藤井 克徳
(特非)日本障害者協議会代表/大会実行委員長
おはようございます。この大会の実行委員長を務めています。常任委員会のもとに実行委員会を組織し、回を重ねて企画を練ってまいりました。
プログラムからもわかるように、どっぷりと障害者権利条約(以下、権利条約)に浸ってもらおうという趣旨です。
プログラムの前段では、改めて権利条約をおさらいしてみようと思います。午後のシンポジウムを経て、明日の午前中は、喫緊で重点的なテーマについて解説をしてもらいます。明日の午後は、いわゆる専門職と当事者の対話、あるいは交流の場にしていこうというものです。
この基調講演は「わかりやすい」をテーマにしていますので、今日の参加者の顔ぶれを見ると、少し物足りない方もいらっしゃるかもしれません。一方でお若い方や、権利条約についてあまり耳慣れていない方もいらっしゃると思いますので、どちらかと言うとそうした方々に焦点を当てるつもりです。
唐突ですが、「もし、権利条約がなかったら一体どういう状況になっていたのだろう」と考えてみてはどうでしょう。私などは、なかなかイメージできません。この10年間をふり返ってみても、あれもこれも、障害分野の好転は、大半が権利条約がバックに存在していたからに他なりません。もしなかったとしたら、暗澹たる状況どころか恐ろしい感覚さえ覚えます。みなさんはいかがでしょう。権利条約の影響は国によってまちまちかと思いますが、少なくとも日本にとっては影響が大きいと思われます。
最初に改めて、「権利条約とは」ということを、考えてみようと思います。
三つの点で、大きな特徴を持っています。
一つ目は、権利条約は、障害分野に関する本格的な“世界ルール”と言っていいと思います。
スポーツでもルールがあるから試合が成り立つのであって、障害分野に共通言語が打ち立てられたことで、国境を越えての共同研究や共同調査、国際交流が発展するのではないでしょうか。とくに定義(第2条)は文字通り概念を揃えたわけですが、それ以外にも共通化された言葉はいっぱいあると思います。
二つ目は、ここに掲げられている50箇条、とりわけ障害者の社会参加に関係する33箇条(第1条~第33条)は、いずれも障害分野の“北極星”と言っていいと思います。掲げられていることは、国境を越えて一致できる目標です。真っ暗な海に置かれたことを想定したときに、あれが北極星だから、こっちの方向に行けばいいとか、あれに向かっていけば間違いないとか、そういう意味での北極星だと言えると思います。
「誰もが」と言いましたが、障害種別を超えて、そう思う人も多いと思いますし、例えば、与党、野党、各政党がありますが、私が知っているかぎり、権利条約を否定する政党や議員はいません。そういうことも含めて、幅広く共通の目標になり得るということです。
三つ目は、権利条約は、社会に対する“イエローカード”だということです。
障害分野に焦点を当てていることは、もちろん間違いないです。しかし、ずっと突き詰めていきますと、社会のあり方を言っているんだということです。
今日の社会は、残念ながら男性中心の、しかも屈強な男中心の社会と言っていいように思います。綱引きに例えるならば、真ん中の赤いリボンが、ぐぐぐっと男性中心に寄ってしまっている感じです。権利条約は、赤いリボンをもう一度真ん中に戻そうというのです。このことで、障害者だけではなく、子どもたちや病気の人、高齢者、外国人の在住者、女性など、誰もが生きやすくなるはずです。そういう意味で、権利条約は社会の有り様を問う優れたツールであると言っていいのではないでしょうか。
別の言い方をすると、この権利条約はどの国にも照準があっているのです。途上国であっても、工業先進国であっても。また、どの障害種別にも、さらにはどの領域(医学、教育、職業、社会参加全般など)にも通用します。もちろん完璧ではありませんが、現代の世界においては、最も信頼できる人権に関する羅針盤の一つと言っていいと思います。
次に話しておきたいのは、権利条約はいったいどういう経過をたどって生まれてきたのかということです。権利条約に限らず、だいたい法制の魂や理念と言われるものはそれが生まれる経過の中で育まれていきます。従って、生まれる経過をたどるのはとても大事なことです。経過の中には背景も含まれます。そこで、障害者権利条約の経過を概観したいと思います。四つの視点で見ていきます。
一つ目は、国連での人権規範全体の蓄積です。営々と先輩たちが作ってきた、しかも国連規模、国際規模での積み上げであると言えます。
二つ目は、障害分野での国際的もしくは国連での蓄積があります。特に忘れられないのはノーマライゼーション理念の出現であり、1981年の国際障害者年です。
三つ目は、障害者権利条約がどのように提唱されたかです。直接のきっかけとなったのは、メキシコ大統領の発議、提唱ですね。これがどのような道をたどったのか。
四つ目に日本が権利条約を受け入れる批准の経過です。
これらについて、順番にお話していきます。
その前に大事なことは、今の四つの経過の、さらに前提となることがあります。それは、障害を持った人に対する忌まわしい過去です。
私が今日ここで挙げたいのは、やはりナチスドイツ時代の障害者の置かれた状況で、今日集まっている方たちもご存じと思いますが、大変な蛮行に遭遇したわけですね。ナチスドイツ時代にT4作戦と呼ばれる作戦がありました。T4とは、作戦本部が置かれた地名を表した隠語です。隠語のようなものですね。その内容は、価値なき生命の抹殺を容認する、つまり重度障害者は価値なき者と決めて抹殺を容認する、公的に認めるということです。
法律ではなくて、ヒトラーの命令書で動くんですが、スライドの写真は、ドイツのヘッセン州ハダマーという昔の交通の要所に精神科病院があって、ここが障害者専用の殺戮施設になったのです。障害者専用の殺戮施設は、ハダマーを含め6か所設けられました。現在残っている殺戮施設はハダマーのみです。
ここでたくさんの人が殺されました。当時は20万人以上と言われていましたが、今では30万とも40万とも言われていて、まだ定まっていません。これに先立って、36万人以上の断種も行われました。
こういう過去があったのは、ドイツだけじゃないんです。断種政策はアメリカで先行し、北欧でも強行されました。。
日本でも断種政策は行われました。今にして未解決問題として残っているのですが、優生手術という強制不妊手術が、法律で推進されました。日本の場合は、戦後に一層盛んになっていきます。1948年に成立した優生保護法を見ますと、「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに」、となっています。どんな法律でも目的条項があるんですが、ここにこの法律の真髄が凝縮されています。この「優生上の見地」という文言で、優生思想を法制化してしまったんです。「不良」は障害者のことです。「障害者はまた障害者を産む」という固定観念です。
こういう過去をきちんと総括し、何よりも被害者の尊厳回復と補償を行うこと、そして繰り返さないことです。過去の事実は変えられませんが、過去の評価は変えられるはずです。権利条約の視点から過去を評価してもいいのではないでしょうか。
権利条約の制定過程の記録には見当たりませんが、条約の検討に携わったキーパーソンの話によると、そうした重い過去が影響していると言われています。
ではここから権利条約がたどった経過を簡単に述べていきます。
まずはなんといっても、戦後にできあがった、国連憲章があります。1945年10月24日に正式に決定しました。平和と人権を柱にしています。
さらに、その3年後の1948年に、世界人権宣言が出されました。今年は75周年です。これが大きなベースを築くことになるわけです。
次に、宣言というのはスローガン的な意味に留まるので、新たな段階として法的な根拠を備えることにつながる条約に格上げしようという動きになります。そのトップバッターになったのが、国際人権規約――社会権、自由権の二つの規範です。1966年のことです。
このあとは、分野別に、女性差別撤廃条約や、子どもの権利条約、人種差別撤廃条約、拷問禁止条約といった条約ができあがっていきます。
こうした経過の上に、障害者権利条約があります。障害者権利条約は第28番目の人権条約と言われています。これまでの先輩の条約のいいところをほぼ余すところなく取り入れているという特徴があります。
次に、障害分野でのさまざま規範の蓄積があります。
どこまでさかのぼるかということがありますが、わかりやすいのは、ノーマライゼーションの理念でしょう。これが北欧で培われました。スウェーデンの実践をデンマークの法律に取り込んで、バンク・ミケルセンが中心になり、1959年、デンマーク福祉法の中に、正式にノーマライゼーションの理念が出てきました。
障害者を「正常」(障害を治すという考え方)にするのではなく、障害者が社会に存在すること自体が「正常な社会」という考え方です。そのうえで、障害者の生きやすさを社会の側に問いかけるというものです。
このノーマライゼーションの理念は、その後も継承され発展していきますが、直接的には、知的障害者権利宣言(1971年)、そして障害者権利宣言(1975年)につながります。今見ても古臭くありません。ただし、先述のとおりこれらは宣言であり、条約ではないので、法的効力はありませんでした。
決定的だったのは、1981年の国際障害者年です。
今日お集まりの皆さんの中にも、国際障害者年は懐かしいと思ったり、学ばれている方もいることと思います。それだけ決定的な意味を持ちました。
しかし、これも単独ではなくて、1975年の国際女性年(当時は婦人年といっていました)、79年の国際児童年、これに次ぐ3番目の国際規模となる人権擁護年として設定されました。
国際障害者年のテーマは、最初は「完全参加」のみとされましたが、これに「平等」を加え、「完全参加と平等」となりました。しかし1年間では何もできないので、翌々年、1983年からの10年間を行動年限とする「国連障害者の十年」として再スタートを切りました。
この国際障害者年が与えた影響の一端を見るのにふさわしい内容として、国際障害者年に向けての1979年の国連決議の一節を二つ紹介します。「障害者を締め出す社会は弱くもろい」――これは外務省の仮訳です。40年前のものとは思えないぐらい、今でも斬新に響くじゃありませんか。またこうも言っています。「障害者は特別な人間ではない。特別なニーズを持つ普通の市民である」と。「特別のニーズ」という言い回しあたりに、権利条約の合理的配慮の考え方の片りんを見る思いがします。
その後、1980年代の後半にスウェーデンとイタリアが相次いで権利条約を提唱しましたが、いずれも時期尚早で見送られました。
権利条約制定の直接のきっかけは2001年11月の上旬、ニューヨーク時間で、確か11月9日でした。メキシコ大統領が、「権利条約を提唱」という情報が日本に入ってきたのは、週明けの月曜日の11月12日でした。今は亡き、そしてこの総合リハビリテーション研究大会とも関係の深い丸山一郎さんからの情報でした。
私は、それを受けて、障害問題に造詣の深い議員と内閣府の障害部署の責任者に電話を入れました。お二人に共通していた見解は、「それはメキシコ政府のスタンドプレーだから、あまり気にすることはない」という反応でした。しかし、国連のほうでは、あれよあれよといううちに、28の国が、権利条約に関する特別委員会の設置を共同提案し、12月の中旬には、それが決議されました。
この特別委員会で、条約の策定に向けた議論が始まるわけです。28か国の内訳を見ると、ほとんどはラテンアメリカやアジアの一部ということで、いわゆるサミットを作っている国々は入っていませんでした。日本も入っていませんでした。
ここで、メキシコ大統領の提唱以降、どんなふうに条約が誕生したかについて簡単に触れます。
三人の立役者を、敬意を表して紹介したいと思います。まずは、ビセンテ・フォックス。メキシコ大統領です。彼が、国連での自分の演説時間を使って、権利条約を作りましょうと提唱しました。実は文献を見ると、突然この日に行ったわけではなく、この年の7月に、南アフリカで提唱をしているんです。そして国連総会の場で提唱し、一気に状況が動き出します。
当時何があったか振り返ってみましょう。
2001年11月10日の少し前には、「9.11」、テロによるアメリカの世界貿易センターの爆破事件がありました。
世界中で、命や絆、つながりの尊さが求められていた時期です。
特別委員会の二代目議長だったドン・マッケイさんが2018年に来日した折に「爆破事件の影響があったのか」と尋ねたところ、「何らかの影響があったと思う。でも確証はない」と言っていました。
次の立役者は、権利条約の特別委員会を仕切った二人の議長です。ルイス・ガレゴズさん(エクアドル)は、障害者権利条約特別委員会の第1回から第5回までを担いました。最後に権利条約を仮採択、そして本採択までこぎ着けたのはドン・マッケイさん(ニュージーランド)でした。第6回から第8回まで。マッケイさんは、障害分野のみならず、軍縮会議を仕切るなど、国際舞台での実力者でした。ガレゴスさんも、マッケイさんも、親日派で知られています。
実は、今日は時間がないので十分に紹介できませんが、もう一人大事な人がいます。権利条約誕生の決定的な礎は、先ほども話した国際障害者年(1981年)です。その国際障害者年を提唱したのが、当時のリビアの国連大使であったマンスール・ラシッド・キヒアです。彼は、後にリビアの工作員によって暗殺されたとされています。これに関する情報は、JDFにも関わってもらっている長瀬修さんからもらったものです。今日は、権利条約の件がメインですので、キヒアに関する話はこの辺で留めておきます。
いずれにしても、権利条約に直接関与した立役者としては、先ほど掲げた3人を記憶しておいてほしいと思います。
国連での特別委員会の会期は、1回あたり2~3週間です。これを8回開催しました。作部会等を入れると、ほぼ延べ100日を費やし、4年半かけて議論しました。私も半分ほど傍聴しました。本日参加されている松井亮輔さんや、故丸山一郎さんに同時通訳を行ってもらいました。
事態が動いたのは、2006年8月25日金曜日、第8回特別委員会の最終日でした。時計の針はニューヨーク時間で20時ちょっと前でした。短い休憩時間が終わった後、ドン・マッケイ議長は、「今配布した成案で仮決定したいがいかがか」と言いました。その瞬間、国連の議場は、歓声、拍手、口笛、足踏み音に包まれました。周りの日本人から、「藤井さん、あちこちでハグしていますよ」とありました。私の印象では、歓声や拍手は、2分間以上続いていたと思います。
以上が、仮決定までの経緯です。
こうした経緯を経て、その年(2006年)の12月13日、第61回国連総会で正式決定となるわけです。そして、締約国が20か国になった2008年5月3日に、条約が発効しました。
次に、日本での条約批准までの経緯です。日本政府は、途中から積極的な姿勢に転じました。JDFの推薦により、2003年の第2回特別委員会より弁護士である東俊裕さんが、特別委員会の日本政府代表団の特別顧問となりました。この頃から、ニューヨークの特別委員会の会期中に、また外務省を中心に意見交換がなされるようになりました。
特に述べておきたいのは、条約の発効後、日本が署名を終えて2年経ったころ、2009年3月上旬のことです。この時点で、「政府が近々に条約批准の方針を出す」という情報が入ってきました。JDFのリーダー層は戸惑いました。「権利条約に照らして国内法が整備されていない段階での批准は、形だけの批准になりかねない」でJDF内は一致し、与党も野党も、この見解を支持してくれました。結果的に政府はこうしたJDFの見解を受け入れ、閣議の議題から取り下げることになりました。事前に閣議議題に上がった案件が取り下げとなるのは珍しいとのことでした。その後、障害者基本法の改正、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律の展望がはっきりすることなどをふまえて、国会での承認手続きに向かうことになります。そして、2013年11月19日に衆議院で、12月4日に参議院にて、それぞれ全会一致で批准案は承認されることになります。翌2014年1月20日に批准は、今度は政府(閣議)で了承され、即日ジュネーブの国連本部に寄託(通知)となりました。発効までには、寄託してから一か月が必要で、発効日は2014年2月19日となります。
こうして、権利条約は日本において効力を有することになります。なお、日本国憲法には、98条第二項で「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」とあります。批准された条約の法的な根拠は、この憲法規定から読み取ることができます。同時に、批准された条約は一般法律の上位に位置し、権利条約と一般法との間に矛盾が生じた場合は、原則としては権利条約に一般法を合わせることになります。
次に、条約の内容の話に入ります。
この条約は、本則が50箇条、前文が25項目からなっています。このうち、後半の17箇条は国連での事務手続きの条項のようなもので、あまり障害者の暮らしや社会参加には影響がないので、実質上は33箇条が中心であるととらえてください。
もう一つ、権利条約の姉妹条約として、「障害者権利条約選択議定書」があります。これは障害者権利条約の付属物ではなく、単独の条約です。
選択議定書のほうがハイレベルと言っていいかもしれません。人権侵害に遭遇した個人が、万策尽きた場合に、個人が直接、国連の障害者権利委員会に訴えられるという内容になっています。「個人通報制度」という規定です。日本ではまだ批准できていません。これを批准するための条件が整っていないのです。具体的には、「国内(国家)人権機関」という機構で、政府からの独立が条件ですが、現時点では設置の見通しははっきりしていません。女性分野や子ども分野などの条約体関係者との連携が重要になりますが、もう少し時間がかかるようです。今日の講演からは、選択議定書は省き、権利条約そのものに集中することにします。
優れた内容の権利条約ですが、そこには優れた経過があると言っていいと思います。それを象徴するのが、あの「Nothing About Us Without Us (私たち抜きに私たちのことを決めないで)」が審議の過程で幾度となくくり返されたことです。スローガンとしてだけでなく、国連はこれを実践したのです。
ガレゴス議長、ドン・マッケイ議長は、特別委員会で、ほぼ毎日NGOに発言を求め、NGOもこれに応えて的確な発言を重ねました。実際にも、権利条約の随所にそれらの発言は反映されています。一つの例ですが、「私たち抜きに私たちのことを決めないで」そのものを条約に掲げたものとしては、条約の第4条3項があげられます。そこには、「締約国は、この条約を実施するための法令及び政策の作成及び実施において、並びに障害者に関する問題についての他の意思決定過程において、障害者(障害のある児童を含む。以下この3において同じ。)を代表する団体を通じ、障害者と緊密に協議し、及び障害者を積極的に関与させる。」とあります。
権利条約が、これほどまでに障害当事者から歓迎されている背景には、「私たち抜きに私たちのことを決めないで」の実質化があったからに他なりません。
この他にも、経過で特筆すべきことがあります。特別委員会で審議入りした最初の頃でしたが、EUを中心とするヨーロッパから、「今さら障害者専用の、障害者特別の条約はやめましょう、既にでき上がっている人権条約に障害者のことを加えればいいのでは」とする発言がありました。これに対して、中米や南米、アジアの国々から、「ヨーロッパの皆さん、自分の国ではそうはいかないのです。当座は障害者に関する条約は必要」と、せめぎあいがくり広げられました。結局、「新たに検討に入る障害者権利条約は、障害のある人だけのものでなくすべての人を対象とする」という考え方を取ることを確認し、審議に入っていきました。
また、米国は国際協力関連の条項(権利条約では32条)に一貫して消極的な姿勢を取りました。手話を言語として認めることについても、国によっては、少数民族の公用語の問題と絡むので慎重に対応したいなどの意見もありました。しかし、関係者による舞台裏での努力やNGOのロビーイングが功を奏するなど、関係者の連携によりいい流れと結果につながっていったと思います。
次に内容の特徴について述べます。時間の関係で、ごくポイントのみになります。
一点目は、第3条(一般原則)に明示されている「固有の尊厳」です。権利条約は、人間全体とか、障害のある人一般ではなく、個々人に焦点を当てましょうと言っているのです。これを裏打ちするものとして、例えば、条約第17条があります。最も短い条文で、「その心身がそのままの状態で尊重される権利を有する」と書かれています。この条文で、どれくらいの障害当事者や家族が楽になることでしょう。後述する合理的配慮の考え方も固有の尊厳につながります。
二点目は、「他の者との平等を基礎として」の視点を重視していることです。このフレーズは、条約全文で、同趣旨を含めると35回出てきます。多くの条項の頭にこれが付されているのです。権利条約は、障害者に特別の権利や新しい権利をということは一度も言っていません。専らくり返しているのが、障害の無い市民一般との平等性を強調しています。当たり前と考えられますが、日本を含め世界中の障害者にとって、このテーマは容易ではないのです。
三点目は、新たな障害観、障害者観を打ち出したことです。いわゆる医学モデル偏重から社会モデルへの転換を求めています。実際の条文では、医学モデルとか社会モデルという表現はありませんが、前文のe項や目的条項(第1条)の後段でこのことを示しています。社会モデルの考え方は、障害の発生メカニズムや差別禁止を深めていく上で大切になります。新たに強調されている人権モデルの考え方と共に、社会モデルの大切さについてはもっと深めてほしいと思います。
四点目は、すっかり有名になっている合理的配慮の概念を明らかにしたことです。固有の尊厳とも関係しますが、合理的配慮のポイントの一つは、「個別性」です。つまり、障害者一般ではなく、「特定の場合」として一人ひとりのニーズに応じた対応や支援ということです。「過度な負担であってはならない」との条件が付きますが、合理的配慮を怠るのは差別であるとしたのはとても重要です。
他にも特筆しておきたいことがあります。それは、権利条約には優れた仕掛けがあるということです。権利条約を制定しておしまいでなく、いわばフォローアップの仕掛けがあるのです。
一点目は、条約を批准した国による定期的な締約国会議の設定です。すでに毎年ニューヨークの国連本部で開催されています。批准国間の情報交流に加えて、障害者権利委員の選挙も行われます。
二点目は、この国連障害者権利委員会が、権利条約の進捗状況についての定期的な国別審査を行うことです。事前に政府報告書の提出を求め、その政府報告書へのNGOレポートと合わせて審査に入るのです。審査の形態を、「建設的対話」と称します。ジュネーブの国連欧州本部が会場となります。また、障害者権利委員会は、重要テーマについて、「一般意見」というかたちで独自の見解を公表します。これまで8号(8分野)にわたり提出しています。昨今では、2022年に「労働及び雇用」についての「一般意見」を示しました。
この仕掛けにのっとって、去年(2022年)の8月22日、23日に、日本の初めての審査が行われました。日本政府からは28人の代表団が参加しました。市民社会からの傍聴は、JDFや日弁連の代表など100人でした。
権利委員会メンバーは18人で、日本政府代表団との間で建設的対話が行われました。その雰囲気を感じていただけるエピソードを紹介します。1日目の建設的対話が終わったとき、日本の審査担当の委員であるキム・ミヨンさんが発言をしました。それは、「日本政府の皆さん、明日こそは当方の質問にまともに答えてください」という内容でした。建設的対話になってないということだと思います。
審査の終了後、対話を受けての最終見解として、総括所見が出されました。去年8月の会期では、8か国の審査があって、9月9日にジュネーブにおいてその総括的な会見が行われました。ここで日本の総括所見も公開されました。
総括所見では大事なことの指摘がありました。この基調講演は時間が限られており、この後、午後から明日にかけて総括所見にさらに踏み込んでいきますので、そこに詳細は残しておきたいと思います。
ここでは、その概略と、特徴的な内容を2点ほど紹介しておきます。総括所見は、全体で75段落(パラグラフ)から構成されています。そのうち64段落が懸念事項および勧告(リコメンデーション)になっています。75分の64が懸念事項と勧告であり、総括所見のことを、別名「勧告」とも言っているのは、勧告が多いからということになります。奇数番号の段落は懸念事項、偶数は勧告となっていて、主に日本政府に対するものとなっています。
まず紹介するのは、第7パラグラフのa項です。7.(a) 障害者への温情主義的アプローチの適用による障害に関連する国内法制及び政策と本条約に含まれる障害の人権モデルとの調和の欠如。
訳文であることと、条約文でもあるので、わかりにくいですが、日本の政策基調は温情主義であると、委員会は言っています。
パターナリスト・アプローチという英語は、「温情主義」と訳していいのかという意見もあります。JDFなどの民間団体の多くは、「父権主義」と訳しました。どちらも上から目線であることは同じですが、「温情主義」は、お情け、同情などを連想させる一方、「父権主義」は、権威、権力というイメージがあります。さらに言えば、自由度が狭められるというイメージを併せ持つものが「父権主義」です。
家父長制度のあおりもあって、俗っぽく言えば、父親が、「つべこべ言うんじゃない、黙ってついてこい」、結果的には的外れになるという感じでしょうか。優生政策に例えれば、「A子さん、B君、赤ちゃんができたら困るだろう。君たちだけでなくお父さんやお母さんも困る。社会だって困る。だから産めないようにしておこう」となります。同じく精神科病院で言えば、「先生、退院したいんです」と言われた先生が、「病院にいれば朝昼晩、食事があるじゃないか。冷暖房もあるんだよ。今退院すると、お父さんお母さんも高齢で困るだろう」と言われ、結果的に青春時代が台無しになるのです。直接的に向き合っているのは医師ですが、その背後には制度や政府が存在するのです。
一概には言えませんが、日本の障害者政策のベースに、温情主義や父権主義が横たわっているというのは否定できないのではないでしょうか。「人権モデルと調和していない」についても同様です。人権モデルとは、あくまでも障害者を中心とし、問題解決の全体プロセスを明らかにするという意味が込められていますが、現状はそれとは程遠いと言っているのです。
次にいきます。第34パラグラフのa項を見てみましょう。34.(a) 精神障害者の強制治療を合法化し、虐待につながる全ての法規定を廃止するとともに、精神障害者に関して、あらゆる介入を人権規範及び本条約に基づく締約国の義務に基づくものにすることを確保すること。
スライドのグラフは、ちょうどジュネーブに行く直前に、法政大学の佐野竜平さんと一緒にOECDのデータを元にして日本の病床数を調べたものです。ここにありますように、OECD 38か国のベッドの数は87万3000床です。このうち日本に32万4000床(37.1%)あります。
2位はドイツ(12.4%)、3位はアメリカ(11.7%)、次に韓国の7.4%、フランスの6%と続きます。日本はダントツに多いわけです。どうしても箱物制度は、満員にしておかなければたち行かないのです。異常な病床数の多さが、日本の精神科医療問題の本質の一つと言っていいのではないでしょうか。
総括所見の指摘はいずれも大事であり、解決に向けて、時間軸を取りながら、指摘の内容を正視すべきです。
権利条約、総括所見をどう思うかということについて、四つ述べます。
一つは、障害分野に関する二度目の「黒船」であるということです。一度目は、あの1981年の国際障害者年でした。国際障害者年に似た感動と期待を感じさせられます。
二つ目は、問題点の再認識、気づきをもたらされたということです。障害のある人をめぐる問題や課題については、関係者の間ではもちろん、社会全体としても薄々気づいているのです。権利条約は、それをクリアにしてくれたのです。「抱いていたおかしいと思っていたことが間違いではなかった」、そんな感覚になった人が少なくなかったのではないでしょうか。
三つ目は、権利条約と日本の障害分野とのあいだで、なんとも言えないきしみ音が聞こえてくるのではということです。権利条約の内容は、日本国に任せていたら20年、30年かかったものが、国連は4年半で作ってしまったのです。「成長痛」というのをご存じでしょうか。成長期の子どもですが、骨格の伸びに対して筋肉や皮膚の伸びが追い付かず、痛みが生じるという現象です。日本は今、その痛みにさいなまれている感じです。方向に確信があれば、痛み方も和らぐのではないでしょうか。
四つ目は、権利条約や総括所見は、「よりまし論」を好まないということです。日本の障害関連政策は、「少しでも増しになればいいのでは」の連続で、結果的に問題の根本に手を着けてこなかったのです。精神障害者や知的障害者の政策をみればわかりやすいと思います。かつては精神病者監護法(1900年)の下で、「座敷牢」が法制化(基準化)されました。それまでは野放し状態で、基準の設定は当事者からすれば朗報でした。しかし、「基準が設けられたとしても座敷牢状態はよくない」という声が上がり、1919年に精神科病院が法定化されました。それが、長期入院、社会的入院問題の温床になりました。1960年代の頃となると、知的障害者にとっては、コロニー政策こそが理想郷とされました。やがてこれは否定され、取って代わってグループホームが登場します。今回の総括所見では、このグループホームにも警鐘が鳴らされました。私たちにとっては大きなショックでした。そうみていくと、権利条約の立場は明白です。「人権を考えていく上で、よりまし論は似つかわしくない」と言っているのです。「よりまし論」ではなく、絶えず「本来どうあるべきか」で貫かれています。イメージふうに言うと、未来のあるべき姿から、思い切って引っ張り上げてもらっている感じでしょうか。日本の状況からすると、直ちに「よりまし論」を否定することはできないように思います。そのうえで、「本来どうあるべきか」にもっとウエイトを置いてもいいのかもしれません。
今日お集まりの方に伝えたいことは、二つあります。
一つは、権利条約や総括所見を、「学び、伝え、生かす」ということです。ぜひ、権利条約の全体像と本質を、そして権利条約から派生した総括所見(勧告)を学ぶことです。深め甲斐があると思います。次に、学んだ権利条約や総括所見の特徴を職場や地域の関係機関や団体に、学会に伝えていくことです。さらに重要なことは、権利条約や総括所見を現場で生かすことです。例えば、「私たち抜きに私たちのことを決めないで」一つ取ってみても生かし方はさまざまあるはずです。「学ぶ、伝える、生かす」を自分なりに取り組んでください。
二つ目は、障害の社会モデルの観点を日常の実践に取り込むことです。私たちの実践(支援)は、まずは目の前の障害のある人の主体的な力を高めていくことです。他方で、社会モデルは、障害は、機能障害を有する人と環境との関係を重視します。置かれる環境によって、障害を重く感じたり軽く感じたりすることになります。そうしますと、主体的な力を付けるだけでは不十分で、付いた力をまっとうにみてくれる地域(社会)としていかなければなりません。実践者の片方の足は目の前の障害のある人に、もう片方は障害のある人を取り巻く環境(人の態度や障壁)の改善に置かなければなりません。本当の実践とは、個々への支援の充実と、環境改善の二つの領域から成るもので、二つの領域のバランスが大切になります。とくに、環境改善は自分たちの本務とは別次元と言う考え方が少なくありません。障害の社会モデルと日常の実践をつなげていくことを深めてほしいと思います。
私たちは、権利条約を職場や地域の隅々にということを提唱し、今日これからのプログラムで深めていきたいと思います。なお、権利条約の重要な考え方の一つである「他の者との平等を基礎として」については、このあとの鼎談でもさらに深めたいと思います。
最後のスライドに示した絵は、楽譜を元に演奏しているイメージです。権利条約をじっとみていると(私は見えませんので「思い浮かべていると」になりますが)、楽譜が重なってきます。 楽譜は優れた世界の共通言語です。ベートーベンの楽譜は世界中いっしょです。問題は奏で方です。権利条約も同様で、世界中共通しています。あとはこの権利条約をどう奏でるかです。 国や自治体での奏で方が問われますが、同様に個々の職場や団体でも奏で方が大切になります。みなさんの職場や団体ですばらしい音色を奏でてください。ご清聴ありがとうございました。