ようやく見つけた、素でいられる「居場所」

「新ノーマライゼーション」2024年6月号

熊本県発達障害当事者会リルビット
竹中晃子(たけなかこうこ)

物心ついた時から、私はなんとなく違和感を感じていました。

幼い頃から、言葉の発達の遅れやオウム返しが目立ち、3歳児健診で自閉症の指摘があったそうですが、当時発達障害という言葉がなかった時代だったためか、見過ごされ、大人になるまで数々の苦労を重ねてきました。

小学校では集団生活ができない。忘れ物が多い。算数が苦手。親からは「何でこんな計算もできないのか!」と怒られてばかり。自傷癖もあり、いじめの標的になっていました。

中学校の時も孤立しがち。体育祭の団体競技や宿泊学習での班活動で足を引っ張る。クラスメイトの冗談に本気で怒る。1年生の時の通知表に「竹中さんは、一人でいることが多い上、変わった生徒だ」 とコメントが書かれていたのを今でも覚えています。一方、記憶力が功を奏し、テストの成績は上位だった他、2年生から3年生の時は、持ち上がりでお世話になった担任の先生に恵まれていました。

高校でも、冗談が通じない。授業中に当てられた時、自分の答えで笑われてしまったらどうしよう……と思えば思うほど、混乱して余計話せなくなる。その一方、中学校の時の恩師を見て、私のように困っている生徒を助けたいという思いから教師を目指し、1年浪人して教育学部に入学しました。

しかし、大学は高校までと違い、記憶力だけでは太刀打ちできません。ペアでの実習の時、私がミスを連発し、一緒に実習をしていた人を怒らせてしまう。教育実習では、授業で生徒全員に目が配れない。臨機応変な対応が難しい。生徒とうまくコミュニケーションがとれない。授業計画案を書くのに時間がかかるなど、時間管理の不得手さがひどく目立ちました。

人間関係もうまくいきませんでした。人と関わろうとするも、自分の好きなタレントのことばかり一方的に喋るなどして、相手にされなくなる。次第に目標を失い、大学中退を考えるように。就職試験の面接では、臨機応変に受け答えができない、志望動機をうまく答えられないことから不採用の連続。結局、1社からも内定がもらえないまま、大学卒業を迎えてしまいました。

大学の授業で発達障害のことを知り、もしかしたら私も当てはまるのではないかと薄々感じていました。ただ、当時は怖くて病院に行かずじまいでした。

卒業から3年後、正規職員として福祉施設に就職するも、利用者に危険が伴うミスの連発、利用者全員に目配りができないなど、つまずきが多くて体調を崩し、わずか2か月で退職に追い込まれました。「これは、もう病院に行った方がいいのかも……」大学病院で詳しい検査を受けたところ、広汎性発達障害の診断がおりました。診断を受けた時、正直ホッとして、「もっと早く、受診しておけば良かった」という思いでした。

その後、「もう、前職のような思いはしたくない」と考え、障害者手帳を取得し、自分の障害を伝えて仕事をすることを決心しました。前の仕事を退職してから約1年後、ある病院の事務職(障害者枠)に流れ着きました。また、ご縁があって熊本県発達障害当事者会リルビットにスタッフとして参加するようになりました。会では生活する上での悩みごとなどを月一回、参加者同士で語り合っており、私の居場所になっています。また、 2016年の熊本地震では、奇跡的にSNSはつながりやすく、困りごと等当事者同士で助け合うことができました。さまざまな場面で叱責を受けていた私は、会に参加することにより、自信を持って話せるようになり、仲間もたくさんできました。診断前より、診断を受けてからの方が充実してきていると感じています。

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