音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

国際シンポジウム「国際協力と障害の問題に人権の枠組みを」

国際協力と障害の問題に人権の枠組みを
-カナダの場合-

カナダ・コミュニティ・リビング協会副会長  ダイアン・リッチラー

■はじめに

 1998年、障害者団体の代表がカナダの首相と共に国連を訪れ、フランクリン・D・ルーズベルト国際障害賞を授賞しました。障害者の代表が国連に行ったということは、カナダ政府と地域社会が力を合わせて努力してきたからこそ障害者の人権がカナダ国内外で認められるようになったということを示すものでした。
 民間団体は50年にわたって地域における障害者の地位を向上させるために努力を重ねてきましたが、その間、国際的にも他の団体と協力関係を保ってきました。しかし、その活動の積み重ねにはある一定の型がみられるものの、そのほとんどは個別に進められてきました。したがって、障害の分野でカナダが国際的に貢献するのは歴史を振り返っても今が初めてのことです。

■カナダ・コミュニティ・リビング協会とは

 国内外を問わず障害者の人権擁護を活発に進めてきた団体の中にカナダ・コミュニティ・リビング協会(CACL)があります。CACLは全国的な人権擁護団体で、知的障害者がカナダ社会のあらゆる場面で完全な参加を進めることができるように支援に力を注いでいます。当協会はカナダの10州と2準州にある協会の連合として、カナダ国内に400にのぼる支部を有しています。これらの支部は知的障害者とその家族、あるいは友人を含む約4万人の会員から成っています。
 協会が全国的な規模で創設されたのは1958年で、支部の設立は知的障害者の親によって1940年代後半に始まりました。子供達を地元の学校に受け入れてもらえず、唯一受けられるサービスが施設への入所だったため、親達が集まったのです。知的障害をもつ子供達の家族がその子供達のために教会の地下や仲間の家に最初の学校を作りました。
 最初の頃のメンバーの子供たちが育つにつれ、協会は学校卒業後の子供達の進路の一つとして授産所を作り始めました。1963年には、初期のサービスを受けていた子供達がもはや子供達ではないことを認め、協会の名称をCanadian Association for Retarded Children からCanadian Association for the Mentally Retardedに改めました。
 1970年代から1980年代にかけて協会が力を入れてきたのは、コミュニティの中にあらゆる種類のサービスを開発することによって、施設に頼ることなく、人が生まれた時から死ぬまでに持ちうるいかなるニーズに対しても応えていけるようにすることでした。もし色々なサービスが総合的に調整されてさえいれば、知的障害をもつ人達も障害をもたない人と同じような生活ができると信じられていました。しかし、協会はやがて少しずつ、ただ単に専門的なサービスを開発していくだけが答えになるという考えに満足できなくなりました。
 それまでのサービスは障害者を家族やコミュニティから切り離すと考えられていただけでなく、必要とする人すべてにサービスを提供することが財政的に可能なのか疑問視されていました。そこで、他の方法が求められていたのです。同時に、身体や知覚面に障害を持つ人々が人権運動を活発に進めるようになると、知的障害を持つ人々にも権利があり、コミュニティの中で一般的なサービスを受けられるようにしなければならないという考えが強まりました。
 このような状況に変化がみられたのは1982年にカナダが人権と自由の憲章を含む新憲法を生み出した時でした。
 「すべての人は法の前、そして法の下に平等であり、特に人種、国籍、あるいは民族、肌の色、宗教、性別、年齢、または知的あるいは身体的障害によって差別されることなく、法による保護と利益を平等に受ける権利を有する。」
 これら平等の権利の条項に障害が含まれたことによって、カナダの法律、政策、施策、そしてさまざまな問題のとらえ方は大きな影響を受けました。CACLにとって、それは知的障害を持つ人々自身を団体の中に受け入れ、強い発言権を与えるということを意味していました。それによってカナダ・コミュニティ・リビング協会という、活動の重点が変ったことがよく表れている名称に変更されました。人を「直す」のではなく、コミュニティがそのような人々を受け入れ易くするのが協会の役割となったのです。つまり、知的障害を持つ人々が社会生活のどのような場面に参加しようとした時も、阻むものがあるとすればそれは何なのかを調べ、それを取り除く手だてを探すということを意味していました。
 CACLは草の根団体で、そのほとんどの活動をカナダ国内で行っていますが、同時に、設立当初から常に国際的なネットワークの一部としても活動してきました。1960年代の初めには現在Inclusion International として知られている世界150ヶ国以上の親の会の連合組織の創設にも参加しました。

■カナダの障害分野における国際協力活動

 障害分野におけるカナダの国際協力活動については、政府と地域、あるいは地域の団体同士の間でさえ調整がなされてきたわけではないので、ここでは主にCACLの関わりという視点から説明します。CACLはInclusion Internationalの初期のメンバーとして、国際的な会合や会議で情報交換を行ったり、世界各地の動きをとらえることをしてきました。1960年代には、知的障害者のノーマライゼーションに力を入れていた北欧諸国から大きな影響を受けました。1970年代には、技術的な専門家の交流、特に障害の分野で働く専門家の養成に関連した交流をカリブ海沿岸地域を中心に始めました。
 1980年にはまた、国連の国際障害者年がカナダに大きな影響を与えました。国内ではObstacles Report of the Parliament of Canadaをきっかけに大きな転換期を迎えました。この報告をきっかけとして、それまでのリハビリテーションに基づくアプローチから、権利と自己決定に基づいた考え方へと重要な考え方の転換がみられました。また、これによって政府が障害者とその家族を代表する団体との間の新しい協力体制を築く土台が形づくられました。
 それ以前、国内外の障害の分野で活動していた団体の多くはサービス提供機関でした。Obstacles Reportの勧告を障害者とその家族の団体が協力してまとめ上げたことが憲章の平等に関する条項の土台を形作り、政府と地域との間の協力体制を確実なものとしてその後も発展し続けています。
 同じ年、RI世界会議がマニトバ州ウィニペグで開かれました。委員会のメンバーの半数を障害者にすべきという要望が受け入れられず、その時の代表が集まってDPIが生まれました。Canadian International Development Agency(CIDA)はその次の年にDPI第一回会議をシンガポールで開催するにあたって資金援助を行い、その会議でカナダのHenry Ennsが副会長に選ばれました。Henry Ennsは国連のカナダ代表団の一員でもあったために世界行動計画の方向性を定めるのに貢献し、結果として国連障害者の10年へとつなぐことができました。DPIはカナダ政府の支援を受けて次の年にウィニペッグに事務所を設けました。1989年にはDPI本部をストックホルムからウィニペッグに移し、Henry Enns がExecutive Directorに着任しました。
-  カナダにおいてDPIは確固たる地位を有しているために政府から豊富な資金援助を受けることができ、それがめぐりめぐって世界中の障害者の人権擁護運動を生み出す上で多大なる影響を与えることになりました。また同時に、カナダにおいても障害者団体による国際活動に対する関心が高まりました。1992年には、国内のいくつかの障害者団体が集まって障害者の国際的な集会を行いました。
 Independence‘92と呼ばれるその集会には120ヶ国の国々から約3,000人もの人々が集まりました。国際的な連盟の会議が複数同時開催され、さまざまな障害をもつ人々のリーダー達が出会い、アイデアを交換する貴重な場が提供されました。DPIの他に会議を開いたのは、Inclusion International やWorld Blind Union(WBU世界盲人連合)、the World Federation of Psychiatric Survivorsでした。
 政府は国際的な活動に対して支援を行わなかったものの、障害の問題に対してはいくらかの関わりをもってきました。たとえばカナダ政府は、1992年に障害者問題担当大臣会議を初めて主催しただけでなく、障害者運動の代表者を政府代表として以下の会議に送りました。

  • 国連世界人権会議(ウィーン、1993年)
  • the World Social Summit(1994年)
  • 第4回世界女性会議(北京、1995年)
  • 国連人間居住会議(1996年)

 以上のような国際会議への参加や個別のプロジェクトに対する資金援助を受けてはいるものの、障害の問題が必ずしもCIDAの主要課題と認められているわけではありません。しかし、CIDAの最優先課題と一致しているものもあります。特に人権擁護、民主主義、正しい統治、性の平等などがそれにあたります。
 カナダ政府が行った国際的な障害分野の活動の中で最も知られているのは、最近のOttawa Processの中で対人地雷を禁止する協定を結ぶに至らせたことです。1997年12月に協定の署名がなされましたが、巨大国でなく非政府団体が中心となって国際的にも主要な協定の締結へと導かれたのは初めてのことでした。
 Ottawa processは国際外交に前例を示しました。協力関係を進める上で、政府の力をはるかに超えるほど専門家がもつ役割と意義の大きいことが明らかになったのです。国内のNGOや国際的NGOは政府に対して禁止運動への参加や協定の署名を促す上で高い影響力を持ちうるとみられました。また一方で、署名に反対する者として政府官僚があげられました。以上のような経過から学んだ点をまとめるとつぎのようになります。

 ★パートナーシップは役立つ
Ottawa processの成功のカギを握っていたのはNGOやNGOと政府の協力活動でした。その協力内容には情報を整理分類して分かち合うことや、共通の手段で同じ目標に向かって取り組むということも含まれています。

 ★伝えたいことを明確にする
明確であり、できるだけ妥協を許さない人道的なメッセージをもつことが重要です。

 ★地域で中心になるグループ同士の、地域を超えた関係が正当性と機能性を与える
中心的グループは広い関心と取り組み方を示しました。また、明確なメッセージを生み出しやすくしました。

 ★Ottawa Process のモデルは他の分野にも応用できる
政府は他の課題に対して同じようなモデルが応用できるかどうかについては懐疑的なようです。Ottawa processの成功に貢献した理由の一つは、それ以前に一般市民の意識を高めるための長い準備期間があったということです。

政府と民間セクター間の協力や地域や世界が一つになって協力することについてOttawa processから学ぶことは数多くあります。しかし、協定を結ぶまでに主導的な役割を果たし、多くの国々に署名を促したのはカナダ政府でしたが、対人地雷の使用禁止へと導いたのはいずれの政府でもなく、高い関心を示す一般市民であったということは覚えておく必要があります。
 ノーベル平和賞がこのキャンペーンを先頭に立って始めた市民団体の集まりに対して授与されることによってそれは認められました。もちろんカナダ政府だけでなく、時には従来の外交手段を無視しながらも新しい画期的な方法で中心となったグループに積極的に協力した人たちも賞賛に値するでしょう。しかしOttawa processの真の英雄は正規の枠組みもなく、人材や財源も乏しい中で、はっきりとした共通の目標をもち続けてきた世界の一般市民でした。

 CACLは資金や人材面から言うと、国際的にみても比較的規模の小さい団体と言えます。しかしここ数年、最大限の利益を生み出すとともに国内の問題と海外の問題を関連づけるためにCACLが行う国際的な活動に対して常に関心が寄せられてきました。
 この組織が国際的な活動で転換期を迎えたのは、1991年にInter-American Federation of Inclusion International(略してCILPEDIM)の設立会議に参加した時でした。当時Charter of Rights and Freedomsはまだ生まれて日が浅く、カナダの人々は障害に真の意味で市民権を持たせることがどういうことを意味するか理解しかねていました。ラテンアメリカでは長期にわたる独裁政治や軍による支配から抜け出して間もない国々がいくつも有り、CACLの姉妹団体は生まれつつある民主主義の中で障害者のための地位を確保しようとしているところでした。CACLと南の他の団体はすぐに理解し合い、それぞれの国に共通点を見出したのでした。
 CACLが資金的な裏付けを得るのが速かったので、CILPEDIMの他のメンバーは一致団結して共同の活動に参加することができ、その後の進展も速く進みました。カナダ政府は国連子供の権利条約を進めるための資金を用意し、カナダの民間団体が他の国の同じような民間団体と協力して活動できるように資金面の援助をしてきました。そうすることによってUnited Conventionを推進すると同時に、カナダと海外の双方の市民団体を同時に強化することを目指しました。
 Partnership in Community LivingというCACLプロジェクトは1993年から1996年まで資金援助を受け、障害者団体と専門家、そして政府がより強い協力関係を築くことによって、南北アメリカ全体の障害児の統合を進めることに力を注ぎました。南北アメリカの34国の各分野から約150名もの代表がニカラグアに集まり、プロジェクトの枠組みを作成しました。そこで合意に至った内容はマナグア宣言の中に盛り込まれ、1993年12月3日に調印されました。マナグア宣言は、次のように述べています。
 「全ての人々に社会的幸福を保障するために、社会は正義、平等、公正、統合および相互依存を土台とし、多様性を認め受け入れなくてはならない。社会はまた、何よりもその構成員を人として認め、その尊厳性や権利、自己決定権、社会的資源への完全なアクセスと地域社会生活に貢献する機会を保証しなければならない。」
 調査研究や広報活動、あるいは地域開発の分野において、やがてプロジェクトの枠組みを成すようになったのは、マナグア宣言自体と障害を人権の問題として取り上げているという点でした。その過程で、より多くの人を巻き込んだ地域的なワークショップが開かれ、障害を人権の問題としてとらえる下地が生み出されたのです。
 南北アメリカでの経験を積むうちに、やがて国境を超えた遠くから加わる力によって社会政策が動かされているということが明らかになってきました。特に、国際経済機関や国際開発の果たしている役割が、障害をもつ子供達の主な障害物となっていました。意図していなくとも、政策の副産物として障害を持つ子供達の権利に対する無配慮が起こっていました。
 たとえば、当時、世界銀行は中南米における教育改革の主要出資機関であり、優先課題としていたのは女子の教育でした。ジェンダーの問題に焦点を当てる中で、世界銀行は多くの女子が障害をもっていることに配慮しなかったのです。その結果、障害をもつ女子にとって物理的にアクセシブルでない学校が次々と建設されました。教師は障害をもつ女子を教える準備ができず、障害をもつ女子に教育を受けさせるように親に勧めることもなかったのです。
 障害をもつ大人と子供を統合しないことが国際的な団体や機関に与える大きな影響を認め、CILPEDIMは地域的な政策と世界的政策の両方に障害のための人権擁護を含めるという目標を設定しました。
 マナグア宣言を生み出した同意を基に、CILPEDIMはさまざまな地域機関と共に優先課題を設け、行動に移してきました。CACLのこれらの活動に対しては、カナダ政府からもいくらかの支援を受けました。まず最初の目標はInter-American Development Bankで、2年にわたる交渉の末、中米での障害者の労働市場への参加についてCACLとの共同研究を進めるという契約を結びました。特に注目すべきは、当銀行にあるカナダ政府の信託資金から共同研究の資金が提供されたことです。
 Inter-American Development Bankとの契約によって、銀行や地域の主要資金提供者が保有する資金をどのように障害者の参加推進のために活用できるかということについて豊富な情報が得られました。契約は銀行頭取とCIDAの会長が代表をつとめるセミナーで幕を閉じました。結果として障害者の雇用率が上がるなど、共同研究の即効力のある結果は得られなかったものの、障害という問題が社会に出現しつつある重要な問題であるという認識が得られ、結果としてCACLとCILPEDIMに対する信用性を確立することになりました。
 銀行プロジェクトに賛同してもらうために、CACLとCILPEDIMは中米議会とForum of the Presidents of National Assemblies of Central Americaのマナグア宣言に対する支持を確固たるものにしました。ごく最近Organization of American States(OAS、米州機構) によって採択されたConvention to Eliminate Discrimination Against Persons with a Disability の中でこの宣言について述べられています。宣言はConvention(条約)の中の国際的な合意事項、たとえば世界人権宣言と国連子供の権利条約などと並べて盛り込んであります。言及されているものの中で唯一政府間の合意でないものであり、市民社会が生み出したものです。このようにして、市民社会の貴重な貢献の仕方の一例としてOASの中に報告されているのです。
 1996年にPartnership in Community Living の資金提供が終了してから、CACLはCIDAを通じた資金援助によって中米でいくつか小規模プロジェクトを進めました。これらのプロジェクトは、障害者の市民権擁護を推進するということに焦点があてられてきました。特に強調されたのは、市民団体の強化、統合教育のような統合的な政策、選挙による市民参加の促進と政策立案の過程への市民の参加でした。地域の選挙管理委員組織や大学、医師のネットワーク、そして青少年の協力体制が築かれました。

■課題と学んだこと

 この10年、CACLは国際的な活動を進めていく上でさまざまな問題とぶつかりました。しかし、学んだことも計り知れないと言えます。それぞれの問題が反応を引き出し、その反応を通じてCACLは活動の本質や価値をより深く分析することができました。

 課題1:
なぜCACLはカナダ国内の問題を解決せずに国際的な問題を取り上げるのですか?
 CACLは国内の団体で、カナダ国内の問題を取り扱うために設立されました。会員と設立者達の双方にとって、国境を超えた活動に取り組む意義について理解することは難しいのです。国内に山積する問題を抱えている場合は特にそうです。スタッフとボランティアの両方が海外へ出るだけでも国内の優先すべき事項から時間を奪っているとみられます。

 対応1:
国際的な活動を通してCACLは世界の動きを学び、カナダ国内の社会的、政治的、経済的な動きをより深く理解できるようになりました。国際機関と協力して活動するようになって、CACLは他国の動きに影響を受けることの多い連邦政府の政策や多国間にまたがっている機関に対してより的確に対応できるようになりました。たとえばInter-American Development Bank を通じて初めて市民社会の役割について考えるきっかけを与えられ、その後カナダ国内で市民参加や民間セクターの役割に関する議論が持ち上がった時の準備ができました。

 課題2:
 CACLは南北アメリカの障害の分野で人権の枠組みを推し進めることによって、民主的な政策決定に高い基準をおきながら姉妹団体と話し合いをもってきました。CACLが障害者の自己決定という考え方を推し進める一方で、相手側だけが実権を握っているという関係を受け入れることができなかったのです。同じようにして、もしCACLが障害をもつ人々の問題を取り上げ、その人達がもつ権利を絶対必要条件であると認めるような筋の通った取り上げ方をしなければならないと主張するならば、CACLも同じようにしてその活動の中で少数民族や他の不利な条件にある人々や団体の権利を認めなければなりません。そして、CACLは障害問題を人権問題の枠組みの中へ受け入れるのを拒む個人や団体と常に話合いを続けることを求められ、何度もその立場を試されることになりました。CACLは人権の枠組みをどのようにしてその活動に応用できるでしょうか?

 対応2:
 姉妹団体の自己決定を保証するため、CACLはこれらの団体と協力し、政策決定の責任を分かち合うように努めてきました。そうすることによって管理が面倒になることはありましたが、計画の段階から相手側と共に参加するものだけに活動をしぼり、ほとんどの場合、管理運営まで共に行うようにしてきました。CACLは指導力の中に多様性を取り込むように努めましたので、時には価値観や政治に食い違いが生まれ、緊張関係をもたらしたこともありました。しかしCACLはその基本姿勢を明確にし、同じ目的をもつ活動のみに協力していくようにしてきました。さまざまな関心をもつ個人や団体と活動を進めることによって、CACLは発展の基礎となる合意点を見出すことができたのでした。

 課題3:
 インフラが弱かったり、資金がほとんどあるいはまったくない団体とCACLはどのように協力していけますか?
 CACLの姉妹団体のほとんどはとても新しい団体です。スタッフもおらず、ほとんどの場合事務所もなく、資金も少ししかありません。ボランティアのリーダーは一つ以上の仕事を抱えていることが多く、子供の障害という問題以外にも生活面で困難な条件の下にあることが多いのです。

 対応3:
 何をするにせよ姉妹団体がその力を十分つけていけるようCACLは努力してきました。Inter-American Development Bank との契約で、それぞれの国で雇われたコンサルタントの一人は親団体から参加しました。そのことによって、自国のことだけでなく地域全体の状況について深く学ぶ機会が与えられ、分析する基礎として人権擁護の枠組みを取り上げるには最適の例を提供できました。同じようにして、各地域の協会はCACLのプロジェクトのさまざまな側面を進める役割を果たし、それによって力を貯えると同時に必要とする資金を獲得するのに役立ちました。CACLは常に地元の補足的イニシアチブを得るために資金を保証し、プロジェクトを進めることを通して姉妹団体がその可能性を高めるように努めてきました。

 課題4:
 障害者や人権擁護に対する支援を拡大するように、CACLがカナダ政府に働きかけるにはどのようにしたらよいでしょうか?
 カナダは国際的な場で障害者団体を支援し、障害者の人権擁護を推進する上で指導的役割を果たしてきましたが、これまでの努力は散発的であり限界がありました。国際経済や多国籍機関の中で政策やプログラムがどのように形作られていくか学ぶことを通して、国内外を問わず、カナダ政府が障害や人権問題に関わっていく利点が非常大きいということをCACLはわかってきました。援助、貿易、外交の間に調和のある外交政策が障害者の人権擁護を支援していければ、カナダ国民だけでなく姉妹団体にとっても重要な力になるとCACLは信じています。

 対応4:
 当初CACLの目標は控えめなものでした。協会はもしInter-American Bankの支援が必要な場合、カナダ支局長事務所の支援が役に立つということを知りました。それは単に、その制度の中でプロジェクトを進めていくためのアドバイスを受けたり、資金面の保障を得たりするだけでなく、障害の問題を他の政治的課題の中に盛り込んでもらうという上でも役立つということでした。しかしまた、政策方針のいくつかはまだオタワから届くということもCACLにはわかってきましたし、大きな変更をもたらすには外務省とCIDAを味方につけることが大切だとわかってきました。
 CACLは資金提供の優先順序に影響を与える政策がどこでどのようにして作られているか調べ始めました。ハリケーンミッチが起こった時、Inter-American Development Bankが中米のすべての政府と寄付提供者による会議の開催を呼びかけたことを知りました。そこでCACLは障害を持つ人々が再建努力の中で十分配慮されるように、その地域の市民団体が提出する要望の中に盛り込むことが保証されるように動きました。また、寄付を提供する政府、特にカナダとスウェーデン政府に対して、障害をもつ人々を優先してその投資の対象とするように働きかけました。
 CACLは、ラテンアメリカ諸国との貿易がカナダ政府にとって非常に重要になりつつあるとみて、カナダが市場に提供できる専門性を有しているという証拠としてInter-American Development Bankとの契約があると主張しました。これによってカナダは首相が率いる中南米派遣貿易代表団に参加するよう招かれ、代表団は政府にとって障害が大切な要素であるというメッセージを伝えました。CACLはそこでそのメッセージを使って、障害者を優先して取り上げるように国の省庁に働きかけたのでした。

 さまざまなメッセージをまとめるために、CACLは外務省から最低限の資金援助を受けて外務省向け報告書“Disability in Canadian Foreign Policy:A Human Rights Strategy”を作成しました。この報告書の中で、カナダの外交政策の優先課題である繁栄と雇用を推進すること、あるいは安定した世界の枠組みの中でカナダの地位を保つために貢献すること、そして人権擁護を推進することを、人権と障害の問題に関連づけました。報告ではまた、障害が援助や貿易、外交の分野で調和のとれたアプローチを進めるだけでなく、外交と国内政策との調和のとれたアプローチを提案しています。

■まとめ

 CACLが国際的な活動を通して闘ってきた中で、取り組み方の理論的説明が明確になってきました。具体的な目標がいくつか明らかになってきたのです。国際的な開発活動を通してCACLが目指すのは次のようなことです。

  • 他国の障害を持つ人々の家族と団結する。
  • 色々な地域が体験したことから学び、カナダに応用する。
  • カナダ国内で体験し学んだことを他の地域の人々と分かち合う。
  • カナダの国際開発基金が、障害をもつ人々とその家族の幸せのために使われることを保障する。
  • カナダが外交政策によって海外の障害をもつ人々の幸せと人権を守るために支援するように働きかける。
  • 指導力の基準を定めることにより国内の政策に影響を与える。

  政府や多国籍機関、あるいは市民社会、民間セクターも、少しずつわかってきたのは、限られたいくつかのグループだけが社会的、経済的に満たされていれば、結果として社会は不安定になります。反対に、社会的な統合や強力な市民社会は安定した平和の続く状況を生み出し、経済的にも繁栄がもたらされるといえます。平等と人権が社会的団結の必要条件なのです。
 世界銀行頭取Wolfensohn氏が世界銀行グループとIMFの最近の年次総会でCACLが国際的な場面で行ってきたことのいくつかについて触れました。すなわち社会的改革と構造的改革を関連させて考える必要性、政府と多国籍機関や市民社会の間の協力関係を築く必要性、そして貧しく、かろうじて必要条件を満たしているような人々を尊重し、尊厳性を守り、その声を政策決定に反映させる必要性、などです。注目すべきは、氏が最後に世界の中で最も弱い立場にあるのが障害を持つ人々であると述べたことでした。 世界銀行やInter-American Development Bank,そしてOrganization of American States(米州機構)が、障害を持つ人々が世界の中でふさわしい地位を与えられることが必要だと認めたということで、CACLは国際的協議事項を推し進める勇気を与えられました。最初はニーズのある国に対して狭い意味の慈善事業として行うことから始まった活動が、今世界中の全ての市民の人権や平等を尊重し、永久に続く平和と安定を築くための世界的な動きに貢献できるかもしれません。