米国における障害政策の概要:自立生活運動に関連して

■特集■

 

米国における障害者政策:
自立生活運動に関連して

リハビリテーション研究所副所長 Lex Frieden


 障害をもつ人々による自立生活運動という視点から、米国における障害者政策についてお話できることをうれしく思う。ここで、簡単に自立生活の変遷について、その中でも自立生活の思想の推進役を担っている人々についてお話したい。さらに、自立生活運動の発達ならびにこの運動の原動力となった全米における自立生活センターの歴史についてもお話しする。自立生活運動、消費者運動、障害をもつ人々の権利運動の関係についても言及し、障害者政策の施行のための様々な法律、法案についてもまとめてみる。また最後に米国における自立生活運動の現状と今後の展望について、多少私見を述べる。
 障害をもつ人々による自立生活の概念は、主に身体障害を持つ若い人々を中心に、1960年代の後半から70年代初頭にかけて、できはじめた。当時、アメリカの人々はベトナム戦争を終結させようとした反戦運動の影響を受けていた。さらに施行段階に入っていた1964年の公民権法の影響もあった。消費者保護運動の影響も見られた。これは、一部、国民がベトナム戦争への反対を唱えるという国民としての責任を果たし、並びにラルフ・ネイダーが財、商品、サービスに対する消費者保護について語るのを国民が耳にしたことによるものであった。最後にもう一つ、職場や家庭における平等を主張するアメリカでの女性運動も、この時期に台頭し、影響をもたらしていた。
 これらすべての「エンパワーメント」(地位向上)運動の時代の流れの中、障害をもつ人々も自立、個人主義、独立といった考え方の影響を受けずにはいられなかった。障害をもつ人々を依存主義的と見なす社会の姿勢に対する反発と障害をもつ人々への支援サービスとして展開していた依存型のプログラムへの不快感から、これら自立の考えが一層促進されるようになった。障害をもつ人々に対する社会の態度は、障害をもつ人々に対する歴史的な見方に根ざしている。このことは、おそらく万国共通であろう。
 それ以上に重要なのは、医学的リハビリテーション、職業リハビリテーション、社会リハビリテーションのいずれものプログラムが、障害をもつ人々に対し、彼らのためのサービスを提供するように設計されていたである。その結果、リハビリテーションや障害をもつ人々へのサービスがすべて「お膳立て」のようになってしまったのである。障害をもつ人々は、これらの新しいサービスの恩恵を享受できるようにはなったものの、サービスを受けるに当たっては、ほとんど選択肢がなく、意思決定を伴うこともほとんどなかった。
 1968年、私の職業リハビリテーション・カウンセラーは、私に、私に教師になるべきだと言った。教師であれば、一ヵ所に座って仕事ができ、自分の知識を生かすことができるからだと言うのだった。私はカウンセラーに、工学の勉強がしたいと言った。1967年に事故で障害者になる前まで、工学部で勉強していたのである。しかし、カウンセラーは、エンジニアとして成功するには、都市から都市、場合によっては州から州へと移動しなければならない上、手を使ってコンピュータやその他のハイテク装置を操作しなくてはならないから無理だと言った。その当時のことを考えると、随分今は進歩したと思う。
 これは私に限らず、当時アメリカに住んでいた障害をもつ人々は誰しも、障害をもつ人々のためのリハビリテーションやその他のサービスを受ける時、私と似た経験があった。そのため、障害をもつ人々は誰しも、意思決定プロセスにおける発言、意見表明の場を与えられるべきと考えるようになったのだろう。
 事実、障害をもつ人々が主導権を握るべきだと考えた障害者がいた。これとほぼ同時期の1970年代初頭、主に大学での障害をもつ人々同士の交流が始まった。それというのも、比較的高学歴で、大学への進学時期を迎えた若者の中に、後天的障害をもつ人々が大勢いたからである。ほとんどは、第二次世界大戦末期ないしはベトナム戦争での負傷による障害を負ったため、復員軍人局からリハビリテーションや教育を受けるための支援を受けていた。
 その他、十代の頃、自動車やスポーツ事故により、負傷したが、大学に戻りたがっている人もかなりいた。10年前であれば、これらの人々は、外傷に伴う合併症で命を落としていたかもしれなかったが、緊急処置と医学的リハビリテーションの発達のお陰で、教育や生涯の仕事について考えるまでに回復できるようになった。
 カリフォルニア大学バークレー校では、障害をもつ学生のグループがお互いの問題について話すようになり、自立生活センターを設立することを決めた。ほぼ同時期に、ミシガン州ランシングにあるミシガン州立大学、マサチューセッツ州ボストンのボストン大学、オハイオ州コロンバスのオハイオ州立大学、テキサス州ヒューストンのヒューストン大学でも、同じ様な話し合いがあり、それぞれの地域のニーズに合った、自立生活センターが発足された。
 最初の頃にできたセンターは、各々かなり性格が異なっていた。それというのも、それぞれの地域の主だったニーズが違っていたからである。例えば、オハイオ州コロンバスとマサチューセッツ州ボストンにできたセンターは、脊椎損傷による障害をもつ若い男女の住宅や身辺世話を行うための支援の提供が主な目的であった。一方、カリフォルニア州バークレーやミシガン州ランシングのセンターは、もっと総合サービス・センターに近い性格をもち、交通、車いすの修理、ピア・カウンセリング等のサービス提供を行っていた。テキサス州ヒューストンにできたセンターは、重度の身体障害をもつ人々がリハビリテーション病院ないしは面倒をみてくれる親元から地域社会へと移り、地域に根差した生活が送れるようにするための「橋わたし」ないしは移行プログラムを提供することを目的としていた。
 最初の頃にできたこれらのセンターは、その後、一つの共通のテーマのもと、1970年代初期にかけてさらに発展を遂げた。そのテーマと、利用者が主導権をもってコントロールする(consumer control)ことであった。ここで紹介したセンターでは、いずれも、障害をもつ人々自身がプログラムを組織し、運営していた。非営利団体として法人化し、プログラムの管理、受託を請負い、地元の財団、州政府のリハビリテーション機関、時として連邦政府からも資金集めもした。
 1977年までに、全米の自立生活センターの数は、36ヵ所まで増加した。ヒューストンでは、New Optionsと呼ばれる移行プログラムを進めていた関係者の所に、全国の障害をもつ人々やプログラム立案者から問い合わせが来るようになった。そこで、他の所にも自立生活のコンセプトを広めることに決め、情報普及と利用活動をするために保健教育福祉省(現在の連邦教育省)からの支援を求める手続きをとることになった。その第一歩として、我々は自立生活の定義(わかりやすく、一般に適用可能な定義)を考え出すことであった。仲間と相談した結果、我々が作り出した定義は、次の通りであった。

 「自分の人生は自分で決められるようにする。そのため、意思決定や日常の活動を行う際、人の手を借りることを最小限に抑えられるよう、納得できる選択が許されるべきである。」 

(Frieden 他 1977)


 我々は、自立生活は、行動面ではなく精神面での自立であるべきだと考えた。これは、身体的リハビリテーションの専門家がいう自立とは真っ向から対立するものであった。専門家は、その人が行える身体的活動や作業の数で自立を測っていたのである。この定義をめぐる対立は、今日もまだ続いている。
 定義作りを進める一方で、我々は、全米を5ヵ所に分け、その中の州に住む関係者を招き、3日間にわたる会議を開催した。1978年、約8ヵ月の活動の末、約5000人の障害をもつ人々、プログラム開発者、政策立案者が自立生活のコンセプトと実践を知るようになった。これらの新しい支持者は、我々が、連邦政府によるリハビリテション・サービス認可に関する法律の中に、自立生活の条項を設けて欲しいと働きかけたとき、我が国におけるアドボカシーで重要な役割を果たした。その結果、1978年、リハビリテーション法の第7章に条項が付け加えられ、センターは認可の対象となった。現在も、この条項に基づく公的助成が自立生活センターの最大の収入源となっている。
 連邦法により自立生活センターの設置が認可され、連邦政府からの助成も受けられるようになったことから、自立生活センターの数は急増し、1980年までには100ヵ所を超えた。新しい所も、最初のセンターをモデルにして建てられ、利用者主導を目標に掲げた。1980年代中頃までには、自立生活センターとの関わりを通じ、全米の多くの地域に住む障害をもつ人々のエンパワーメント(地位向上)が進んだ。そして、これらの人々がアドボカシーに加わり、自らリハビリテーション・サービスやその他の社会サービスのプログラムにおけるリーダーとして活躍し始めるようになった。
 自分たちの自立生活センターを創り、組織し、管理、統制、運営するという経験を通じ、障害をもつ人々は、かつてないほどエンパワーメントを痛感するようになった。さらに、センターを利用する側の多くの障害をもつ人々も、ピア・カウンセリング、自立生活技術訓練、技術支援、身辺処理支援、住宅、移動などのサービスを通じ、地域における自立を実現できるようになった。しかし、障害をもつ人々は総じて、雇用をはじめいろいろな面で障害をもつ人々を差別している社会では、自立というコンセプトがあまり意味をもたないと感じ始めていた。
 自立をマスロー(Maslow)の発達理論に照らし合わせると、人間は、衣食住をはじめ生活の必需品が手に入ると、次に自己実現を目ざすようになる。ほとんどの障害をもつ人々は、雇用ないしは経済的自立が、自己実現の一つの目標だと考えた。障害をもつ人々の80%が失業していることは、彼らの技能の欠落、やる気のなさから来るものではないことも明らかになりつつあった。ほとんどの場合、単なる差別が原因であった。
 1984年、私は首都ワシントンの全米障害者協議会の事務局長を務める機会に恵まれた。ジャステイン・ダートと一緒に楽しく仕事をすることができた。協議会では、アメリカの障害者政策の現状見直しを行うこととなった。まず、1986年1月までに、障害をもつ人々のどのようなニーズが政策面で満たされていないのかについて大統領と議会に提出する報告書を作成しなければならなかった。いちばん必要とされているのが、障害を理由に差別されることから障害をもつ人々を守ることであることは、早い段階からわかっていた。障害をもつ人々の機会均等を保障する法律が必要であった。このニーズがあることを裏付けるため、我々は、ハリスという調査機関に世論調査を委託した。
 この調査では、障害をもつ人々の3分の2以上が、仕事をもつ方がもたないよりもいいと答え、仕事を探したことのある人のうち、半分以上が何らかの差別を受けたと答えた。これらの結果は、障害関係の仕事をしている我々にとっては、ほぼ予想通りの結果であったが、差別撤廃法案の提案により解決したいと思う問題が何なのかを示すための格好の「武器」となった。「障害をもつアメリカ国民法(ADA)」を発案したのは、この全米障害者協議会のメンバーならびにスタッフであった。その後、1988年に初めて議会に法案として提出され、1990年7月26日、ブッシュ大統領の署名を受け、法律として制定された。署名式の時、大統領はADA可決をベルリンの壁の崩壊に例え、「人を排斥するこの恥ずべき壁を、ようやく崩壊させることができた」と語った。
 なぜ私が自立生活の話の中で、敢えてADAについて話したかというと、まず第一に、ADAの実現は、自立生活運動に負うところが多いと思うからである。自立生活のコンセプトのもと、障害をもつ人々のエンパワーメントが進んでいなければ、また自立生活センターを介して自分たちや仲間のサービスを受け、もっと自立ができる機会がなければ、ADAがあそこまで進み、議会を通過することはなかったと思う。
 第二に、ADAは自立生活運動の次の段階において、重要な部分を占めると思う。障害をもつ人々は、差別からの保護なしには、本当の意味での社会における経済的、社会的自立はあり得ない、という事実を認識するようになった。いかなる人に対する、いかなる理由による差別であろうと、差別を受ける人々は、決して平等を手にすることはなく、真の自立もないのである。それだけに、障害をもつ人々はADA可決のために懸命に働いた。ADAは、基本的平等を保障しており、米国内、また場合によっては、世界中の自立生活運動のさらなる発展の枠組みを提供している。
 ご存じのように、ADAはいくつかの部分から構成されている。雇用、教育、公共/民間の施設、サービス、プログラムへのアクセス、交通手段へのアクセス、公共メディアへのアクセスの分野において、障害を理由に差別をしてはならないとされている。公共/民間の機関は、この法律を遵守する義務を負い、障害を持つ人々、家族、代弁者は法律の施行を求める訴訟を起こす権利がある。さらに、司法省とその他関連機関は、法律を積極的に施行する権利と義務がある。法律違反が認められた場合の処罰は、かなり厳しいものになることがある。
 1990年にADAが通過してから、我々の文化やインフラの面で、障害をもつ人々にとって歓迎すべき変化が多く見られるようになった。現在、アメリカではすべての障害をもつ人々が、ほとんどどこにでも行けるようになっている。また、ほとんどの事業主も、障害をもつ人々に機会均等を与える義務を認識している。連邦当局も強力に法律の施行を押し進め、裁判所も法律を強力に施行しようとしている。そのことは、マスコミが大々的に報道したいくつかの判例を見ても、伺い知ることができる。
 このような前進にもかかわらず、障害をもつ人々の失業率は依然不当に高い水準で推移している。就職を希望する障害をもつ人々のうち、職に就けない人が65から75%いる(調査方法によりパーセント数が違う)。我々の多くは、ADAにより障害をもつ人々の失業問題が解消できると期待していたが、この結果から見てもわかるように、差別は障害をもつ人々の就職を阻む一つの要素に過ぎない。
 差別以外にも、いろいろな要素が複雑に入り混じっているのである。残念ながら、障害をもつ人は、もたない人と比べて訓練をうけていないことが多く、仕事の経験も少ない。従って、雇い主が障害を理由に差別しなくても、競争の激しい雇用市場においては、障害をもつ人は不利な立場に立たされることが多い。
 このような背景から、ADAを修正し、雇用主によるアファーマテイブ・アクション(差別是正のための積極的措置)を求める条項を盛り込むべきだという主張はある。アファーマテイブ・アクションは、これまで特に性別、人種、民族による差別を是正するため、雇用主に対し、適用された。例えその人が仕事に最適な人材でなくても、ある特定の特性をもった人を積極的に雇うよう求める措置である。そのねらいは、過去の差別に起因している不平等に対処し、(性別、人種、民族的に見て)もっとバランスのとれた労働力構成にすることにある。
 アメリカには、不当差別禁止の長い歴史がある。アファーマテイブ・アクションも、概していい結果につながっている。障害をもつ人々の雇用に際しても、アファーマテイブ・アクションが起用された前例はある。それは、改正リハビリテーション法第504条(Section 504)に規定されている。但し、この法律は、連邦政府ないし政府の下請け業者への就職の場合にのみ適用されている。果たして、ADAにアファーマテイブ・アクション条項が追記されるかどうかは、まだわからない。ただ、現在のアメリカの政治ムードを見る限り、可能性は少ないようである。
 公立学校で統合教育を受け、進歩的な考えをもった若い人達が労働力に加わるようになれば、障害をもつ人々の失業問題は、むしろ時間とともに自然に解決されていく可能性が高いのではないか。障害をもつ人々の中でも、若い新世代の人々は、もっと多くの機会をもち、もっとすぐれた教育を受け、仕事に恵まれるようになるだろう。
 ADA以外にも、リハビリテーション法、障害者教育法(IDEA)などいくつか注目すべき重要な障害者政策関連の法律がある。リハビリテーション法は、州や連邦職業リハビリテーション・プログラムの認可、そして先ほど話した、自立生活センターへの支援、助成を謳っている。障害をもつ人々の教育法は、障害をもつ人々が同じ教育が受けられるよう、学校へのアクセス、必要なサポートを提供するよう学校に求めている。この法律は、ADAとともに、重要な法律である。もう一つ、日本で関心が高いと思われるのが、障害者テクノロジー支援法である。この法律は、州が行う技術支援プログラムを支援している。これらのプログラムのねらいは、障害をもつ人々が技術の急速な進歩の恩恵にあずかり、最新技術へのアクセスが完全に図れるようにすることにある。
 自立生活の思想の実施においてきわめて重要な法律について述べてきたが、社会保障プログラムにふれないわけにいかない。また、最近の医療保険改革をめぐる動きについてものべたい。社会保障プログラムは、高齢者や障害をもつ人々に対する資金援助を提供するためのものである。一部の政策立案者、研究者や権利擁護団体は、社会保障制度のせいで、障害をもつ人々は働く意欲をそがれているといっている。「社会保障手当を受けられる人は、一端受け始めると、働かなくなる。働けば、手当の支給が打ち切られるため、働こうとしなくなる」と言うのである。
 しかし、現実には、社会保障の支給額は、働く気持ちをなくさせるほど多額ではない。働けるものなら、働いた方が、収入はもっと期待できる。私が見る限り、最大の問題は、医療保険手当の支給を受けるためには、その人が、現金手当の受給資格があり、実際に受け取っていることが条件になっている点ではないかと思う。従って、就職していちばん困るのは、現金手当がなくなることではなく、むしろ医療保険手当が受けられなくなることである。このようなジレンマを解消し、社会保障の受給資格のある障害をもつ人々に、就職するよう奨励する必要がある。
 最後に、アメリカにおける自立生活運動の今後の見通しについて、私見を述べてみたい。自立生活運動の今後を左右するいくつかの要因がある。第一に、自立生活センターについて、自立生活の思想や運動がこれらのセンターなくして存在し得ないことはないが、センターが、この思想、運動の存在の目に見える証であることは確かである。しかし、これらのセンターは、ほぼ100%の連邦助成に頼っているため、政府の予算削減、合理化の煽りを受けやすい。一部のセンターは、地方自治体や地元の財団、企業、個人から資金援助を受けているが、ほとんどの所は、リハビリテーション法第7章のもと認められている連邦助成に頼っている。大物議員、政府要人、ないしは予算管理局の監査役のうちの誰かの「一声」で、これらのセンターがなくなってしまう可能性もある。
 第二に、自立生活センターは、主に障害をもつ人々へのサービス提供を目的としている。ADAの可決により、1990年以降、障害をもつ人々は多くの一般の人向けのサービスが受けられるようになった。障害をもつ人々も、交通機関、雇用プログラム、公共サービス・プログラムなどが随分利用しやすくなった。このように、今後も一般向けのプログラム、サービスへの「トータル・アクセス」が進めば(また、そうなるべきである)、自立生活センターが提供して来たような障害をもつ人々専用のサービスの必要性もなくなっていく。
 自立生活センターが引き続き、障害をもつ人々のアドボカシー、教育を行う必要は残るかもしれないが、センターの役割が変わっていくことは明らかである。果たす役割が変わっても引き続き、州、連邦政府がセンターが行う活動(アドボカシーや教育など)の重要性を認め、補助を続けることが望まれる。反面、政府は、アドボカシー・プログラムの支援に慎重になる傾向がある。それというのも、これらのプログラムでトレーニングを受けた人は、しばしば政府のやっていることに疑問を呈すようになるからである。このジレンマは、自立生活運動に長くつきまとって来た問題である。今後、自立生活センターが、直接的なサービス提供から徐々にアドボカシーに重点を置くようになれば、ますますこの問題が大きくなるだろう。しかし、役人がアドボカシーと教育の大切さを認識し、プログラムへの援助を続けてくれることを願っている。
 もう一つ、自立生活運動が今後展開していく上で、とても重要な要素として、障害をもつ人々一人ひとりの果たす役割がある。障害をもつ人々の統合、自立が進むにつれ、自立生活センターからの支援やサービスが不必要になる。ノーマライゼーションが進むという意味では、これはいいことであるが、これまであった障害物やフラストレーションがなくなる半面、自立生活プログラムや障害をもつ人々の権利を求めるため一生懸命やってきた人は、心の拠り所を失うことになる。
 以上、アメリカの自立生活の展望をまとめると、センターの数は増え続けるだろう。しかし、センターの使命や役割は、エンパワーメントの促進、アドボカシー、教育へと重点が移っていくだろう。公的機関からの資金助成は続くが、センターの中でも一番成功している所は、利用者から徴収するサービス使用料、一般の人を対象にしたサービスや商品の生産/販売、地元の人々からの寄付などを通じ、ある程度の経済的な自立を達成しうるようになる所である。
 自立生活の思想は、今後もっと多くの障害をもつ人々、そして一般の人々の心に浸透していくだろう。我々の社会が進化するにつれ、自立の概念は、すでに陳腐化しつつある身体的意味からどんどんかけ離れ、もっと哲学的立場に立った、折衷主義、奥深い意味合いをもつようになるだろう。自立生活は一つの思想となり、大衆が抱く概念となるだろう。障害をもつ人々から大衆への贈り物として。
 

(訳・小沼順子)
監訳 日本障害者リハビリテーション協会

 


 

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1997年8月(第92号)11頁~16頁


 

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