音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

平成12年度厚生科学研究 障害保健福祉総合研究事業外国人研究者招へい報告書
ディヴィッド・ルコントレポート

支出

 古屋氏から精神科ケア、治療について以下の日本の2000年度精神保健福祉施策関連予算についての情報提供があった。

  • 820億円が全精神保健予算である。
  • このうち、420億円が措置入院、通院医療費の公費負担分の予算である。精神科公費負担医療予算が全精神保健福祉関連予算の80%から50%に削減され、入院は減少し始めているという証明がなされた。
  • 予算の十分の一が地域でのサービスに向けられている。
  • 精神障害者へのホームヘルプサービス導入を目指すモデル事業費は1億1千百万円である。

 日本の精神科医療機関は、精神科病床を有する大学病院・総合病院まで含めると、1669病院ある(単科の精神病院は1055)が、そのうち1360病院が民間経営の病院である。
全精神科病床は36万床あり、国内のすべての病院病床に占める割合は約21.7%に達している。しかし、国民総医療費29兆円のうち、精神医療費の推計は1兆5千億円であり、精神科が占める割合は5.1%に過ぎない。他の診療科に比して、精神科医療費が極めて低廉に抑えられている事実がある。ちなみに、精神科の医療スタッフ数は他の診療科と著しく格差があり、精神科の場合医師は一般科の3分の1の配置で良いとする「精神科特例」が国で認められている。
日本では、国民がすべて公的な医療保険に加入する制度となっているため、病院にかかった場合には通例3割を自己負担し、あとは保険組合から医療費が支出されている。精神科医療費の78.1%(1兆1494億円)が入院医療費に費やされている。
 自傷他害の恐れのある患者については、都道府県知事の命令入院である「措置入院」の適用となり、公費で医療費が賄われることとなるが、その数は、1975年63888人、1017億円をピークに年々減少し、1997年には4508人、81億円まで下がっている。一方、通院医療費については、その一部を公費で賄う通院医療費公費負担制度がかなりポピュラーになっており、1975年には97500人、23億円であったが、1997年には41万人、241億円に増加している。徐々に、入院医療中心から外来通院医療中心にシフトしつつあることは事実であるが、精神病院の多くが民間経営であることもあり、抜本的な改革には至っていない。

 入院費用の占める割合が精神保健福祉関連予算の8割から5割に削減されてきた模様だ。しかし、この削減に言及されたものの、どのようにして浮いた予算が再投資されたのかは分からない。地域サービスに予算を振り向ける好機であるべきだが、実際にこうした動きは起きているのだろうか。

 病院産業が予算、職員、影響力の大部分を握っている現状からして、地域ではなく病院が治療の中心となっている。この点は討論、病院訪問を通じても明らかだった。北海道で訪問した国立病院は米国の地域精神保健センターが通常提供しているサービスを提供している。入院に加えて、この病院はデイ・サービス、通院サービス、地域への訪問、地域での相談事業、とりわけケースマネジメント、退院後の向精神薬を主とする投薬および服薬管理、リハビリテーションセンター等の一部として運営されるレスパイト(休息利用)のできる生活環境(援護寮、ホステル)である。他の多くの病院も同様の機能を果たしていると思われるが、特に公立のリハビリテーション病院はこうした役割を果たしていると思われる。公立病院はニーズと費用が最も高い人の世話をしていると思われる。ケースマネジメントと地域で生活している人の服薬管理(モニタリング)は退院後、病院によってよく行われている機能である。地域を拠点とした危機介入サービスを24時間提供する体制が創られていない日本では、緊急時対応(高度の急性症状への危機介入)も病院が広く行っている役割であろう。

入院患者の構成

 診断名についてあまり正確ではないかもしれないが、入院患者の多くは重い精神病、すなわち精神分裂病、重度のうつなど感情障害を持っていると推察できる。入院環境では明らかに神経的な損傷など多様な障害のある人が見受けられた。これは名古屋で訪問した病院で最も明白だった。多くの病院にはアルツハイマーの人、痴呆に関する障害のある人も入院していた。米国ではこうした人は病院ではめったに見うけられない。多くは地域で治療を受け、総合病院で精神科ケア並びに、もしくは身体的ケアのために短期的治療を受ける。もしくは公立病院に比較的短期間入院し、最後期にはナーシングホームに入る。さらに米国では、在宅、デイケアでの介助は地域での生活を支援するために利用されている。デイケアについては日本での実践も同様である。
 古屋氏は入院者の内訳について次のように述べた。

  • 入院者の3分の1は社会的理由により入院している「社会的入院者」であると考えられている。
  • 残りの3分の1は比較的短期に軽快し、3ヶ月程度で退院している群で、心理社会的リハビリテーションの支援によって地域に戻って生活してゆける。
  • 残りの3分の1は最もむずかしい。この3分の1は施設収容の期間が非常に長く、施設化されてしまった人であろう。29%の人が65才以上で、47%が5年以上入院していると説明された。高齢化しつつある集団であり、病院の中で亡くなる人が多いだろうという指摘があった。私はこの集団を「失われた世代」と呼ぶ。現状では誰かが何かをこの集団のためにできる余地はほとんどなさそうである。家族からも見捨てられた人が多く、「忘れ去られた」状態にあるため、自らが何者であるかという意識を失ってしまっている。自己アイデンティティを喪失し、病気によって失われ、出口のない官僚的仕組みの中で失われてしまったのである。他の生き方を知らないため、政策、個人、どちらの視点からも環境を変えようという刺激がない。しかしながら、私は35年以上も入院していたが、現在は幸せそうにみんなと一緒にやどかりの里の活動に参加し、将来に希・望を持っていると語る男性に会った。したがってこの最後の3分の1の集団も個別の単位で評価を受ける必要があり、地域での暮らしの可能性がないと結論を下してはならない。

 こうした病院での観察から得た私の全般的感想は、マディソンでの経験に照らして入院する必要のない人が多数入院しているというものである(地域での入院の基準に関する部分を参照)。観察した人の多くは明らかに施設化された(施設収容によって身につけた)行動を示していた。その例は、見境なく注意を呼ぼうとする行動を一方の極とし、黙りがちで無感情な態度を他の極とする。多くの人が人間関係の能力を非常に減少させてしまっていて、自助能力や、問題を解決の能力をなくしている。これは精神病の結果なのか、それとも施設収容の結果なのか。名古屋で訪問した病院には多くの施設化された人がいた。意欲に欠け、人間関係と全般的機能に限定された能力しかないのである。長期の入院は地域での環境だけが提供することができる人間関係能力に悪影響があることに気づかされた。
 社会的理由による3分の1の入院者は治療の必要性ではなく、社会的コントロールを体現している。日本では保護的アプローチが機能していて、それは政策、手続き、実践にも反映されている。人権に関する多くの批判が集まるのはここである。米国では、人権運動が脱施設化をもたらした一つの要素であり、人権が指導的原理であり続けている。私が人権侵害的な治療を目撃することはなかったことを強調したいし、院内の身体的ケアニーズ、生活環境は適切であると思われた。

 人権に関してそれぞれの(米国と日本)の仕組みを違うものにしているもう一つの要素は公正な手続きと権利に関する法的制度の関与である。日本では、家族と医者が入院に関する決定を下すことが可能である。本人への「公正な手続き」は欠けているように思われる。1972年以来、ウィスコンシン州では、本人の意思に反して入院が行われる場合には、本人が重度の精神病であるのみならず、(自他に対して)明白な危険があると法廷で証明できなければならない。確かに、日本のように任意でない入院が容易にさせられることを歓迎する米国の家族も多い。特に危険がなく、息子、娘が任意で治療を受けない場合である。「権利を持ったまま死んでしまう」ということが米国では言われてきた。しかしながら、本人の意思に反して無期限に入院させられることは、日本の現実であり、これは一層の改革を要する。