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平成17年度厚生労働科学研究障害保健福祉総合研究成果発表会報告書

発表会:障害者のエンパワメントの視点と生活モデルに基づく具体的な地域生活支援技術に関して

○エンパワメント事例(肢体不自由)

華頂短期大学社会福祉学部 武田 康晴

氏名:西澤 千佳 年齢:37歳 家族構成
家族構成の図
障害名:筋ジストロフィー
手帳・等級:身体障害者手帳1種1級
居住地住所:〒
京都市○○区
電話番号:075(573)0000
住環境(バリアフリー関係):
公団住宅の車イス対応住宅に単身入居し、ヘルパー派遣とデイサービスを利用している。就寝時に人工呼吸器を使用している。


暦年齢 出来事(生育暦) パワレスな状況に
なった事柄
エンパワメントしていく契機となった事柄 状況の変動 エンパワメントモデル エピソードの必然性
分岐点 心的状況 引き戻した力 I型個人因子強化 II型環境因子強化 III型相互関係強化 本人の意図 他者の意図 他者の偶然
・ある人との出会い ・研修への参加 ・両親の病気や死 ・その他 ・好きな人ができた ・自立心が芽生えてきた ・その他 ・両親の反対 ・社会の偏見や差別 ・その他
0歳 【就学前】
母親の母胎を助けるために8ヶ月の早産で生まれる。約3ヶ月間保育器に入り、若干の遅れはあるものの、やんちゃで良く動く子であった。




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7歳 【学齢期(1)】
小学校2年生の時、つまづくことが多くなり、集団登校についていけなくなる。
(1)集団登校で登校できない。

(1)学校・地域にサポートの仕組みがない。





地域の病院を転々とし、肢体不自由の専門病院から国立の大学病院神経科で進行性筋萎縮症と診断される。 (2)地域の病院を転々とした。

(2)病院同士の横のつながりが希薄であった。(または地域に周知がなかった)





9歳 小学校4年生の時に身体障害者手帳の交付を受ける。養護学校を見学に行ったが、「障害が軽すぎる」という理由で受け入れに難色を示される。 (3)養護学校の対象にはならないが、普通学校ではしんどい状況となる。

(3)普通学校では配慮が少ない。





小学校4年生から、体が動きにくいことに関していじめが始まる。このいじめは中学校2年生まで続く。 (4)障害がいじめの原因となる。
(4)学校に行くことがつらくなる。 (4)担任はいじめに気付かない。





11歳 小学校卒業に際して、進路について問われる。中学校が新設されるということもあり、普通学校へ通うことに決める。
(5)学校側は進路決定に際して本人も交えて話を進める。 (5)普通学校は、障害に対する配慮が足りない反面、一般の体験ができると理解している。


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12歳 【学齢期(2)】
地域の普通中学校に通い始める。自宅から学校までは1kmほどの道程であったが、歩行機能が低下していたため、電柱伝いに1時間ほど掛かって通う。
(1)通学に片道1時間・往復2時間かかる。

(1)通学に際して、支援が受けられない。





中学3年間は保護者の同伴なしで、遠足や社会見学などは、バギーを使用し担任や同級生が手伝ってくれた。
(2)担任・同級生が移動を手伝ってくれる。


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13歳 2年生になり、小学校の頃から本人をいじめていた同級生と同じクラスになったが、他の同級生が「やめろ」と言ってくれた。それをきっかけにして、小4から続いたいじめがなくなった。 (3)障害が理由でいじめのターゲットになりかける。 (3)同級生の一人が「やめろ」と言ってくれた。また、担任が「障害をもつから自分をダメだと思うな」と言ってくれる。 (3)同級生の「やめろ」という一言に本当に救われたと感じている。また、担任の一言が大きな励ましになった。

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「やめろ」と言ってくれた同級生と仲良くなり、その子は遠回りしてまで一緒に通学するようになった。
(4)いじめがきっかけで同級生と仲良くなる。 (4)仲の良い友達ができて嬉しかった。
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14歳 学校側から「修学旅行には家族の同伴が必要」という要請があった。しかし、母親が病気であったため、参加を諦めようと思っていた。 (5)障害を理由に、学校行事に家族の同伴が求められる。
(5)残念だが仕方ないと諦めていた。 (5)学校に「障害をもつ生徒をサポートする仕組み」が整っていない。





クラスの中から「西澤が行かないなら私たちも行かない」という声が上がった。同級生は「気持ちまで障害者にならないで!」と言った。結局は、副担任が同伴して修学旅行に参加することになった。
(6)本人を支える気持ちのあるクラスと出会った。 (6)同級生の気持ちが本当に嬉しかった。クラスの一員であることを実感した。


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15歳 【学齢期(3)】
皆と一緒に地域の普通高校に進学したかったが、設備や受け入れ状況のため、養護学校へ進学することとなった。
(1)思いに反して、養護学校へ行くことになった。
(1)本当は、皆と同じ普通高校に行きたかった。 (1)養護学校しか選択肢がなかった。





入学当初は養護学校に全く馴染めず、「ここは保育園か?」と思ったこともあった。特に匂いがダメで、給食を食べて吐いたこともあった。 (2)養護学校は初めてで、全く馴染めない。
(2)養護学校の内容はレベルが低いと思っていた。 (2)養護学校は、主に学習面で、個別のレベルに合わせた対応が不十分であった。





この頃から母親が入院したため、近所のおばちゃんが色々と世話を焼いたり励ましたりしてくれた。
(3)母親が入院した。
近所のおばちゃんとの関係が密になる。



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養護学校の担任からは「障害者は障害者として生きなければ」と言われた。これは、今まで言われてきたことと逆だった。 (4)同じ「学校の先生」に全く反対のことを言われ混乱した。 (4)小学部・中等部の先生は励まし、激励してくれた。 (4)養護学校(特に高等部)の先生はレベルが低いと思うようになった。 (4)普通学校と養護学校、小・中・高等部の教員間で障害者への認識にズレがある。 -





16歳 脳性マヒの同級生と仲良くなり、その関係は卒後も続いた。
(5)障害をもつ友人ができた。

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地域にある普通高校との交流があったが、小・中学校の同級生がいるので苦痛であった。 (6)苦痛を感じながら参加しなければならなかった。 (6)障害が進行して違う立場になった自分として元同級生と出会う。 (6)「本当は向こうにいるはずなのに…」という悔しい気持ちを感じた。 (6)養護学校にも普通学校にも、個別の状況に配慮する視点が欠けていた。





20歳 【卒業後】
車の免許を取得する。




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母親が亡くなり、父親との関係がぎくしゃくしてくる。父親から逃げるように寮制の職業訓練校へ行く。 (1)母親が亡くなったことにより、家族関係が不調和となる。 (1)母親が死亡し、家族が父親・兄・本人の3人になる。 (1)父親から離れたいという気持ちが強くなる。 (1)父親は「働かざるもの食うべからず」という考えを本人に強要する。





21歳 1年間、訓練校での訓練を受けたが、結局は就職できなかった。また、アキレス腱を伸ばす手術を受け、完全に歩けなくなった。 (2)就職先がない。 (2)障害が重度化することに伴い、父親が「就職は無理」と納得するようになる。
(2)障害者の就職先が少ない。





24歳 私立大学の通信教育課程で社会福祉を学び始める。

(3)家族間のごたごたから目を外に向けたかった。
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新聞社が主催する、障害者の自立研修旅行に参加した。日程的にハードな面があったが、とても楽しかった。多くの出会いがあった。
(4)以後に大きな影響を受ける当事者A氏、支援者B氏と出会う。 (4)「旅行って楽しい」と思うようになった。


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A氏・B氏が中心となって実施したILプログラムに月1回の割合で参加し、養護学校以外で、多くの当事者や支援者に出会う。会場へは自分の車で通っていた。
(5)ILプログラムに参加し、話の合う当事者達や同年代の支援者と出会う。 (5)自分と同じところに立つ人達(当事者・支援者)と出会い、人を信じる基盤となった。


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25歳
27歳
この頃から「住む場所があれば一人暮らしをしたい」という思いを持ち始める。一方、障害が進行し、検査・入院を経て、27歳の時に車の運転ができなくなる。 (6)障害の重度化に伴い車が運転できなくなり、行動範囲が著しく狭くなる。
(6)精神的に非常に落ち込む。 (6)外出に関する社会資源が乏しい。





ほとんど外出せずに過ごすようになり、父親と衝突することが多くなる。
(7)A氏・B氏が家を訪問して相談に乗る。 (7)父親と離れたいという気持ちが強くなる。


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デイサービスに通うようになる。



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32歳 父親に内緒で応募した市営住宅が当たり、デイサービスのスタッフが手続き支援をして準備を進めた。全ての準備が整い、カギをもらってから父親に報告した。
(8)市営の車イス住宅が当たる。 (8)一人暮らしをする決心は固まっていた。


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一人暮らしを始めた当初は数人のヘルパーを使って生活していたが、慣れるまでの半年ほどは、ほとんど外出しなかった。 (9)一人暮らしに慣れるまで、外出しない状況が続く。 (9)父親が心配してしばしば様子を見に来た。

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35歳 自立生活支援センター協議会主催の「ピアカウンセリング講座」に参加し、ピアカウンセリングについて学ぶ。
(10)講座に参加し、多種多様の身体障害者と出会う。 (10)自分を客観視できるようになった。


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障害が進行し、検査・入院(血中CO2が67%)を経て、横になる時に人工呼吸器を装着するようになる。「いつ呼吸筋が止まるか」という不安を常にもつようになる。 (11)障害が重度化し、行動が制限され、不安を抱えながら生活する。
(11)動く前に考え、無理をしないように心がける。 (11)人工呼吸器を装着している人が、地域で安心して生活するだけの社会資源・サービスが整っていない。





37歳 デイサービス以外の外出が減り、家の中で過ごすことが増えてきている。デイサービスはマンネリで詰まらないが、外出機会のため通っている。 (12)障害の進行とともに外出が減る。
(12)不安と同時に、残された時間のことを考えるようになる。 (12)利用者が選択できるほどの社会資源が整っていない。








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これからの人生において、再度パワレス状態が訪れるとすれば、予想される出来事は何か
  1. さらに障害が進行し、人工呼吸器を常時装着するようになれば、行動がとても制限されると思う。
  2. いつ呼吸筋が停止するのか不安がある。また、それまでにしておきたいこともある。
  3. 気管切開した時に、それでも地域で生活できるのか。
  4. 障害が進行するにつれ、ヘルパーの予定と自分の体調が合わないことが増えてくる。
自分が幸せになっていくために、どのような力を付けていきたいと考えますか。
  1. まず、何よりも人を信じて素直になることが必要だと思う。また、その上で試しに意思表明してみることも大切であると思うが、そのバランスが難しい。
  2. 事業所にヘルパーの人手が足りないので、「自分に合う人の派遣をお願いする」というようなことが言えない。しんどくても、つい遠慮がちになってしまう。
  3. 気の合うヘルパーや友人と一緒に、お菓子作りやパン作りなどをやってみたい。

調査者所見

  • 普通学校においては、障害に対する配慮が不充分な場合も多い。
  • 逆に、養護学校においては「障害」に対する配慮はあるが、それ以外の部分に対する配慮が欠けていたように思われる。
  • 中学校時代の障害をもたない同級生との関わりが、本人の人生において非常に大きな体験となっているように感じた。
  • ILプログラムへの参加が人生の大きな転機となっているように思う。
  • 進行性の障害に顕著であると思われるが、障害が重度化するごとにパワレス状況が拡大している。
  • そして「障害の重度化がパワレス状況に直結している」という状況が、本人がもつ不安感の最も大きな原因の1つになっている。

事例概要と分析

本事例は、小学校低学年から進行性筋萎縮の症状が発症し、障害の進行に伴って高等学校より養護学校に通い、母親の死・父親との葛藤を経て、現在は、筋萎縮の症状は進行し続けているものの公団住宅における単身生活を営んでいるケースである。このケースでは、ライフヒストリーの中で、例えば「普通学校」対「養護学校」あるいは「人間関係や興味の広がり」対「障害による身体的制約の進行」といった相反するダイナミクスによる葛藤を読み取れる場面がいくつか見られる。つまり、中途障害に見られるような「障害をもたなかった自分」と「障害をもった自分」の間にある葛藤や、また環境や個人の「力」が高まっていく方向性と障害の進行による「それを引き戻す力」の葛藤を読み取ることができるのである。

人生の分岐点という視点から見れば、もちろん障害の進行に大きな影響を受けてもいるが、家族中心の対人関係から友人・当事者・支援者との出会いといった人間関係の広がりが転機となっている場面が多く見られ、また、公営住宅の優先入居・自立生活支援センターの関与やヘルパー派遣事業・デイサービスといった社会資源の活用が非常に大きな影響を与えていることが分かる。さらに、今後(と言っても近い将来)を考えるとき、障害の進行に伴う身体機能のさらなる低下とそのことに対する計り知れない不安について、「果たして福祉は力を持ち得るのか」という疑問を感じずにはいられない。

1.パワレス・エンパワメントエピソードの件数

  • 研究員が指摘したエピソードの総数は32件であり、その内訳は次の通りである。
    (1)パワレスになったと判断したエピソードは14件
    (2)エンパワメントであると判断したエピソードは14件
    (3)パワレスになった側面とエンパワメントである側面を同時に含むと判断したエピソードは0件
    (4)分岐点ではあるが、パワレスともエンパワメントとも判断できないエピソードは4件

2.パワレス状況

  • 小中学校時代には、普通学校に通っていたこともあり、学校や地域に「障害」に関する理解や配慮が不足していたことに起因するパワレス状況が見られる。これは、現在よりも普通学校における障害者の受け入れが一般的でなかったという時代背景も少なからず影響していると考えられる。
  • 西澤さんは高等学校から養護学校の高等部に進学するが、普通学校では「障害があること」がパワレス状況の要因となっていたのに対して、養護学校においては「これまで普通学校に通っていた」ということが本人の中でパワレス状況を際立たせる皮肉な結果となっている。
  • 成人してからすぐ母親が亡くなり、途端に父親との関係を中心とした家族関係が不調和となっている。障害がない子どもの場合と同じように西澤さんも家を出るが、その後も家族の影響力が大きい(あるいは、そうでないと生活できない)状況が続いている。
  • 25歳以降は、外出に関する社会資源・人工呼吸器を装着した生活・社会資源の選択肢が少ない等、パワレス状況の原因として常に「症状の進行による障害の重度化」と「それに対応する社会資源の不足・不備」が原因となっている。
  • 西澤さんは20歳の時に運転免許を取得している。しかし、障害の重度化に伴い27歳の時に車を運転できなくなっている。そのことが象徴するように、進行性の障害によって「出来ていたことが出来なくなる」ということがパワレス状況を際立たせる結果となっている。

3.エンパワメント状況

  • 本事例において最初にエンパワメント状況が見られるのは11歳のときであり、進路について本人の意見とそれを聴取する環境が存在したという事実は見られるが、時代的背景を勘案すれば、本人の障害状況が「普通学校に通える程度」であったことも大きく影響していると考えられる。
  • 12歳から13歳に見られるエンパワメント状況は、いずれも担任・同級生の言動・行動に依拠している。しかしながら、そのエンパワメント状況は、本人がその状況にいることによって生じる対人関係のダイナミクスによって強化されている。
  • 20歳の時に車の免許を取得したことによりエンパワメントが見られるが、これは個人因子の強化がエンパワメントにつながった一例であると考えることができる。
  • 24歳のときに通信教育で社会福祉学を学び始めるが、その直後に「自立生活教育プログラム」に参加したことにより、本人の生活は明らかに単身生活・自立生活へと向かったことを読み取ることができる。
  • また、単身生活・自立生活へと向かうベクトルは、父親との不調和によって強化され、エンパワメント状況の進展における小さからぬ原動力となっている。

4.エンパワメントタイプの変化

  • 11歳で普通学校または養護学校に進学することを選択する際に最初のエンパワメント状況を迎えているが、先にも指摘した通り本人の障害状況が「普通学校に通える程度」であったため、結果としてIII型のタイプとなっている。
  • 12歳から15歳の時期に見られるエンパワメント状況のうちII型に分類されるものは、いずれも担任・同級生・近隣住民といった「人的環境」に依拠することが読み取れる。
  • 13歳から24歳にはI型に分類されるものが見られるが、その内訳は「対人関係の広がり」と「本人自身が力を付けたこと」にさらに分類することができる。
  • 24歳で「自立生活教育プログラム」と出会って以降、本人のエンパワメントはIII型となり、それが「自立生活支援センター」の関与という明確な形となってからは、その傾向が強化・発展していることを読み取ることができる。

5.まとめ

本事例は、先にも述べた通り「中途障害者のもつ葛藤」と「進行性障害をもつ人の葛藤」というダイナミクスの中で、エンパワメント状況が刻々と変化していく過程を如実に示している点で特徴づけることができるのではないだろうか。つまり、それは、障害のない人との比較によって(主として心理的な)パワレス状況は発生・強化する側面があることを示し、また、障害が重度であればパワレス状況に陥る危険性も高いという側面、あるいは一旦強化されたエンパワメント状況は障害の重度化によって再びパワレス状況に引き戻される脆さをもっているという側面を示しているのである。さらに言えば、軽度の障害をもつ人のみがエンパワメント状況を享受し、また障害の重度化によってそのエンパワメント状況が直ちに失われてしまうのであれば、はたしてそれは本当のエンパワメントなのかという疑問を持たざるをえない。すなわち、本人のエンパワメントに関与する「環境」あるいはエンパワメントプログラムには、エンパワメント状況を再びパワレス状況へと後退させないような力強さと確かさが求められていると考えられるのである。

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