実現・当事者目線の支援機器-会話の正確な文字起こしで聴覚障害者の活躍を後押しする「Pekoe(ペコ)」

「新ノーマライゼーション」2024年10月号

株式会社リコー 未来デザインセンター TRIBUS推進室
岩田佳子(いわたよしこ)

聴覚障害の世界に出会う

2019年、私は音声認識を使った一般ビジネスマン向けの会議ソリューションの開発に携わっていました。これは会議の内容をリアルタイムに文字に変換し、電子ホワイトボードに表示するというものです。しかし当時の日本語の認識率は80%程度とまだまだ低く、会話の内容を正確に文字起こしすることが困難でした。

そのような状況で、上記商品を社内で開発しているものを展示する会で見ていただいたところ、方針説明会などで手話通訳を手配する総務の方から、聴覚障害の方が仕事で使ったらとても助かるのでは、というご意見をいただきました。

それまで私は聴覚が不自由な方が仕事の時にどのような工夫や苦労をして、周囲の方がどのようなサポートをしているか全くといっていいほど知りませんでした。そこで社内の聴覚障害をもつ社員と、そこで一緒に働くメンバーの皆さん、全部でおよそ10チームに声をかけて普段の会議のやり方を観察させてもらいました。

その当時は、順番にメンバーの誰かがパソコンのテキストエディタでタイピングをして伝えるというやり方をとっていたり、議事メモを後で共有するというやり方をとっていたり、とチームによってさまざまでした。当事者に聞くと、誰かにいつも負担をかけてしまいとても申し訳ない気持ちになる、と心苦しさを感じていることも分かりました。聞こえない人の支援として、特定の誰かの負担やタイピングを依頼する心苦しさを、テクノロジーを活用することで解決できるのではないか、今これを社内でできるのは音声認識技術を使って開発をしてきた私たちしかいないのではないか、と考えたのがPekoeを始めたきっかけでした。

こだわったのは会話のリズム

開発する中で苦心した点は「会話のリズム」を近づけることでした。例えば、口頭で行う会話はタイピングで行う会話よりとても速いリズムです。この口頭のリズムを崩さないため、音声を文字に変換し表示する速度にこだわりました。そして、その文字の読み手である聴覚障害の方が、その場で自分の考えをリズムよく伝えられることを目指しました。

現場からの声で改良を重ねる

聴覚障害とひとくちに言っても、途中で聞こえなくなった人、少し聞こえる人、生まれつき全く聞こえない人、と状況はさまざまです。子どものころ難聴になった社員にPekoeのメンバーとして参画してもらい、その方の特性を中心に開発を行ってきました。しかし、多くのお客様に使っていただくようになり、普段リモート中心で働いている方からは、「誰かが修正してくれたらPekoe上でお礼を伝えたいので『いいね!』ができると嬉しい」とか、発話ができないろう者の方から、「自分の意見は音声でみんなに聞いてほしいから読み上げてほしい」といった形で、チームで働きやすくするための改善案をたくさんいただくようになりました。

私たちは職場の聴覚障害者とそこで一緒に働く皆さんが、効率的だけでなく、より雰囲気が良く仕事ができるようになるという点を重視し、いただいた意見を2週間に1回のペースで機能追加してアップデートを重ねています。どんどんと新しい機能が使えるような工夫をしていった結果、ディスカッションの場でも活用いただけるようになりました。

現在の活用場面とお客様の声

コロナが明け、いろいろなところでリアルイベントの開催が復活してきました。同時期に2024年4月の障害者差別解消法(改正法)の施行に伴い、聴覚障害者を含むあらゆる方にイベントを楽しんでもらうため、情報保障として会話の内容を文字化して表示したい、というご相談が増えてきました。例えば、私たちの所属する株式会社リコーにはブラックラムズ東京というラグビーチームがあり、本拠地が世田谷区にあります。世田谷区も2024年4月1日より、世田谷区手話言語条例をスタートするなど取り組みを強化しており、その一環でラグビーの試合実況を可視化しよう!という取り組みが企画されPekoeも携わりました。実はこれはPekoeチームの難聴をもつメンバーが、日ごろから現地で応援していて「どんな場内アナウンスが行われているのか知りたい!」という思いから始まっています。

Pekoeの機能として、正確に変換するための「辞書登録」という機能があります。選手名やラグビーのみで使われる専門用語は、ただ単に音声認識にかけると正しく表示されません。そのためルールや選手名を事前に辞書登録し、正確に表示できるよう準備しました。さらにもし誤変換があっても、その場で正しい内容に即座に修正ができますので、ラグビーのルールに詳しいブラックラムズのサポーター(ラムジェリスト)の方にもご協力いただき、修正担当として参加してもらいました。会場のお客さまは、マッチデープログラムに印刷されたQRコードを自分のスマートフォンで読み取るだけで、ブラウザで実況内容を閲覧することができます。アプリケーションのインストールは不要なため、気軽に文字情報にアクセスできます。

もともとは職場の中の聴覚障害のある方と一緒に働きやすくするために開発したPekoeが、仕事以外の場面で、多くの方に楽しんでいただくために活用できた事例となりました。「修正してもらったらお礼が言いたい」というご意見に合わせて搭載したリアクション機能は、ラグビーのトライが決まった時に活躍しました。参加いただいた方からは、臨場感があってすごく楽しめた、反則が起きた経緯や説明をPekoeで確認できたなど、高評価をいただくことができました。

今後の展開

Pekoeの開発を始めてから、聞こえない方への情報の伝達にはまだまだ課題がたくさんあるということが見えてきました。聞こえる人たちがなんとなく話している雑談や、聞こうとしなくても耳に入ってくるニュース、今流行っている言葉など、聞こえることで多くの情報を自然と得ていることに気がつきます。音声認識やAI技術が向上し、スマートフォンやサイネージ、ネットワーク環境があらゆるところで活用され始めてきた今だからこそ、障害のある方への情報保障はまだやるべきことがたくさんあると考えています。

聴覚障害のある方は、情報が少ないがゆえに自信が持てない、分からないと言えない・言いにくい、という状態が課題であると思います。日常生活からも情報を得られるようにすることで自信をつけ、仕事に対しても、自分ができることできないことを正確に伝えることで、活躍の場を広げることができると考えています。普段の何気ない会話から自信をつけ、仲間との理解を進めていくことで、聴覚に障害があっても関係なく、やりたい仕事につける!というように、リコーが企業理念の使命と目指す姿として掲げる「“はたらく“に歓びを」感じられる社会にしていきたいと思っています。

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