特集/第7回 アジア・太平洋地域リハビリテーション会議 生起する身体障害者の役割り

特集/第7回 アジア・太平洋地域リハビリテーション会議

生起する身体障害者の役割り

The Emerging Roles for the Disabled Person

永井昌夫 *

 会長を始めリハビリテーションインターナショナルの皆様、この度は本席にお招きを戴き有り難うございました。本日、身体障害者の今日的役割りに関し、私見の幾つかを披瀝する機会を得たことは、身に余る光栄と存じます。

 私は、自分自身が頚髄損傷による四肢マヒをもっているということ、また、本来精神科医であり、障害後も身体障害者の心理社会的分野におりましたので、自らの体験を皮切りに、リハビリテーション心理学の立場から、障害者の役割りについて論じたいと思います。

 まず、自分自身のことをいいますと、私は1958年に米国で精神科医をしていたときに、交通事故に遭い首から下がマヒした者です。事故後大学病院で椎弓切除術を受け、次いで自分の勤めていた病院でリハビリテーション訓練をし、合併症のコントロールや呼吸機能の調整とともに、軍用機で回転ベッドごと日本に帰ってきたのです。当時は、米国でも頚髄損傷は重症な方でしたので、まだリハビリテーション科のない日本で社会復帰をするのは至難の業と考えられていました。ほとんどすべての頚髄損傷者は療養所から出られない実情でした。

 社会から離れる意図はすこしもありませんでしたので、すぐに病院を出て、自分で特殊の車イスや起立台をつくったり、自宅を改造したりして、社会の成員として止どまろうとしました。初めは、残っているところを使い、口に棒をくわえ、電動タイプで災害医学や心理に関する論文を英訳し、アムステルダムの医学文献センターに送り、次は、海外からの講師とともに日本で最初のOTやPTの教育に携わり、少しでも外との接触に努めました。その後も私の身体状況は実質的に不変で、当時も今も24時間付き添いつきであることに変わりはありません。もし、当時、身体的改善のみを考えて訓練を続けるだけでしたら、いまだに職についていたかどうかわかりません。

 そのうち、1964年の東京オリンピックに続き、パラリンピックが行われ、車イスの人が世間の目に触れるようになりました。欧米からの選手は障害をもった社会人でしたが、日本の選手は療養所からの患者がほとんどという時代でしたので、これは期を画す変化といえます。自分で社会に出ようとする努力も大切ですが、社会の理解が高まるということがなければ、社会復帰はおぼつきません。同時に、その間にある家族や介護者など周辺の協力が不可欠です。これら三者のバランスがリハビリテーションの元であることは、今でも変わりないと思っています。

 その後も介護者つきでリハセンターや大学で診療、教育、研究などを続け、今では、再び毎年諸外国に出かけられるようになっています。この間、リハビリテーション医学も進歩をし、世界的な規模で論ぜられるようになってきて、喜びに堪えません。しかし一方、このリハビリテーションが、もしかしたら、だんだん狭い意味にとられるようになってきたのではないかという懸念もあります。つまり、リハビリテーションというと、そうでない場合より一層しばしば、リハビリテーション医学が前面に出て、それが機能訓練と直結し、極端な場合には、身の周りや歩行の独立のみに解される惧れが残っています。現在、障害が重度化、重複化、多様化し、社会全体も老齢化、都市化、核家族化しているので、身体的自立だけを偏重すると、重度障害者や老齢者は“落ちこぼれ”になってしまいます。リハビリテーションの考え方が紹介された当時の心理社会的意義はどこへ行ったのでしょうか?

 施設をつくったり、機械器具や設備に腐心したり、医療関係者を養成したりする陰に、自助の精神や相互扶助の精神は二義的なものになってしまいました。社会の理解も、介護者つきの重度障害者を一人前の人間としてみる段階からは程遠いところです。私は、自分の体験からいうと、まだリハビリテーションは物理的な段階であって、移動も疎通も、いわんや社会復帰も雇用もショウウィンドーの段階から出ていないと思います。少なくとも、全人的にメインストリームに障害者が入っているとはいえません。本当に統合されるためには、患者としてではなく、障害者がどんなに重度の障害をも受容し、人間らしく生きることを立証すること、また、そのためには障害者を周辺が受容し、また社会が周辺を受容することが必要だと思います。換言すれば、障害者自身による自立の実証と、周辺への働きかけとともに社会を啓蒙することが、障害者に差し迫った役割りではないでしょうか?

 われわれはこれまで、障害者の役割りについて幾度となく話題に挙げてきましたが、余りにも多く、調査研究の対象であったり、治療やもろもろの援助を受ける対象としての役割りしかありませんでした。受動的な立場ばかりです。心理社会的見地からいうと、今や障害者の果たすべき役割りは、もっと積極的、建設的、そして行動的なものであるべきだと信じます。そこで本日は、本来あるべき姿のリハビリテーションについて考えてみたいと思います。

 リハビリテーションとは、人間としての権利を最大限に取り戻すことをいいます。これらの権利には、誇り、プライバシー、自主性、選択の自由、能力の開発、生き甲斐などがあります。言い換えれば人間本来の充実した生き方をすることです。誰でも人生に何の妨げもない人はいないので、リハビリテーションはすべての人の課題であるともいえましょう。逆にいえば、どんな人でも何らかの障害をもっていることになります。問題は、この克服すべき障害に対して対象を誤っている惧れがあることです。

 障害とは、私の解釈するところ二種類あり、自分の内部におけるギャップ、および外部とのギャップや不協和のことです。つまり、自分の夢や理想との間で悩む者、または周囲の他人や現実との間で問題のある者が障害者です。周囲の人が正常だといっても、本人が悩んでいる場合は障害者になり、また、本人が正常のつもりでも周囲の人が障害者扱いをすれば、障害者になってしまいます。前者は、主として心理的な原因による障害で、後者は人種、宗教、老齢、病弱、貧困、性別などによる社会的要因の強い障害者です。

 たとえば心理的には、鳥や魚のように飛んだり泳いだりできないことを悩んだあげく、いろいろな機械の開発で解決してきた歴史があります。社会的には、現在ある国のあるグループに適応している人が障害者ではないとみえても、その人を時代や場所、背景の異ったところへ移せばどうなるかを考えればすぐ判ります。つまり、今日ご出席の方でマレーシアの言葉を話せない方が、ここでは言語障害者になるのと同じことです。リハビリテーションは、このような心理的社会的適応を図ることが重要であるといえます。したがって障害者の役割りは、自分の心の中のギャップや周囲とのギャップをポジティーブな方向に少なくするということでなければなりません。

 ご存じのように、身体的な障害があると以上のような心理的あるいは社会的な障害を併せもつことになります。急性の疾患なら限られた時間だけ医療人に全面降伏し、言うとおりにして体を治療すれば、後二者のギャップも解消します。また、軽い怪我なら訓練によりかなりの程度体も改善し、後二者もほとんど問題となりません。

 しかし、現在のように障害が重度化、重複化、高齢化してくると、身体的改善の余地は知れたものです。今日のリハビリテーションは、むしろ後二者の適応をまず障害者側から図ること、そして及ばぬところは、社会が近づくことによって埋めることになります。

 それなのに往々にして、われわれは身体的改善だけに捉われている患者をよくみかけます。“身の周りができるようになってから”、“歩けるようになってから退院します”という旗印を掲げて空しい努力を続けています。本人の心理的社会的リハビリテーションの不備も問題ですが、身体障害をもったままの人でも人間として受け入れる用意のない家庭や社会の態勢もよくありません。体がよくなるまで無駄に待たず、体の方が限度一杯ならば、ケアつきの状態で家に帰させてもいいではありませんか? 訓練といえば、進歩の大きいところほど目立つせいもありましょうが、足、手、口、頭の順序でこれを行っているかのような病院の側にも問題はあります。やはり、リハビリテーションは、意欲や把握力、協調性の方が先で、ついで疎通性、日常生活、技能、移動という逆の順序になるといえばいい過ぎでしょうか?

 もちろん、身体的訓練の重要性を否定するわけではありません。それは精神的にもよい影響をもたらします。しかし、進歩の度合が少なくなっても同じことを重視し過ぎるのはよくありません。リハビリテーションはもはや、身体状況のよくなるまで待ってからすることではなく、障害を残したままでも、ただちにすることです。周辺もこのような受け入れ方、場合によっては介護によって残存機能をカバーする用意が必要です。

 リハビリテーションの先人の言葉も、どちらかというと、心理的社会的な面が早くから強調されてきたものといえます。すなわち、“最も自然で効果的な治療は仕事に就くことである(Galen)”、“リハビリテーションは生命に年齢を足すことではなく、年齢に生命を足すことである(H.A.Rusk)”、“失ったところを考えるな、残されたところを考えよ(L.Guttmann)”、“障害者は障害された人間ではなく、障害をもった人間である(B.A.Wright)”等々。だからといって、どんなに身体を能力でカバーしたとしても、外見や身体的機能で社会が判断するという事実があるのは認めます。ただ、今まで、とくに最近、技術や物理的手段の偏重が著明なので、この心理社会的な面を強調せざるを得ません。

 とくに私が問題であると思っていることは、障害者や社会の人がリハビリテーションという言葉を考える時は、その意味がいつも消極的なことです。リハビリテーションというと、望ましくない状態から抜け出し、以前の生活に戻ることだけと解釈しているようです。そしてその実、全く元どおりにはならないことも意識しているようです。リハビリテーションは再び生きるのではなく、新しく生きることではないでしょうか? 障害者も社会も、リハビリテーションというのが、一般社会人あるいはノーマルな人の手均の生き方をすることだと思っているようです。前にも述べましたが、誰でもが自分の能力を最大限に生かし、また周囲の人が伸びることにも貢献することでなければいけません。

 障害者という言葉についても同様で、障害者も社会の人も、一般の平均から何十パーセントも割り引きされた人生を歩む人ととる傾向にあります。リハビリテーションで、この差をつめるとはいうものの、決して追いつくことのない人たちととる惧れが多分にあります。これらは誤りだと思います。一体、どこに標準の生き方がありましょうや? そしてどこにそれが最良で唯一の生き方であるという証左がありましょうか? まず最初の誤りは、文化も人生もそれぞれの物差しや意義があって、画一性を押しつけてはならないということです。これまで先進国のリハビリテーション技術だけを輸入して、哲学や各国の背景を忘れたために所期の成果が得られなかった例に接したのも、この辺の事情によります。

 先ほどの体が元に戻る病気や外傷なら、周りの人の物差しに、全面的にしかし一時期に従うこともよいでしょう。しかし体が元どおりにならないのが障害者です。その身体障害とともに一生を暮らさなければならない障害者が、ただ障害をもっているという理由だけで生涯自分の物差しを諦めたり失ったりしてよいでしょうか? 別の言葉でいえば、リハビリテーションは、元のような生き方に戻ることでもなければ、人のまねをするために人の後を追うことでもありません。再び生きるのではなく、新しく生きるという所以です。たとえ前と同じパターンの生き方でも前よりよい生き方ができないとはいいきれませんし、新しい物差しで前よりもよい生き方をすることは可能です。もちろん、これは単なるわがままや自己主張をいっているのではありません。社会の尺度を忘れて社会と離れて障害者だけで暮らすことでもありません。

 私が言及したいことは、身体障害者であれ、健常者であれ、誰にでも環境の喪失はあるわけで、障害者は、たまたま身体障害が環境喪失の一つであったにすぎないということです。誰でも克服すべき障害が現われるたびごとに前の生活に戻ろうといつでも思うわけではありません。障害があって初めて出来ることも、世の中にはいくらでもあるのです。身体障害者の場合もトータルとして自分をみつめ、自分の物差し、周囲の物差し、そして社会の物差しとの間にバランスを図ることが大切です。

 障害がいつでも不都合なこと、損なこと、悪いこと、または全面的なマイナスとみるところに第2の誤りがあります。世の中に、全面的にマイナスというものはありません。一般的にいって、かりにどこかにマイナスがあれば、他にプラスがある筈です。時には、そのマイナス自体が、物差しや観点を換えればプラスであることもあります。独立ならば全面的によいともいいきれません。独立と依存でさえもバランスが必要であるということに留意すべきです。

 第3の誤りとしてリハビリテーションは、前よりもよい生活をすることという積極的な意味が行き渡っていないことです。生活の質的向上と最近いわれていますが、今よりよい障害者生活というだけでは、十分積極的とはいえません。私のいうのは障害以前よりも質のよい生活のことです。人によっては、逆境がむしろ成長の栄養となる場合もあります。先に挙げた発明のように、欠けていると思うところがあるために、それを補う努力が生まれてくるのです。健常者も何か障害があるために成長しているではありませんか? つまり障害とはオブスタクルでもバリアーでもなく、レッスンであると採らなくてはなりません。障害を乗り越えるリハビリテーションは成長過程であるといっても差し支えありません。これらは、その人の病前性格や潜在能力や背景に恵まれているかどうかに左右されます。障害者に迫られる役割りは、これらのことを健常者に立証し、健常者がリハビリテートするのを助けることでもあります。

 いろいろな障害者がリハビリテートするためには、心理的に障害を受容することと、社会的に適応することが必要であるといわれていますが、この受容と適応についても、今までは消極的な解釈がされていたと思います。受容という言葉から受ける感じは、致し方なく不本意ながら我慢する、時には諦めることという意味さえもっていたようです。自分から積極的に解釈するとか、意味を見出すのではなく、障害や周りの人や社会から強いられること、自分を殺して周りに合わせるという惧れがありました。

 しかし、本当の受容は敗北の容認ではなく、現実に直面する勇気と知恵である筈です。どこがマイナスでどこがプラスであるかを見極める力、どうすればマイナスをプラスに転じさせうるかを考える力でもあります。つまり、マイナスの覚悟をすることではなくプラスの期待をすることです。

 夢の中に住むことを止め、現実をはっきり把握することは、リハビリテーションの過程に現われるさまざまのリスクを乗り切るのに有利なことです。リハビリテーションの歴史はリスク管理の歴史でもありました。計算されたリスクをもって生きるためには、正確な自己評価が必要です。これが、動機づけの上でも有利になります。すなわち、あまり高過ぎない、またあまり低過ぎないゴールに対して、段階的な努力計画を立てることは、成功感を味わいながら進むことであり、やる気を起こさせます。この積極的な受容とそれに基づく動機づけが両方揃って初めて本当のリハビリテーションが可能です。動機づけが先でそのために積極的に受容しうる場合もあります。いずれにしても積極的態度が必要です。

 この受容の積極性はやはりその人の性格、背景などによって影響されるかも知れませんが、一旦身体障害者となった以上、積極的に生きることが障害者としての役割りでもあり、義務でもあると思います。健常者の後を追うというより健常者に見本を示すいい機会でもあります。健常者であれ障害者であれその人に合ったゴールがあるわけで、それに対し自分の最大限の力を出し切る努力をすることが重要です。そのような努力が互いに伝わることがリハビリテーションであって、一方通行的な関係ではありません。

 いつも教える側教わる側、与える側受ける側、指示する側従う側という関係は不適当です。身体障害者は、たまたま医学的見地においてのみ弱い立場にいるだけで、人間全体として劣っているわけではありません。むしろある面では健常者に教える面をもつことがあって不思議はありません。健常者も一体独立心そのものを受け渡すことなどできると思っているのでしょうか? 健常者自身がリハビリテートしようとした時にその気持ちが障害者に伝わるだけです。リハビリテーションとは、自らは意欲に基づき方法を開発することであり、他へは思いやりに基づき方法を伝えることであるともいえます。

 障害者が積極的に障害を受容するためには、周囲が障害者を受容することが必要で、そのためには社会がその周囲を受容することが大切です。したがって、リハビリテーションは障害者が自分ですることと同時に、周りに対する説得力をもつことも意味しているともいえます。

 適応についても同様です。人によっては低い段階にまでしかいかないかも知れませんが、四段階(S.G.DiMichael)あるうちの少しでも高い段階を期待しています。一番低い段階は退行といって、障害のために低い発達段階に戻ってしまい、甘えやわがままの出る段階です。その上の妥協では耐えているということであって、まだ十分積極的とはいえません。犠牲者としての段階であって障害をもった人というより、障害された人です。その上の現実的な折衷では健常者の間で頑張っている段階ですが、まだ劣等感から離れているとはいえません。本当は障害の統合という段階が望ましく、障害があって初めて達成できるという段階です。社会の人からみてもあの人が障害者になったお陰で周りにとってよかったという生き方をすることです。むしろ成長過程であるという生き方をしなければなりません。これは身障者についてのみでなく誰にもいえることです。健常者でも人生のすべての面に適応しているわけではないということを考えるべきです。よい社会人、よい隣人、よい家庭人、よい職業人のすべてを満たしている人はまれです。よい母親とよい妻とは別ですし、よい国民とよい人類も別でしょう 。少しでも社会を広げ、自分の特長で社会に貢献するということは誰にも課せられたことです。身障者は一層その機会が与えられているというだけです。

 何回もいいましたが、リハビリテーションはすべての人のものです。障害者だけのためにあると思うのは誤りです。しかも、身体障害をもっているという共通面だけで人間を分けることは妥当といえません。それに、どこまでを身体障害者というかにも疑義が残ります。まず身体的能力だけでいえば、一般社会の人もオリンピックに出る国際選手と比べたら、その差は一般社会人と身体障害者との差よりも大きいかもしれません。また、身体障害者というグループの中でも軽い方と最重度とを比べたら、その差は一般の平均と身障者との間よりもっと広がっていることでしょう。つまり、身体的見地だけからみても一般の人のかなりの数はそれほど身体障害グループから離れていないことになります。能力障害の見地からいえばその差はさらになくなってくると思います。

 そのうえ、現在では難病、薬害、公害、交通事故、労災、医療事故、貧弱な精神衛生、暴力、ストレス、戦争、栄養障害、非行など誰がいつ障害者になるかわからない惧れがそこここにあり、今日は健常者だといっても、明日は障害者になるかもわかりません。私は健常者を障害予備軍あるいは潜在障害者といっております。かりに自分がならなくても家族や同僚が障害者になれば、ThirdParty Handicappedとなる可能性は非常に高いのです。

 確実にいえることは、長生きすれば誰でも老齢者になり、ひいては老齢患者、老齢障害者となることです。それよりも昔を振り返って下さい。生まれたばかりのころは人間誰しも重度心身障害児ではなかったでしょうか?

 つまり障害者の役割りを論ずる時は、自分だけが障害をもっている者ではないということ、逆にいえば他の人と同じ人間なのだという、ただ、積極的に生きる機会を余分に与えられた者が障害者であると考えるべきです。

 

 本日、身体障害者の役割りについて述べる機会を戴いて以上のような心理社会的見地より卑見を述べました。結論としては、人間の心が身体障害によって一生浮かび上がれなくなってしまうものではないこと、そして身体障害者はそれを実証すべきであるということです。それも、致し方なく周りの後を追うことではなく、障害以前よりも成長した新しい生き方をして、一般の人が環境喪失を克服するためのサンプルを示さなければなりません。もちろん、自分の力だけでこれが出来るとはいいません。周りの協力が欠かせません。したがって、周りの人に少々の助けがあれば、前以上の質の生活ができることを納得させる努力も同時に要求されます。今度は、教えたり、助けたりする側の役割りです。この方がはるかに易しいことではありませんか?

 障害者は、いつかこのようにいえる日を心に期しているべきです。“もし私が障害をもっていなかったら、果たして、ここまでやってこられたであろうか?”と。

(第7回アジア・太平洋リハビリテーション会議総会パネル、1983年4月11日、クアラルンプール、原文は英語)

*国立身体障害者リハビリテーションセンター精神科医長・東海大学医学部リハビリテーション科助教授


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1983年7月(第43号)4頁~9頁

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