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平成17年度厚生労働科学研究障害保健福祉総合研究成果発表会報告書

発表会:障害者のエンパワメントの視点と生活モデルに基づく具体的な地域生活支援技術に関して

★ 第二部「知的障害者のエンパワメント過程」

(司会)
では、第二部の方を開始したいと思います。第二部は第一部の内容を受けまして、具体的な事例をもとに話を展開したいと思っております。

まず講師の紹介ですが、第一部で講演をしました谷口明広がコーディネーターを務めまして、シンポジストで、国立伊東重度障害者センター指導課長の小田島明さん、華頂短期大学社会福祉学科専任講師の武田康晴さん、京都市北部障害者地域生活支援センター「きらリンク」センター長をしております土屋健弘さんです。

ここからは進行をコーディネーターの谷口明広に任せたいと思います。では谷口先生、宜しくお願いします。

(谷口明広氏)
これからシンポジウムを開催します。このシンポジウムは、先ほど発表しましたエンパワメント研究において、事例が20ケースあるというお話を致しました。

その中で非常に特徴的なエンパワメント事例を、小田島さんからは、知的障害者のエンパワメント、そして武田さんからは身体障害者のエンパワメント、そして土屋さんの方から障害をもつ人たちの地域生活支援に関してエンパワメントの視点からお話をして頂くことになります。武田さん以外はパワーポイントを使われますので、パワーポイントを見ながらご覧いただきたいと思います。

トップバッターは小田島さんです。小田島さんは、元厚生労働省の障害者福祉専門官として5年間ご活躍されました。そして、今も重度障害者、特に頸髄損傷の人たちが受傷後に訓練を受ける場所である「国立伊東重度障害センター」の指導課長でございます。

それでは、小田島さんから知的障害者のエンパワメントに関してお話を伺います。1人20分ということになっております。よろしくお願いいたします。どうぞ。

(小田島明氏)
ありがとうございます。小田島です。私が分担させて頂いたのは、今、知的障害者のエンパワメント事例ということでご紹介ありましたけれども、実は今回の調査で20ケースほど調査した中には、他にも知的障害者の方たちについての聞き取りを試みております。ところが、これは今回の研究手法にもよると思うのですが、それぞれの方にそれぞれの口で自分の人生を語っていただくというのは、かなり表現力、あるいはこちらの聞き取り能力の問題もありますけれども、非常に難しい聞き取りであり、知的障害者の方にとっては難しかったのかなと思っております。

そういう意味で、今回あげている佐多家さんという方のみが、この厚生労働科学研究の報告書でも取り上げた唯一の知的障害の方なのです。この方は比較的軽度の知的障害の方でして、そういう意味ではこちらの受け答えにも非常に反応良く答えて頂けた方でありました。そのため、この方の事例をもって知的障害者のエンパワメントはこうであるということは、まず言えないだろうと思っております。あくまでもこの事例につきましては、知的障害をもった佐多家さんという方がどういう人生を歩んでこられたのか、その中に、エンパワメントあるいはパワレスの状況というものが、どのように織り交ざって人生を歩んできたのか、ということでまずお聞き頂ければと思います。そして、この方はすでに聞き取りの時点で還暦を迎えている方ですから、子供の頃からの記憶は非常に曖昧になってしまう。そういう意味では、どういうエピソードがあって、そのエピソードでパワレスなったのか、エンパワーしたのかということを探ろうとしているのですが、客観的にずっとこの方の人生を見ていた方というのはいるわけではありませんので、 ご本人が主観的に覚えていた事実の羅列ということにどうしてもならざるを得ないと思います。

しかし、我々、この方を取り上げた中では、やはり本人が非常に記憶に鮮明に残っていること、やはりそれはひとつのポイントなのだろうと思います。ということは、今60歳になっても子供の頃に「こういうエピソードがあったんだよ」と語られるということは、エンパワメントあるいはパワレスのいずれかの意味があることだろうと思い、今回取り上げた事例です。

それで、下の方に「佐多家さんエピソード整理図」が出ておりますが、この図の矢印が上下に向いています。それから点線が横線で二本あってその間に横線で入っているところがあると思いますが、これらは全て聞き取りに出てきた一つ一つのエピソードですね。これを聞いていって、これを羅列してみると、この人がどのような人生を歩んできたのかというのが見えてくることになるのです。

それで、28ページをご覧ください。28ページ~31ページの上まで、その聞き取ったエピソードの内容が記されております。この一つ一つの内容がこの図の矢印になっていると思って頂ければと思います。

佐多家さんエピソード整理図

佐多家さんが歩んだ人生を整理した図です。佐多家さんが生まれてから聞き取りまでの60歳までの間、1944年から昨年2004年までの間を調べています。そしてまず、上の矢印になる部分、エンパワーというように表現させて頂いております。

下の矢印は、エピソードとしてこれはパワレスだろうな、というものを表しています。この点線と点線の間には、両者に関係するというか、エピソードとしてはあるが、どちらともいえないものというもの表しているという構成になります。

それで、パワレスについてはこの方の場合、60年間の間に大きく分けて三つパワレスの時期があって、そしてエンパワーした時期というのも、この方の場合大きく分けて三つあったというように思っております。

まず、生まれて最初の時期です。ここは幼少時から農家に住み込みの頃までとなっております。この方は知的障害で、幼少期から障害をもっている方で、ちょうど戦後、昭和20年代から始まる時期として、世相的にも非常に混乱していた時期で、国民もご飯が食べられるかどうかというような時期であった。このような時期に、知的障害をもっていることが、社会的にかなり理解されない状況だったと思います。この点は、28ページから29ページの上、32歳の前までのそれぞれの矢印についてエピソードが語られています。

例えば、小学校は普通校に行かれますが、そこでは多動であったり、あるいは他の子と比べて問題やいたずらを起こすということで、この子は何だという目で見られていた。当然、それが学校でも「ちょっとおかしい子だよ」というように見られ、妹さんの口を介してご両親の耳に入って、両親から怒られるというような時期であった。

そして、一つのエピソードですが、職員室からお金が無くなった事件で、すぐ疑われたのが佐多家さんであった。後に真犯人は分かるのだが、常にこの子は問題児だというふうに扱われた幼少時を過ごし、そして、中学校に入る段階で、本人の意思とは関わりなく、児童養護施設に預けられてしまった。そこから地域とは離れてしまうという結果ですね。

しかし、両親にしてみても、そういった問題を抱えたお子様を、昭和20年代にどうやって面倒を見ていったらいいか分からなかった。やはり両親も孤立していたと思います。当然、福祉事務所の考え方としては、そういう子たちは施設に預けた方が良いという考えにならざるを得ない時期だった思います。

そして、その養護施設も児童施設ですから、18歳で出なければならなくなりますが、そのときに知的障害の方が地域に戻るという思いよりも、この人にとってどういう生き方が良いのかというようなのは、当時はあまり選択肢になかった。たまたまその施設が、児童養護施設であり、戦災孤児の方を多く入所させていた。当時、この養護施設と東京にあるM市の農家の方たちと関係がありまして、施設退所後、行き場のないお子さんたちが農家で働くという手段がありました。

たまたま佐多家さんも、能力的に低くなかったので、戦災孤児の方と一緒に農家で働くようになります。ところが、雇用関係というようなことが成立する状況ではないので、ある意味では農家の下働きをさせられます。知的な能力では、健常の人に比べて差があるので、その農家のご主人よりも、お子さんたちとのトラブルがかなりあった。例えば、お風呂は、その農家の方たち全員が入った後、夜中に入る。しかし、農作業ですから朝4時頃に起きて仕事をしなければいけない。そういうことの繰り返しであった。

実は、そういう生活が嫌で、2、3度実家の方に逃げ帰っているのですが、帰ってこられても、両親としては、佐多家さんを家で面倒をみていく方法が分からない。結局、親御さんが頭を下げて、農家へと連れ戻すことが32歳までに繰り返されるわけですね。そういった時期が、この幼少時から農家住み込みの時期(第1期)ということになります。

次に、プラスの矢印が出てきますね。エンパワーの方の矢印が出てくる。これはどういう時期かというと、実は32歳になる時に、農作業で怪我等は絶えなかったが、怪我をおしながら仕事をしていたから、なかなか治らなかった。そういうこともあって、本人が実家に逃げ帰り、ご両親もその怪我の状態を見て、それから何度も逃げ帰っている状況と合わせて、もう農家に預けてはいられないという判断をしまして、実家に引き取るわけです。

そういう意味では、先程谷口さんの説明にあった、親御さんがそういう決断をして、親御さんが一緒に暮らすことを選択したという点では、環境的な要因が変わった。つまり、エンパワー類型で言いますと、「環境型」になり、II型中心の援助になる。この時期は小規模作業所などがどんどん各地域にできてきて、ちょうど佐多家さんが帰られた時に同じ地域の中に小規模作業所が立ち上がりまして、その活動にお母さんと一緒に参加するんですね。そして小規模作業所から、今度は一旦清掃作業の仕事に就きました。これは地域の公的機関の清掃を行っている少し特殊な団体ですが、そこに就職できました。そういう意味では、就労も手に入れることができた時期です。また、佐多家さんは非常に盆踊りが好きな方で、夏になるといろんな地域の盆踊りに自分から行って楽しんでいた時期でもありました。

この時期は本人にとって、地域の中で暮らすということを実現できた時期、そして、そのエンパワーのパターンでいうとII型、要するに親御さんが引き取って家で暮らしたという、親御さんがという環境要因でのII型の時期であったと思います。

次の時期は29ページの真中に、46歳というところがあります。ここで、環境の変化が起きるわけです。どのような変化かというと、お母様が突然亡くなられる。お父様も以前からパーキンソン病を患っており、お母様がご本人とお父様の面倒をみていた訳ですが、そのキーであったお母様が亡くなられるのですね。これは非常に環境の変化をもたらすわけです。

先程、パワレスになる状態に関して、谷口さんの話がありました。ここでキーパーソンが一番下の弟さんに変わるわけです。親戚や他の兄弟も、その弟さんの言うことを聞きなさいというふうにならざるを得ない。

この時期は1990年代で、身障の世界では、自立生活運動が進んできて、一人暮らしをされている身障者の方は珍しくない時代になっていた。しかし、知的障害の方の場合は、まだまだ、「じゃあ親御さんが死んだから、地域の中で支援しながら、一人で生活するようにしましょう」というような支援もない時代だったと思います。

それで、弟さんと福祉が相談して、最初は東京都の単独事業であり、簡単に言うとグループホームのような所に入られるわけです。しかし、2年間しか利用期間が設定されておりませんでしたので、2年間の間に次の行き場所を探さなければならなかった。そういう事態になって、福祉や弟さんに迫られたのだが、本人が「都内の施設ならば行く」という納得の上で、都内の施設、知的の入所更生施設に入所されるわけです。

ところが、やはり施設の管理下で、ご本人の自由がかなり制限される。自由が制限されると、佐多家さんは自己主張の強い方でもありますから、職員とトラブルを起こす。ある時は、職員を殴って怪我をさせるということも起こるわけです。職員の側としては、この方は軽度の方だが、感情爆発を起こしやすい方であり、外で暮らすのは無理でしょうとなってしまいます。

ですから、本人にとっては自分の行きたい、自分がどうしたいというのを決められないし、希望する未来というのを誰も与えてくれない状態になってしまう。もし、身障の方で佐多家さんほど自我の強い方でしたら、自分なりに何とかしようという気持ちになりますが、知的障害の方は自分の考えをまとめて、自分なりにプランを立てるというのが苦手なのかなと思います。本人は、その状況から脱出する方略を考えることができなかったのです。

その施設が大きい施設でしたから、その施設の中に自立寮、自活寮という地域に出ることを目指した寮がありまして、そちらの寮に変わった時に、在宅で暮らすということを支援し始めていた職員と出会うわけですね。この出会いがきっかけとなって、地域にある自立訓練プログラムを受け、一人暮らしを始めるように展開していくわけです。

しかし、一人暮らしを始めようとしたときに、キーパーソンである弟さんに反対をされるわけですね。なぜ弟さんが反対したかというと、「自立プログラムに行っている」ことも弟さんは知らされていませんでしたし、施設の職員から言われるのは「喧嘩っ早いし、軽度だが地域で暮らすのは難しい」と言葉で、いきなり施設の職員から外へ出すと言われてしまって、弟さんもどう判断していいか分からなかったのです。そこで、かなり反対をされることになります。

そして、それに対して、当時から台頭してきた知的障害団体の支援者が、地域で暮らすという本人の意思を基に、支援する意思を主張し、弟さんをかなり説得しました。その説得を受けて弟さんも納得し、一人暮らしがいよいよ始まります。

つまり、この時期は、地域で生活しようとする障害者を応援する理解ある施設の職員に出会ったし、地域の支援者とも出会った。そして、本人がそこで自分をさらけ出し、互いが歩み寄ったという意味で、III型のエンパワメントの姿が出てきたと思います。

実際に、一人暮らしを始めたのが、「一人暮らし前期」というところになるとご理解下さい。

ところが、またマイナスの矢印、要するにパワレスが出てきます。これは、知的障害者の方が一人で暮らすということに関して、軋轢が出てきますね。最初に入ったアパートの住人から、何か知らないが、一般の人よりもちょっと雰囲気の違う人が来て、そこには若い男女がいつも出入りしている。また、隣に高校生くらいの女の子が親御さんと住んでいたのですが、気軽に高校生の女の子に声をかけてしまい、警戒されてしまう。

そこで、トラブルを起こしてしまい、大家さんとも喧嘩してしまいます。そして、パトカーも呼ばれたようで、結局、そのアパートに居られなくなりました。その時に、佐多家さんを支援していたグループは、あまり甘く優しくは受け止めなかったのです。「あなたが我慢できずに喧嘩したのだから、あなたが自分で家を探しなさい」と突きつけてくるんですね。つまり自己責任ということをはっきり、佐多家さんに示したのですね。佐多家さんは実は自分で家を探す活動を始めるようになったのです。不動産屋さん回りをして自分で家を探せたのです。

そこからアパートを変わって、「一人暮らし後期」が始まります。ここを見ていくとI型中心になっていますね。まずは、自分でアパートを探した。そして探せた。新しいアパートでは、隣人とのトラブルはなかった。たまたま無くて済んだ。そういう中で、自立生活運動にも本人は深く関わっている。そして、自分は中学も出ていないので、夜間中学に行きたいと言い出す。そこで、支援グループの方たちが教育委員会にかけあって、夜間中学に入学する。結果として、夜間中学は2年で中退してしまいますが、自分なりの取り組みをするということに意味があるわけです。また、自分の余暇活動として、実はつらい時期であった幼少期、あるいはこのパワレス第1期のときに培った農業のノウハウというものを持っていますから、それを趣味として近くに畑を借りて野菜作りを始める。その畑の肥料をどうするかというと、近所にまだちょっと豚とか牛を飼っているところがあるようで、そこを回って肥料をもらってくる。そういう中で、だんだん地域の中に溶け込んでいくわけですよね。

また、障害者運動に参加して、知的障害者としての主張を自分なりに出すようになってくる。そして、国際会議なんかにも出席されるようになる。どんどん、ストレングスが高まって行きますよね。

それで、最終的には、今、名前を言えばすぐ分かるような団体ですが、知的障害者の団体のリーダーとして活躍するというようなところに至っているのです。

つまり、エンパワメントを高めるプロセスというのは、どうしても自分なりに方略を考えて、自分なりの生活を作っていくということになると思います。たとえ軽度といっても知的障害の方の場合、そこが弱いと思っています。

ですから、最初の父母とともに暮らしたII型中心、環境要因、これはその親御さんさえいれば何とかなる。つまり、逆に言うと、親亡き後を心配しながら、地域で暮らしているということになるのですね。しかし、自分なりに生きていく力は、まだついていない。だから、このII型が最初にあっても、母親の死亡ということを契機に環境が変わってしまうと、音をたてて崩れてしまうということになったと思うのです。

我々がこの事例で考えさせられたのは、知的障害者の方だからといって、決してストレングスが伸びないわけではない、つまり、エンパワーが高まらないとは言えないということです。やはり、この事例を見ると非常に高まっているといえます。ただ単に、施設を出て、地域の中で保護的な仕組みを整えて、環境さえ整えられれば幸せに暮らせるというのは、どうも違うと思います。

今回、自立支援法で、支援費制度の時よりも、若干サービス内容や受けられる仕組みが変わってくる。つまり、環境要因の変化にII型(環境因子強化型)だけでは弱いと思いますね。この事例でいうと、II型中心からパワレスの第2期になるような変化というのが起きてしまう。ある意味では、障害をもった方というのは、そういった環境の変化に対する対応に制限がある。対応するという力に制限があるがために、ちょっとした環境の変化でさえ、パワレスの状態になりやすいというところがあると思います。

ですから、たまたまかも知れませんが、佐多家さんの場合は、施設入所中に自立生活を支援しようとする方たちと出会った。つまり、お互いが近づくというケアマネジメントモデルのIII型が出現したことで、エンパワメントが高まる機会に恵まれていくようになっていると思います。本人の意向、ニーズも踏まえ、それに忠実な支援をする方たちがいて、一人暮らしを始める。ところが、一人暮らしを始めても、パワレスの第3期のように問題が必ず出てくるわけですね。ただ地域に出れば済むのではなくて、やはり問題を抱えながらでも、その問題解決のため、適切な支援を受けながら本人が解決していく。そうするとそれが次第に力となっていくと感じています。

つまり、エンパワーしていくというのは、単に能動的なプラスの面ばかりを支援するのではなく、マイナスが起きたときに、本人にある意味では負荷をかけることも必要になる。「自分の責任だからやってみようよ」ということを、本人にも理解してもらって支援することで、逆に今度はIII型からI型中心、つまりもう今度は自分なりにどんどんいろんなことができるようになってくるのです。

障害者のケアマネジメントでは、これを「セルフケアマネジメント」という言い方をします。この方がセルフケアマネジメントまでできるかは、私は判断していませんが、自分を主張して行くということは、かなりできて来ているのだろうと思います。

どうしても幼少期から障害をもっている方は、先程谷口さんの話から見ましても、あきらめるとか抑えるということをかなり教えられますよね。親御さんであったりあるいは学校の先生であったり、兄弟であったり。つまり、そういうことに慣れてしまっている方ですと、なかなか自分のことを主張して、それがわがままとは違うと理解するのは難しいことです。これ言ったらわがままだよな、それは罪悪だというふうに裏返しで思ってしまうような関係性を崩して、言ってもいいことを促し、その代わり自分も責任をとっていくという経験して頂くこと、これが非常に重要だろうと思います。

また、そういったことが保障されるのは、この方の事例で見ても地域におられた時ですよね。このI型中心の時、要するに親御さんと暮らした時期もですし、一人暮らしをした時期もそうですが、環境の違いはあるにせよ、あるいはエンパワメントのパターンの違いはあるにせよ、やはり本人が記憶の中で「すごく良かった」、「これで力がついた」と思っている時は、施設の中ではないですよね。この方がいる団体は、施設に入っている方を外に出すという活動をかなりやられているところですが、佐多家さんがそういうお気持ちになるのは、まさにこういうプロセスの中で自分の抑えられてきたものが、自分の罪ではなくて、もっと自分が自由にやれば逆に伸びていって周りの人も安心してくれるんだということが分かってきたからだろうと思っております。

佐多家さんが、31ページの上方のかっこ内に「自分が幸せになっていくためにどのような力をつけて頂きたいと考えていますか」ということを聞きましたら、「施設にいる人たちを地域へ出す」と答えてくれました。これは、彼が所属する団体のポリシーでもあります。次に、「自分でも幸せになりたいがどんなことが幸せなのか分からない」とあります。これは自己を冷静に見ているなと思ったのですが、「自分の経験を後輩に伝え、地域で暮らせる人を増やしていくのが今の望み」と言っていますね。つまり、自分が背負ってきた人生とは、自分一人の問題ではないことを60歳になった佐多家さんは、同じような状況にある人たちを支援していくことが自分の役割だという認識をされている。知的障害だからとひとくくりにするのではなくて、一人一人を見てやはり佐多家さんが受けられたような支援が大切で、寄り添って支援していくということの重要性、そして地域の中で決して裕福でもないし、我慢もしなければならないが、自分の選択として、問題を解決していくよう支援していくことで、知的障害の方でもエンパワーするということを、 佐多家さんの事例で我々も学ぶことができたと思っております。

(谷口明広)
ありがとうございます。質問ですが、先程示された矢印の表ですが、第1期から親御さんと暮らした時期がありますね。そして、お母さんが他界したことによって、パワレス状態になった。これは環境が崩れたからだと思います。敢えて、環境を壊した方が、次の段階へ進みやすいというようなことがあるのではないでしょうか。

(小田島明氏)
おそらく、エンパワーしていくプロセスというのはやはり何か基点が必要ですね。障害者のケアマネジメントでは、それをニーズといっていましたね。当然、ニーズを感じる事象があるわけですよね。困ったとか。こうしたいとか。つまり、この方の場合、お母様の他界が非常に困ったことで、またそれに対して先程谷口さんが作られた兄弟関係のパワレスが働いてしまったわけです。そこから這い上がっていくというのも変な話だが、そういう負荷に対して自分の抵抗が始まったという意味では、確かに環境の変化というものが必要だと思います。

ただし、今の時代でも親亡き後の問題は、重心の親御さんたちも含めて、今なお存在する課題ですよね。けれども、佐多家さんが1990年頃に味わったようなことになるかと言うと、そうではないと思いますね。障害者福祉の基礎構造改革前後、あるいは社会参加が言われるようになった前後から考えると、親御さんの意識もかなり変わってきていますし、II型中心の時代から、もっとポジティブな負荷や刺激を与えて、ご本人に力をつけるようなプログラムがあってもいいだろうと思います。わざわざお母さんを殺して、マイナスにする必要はないと思います。時代も変わってきたと思います。障害をもつ人たちは、どんな重度な方でも、地域で暮らせるという事象がすごく増えてきています。そういうものを参考にII型の親元でいる時代から、環境自体が親に依存しない支援の環境に変わってきていますから、その中でご本人に何を考えて頂くかということを刺激として、やはり支援者が操作的にではなく、うまく与えていければいいんじゃないかと思います。

(谷口明広)
はい、ありがとうございました。今日、会場に来られている親御さんも1990年からではずいぶん日が経っておりますので、進歩して頂いていたらありがたいなと思っております。

資料:エンパワメント事例(知的障害)