないと、本人は話している。そのために欠席した授業のノートを借りるまではできずそこが悩みのようである。
■T県に聴覚障害者情報提供施設があることはS教授としては初めて知った。
調査日 2008年12月8日
聞き取り調査相手 B大学薬学部在籍 聴覚障害学生
調査日 2008年12月8日
聞き取り調査相手 T県聴覚障害者情報提供施設 所長
T県聴覚障害者情報提供施設の所長と面談を行った。手話通訳コーディネート担当の職員及び、同施設運営管理団体であるT県聴覚障害者協会の会長も同席した。
調査者は本調査事業の目的を説明し、B大学調査の結果を報告した。施設はB大学に聴覚障害学生が在籍することを把握していなかった。(B大学には施設登録の手話通訳者が社会福祉学科の「形態別介護技術論」の非常勤講師を担当しており、同氏は存在を把握していたが個人情報のこともあり施設に報告できていなかったようである。)
調査者がT県では他に2つの医療系高等教育機関に聴覚障害学生が在籍することが調査で分かったことを報告したところ、施設はこれについても把握していなかった。
施設としては、当該教育機関から相談があれば対応できるが、把握もできていない状況ではまったく対応が不可能である。たとえばB大学の聴覚障害学生は起きる方法で苦心しているようであるが、振動式の腕時計を紹介するなどの支援から必要と考えられる。
施設がノートテイクを派遣できるかどうか、また体制を作れるかどうかについては、まったくの未知数であるが、聴覚障害者の様々な分野への進出を支援する施設としての目的からも、新たに検討を始める必要性を感じている。ただ、方法論など分からないので、そういうノウハウを提供してくれる機関が全国レベルで必要と考える。また、今回のような調査にしても、調査機関から中央機関に聴覚障害学生の在籍状況の報告をしていただき、地域にも連絡が来るような仕組みが施設としては欲しい。