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目次 挿絵3

1 障害をもつ子ども

一つの挑戦(ちょうせん)

1 障害をもつ子ども 挿絵1

障害をもつ子どもと本とについて考えることは、障害児教育にたずさわる者だけではなく、子どもの本に関心をもつ人々みなの課題です。すべての子どもは、障害をもっていようといまいと、成長していくうえで、本を必要とします。けれども今のところ、障害をもつ子どものための本は、よいものが十分そろっているとはいえません。障害児は、自分たちが使えるもっと多くの、もっとよい本を求めています。また、障害児が、自分をその本の主人公になぞらえてみることができるような内容をもった本も、必要です。

よい本は、教育効果をあげるだけでなく、子どもたちが自由時間を有効に使うためにも必要です。障害をもつ子どもたちは、たいてい、ふつうの子どもに比べて遊びや学習の生き生きとした刺激(しげき)に欠けた、いわば、不毛地帯をさまようような生活をしています。しかし、この子どもたちも、障害のないすべての子どもと同じように、自分自身の「自我(じが)*1意識」を(きず)きあげ、他人との交わりを(うなが)し豊かにする文化的な刺激(しげき)を必要としています。自分がどこか他人と違っていて孤立(こりつ)していると感じている子どもにとって、これはとくに大切なことです。

読書はいつも、ことばによる知識を増し、障害をもつ者と周囲との距離を(ちぢ)めます。ヘレン・ケラーはこういっています。「本は、他の読者が享受(きょうじゅ)する喜びと知識を与えてくれるばかりでなく、他の人が目や耳を通して()る知識さえも、与えてくれます」と。

晩年のヘレン・ケラー女子とサイン

晩年のヘレン・ケラー女子とサイン

私たちはこれまで、〝障害″をhandicap(ハンディキャップ)(社会的な障害。社会的不利)とよぶことに()れてきましたが、国連は、現在、“disabled(ディスエイプルド)”(能力や機能の障害そのもの)ということばを採用しています。古いことばが否定的な意味あいを()びるようになったので、新しいことばによって新しい考え方を導き出そうと意図しているのでしょう。しかし、この二つのことばはどちらも相対的な表現です。どちらを便うにせよ、それは私たちの、人と社会とを見る見方を反映し、また、何を〝健常〟と見るか、その範囲の広さ、あるいは狭さを反映します。どのような状況で、どんなハンディキャップを受けているか定義(ていぎ)せずに、「ハンディキャップをもつ」という言い方をするのは、たしかにおかしなことです。人は、何よりもまず、ひとりの人間です。私たちひとりひとりの間を分けへだてるものよりは、結びつけるもののほうが多いのです。

障害をもつ子どもは、何よりもまず、ひとりの子どもであり、子どもらしい要求、反応、そして、その子どもなりの個性をもっています。障害のない子どもたちがそうであるように、同じ障害をもつ子どもたちの中にだって違いがあります。どの子もユニークで、その子なりの要求、能力、問題、可能性をもっています。

目の不自由な子どもは、印刷された本を読むうえではハンディキャップがあり、不利な立場におかれますが、点字の本ならば問題はありません。読む力のおくれている子どもには、活字がぎっしりつまっていて長い文章が(つら)なる本を読むのは(むずか)しすぎます。こういう本は、読む力のおくれている子どもには、ハンディキャップを負わせますが、やさしいことばで読みやすい活字の本なら大丈夫です。

知恵おくれの子どもは、一般に知的能力(ちてきのうりょく)を要求される本についてはハンディがあり、理解しにくいといわれますが、内容やレイアウトが(した)しみやすくわかりやすい本なら、(かなら)ずしもハンディがあるわけではなく、十分に読みこなせます。

目の不自由な子どもにとっては、ものが見えないのは、ごく自然なことです。耳の不自由な子どもにとっては、聞こえないのがごく自然なことなのです。ところが私たちは、視覚(しかく)聴覚(ちょうかく)によって自分をとりまく世界を経験するのに()れていますから、私たちにとっては、見えない、聞こえないという状態は不自然なのです。

障害は多くの人にとって、あまり身近(みぢか)なものではありません。というのも、目や耳の不自由な人、心身(しんしん)に障害をもつ人と、そうたびたび町角や店で会うことはありませんし、どの家庭にも一緒に住んでいるわけでもなく、作家や編集者の会合や、ブックフェアで姿を見かける機会もまだ少ないからです。

経済的に発展をとげた多くの国々では、不幸にも、長いあいだ、障害をもつ子どもたちを社会から()(はな)す政策がとられてきました。その結果、子どもたちは大きな施設に入れられたり、家にいても大なり小なり孤立(こりつ)させられてきました。

しかし、調和的で建設的な社会・地域は、いろいろな立場の人間がいてこそ成り立つのです。〝障害者の社会参加″を、という声は、今や合いことばになっています。では〝障害者の社会参加″とは、いったい何を意味するのでしょうか。

それは、障害をもつ人たちが私たち健常者の仲間に(くわ)わることをゆるされ、それによって可能なかぎり〝健常″な状態に近づくことだと考えがちですが、決してそうではありません。それは間違った考え方です。

そうではなくて、障害をもつ人も健常者も、ひとりひとりがアイデンティティ*2(たも)ちながら、独立した一部分としてより大きな単位をつくっていくことなのです。社会参加とは、障害のある人を(ふく)むすべての人が、自分たちの地域や社会に(なんら)らかの貢献(こうけん)をすることを意味しています。普通の学校、家庭、地域社会は、障害をもつ人を必要としているのです。それは、障害をもつ人たちが自分の生まれてきた社会に所属(しょぞく)したいと主張するのと同じく、自然であたりまえのことです。

障害児の社会参加は、統合教育(とうごうきょういく)*3ひとつを考えてみても実際には大変(むずか)しいものですが、学校の指導で適切な教材が()られないのがその理由の一部です。子どもの本も教材のひとつで、さまざまなレベルの話しことばや読む力にあわせた本や、目や耳が不自由な子どもが使える質のよい本が、もっとたくさん必要です。

それに障害者の社会参加という考え方そのものが、私たちの社会で重視される効率(こうりつ)とか生産性、スピードなどという価値観(かちかん)と、相容(あいい)れません。

私たちの社会は、また、ほとんどといっていいほど障害をもつ人の生活について知りません。それだけに、その態度を変えるには、時間がかかります。人は誰でも、知らないものをおそれます。そして、知識のなさは不安を生みだし、不安から攻撃(こうげき)までの距離は、おそろしいほど短いのです。社会はいつでも、〝犠牲(ぎせい)山羊(やぎ)(スケープゴート)″をつくりだす可能性をもっています。だからこそ私たちは、おたがいを近づけるために本を必要としているのです。