2.外国調査研究「海外の地域における情報支援サービスの成功事例」

基調講演「アメリカの高等教育における合理的配慮」

モンタナ大学障害学生サービス部部長、AHEAD(障害のある学生支援センター全米組織)次期会長

ジム・マークス

講演を行うジム・マークス氏の写真

私は、モンタナ大学における障害学生サービスの所長として20年、仕事をしてきました。いろいろなことを学んでまいりましたが、学生から学んだ1つの例をお話します。あるとき、若い男性に出会いました。その学生はモンタナの小さな町の出身でしたが車椅子を使っていました。私のオフィスの外の廊下で、自動ドアを見つめていました。障害者がそこを通ると通れるような装置があります。大きなボタンがあって、お皿くらいの大きさでしたが、ひじ、肩、頭、手などで押せば、ドアはそれだけで開くというものでした。デザインもいいものです。

その若い青年に、「何をしているの?」と聞くと、「私は出身の町で、懸命にアクセシビリティを達成するための努力をしてきたし、すべてが戦いだった。ところがモンタナ大学では先人がいて、自分が最初の障害学生ではなかった。」と言いました。彼はさらに、「もっといい世界をつくりたい。自分の後に続く人たちにもっといいアクセシビリティを提供したい」と言ったのです。まさにそれが、本シンポジウムの目的です。私たちは、よりよい世界を今、築こうとしています。

ここに来る前に少し日本について調査をしてきました。初来日ですが、幾つか発見がありました。日本とモンタナ州では、地理的にはほぼ同じ大きさです。ただ、中身は違っています。日本は1億2700万人の人口。モンタナの人口は、大体90万人くらいです。しかし、牛の数は負けないと思います。それから、もう1つの類似点として、私の家内が教えてくれましたが、「ジャパン・タイムス」に俳句が載っていたので引用します。「所得申告書を記入したけど、そこには希望も貯蓄もなかった」と。どこでも共通ですね。これが人生ですよね。

さて、私自身の障害に関する経験、そしてモンタナ大学における障害者サービスの歴史についてお話しします。渡辺美香さんが、サービスに関する詳細を後で発表する予定です。できれば、最後に、ぜひ皆さん質問してもらいたいと思います。皆さん、特に関心のおありのところがあれば、お聞きいただければと思います。また、私どものAHEAD(アヘッド)という組織についてもお話したいと思います。AHEADではどのような形で世界に誇れるアクセシビリティーをつくれるか考えていきたいと思っています。

私は生まれながら視覚障害をもっていたわけではありません。最初に目がおかしいと思ったのは18歳の時。夜になるとよく見えないという症状が出てきました。特に夜、運転をしているときです。ほかの人が見えるものが見えなくなってきたと。そこで、医者に見てもらうことにしました。目の疾患、網膜色素変性症でした。

私は9人兄弟の長男で、私の兄弟2人も同じ病気です。その他の兄弟姉妹は正常です。モンタナの牧場で育ちました。6代目です。私は25歳のとき、大学に在学中に視覚障害者として正式に登録されました。この視覚障害に慣れるというのは決して容易ではありませんでした。普通私たちは障害を悪いことととらえがちで、悲劇であると考えますね。けど、全盲に対する考え、あるいは障害に対する考えを徐々に私は変えていきました。認識の問題、思い込みの問題だとわかりましたから。つまり障害のある人たちが、世界において役割があるとすれば、障害のない人たちと対等に参加できる、対等であるという信念をもつことです。それにより、インテグレーション、インクルージョンあるいは参加や恩恵を平等に享受するという環境は必ず実現すると思っています。

障害受容について話をするとき、カナダ人の女流作家マーガレット・アトウッドの言葉を私はよく引用します。彼女は女性が被害者になるという4つの段階について話しています。かなり我々障害者と似たものがありますし、4つの段階、それを経て順応するということでした。まず最初は「恥」。他の人たちのように並の人間ではないと感じてしまう。障害者であれば、障害を隠す、認めたくない気持ちで、恥ずかしくなる。たまたま障害者となってしまったことで不適応がおこります。二つ目は操作です。障害を使って他の人を操作する、ほかの人たちに働きかける。例えば、悪いけどお昼を買ってきてとか、目は見えないけど、頭は働いているからと言って、人を操作します。

三つ目は怒りです。自分は自信を持ち始めたとしてもまわりが自分を排除し、社会から締め出されたように感じてしまうのです。怒りはプラスの効果もありますが、間違った形で表現されたり蓄積されてしまったらマイナスになってしまうので、うまくコントロールすることが大事です。最後が障害の再構築です。尊敬されるものになる、そしてそれがその人の個性になるということ。私の場合なら、白髪も増え、足のサイズも大きいですが、目が見えないことが私の全てではない。いいことでも悪いことでもない、とにかく自分なのだと。できるだけ自分の人生を満喫しようという再構築です。受容には時間がかかります。ただそこで重要なのは、自分たちの認識や思い込みに基づいていくらでも変わるということです。

さて、私共の障害者サービス部がつくられたのが1978年ごろだと思います。私はまだ大学生でした。アメリカでは法律が1973年に可決され、リハビリテーション法504条が生まれました。これは公的資金を受ける場合に、必ずや障害だけを理由に差別してはならないというものです。建物を改造し、連邦政府が資金を出すときにはアクセシビリティーを担保しなければならないという内容です。が、法律で設定された後、規制が導入されませんでした。なにもないまま、5年が過ぎ、障害者団体が抗議デモをしました。彼らは連邦政府の建物を乗っ取りました。サンフランシスコです。当時はジミー・カーター大統領でした。障害者は「お願いだから規制を書いてください」と要求しました。法律を実現可能なものにしてほしいと。つまりアメリカ全米で実施されるプログラムに規制を組み込むという訴えをおこし、そして聞き入れられたのです。障害者のためのサービス部が、全国各地の高等教育機関に設けられました。

その以前からあったものもあります。例えばカリフォルニア大学バークレーや南イリノイ大学にはありました。南イリノイ大学では復員軍人のためのリハビリテーションサービスを提供していました。このように大学、短大においては、法律ができる前にもありましたが、数は限られていました。1978年、一夜にして一般的なものとなったのです。

モンタナ大学では最初、このような障害者のためのサービスを提供したのは、障害学生のアドバイザーという肩書きで、女性がその仕事に最初につきました。彼女は同時に留学生アドバイザーという仕事もしていました。数年間その状態が続きました。1988年になり、私がはじめて大学に来たときですが、このオフィスは学生課内で独立した組織になっていました。ちゃんとした組織としてできていました。おもしろいことにその時にいたのがジョージ・カーシャーさんでした。ジョージさんは私の先輩で、彼が私を採用してくれたと言ってもよいと思います。ジョージの影響力が大きかったと思います。こうしてモンタナ大学障害サービス部のオフィスは1988年に誕生しました。

もう1つ、国の歴史をおさらいします。日本とのつながりがある部分です。レーガン大統領は小さい政府を唱えた大統領でしたが、中でもリハビリテーション法504条の解体をターゲットにしました。そのためにまずグループを結集させました。障害のある人たちも中にいまして、その1人がジャスティン・ダートという人でした。彼はタッパーウェアのオーナーでした。1960年代、70年代、日本でもタッパーウェアが売れましたね。美香がタッパーウェアはとても人気があると言ってました。その会社は日本の女性が働いている職場で、女性を起用した進歩的な会社でした。ちなみにジャスティンの奥さんは日本人です。そのジャスティンが保守的な集団で障害者のリーダーの一員として働きかけ、レーガン大統領は障害者関連法の見直しをすることになりました。見直しの中で、リハビリテーション法504条は非常によいものだと訴えました。障害だけを理由に差別することを禁止する考え方がいいと。これをもっと民間に適用したらどうかという話になりました。公共サービスだけでなく民間も障害を理由に差別してはいけないということです。そこからアメリカ障害法、ADA法が生まれたのです。

アメリカ政府が障害者の権利を否定しようしたことから始まったものでしたが、ジャスティン・ダートのリーダーシップにより、結局はADA法ができるという皮肉なものですね。私はこの話がけっこう好きです。で、1990年代に施行されることとなったのです。ちょうど私が働き始めたころの魔法のような話です。民間セクターにおいても、障害者の権利が守られる方向に動いていきました。そしてアメリカ国内において、1つの文化が確立しました。障害に対する新しい考え方の始まりでした。

初出勤日にドアをたたく人がいました。私は自分の部屋にいましたが、ドミトリーを変えたばかりで、コンピュータもありませんでした。ファイルの引出しがあるぐらいで、非常に暗くて、あまりいい部屋ではありませんでした。部屋とも言えないようなところで、なぜ私はこんなところで仕事することに決めたのかなと嘆いたぐらいです。ドアをノックする人がいて、若い男性が立っていました。背が高かったですが、怒っていました。「私は録音図書を使えると言われたのに、全く手に入らない。自分は学習障害があるので、録音図書がなければ学習を進めることができない。声を聞きながら、本を読めるはずだったのに。ほかの学生と同じように勉強できると約束されたのに、自分は教科書を片手にただ突っ立っているだけだ。」と言いました。私たちはとことん話し合いました。もちろんすぐに対応はできない、何をしたらいいかを考えるようになりました。結局2年ぐらいかかりました。例えば、RFB & Dの視覚障害者のための録音図書を使ってみました。ディスレクシアの人にも役立ちました。ボランティアを使い、技術も使いました。初期のスキャニングの技術を使ったりして、幾つかのツールを使ってこの学生が対等に学習できるように支援をしました。この学生は実際に何とか学習を進め、卒業できました。卒業後、連絡が取れなくなっていました。

10年くらいたってから、またドアをノックする人がいて、ドアを開けるとその人が立っていました。今回はスーツとネクタイ姿でした。成功を収めた人のようでした。今日はどうして大学に来たのか、卒業してしばらくたっているけど社会で仕事をしていたのかと聞くと、彼は「大学で就職説明会があったので来ました。」と言いました。毎年のようにこの大学ではそのような会議があり、学生のキャリアアップ支援をしています。では、仕事を探しにきたのか?と聞くと、「違います、私は大学のある部局にいて、雇用担当の仕事をしています。」と言いました。私は本当にうれかったです。私がやっていた仕事から、1人の人間が成功を収め、そして今のような立場に立つようになったのですから。私がやっていたことは支援ですが、その支援によって、その人は成功を収めることができたということ、これは本当にすばらしいと思いました。平等な機会を与えることで彼は成功したのです。しかも、印刷物に代わる代替教材を提供できたことで可能になったのです。

その後、いろいろなことが変わりました。最初にこの職場についたとき、私はハーフタイムで仕事をしており、たった一人の学生スタッフが部下でした。彼は1週間に3時間程度の実働でした。大学には8000人の学生の内120人が障害をもっていました。彼らのためにアドボカシーを推進する人が必要でしたが、この人数では全く十分ではありませんでした。環境を変えるため最初に私がやったのは、学生たちと話をすることでした。地元の学生新聞とも話をしました。アメリカで何か変化を起こそうとするには、マスコミに働きかけることがとても重要です。地元の学生メディアに働きかけをしました。モンタナ大学におけるアクセシビリティが足りないのは、よく言われることですがお金がないからではない。予算がないために話がつぶれることが多いですが、本当の問題はそうじゃないと私は考えました。プライオリティの問題です。何かに向けて進む場合、地域社会として、大学として、あるいは個人としてもそうですが、自分たちに一番重要であることに価値を見いだしていきます。この場合、アクセシビリティを確立することが重要であると、まず第一のプライオリティにすることが大事です。

そして新聞を読んだ学生が障害をもっているモンタナ大学の学生のためにアライアンスというアドボカシーグループをつくりました。学生組織としては、アソシエート・スチューデント・オブ・モンタナという組織があるんですが、いずれにしても大学において学生の活動が促進することをしています。「ADSUM」これは、「ここにいますよ」というラテン語の意味を持つ言葉だと後になって知りましたが。ADSUMでは、いろいろな活動をしました。単に裁判を起こすだけでなく、あるいは行政上の苦情処理だけでなく、一番最初にやったのはアメリカ教育省公民権局に対しての働きかけでした。

この局の人が大学にやって来て、障害者に対して差別が行われているかどうかを調べました。5人の学生がいて、3人が車椅子を使い、2人が聴覚障害を持っている学生でした。当局から調査に来た結果、大学においては、障害に対する差別が大きい、特にいろんなバリアがあり、参加ができないということが分かりました。この公民権局の調査の結果を受けて私たちは、大学側に障害をもっている学生のいろいろな機会を奪っていないか伝え、それに対してどうするかと問いただしました。大学側は確かにバリアがあることは問題だと認めました。そこで計画を練り、障害を持つ学生に対するサービスを改善するという計画を立てることになりました。障害サービス部のオフィスはフルタイムの仕事に変わり、仕事をする学生の数も増えました。

それだけではなく、ADSUMはフランシス・バーディナーという歳出委員会のメンバーを連れてきました。モンタナ議会議員を30年していた80歳代の老人でした。老人は障害を持つモンタナ大学の学生と話をしました。車いすの学生が、自分たちにはこのような障害があり、聴覚障害を持っている人もいると話しました。老人は一人の若者に聞きました。「ほかの学生の障害はわかったが、君はどこが悪いのか?」モンタナは特に農家が多いのですが、彼らは非常に繊細さに欠けていて、はっきりと自分が思っていることを言ってしまう傾向があります。その青年もはっきりと口にするタイプなのでヒヤヒヤしましたが、「自分には学習障害があり、他の学生と対等に物を読むためには録音図書が必要だ」というようなことを言いました。老人は、こう言いました。「私は8年生までしか教育を受けず、高校も出ていない。私も多分学習障害を持ってるのではないだろうか。なぜかと言うと、読むことがとても苦手だったから」と言いました。

その数ヶ月後、議会のセッションの中で、その老人が最終的に歳出委員会において予算の額を増やしてくれました。ロビイストの働きもあったようですが、モンタナ大学の予算が増やされることになり、私のオフィスの予算も増えました。さらに、私たちのオフィスは拡大しました。いろんな障害の専門家を雇うことができたのです。

障害サービス部のオフィスですが、その構造についてお話しします。当時私は1つのモデルを参考にしました。全国で使われていたモデルです。高等教育において特定の障害分野の専門家を雇うということです。例えば学習障害についての専門家、視聴覚障害の専門家を雇うのです。障害サービス部ではその両方を合わせました。それはそれでうまくいき、障害をもっている学生たちに対するサービスが改善し、アクセシビリティも改善され、たくさんの人がやってくるようになりました。バリアを少なくすると、たくさんの人たちが参加できるようになるわけです。これは、ニワトリとタマゴの問題ではありません。バリアがある場合に障害を持っている人たちは平等、対等のアクセスができない。しかしバリアがなくなると、アクセスすることができ、そしてたくさんの人がやってくるようになります。私たちの仕事はそれとともにどんどん増えていきました。25人から30人の学習障害の学生がいるという状況から、それが300~400人になっていきました。すると、1人では対応できなくなりました。

そこで私のオフィスでは、ずっと以前からやっていたことですが、サービスというのは障害の病理をもとに対応するべきではないと考えるようになりました。そこで、モデルを変えました。専門家というよりはむしろあらゆる障害のタイプに対応できる人を雇うことになりました。コーディネーターと呼びますが、特定の人をコーディネーターの下につけます。例えばある人が教育学部あるいはビジネス学部の対応をするようにします。1人のコーディネーターが学習障害、あるいは精神障害、視聴覚障害を持っている人、いろんな障害を持つ学生に対応するということになりました。共通点は、専攻科目だけです。新しいモデルにおいては、まず私たちは学生に専攻は何か、これから何を勉強するのかと尋ねます。以前とは大違いです。かつては障害の種類を聞きました。私たちはアクセシブルな学習環境を病理学的な形ではなく、何が重要であるかよく見えるようにしました。このアプローチは、私たちがサービスを提供するに当たり、他の大学とは随分違っていることです。ほかの大学は私たちほど成功していないでしょうし、この方法は非常にうまくいっていると自負しています。

さて、我々が支援をしている学生ですが、今現在の状況を話します。私がディレクター、所長です。学生担当の副所長もいます。その上には学長がいます。ですので、非常にいい配置状態です。1人を間に挟んで学長が上にいるという非常にめぐまれた立場にあると思います。オフィスには、4人のコーディネーターがいます。美香はそのうちの1人です。あと3人います。いずれも障害学生をそれぞれ、専攻科目に応じてコーディネートしています。もう1つ、受付の人と、オフィスマネージャーと呼ばれる人もいます。また、5人の手話通訳がいます。書籍を電子教科書に変換する担当もいます。まだDAISYまではいっていませんが、我々としては、できるだけそうしたいです。今現在は、大体毎年250の図書を変換しています。DAISYブックも近く導入していきたいと思います。今現在マイクロソフトWordかRTF図書に限定されています。20~30人の学生、80人ぐらいのボランティアがおりますし、また、クラスではノートテーカーもいます。今現在障害学生の1000人にサービスを提供しています。現在、全校生徒数は1万4000人です。中規模な大学と言われていますが、かなり大きな大学ですし、技術系もあります。例えば重機の操作も指導していますし、博士課程もあります。生物学など、様々な学科が用意されています。1000人の学生が障害を持っていると言われています。数は多いと思います。全体の7%以上が障害学生です。通常の比率よりも大学全米で見ても、かなり高いと思います。通常、障害学生の比率は3%でしょうか。7%とは異例に高い数字です。

モンタナ大学がなぜこんなに高いかというと、ミズーラでは障害のあることは一切問題ではない、障害があることは、その人を人間として見た場合、関係ありません。私達オフィスの予算は75万米ドル相当します。これだけサポートをしていますので、高等教育機関ではもっとお金が欲しいところですが。例えば3人学生がいると1人分のスタッフの給料が出ると言われていますが、私達は障害学生を対象とし、大学のためにも仕事をしているので、支援のための支出も多いのですが、その見返りも大きいと思っています。よって、投資としてはすばらしいと考えています。もう少し高等教育と障害について話をしますが、一旦ここで止めて、モンタナ大学におけるサービスについての質問があればお受けします。

会場1/ 助成金団体でアジア途上国の障害者支援担当です。我々の事業としてアジアの途上国で障害者の学生支援室も展開していますが、まだまだ小さい規模で、これからの発展を期待しています。これまでの経験から、特に大学の職員、学長やスタッフも含めて、障害学生を受け入れる意味での意識の改革、啓発活動といったところが今後非常に大きな課題になると思っています。まだまだ学生数が少ない中、やはりチャリティーというか、入りたいという学生がいるから仕方なくく支援しているという現状から、大学に障害学生を受け入れることは有意義であると意識改革するまでの過程、モンタナの大学の場合、経験の中でどのように雰囲気が変わっていったのか、もしくは変えていくことができたのか、教えていただけると大変助かります。

ジム/ よくお聞き下さったと思います。まず私が最初に申し上げたいことは、仕事はこれで終わりということではありません。常に私たちは大学キャンパスのいろいろな人に対して、対等のアクセス、障害のある人にも平等な機会を与えることが大事だと分かってもらうことの運動は続けなくてはなりません。アメリカ全国で議論されていることですが、ディスアビリティーサービスプログラムにおいては、昨年行われた「高等教育と障害について」の会議で2つの問題を議論しました。社会福祉モデルと社会正義モデルです。社会福祉モデルは障害を持っている人にサービスを提供するのはもちろん悪いことではありませんが、障害を持つ人は、それ以上にファーストクラスの市民として社会に貢献したいと思っているのです。そこで今は、社会正義モデルに移行するということです。平等なアクセス、権利について主張する。正義と平等の概念をもとに運動を進めたいと考えています。

私達はしばし、いろいろな人を説得しなければいけない場面に直面します。つい最近、モンタナ大学において、近代、古典、文学、言語という部門があるのですが、日本語科もその中にあります。障害を持った若い日本人女性ですが、車いすは使っていませんが、歩行器を使っていました。小児まひで、四肢を動かすのが難しい人でした。授業で、日本の漢字、文字を手で書かなくてはならなくなりましたが、障害があるので、英語も書けません。そこで彼女がテクノロジーを使ってもいいかどうか、つまり、これは学習の基本的な基準をこわすものになるかという議論になりました。その意味ではいろいろなことが常に起こっています。私達が実現させたい変化を得るには、とにかく継続的に努力することだと思います。私たちの成功について説明する、こんなインクルージョンをするとこんな良いことがありますよと説明する。教育を通して、あるいは合理的な説明を通して世の中の人に私たちのことをわかってもらう、平等のアクセスがあることで社会全体をよくできると、説明していく努力は常に必要だと思います。

海外調査の交流会食の写真

会場2/ ご自身のことをサービスをコーディネートするブローカーとして見ておられるのか、それとも障害学生に対して直接サービスを提供していると思いますか?この法律では様々なサービスが想定されています。一人一人にサービスが提供され、その人が学内だけではなく、外でも活用できるといいます。アメリカではDSSを直接的なサービスを提供する機関として頼るという傾向もありますが、一方でDSSはコーディネーターという見方もあります。こういうサービスの管理、提供する側は直接提供すべきなのか、外部を使ってそのコーディネーターをすべきなのか、どういうご意見でしょうか。

ジム/ 障害のある人にとって、2つの選択肢があると思います。1つは、自らの考え方、障害のとらえ方、自分たちのスキルをかえ、ツールを使って参加するという、自らを変える方法です。もう1つは環境を変えるアプローチです。つまりバリアを取り除き、アクセシビリティを向上させる働きかけをします。多くは両方だと思います。片方では自己責任でしょうし、それによりこの世の中で生きていこうとしますが、同時に外に対しては対等なアクセスを求める働きかけもします。

DSSはアクセシブルな環境を担当しています。私たちのようなDSSが直面する問題の1つは、ありとあらゆる障害の問題、環境の変化を求めるもの全部を自分たちがやろうとするものです。それは間違っています。障害のある人自らが解決策を見いださなければいけないケースもあるわけです。リハビリテーションとDSSの間のパートナーシップが必要です。優れたリハビリテーションを行うことによって、人々は、例えば自分たちはどういった機能があるのか、どうすればノートを取れるか、どうやって技術が使えるのか、また、どうやれば移動できるか、どうやってリソースへのアクセスができるかが分かるわけです。

モンタナ大学の学生、その他、高等教育機関において、こういった学生はそういう意識のもとでやろうと、一方で環境においては差別はない、バリアがないという前提で来校します。したがって、自分たちのアクセスを阻むようなバリアはない、そういった意識のもとに大学に来ます。両方が組み合わさっています。リハビリテーションの対等のアクセスによって最もいい成果がうまれると思います。時として、私たちはあまりにもアクセシビリティだけを考えてしまう傾向があります。が、例えば私が最もアクセシビリティの高い環境にいたとしても、視覚障害は消えません。目が見えない中でどうやってやるべきかを考えなければなりません。障害者すべて共通していることだと思います。ですので、一番成功し、またファーストクラスの市民となるためには、環境バリアを除くと同時に自らも変わるという両輪が必要です。

私たちのオフィスでは、「自己決定」が重要です。、障害者自ら、サービスをどう選ぶかを自分で決めるわけです。我々がすべてを決めることではないですから。私たちはあくまでファシリテーターです。いろいろな要素を組み合わせ、アクセシビリティを実現・提供するという役割です。DSSは人々が勉強に必要なツールを提供する立場にありますが、あくまでも自分たちはファシリテーターです。障害者自らがコントロールできる形でこのようなサービスを提供するよう、努力しています。

私の友人でミシガン大学に勤めている人がおり、その人がDSSの責任者ですが、そこで、2人の障害学生がいたという話がありました。2人とも非常に賢い能力のある学生でした。うち1人は、DSSを非常に重用視していました。いつもサービスを求めにくる。大学の障害者プログラムをうまく活用していました。もう1人はほとんどサービスを使っていませんでした。私の友人は、2人の卒業後を追跡しました。ほとんどDSSサービスを使わなかった学生はキャリアを築き、どんどん出世した。そして、非常に能力ある社会人として活躍していた。もう1人の学生は成績がとてもよく、頭も良かったのですが、サービスを何かと利用していた。結局仕事が見つからず、なかなか安定しないという問題がありました。高等教育は全体を考えるべきでしょう。依存性が高い人を育てるべきではなく、解放すべきです。そのためには私たちは障害とは何かを理解すべきでしょう。広い文脈で捉え、本人が自己管理できるように、DSSがコントロールしてはならないと思っています。

会場3/ 支援のモデルについて2点、簡潔にお伺いします。障害の病理的なところを重要視せず、環境面に目を向けるように変革したということでした。その変革の背景として、今、障害学生が増加したと言われましたが、他に何かあったのか、というのが1点。もう1点は、モデルを変えるに当たって、おそらく大学内でさまざまな議論があったかと思います。これで本当にうまくいくのかと。どういう議論があったかについて、少し補足をいただければ幸いです。

ジム/ 変化を見るためには、社会福祉モデルから社会正義モデルに変化させたということですが、やはり障害に対する考え方の変化が必要ですね。啓蒙すると同時に心を開くことも必要です。難しい変革ではありますが、多くの人が障害をもっている人にサービスの在り方をゆだねているともいえます。それは悪いことではありません。障害をもっている人たちは、この世界の他の人たちと相互依存関係にあるわけです。私たち全員がそうだと思います。例えば食事をするとき、いろいろな人の手が私たちを助けてくれます。食事を私たちがするには、農家の人がものを作り、それを運ぶ人がいて、そしてパッケージをする人がいて、それを料理する人がいる。私たちは全部をやっているわけではなく、私たちはお互いに依存しているわけです。

障害をもっている人たちは、社会福祉モデルの中では「障害をもっている」ということがどういうことなのかを認識しなければならなかった。これは障害をもっている人にとっては非常に難しいことでした。一方、社会正義モデルでは、障害があろうとなかろうと自分で物事を決定したい、自決の権利を持ちたい、選択を持ちたい。社会正義モデルでは、それでいいんですよと。成功したいなら、自分自身一定のことをしなければならない、やってごらんなさい、成功するかもしれないし、しないかもしれない。でも一緒にやりましょう、と。成功にしろ失敗にしろ、否定されません。バリアがあるから制約されるとか、あるいは否定されるということがないように、障害のために、環境のために、あるいはサービスが足りないために、それがバリアになるということがないようにしましょうということで、共同作業するわけです。

社会正義モデルというのは、私たちの心に非常に深く響くものであったと思います。これは普遍的な真理ではないかと思います。福祉モデルから社会正義モデルに移るのは簡単ではなかったですが、大事なことだったと思います。

会場4/ 貴重なお話、ありがとうございました。日本でインクルージョンが進まない大きな理由の1つに、学校の先生がどう対応したらいいかわからないという点があります。学生さんを支援するお話がありましたが、学生さんを教える先生方を支援するということもやっていらっしゃるんでしょうか?

ジム/ 私たちは教職員も、サポートしています。大変面白いですが、私たちDSSの役割は例えば障害者のアドボカシーをするということではなく、正義のアクセスのためのアドボカシーです。ですから、すべての人がこの中には含まれます。障害学生だけでなく、教職員も、大学のある地域コミュニティもそうです。教職員は例えば高い期待、学問上の自由、介入せず自由にさせてもいいという発想を持ってもいいんだと思います。ですから、教職員は自分たちの権利を主張しますが、障害学生と全く同じで、その点は認めるはずです。ギブアンドテイクがあると思います。

私たち、教職員に対して3つのことを言っています。1つめ、障害学生を受け入れなくてはいけない。二つ目、障害学生のクラスへの参加方法を変えることを受け入れるべき。これは法律上規定されており、正義上必要です。三つ目、すべては交渉によって決まる。何かを改造、修正する場合、それはあくまでも、いわゆる指導する基準にのっとってできる範囲でやるということ。例えば障害学生がやるべきことがやれるように変換するということ。そしてDSSは彼らが活用できるツールのようなものであると。

モンタナ大学では例えば学生の数が、1クラス500人にのぼる場合もあります。500人もいるクラスでは、15人ぐらいが障害学生ということがよくあります。それぞれに修正・改造が必要で、非常に大変なことですが、先生自身は時間がないのでできません。テストを受けるとき、時間を延長するとか、特別な技術を導入してテストを受けられるようにすることを先生自身ができません。そういうときはDSSがやります。大学の使命としてはDSSは教育インフラの一部ですので、私たちは単に障害だけではなく正義を中心に考えていきますから。

司会/ ありがとうございました。

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