社会福祉士
権田千里(ごんだちさと)
私は、区民ひろば高松(東京都豊島区の公民館)で防災イベントの企画、小学校で防災教育を担当して「防災で地域をつなぐ」活動をしています。令和6年能登半島地震で実家が被災し、石川県七尾市で一人暮らしをしていた母(83歳)を東京に呼び寄せた経験を紹介します。また、被災家屋の処理についても、当初から頭を悩ませました。
父は14年前に他界して、姉の家族は実家の近所で暮らしていました。七尾市は震度6強でした。緊急地震速報が鳴り響く中、東京に住む私が七尾の2人と連絡がつくまでの約15分間の不安は想像以上でした。固定電話は繋がらずLINEで安否確認し、地震の半年前に母にスマートフォンを持たせたのが功を奏しました。
築50年の実家は罹災証明書の区分では「中規模半壊」と認定されました。家具転倒防止対策のため家具は倒れませんでしたが、電気の傘は落下、戸は閉まらなくなったり閉まりにくくなりました。大谷石の塀は元から横倒しに倒れました(私道側で人的被害なし)。一方築20年の姉の家は「一部損壊」で、家具は倒れガラスは割れました。昭和56年の建築基準法の改正が明暗を分けたケースは多かったようです。
七尾市では停電は免れたものの水道、ガスと鉄道は止まり、2月上旬まで断水は続きました。2人はその日のうちに避難所に移動。姉は2泊、母は8日まで避難所で暮らしました。母は1月4日、持病の診察に行って七尾市の病院で膵癌の宣告を受け、検査ができる金沢市の病院を紹介されました。私はその段階で母を東京に呼び寄せることができるのか、私の家族と話し合い、近くの大学病院へ受け入れの打診を始めました。1月8日、道路を注意深く選びながら姉の車で金沢の病院を受診。膵癌末期で余命1年とのことでした。
金沢の宿での2泊の間に今後の生活についてずっと話し合いました(母も姉も温かいご飯とお風呂は久しぶりでした)。次々と起こることに母と姉は一種の思考停止状態でしたが、「金沢まで出てきているこのタイミングで東京に来るしかない」と説得して1月10日、母を新幹線に乗せてもらい東京駅で出迎えました。姉の精神的な負担も限界を超えていたと思います。母の脚は衰えていました。その日のうちに豊島区の地域包括支援センターに相談し、翌日には介護ベッド(自費)、後にシルバーカーの貸与を得た他、豊島区で初めての介護認定を受けました。3月からは紹介された訪問看護ステーションのケアマネージャーと看護師さんたちの伴走が始まりました。
最初は受け入れ側は労りの、母は感謝の気持ちで接することができましたが、時間の経過に伴いいろいろな問題が現れました。一番の問題は我が家には仕切りがなく1階2階すべてが一体となった一室空間だったことです。1月中旬に夫が風邪をひいた時には、感染を避けるために帰宅できませんでした。また、母も1月4日からひどい咳が出始めました。避難所での生活が原因と推測されます。母も辛そうでしたが一緒の空間に寝ている私たちの睡眠の質は一気に下がりました。
1月下旬、豊島区が能登半島地震被災者に住宅を提供することになり、書類を整えて2月2日抽選に申し込みました。ところが2月9日朝、脳梗塞の症状が出て、軽症でしたが即入院となりました。2月13日に我が家から徒歩5分のアパートに当選、3月2日に退院するまでの間に準備を進め、3月4日に母は転居しました。
転居の直接的な動機は先に書いた住宅事情でしたが、甘えが出てきたのか母の私たちや住居に対する不満が増えて、母も私も同居には耐えられなくなっていたこともありました。「そんなに文句あるなら七尾に帰る?」と話したこともありました。子どもの家への避難がうまくいかずに避難所に戻ったという報道を目にすると身につまされました。被災者にとっては住まいの確保の重要性が身にしみてわかりました。
アパートに移ってからも毎日私との接触はあり、母は癇癪も起こすようになりました。母は長年一人暮らしをしてきた自負がありましたが、高齢でこれまでと全く違う環境でゼロから生活を組み立てるストレスも相当あったと思います。私は接触時間を少なくするしかなく、母に優しくできないという葛藤が生じ始めていました。周りからは本当にありがたいサポートを得ましたが、「お母さんによくしてあげてね」という言葉も同時にいただきます。母との摩擦が大きくなるにつれてその言葉がプレッシャーになりました。
毎晩のように愚痴を聞いてもらっていた姉から「被災者はストレスによって癇癪を起こしたりするらしい」と言われた時には、「癇癪を起こされている私はただただ受け入れるしかないの?」とやり切れない気持ちでした。母から理不尽な怒りをぶつけられる毎日。母への怒りと母に優しくできない罪悪感の狭間で私の血圧は異常に高くなり、病院にかかりました。こういうことは世間体も悪く、自分がうまくやれていないことを認めなければいけないため、なかなか人に話せませんでしたが、血圧が上がったところでお世話になっていたケアマネージャーに私の心の葛藤も洗いざらい相談。母の体調が徐々に悪くなってきたことを考慮して、買い物代行サービスや自治体のゴミ出しサポートを依頼しました。また、通院による化学療法は終了し、訪問診療に移行しました。これらによって母だけでなく私の負担も軽くなりました。防災活動に関連した知人からは、高齢者・障害者に対する廉価な同行サービス(バリアフリーツーリズム)や都・区の社会福祉協議会が主催する遠隔避難者サロン(送迎つき)の紹介を得ましたが、同郷の避難者といっても知らない人と会うことを母は選択しませんでした。私も罹災証明書が発行されてからは、発災後さかんにやり取りしていた七尾高校の同級生たちのグループライン上で発信しにくくなりました。罹災区分の差が支援の差になるからです。
母はその後も変わらず私に対して怒っていましたが、私の体調不良を知ってからは態度が随分改善されました。「私に感謝しているのに怒ってしまって困っている」という母の「本音」を姉から伝え聞けたことも関係改善に役に立ったと思います。
これらのサポートを受け始めて間もなく、5月1日に酸素濃度の低下により再入院。5月22日、緩和ケア病棟がある病院に転院、5月27日に死亡しました。七尾の姉も一緒に最期に立ち合えたことで私の後悔も少なく済んでいるようにも感じます。
制度について書き添えると、手続き開始後すぐに申し込んであった義援金の一次配分は振り込まれました。しかし、4月3日に金額が決定していた二次配分は振り込み日(6月7日)の前に母が死亡したため振り込まれませんでした。義援金は生活資金なので相続には適さないという理由でした。
5月末、姉は七尾での母のかかりつけ医から「災害関連死」の話を聞きました。調べてみると癌の場合でも持病の「増悪」として認められる場合もあるとのこと。しかし、お金がからむため七尾に住んでいる姉は申請を躊躇しました。11月初旬、姉からやはり申請したいと言われました。能登半島地震の災害関連死の認定は徐々に増えてきています。遺族の気持ちの整理にはある程度の時間が必要だと感じました。「災害関連死の認定は被害の実情を正しく示すために必要」という認識が定着すれば遺族の躊躇は減ると思います。
以上は一被災者のケースでしかありません。避難生活には衣食住のすべてに関わりますし、特に高齢者は持病もあり、被災者の数だけさまざまなケースがあると想像できます。
一人ひとりに寄り添ったケースマネジメントは高齢者や障害者の分野等では知られるようになりましたが、鳥取県が先進的な取り組みをしている「災害ケースマネジメント」に遠隔避難の対応も含めて今後広まることを願います。また、本人と家族も率直な発信をし、受援力を高めることも必要だと感じました。