豊田姫菜(とよだひめな)
私の障がいは“先天性多発性関節拘縮症”といい、関節の動作に制限があるため車椅子で生活をしています。母によると、妊娠中は私に障がいがあるとは知らず、出産直後に助産婦さんが慌てる様子を見て違和感を感じたそうです。また、その日のうちに担当医から障がいがあると聞いたそうです。
それから母の退院後も、私は約1か月病院で過ごし、検査や健康管理を行っていました。その検査中に両下肢の脱臼が判明し、県外の医療センターを受診しました。県外の病院で定期検診を重ね、初手術は1歳で行った、両足外反足の矯正手術です。その後も1歳半で左股関節脱臼の手術、2歳では右股関節脱臼と左足首の再手術をし、短期間で何度も入退院を経験しました。ここまでは幼くあまり記憶にないので、母から聞きました。その後、5歳の頃に左股関節脱臼の再手術をしました。この時は両親が面会後に帰ってしまうこと、術後の痛みに毎日泣いていました。あまりにも痛みが強く泣いている私をみた麻酔科の先生は、強力な鎮痛剤“モルヒネ”を投与してくれました。あの時の痛みが引く感覚はいまだに忘れられず、医療用麻薬の恐ろしさを実感しました。また、毎日付き添ってくれた祖母は、私の痛みが落ち着いた笑顔と、5歳の小さな体に強力な作用がある鎮痛剤が入ることに泣いていました。その時の表情を鮮明に覚えています。
入退院が落ち着き、私は両親や姉に支えてもらいながら地元の保育園、小学校に通いました。小学校の6年間は普通学級で過ごし、困っていると声をかけてくれる友達、寄り添いながら熱心に指導してくれた先生とたくさんの人に恵まれました。卒業が近づいた頃に中学校の進学について話がでました。もちろん私は、地元の学校に行きたいと切望しました。しかし、現実はいろいろな面で難しかったため、特別支援学校への進学を決断しました。ただ、学校のあちこちで発作をみること、吸引機を使用などと驚くことばかりでしたが、今はむしろいろいろな障がいを知れた良い時間だったと思っています。
学校に慣れてきた頃、大きな出来事が起きました。それは脊髄側彎症の進行です。私も以前からその進行をおさえるためコルセットを装着していました。しかし、成長のスピードと共に進行していき手術せざるを得ない状況になり、中学3年の春に13時間の大手術を行いました。この時が1番辛かった時期で、側彎を矯正するためにボルトを入れたことで、以前できていた動作や行動が一気にできなくなりました。また、少しの動作でも激痛がはしる日々が続き、両親へあたってしまうことがありました。
前文に書いたように、私のそばにはいつも祖母がいてくれました。それは、両親も障がいをもっているためで、私たち家族をいつも助けてくれていました。しかし、そんな祖母が昨年、他界しました。私の中で何かを頑張るという糸が切れてしまった感覚がありました。しかし、幼少期から祖母に「姫菜は足が思うように動かないだけ。話せるし、自走していろんなところに行ける。だから、諦めずに好きなことをしなさい」とどんな時も後押ししてくれる存在でした。その言葉を励みに努力を重ね、今では一般企業へ就職し、運転をして自力通勤しています。趣味で共通の友人をつくるためにSNSを始めました。また、公共交通機関を利用して県外へ行くことも増え、毎日がとても充実しています。今後も自分らしく、自分のしたいことに取り組んでいけたらと思っています。