自分の声を手に入れるまで

「新ノーマライゼーション」2024年6月号

及川啓(おいかわけい)

私は2022年、40歳の時に発達障害専門の医療機関にてASD(自閉スペクトラム症)の疑いという診断を受けました。深いうつ状態にあった当時の私が医療と繋がり、リハビリテーション施設のプログラム等を通して回復に至れたことは、数多くの方が自分の話に耳を傾けてくれたからにほかならないと思っています。それまで誰にもわかってもらえないという深い絶望感から解放され自分自身の本音で語れるようになりつつあるのは、発達特性への理解ある専門家、感覚や経験を共有できる当事者の仲間、そして生活の支援に協力的な家族のおかげだと深く感謝しています。

しかし、傾聴してくれる他者と出会い、自分の存在を認めてもらえる実感を得られるまでには、数々の挫折を伴う強い孤立感の中での暗中模索といえる半生がありました。

幼少期よりルールや規則にこだわる傾向は強かったと思います。ともすれば融通の効かない独善的な正義感を振りかざす側面もありました。小学校時代には自己愛の強さと社会不安が相まって、周囲から不当な扱いを受けていると感じれば癇癪(かんしゃく)を起こす場面もあったと記憶しています。感情調整が得意ではなく、妹弟からは「キレやすい」不安定な兄として信頼を伴う慕い合うような関係が築けませんでした。

中学生ごろから一層同級生の目を意識しだすと、直感的で素直な自分でいてはならないと感じだしました。高校生時代には複雑化していく対人関係への適応が上手くできず、感情を抑圧し自意識過剰で、のびのびとした自己表現ができませんでした。自分の素を出せずに偽るように他者と関わり続けることで、次第に対人不安も大きくなり大学入学は果たせたものの卒業はできませんでした。社会的に孤立し自問自答する歳月は長く苦しいものでした。

振り返ると私は自分自身の心の声を他者へ伝えることができず、また自身でもそれを聞けなかったのだと思います。論理的で言語化できる抽象概念に頼るばかりでした。情報の収集、知識の獲得、客観的理解。それらをどれほど行い、自分の中で反芻(はんすう)し続けても「聴くこと」ができずにいました。

ついに、一人の力ではどうしようもない状況にまで心身ともに追い込まれてようやく両親へ助けを懇願しました。彼らが聴いてくれたおかげで、医師の問診を通して診断を得ました。その結果、リハビリテーション施設でのカウンセリングへと繋がり、今もそこでのプログラムに参加し続けています。プログラムは認知行動療法や当事者研究などに参加しています。そこでは当事者の仲間たちと語り合い、それぞれの真実を互いに共有しています。生活における困りごと、多くの不安、特徴的なこだわりや関心など、自分自身の経験と重なるところに繰り返し出会うことで、次第に私自身が体験を語ることへも自信が芽生えていきました。自助グループへも積極的に参加し、我々当事者自身で互いに支え合うことにも大きな意義を感じています。

現在は自分の体からのメッセージに耳を傾け、ウエルネスを念頭において必要とする十分な睡眠、一般的な食生活にとらわれない栄養価を優先した食事を大事に生活しています。また健やかさを増進してレジリエンスを養うべく、ウエイトトレーニングを中心に、ランニング、水泳、サイクリング、スケートボードなど、多種多様な動きを包含する運動を生活の中に取り入れています。自分の定型発達とは異なるあり方を受け入れていく過程には、神経発達症(発達障害)を医学モデルとして認識することから、社会モデルとしての解釈へと転換できたことも大きく関わります。そして何よりも、自分の言葉を語る声(voice)を許されたことが今、生きる希望となっています。

menu