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5 障害をもつ子どもにふさわしい本

5 障害をもつ子どもにふさわしい本 挿絵1

それでは、どのような本が必要なのでしょうか?

『クシュラの奇跡』のクシュラは、本にかこまれていましたが、それは、クシュラの両親が子どもの本についてよく知っていたからでした。子どものもっている障害が何であるにせよ、障害をもつ子どもの親や教師や施設職員が、子どもの本が好きだったり、児童図書館とつながりをもっていたりしたら、その子どもは幸運です。一般の絵本をはじめ、わらべ歌や子もり歌や童謡(どうよう)、冒険物語の本などの多くは、障害をもつ子どもにも楽しめます。また、国によっては、知恵おくれの子どもや耳が聞こえないなどの理由でことばのおくれている子どもが使える本を特別に推薦(すいせん)するブックリストをつくっています(ブックリストをつくっている国:オーストラリア、デンマーク、ドイツ、イギリス、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、アメリカなど)。

一般の児童書の中にもたくさん使えるものがあるとはいえ、障害をもつ子どものために特別につくられた本はやはり必要です。目の不自由な子どもなら点字の本や音の出る本、手で見る(さわる)絵本がいるでしょう。弱視の子どもには特別大きな活字でつくられた大活字本がいります。耳の不自由な子どもにとってはサインランゲッジ(身振り言葉、手話や指文字など)がことばですから、サインランゲッジをイラストした本がいります。知恵おくれやことばのおそい子どもには、ごく単純で簡単な絵本がいるでしょう。また、読む力のおくれている大勢の子どもには、やさしく読めて、読むための努力は無駄ではないと感じさせてくれる本が求められています。

点字の本

本の中の絵や文字を見ることができない子どもには、当然のことですが、特別につくられた本が必要です。点字は、彼自身盲目だったフランス人ルイ・ブレイユ*12によって百五十年以上前に発明され、以来ずっと使われてきました。プレイユの方法では、紙面に突出した六つの点によってできる六十三の(こと)なる組み合わせを使って、文字や数字、楽譜(がくふ)、その他いろいろな記号をあらわします。

点字による子どもの本は多くの国でつくられていますが、たいていの場合、盲人の機関*13によって製作、所有されているので、公共図書館には置かれていません。点字による子どもの本は、もちろん、一般の児童書とともに公共図書館に(そな)えられるべきでしょう。カタログやブックリストによると、点字の本は大部分大人向けのものです。目が見えない人は子どもより大人の方がずっと多いのですから、これは別に驚くことではありません。しかし、生活習慣を身につけ、人生の基盤(きばん)(つちか)うのは、柔軟性(じゅうなんせい)のある子ども時代においてです。目の見えない子どもが、社会の中で身を(しょ)していくには、しかるべき訓練が必要ですが、そこに、子どもが本に親しむことも(くわ)えるべきです。

ことばを話しはじめる以前のごく幼い頃に目が見えなくなった子どもたちは、あとになって視力を失った子どもたちよりずっと不利な立場に立たされます。ことばの手がかりとなる視覚的(しかくてき)な記憶がないからです。こういう子どもたちにとっては、話すことはさらに難しいでしょう。目の見えない子どもには、さまざまな経験をもち、ことばを増やすためにも、本が必要です。

音の出る本(カセット・ブック)

点字の本に加えて、音の出る本もあります。テープ・レコーダーやカセット.プレイヤーが多くの国で日常的に使われるようになったので、目の不自由な人は、以前よりずっと広い範囲にわたって、よい読みもの(カセット・ブック)を選べるようになってきました。

一般の子どもの本が目の見えない子どもの役に立つためには、音の出る本(カセット・ブック)がたくさんなければなりません。目の見えない子どもと、見える子どもがいっしょに、こういう本に耳を(かたむ)ければ、おたがいのあいだの距離をいっそう(ちぢ)めることができます。

音の出る本は、他に読みに問題のある子どもや、手で本を支えられない子どもにとっても、たいへん有益です。目も見えないし耳も聞こえない子ども-たぶん、もっともさびしい思いをしている子どもですが-にとっては、点字本がただひとつの可能な読みものです。

子どもでも大人でも、たいていの目の見えない人は、点字本と音の出る本の両方を、たがいに(おぎな)いあうように使うことができます。物語や小説などは音の出る本の方が好まれ、教科書、参考書などは点字本の方が好まれる傾向があります。点字を読む練習をしている目の見えない子どもたちのためには、点字本がたくさんなければなりません。もちろん、点字を読みこなせるまで、目の見えない子どもが、子どもの本を楽しむのを待たなければならない理由はありません。この子どもたちも他の子どもたちとまったく同様に、カセット・ブックに耳を傾け、大人に本を読んでもらうことも必要です。点字の子どもの本は、目の見えない親が子どもに本を読み聞かせるのにも使えます。

手で見る(さわる)絵本

自分の知らない世界を想像するのはとてもむずかしいことですから、私たちのほとんどは、目の見えない子どもや弱視の子どもたちも、ふつうの視力の子どもと同じように絵本を求めているといわれても、ピンときません。

手で見る絵本のにおう絵本『くだもの』(むつき会)

手作り<手で見る絵本>のにおう絵本『くだもの』(むつき会)。こすると果物の香りがする。

視力がさほど弱くない子どもは、一般の絵本でも、絵のコントラストが十分にきき、色が鮮明(せんめい)細部(さいぶ)まではっきり見えるものなら、楽しめます。しかし、全盲(ぜんもう)の子は、指先を通して絵を経験しなければなりません。

ですから、これまで多くの教師や親が、自分たちの手で、目の見えない子どもが使える絵本をつくってきました。子どもたちがさわってわかるように、いろいろな形をのりづけしてつくります。その場合たいてい、ふつうの絵本を手で見る(さわる)絵本につくり変えるのです。ところがこうすると、一般的に目の見えない子どもは、このような絵の形を解釈(かいしゃく)するのに必要なだけの経験をもっていないという問題にぶつかってしまいます。目の見える人は、小さな家の形のベニヤ板や毛糸で作った羊の形がページにのりづけされている本をわたされたら、すぐに、これはメーメー子羊(こひつじ)の本だとか、森の中の一軒家の本だなと、見分けがつきます。ところが羊を一度も見たことがない、あるいは木を、家を、花を見た経験がない子どもは、木や家や花がどんなものなのか、簡単にはわかりません。目の見えない子どもは指先を通して情報を受けとるのに慣れていますから、風景画を理解することはむずかしいのです。

『見たことないものつくられへん』というのは、日本の福来四郎(ふくらいしろう)の本のタイトルです。この人の出発点は、目の見えない子どもの概念(がいねん)世界と、この子どもたちの創造への渇望です。福来(ふくらい)さんは、画家は晴眼者である自分のシンボル*14を盲児に押しつけるのではなく、盲児固有(こゆう)のシンボルについて学び、それを使おうと主張しています。

デンマークのヴァージニア・アレン・イエンセン*15とノルウェーのフィリップ・ニュート*16は二人とも福来四郎(ふくらいしろう)の影響を受けています。この二人がつくったさわる絵本の主人公は、物の形の輪郭(りんかく)ではなく、記号とでもいえそうな独特な形であらわされています。ヴァージニア・アレン・イエンセンは、自分の『これ、なあに?』という本について、ある講演の中でこういっています。

市販の手で見る絵本『これ、なあに?』(イエンセン作/偕成社)

市販の手で見る絵本『これ、なあに?』(イエンセン作/偕成社)

あなたも私も、視覚的(しかくてき)な経験のない世界を知ることは、ほとんど 不可能です。たとえできたとしても、次のような問題に直面してしまいます。すなわち、目で見る世界とはどんなものかを、目の見えない子に教えるべきなのか、もし教える としたら、いつ、どのようにして教えればいいのか、あるいは、視覚的経験を必 要としない絵だけを与えるべきなのか、というような問題です。さまざまな実験 が、目の不自由な子どもとその親、あるいは教師の協力のもとに行われなければ なりませんし、また、行われたほうがよいはずです。

市販の手で見る絵本『ザラザラくん、どうしたの?』(イエンセン作/偕成社)

市販の手で見る絵本『ザラザラくん、どうしたの?』(イエンセン作/偕成社)

目の見えない子どもと見える子どもがいっしょに使える本をつくるうえでの主な課題は、両者の接点を見つけることです。しかし、これは、頭がかたくなってしまった大人には難しいようです。また、文章と絵との相互作用は、こういう本では、ふつうの絵本よりずっと重要になります。目の見えない子どもと見える子どもが同じ本を読んでいるとき、そこにある絵について、その子どもが以前に経験していること(あるいは経験していないこと!)と矛盾しないイメージをもてるように、文章は、慎重(しんちょう)にことばを選んで、注意深く書かれるべきです。また、絵の中に、この本は結局目の見える子どものためのものだと、目の見えない子どもが疎外感(そがいかん)を感じるようなものがあってはなりません。目の見える子どもと見えない子どもがいっしょに一冊の本を読んでいるときは、色は別として、どちらも同じように、本の中のすべてが見えているべきなのです。

画家や編集者の中には、想像力(そうぞうりょく)思考力(しこうりょく)を働かせて、大量生産が可能で、子どもが自分と同一視することができ、しかも、目の見えない子どもが、視覚的経験なしで概念(がいねん)をつかむことのできる、そんな抽象図形(ちゅうしょうずけい)を見つけだそうと(こころ)みている人もあります。フィリップ・ニュートの本の主な登場人物は丸や四角や三角であり、ニュートは厚紙(あつがみ)を切ってこれらの形をつくっています。ヴァージニア・アレン・イエンセンの本の主人公は、不定型な楕円(だえん)です。こういう試みがめざしているのは、本の大量生産を可能にし、それによって通常の流通ルートを通じてたくさんの本を販売することです。子どもにとっては、自分の本をもち、夜はそれをベッドにもっていったり、友だちに貸してあげたりすることには、大きな意味があります。これは、目が見える子どもにとっても目が不自由な子どもにとっても、まったく同じことです。そのためにも、大量生産のきく本が出まわることには、とても大きな意味があります。そのうえ親や身内の人にとっても、本屋に入って目の見えない子どもに本を買ってやれるのは、たいへんうれしいことです。

市販の手で見る絵本『ちびまるのぼうけん』(ニュート作/偕成社)

市販の手で見る絵本『ちびまるのぼうけん』(ニュート作/偕成社)

しかし、このような本づくりはけっして容易なことではありません。フィリップ・ニュートは次のように語っています。

私たちの社会で支配的なのは、視覚文化です。そこで使われることばは、視覚的な概念であふれています。目の不自由な人も、自分の意志を伝えるために、そのようなことばを使わねばなりません。もし目の不自由な人が、太陽は黄金色で草は緑、という事実を受け入れられないとしたら、その人のことばは、じつに貧しくなってしまいます。目の見える子どもは、字を読めるようになるよりずっと前に、絵を通してものを見る経験をつみます。知っているものや知らないものが、三次元(立体)の大きな形から二次元(平面)の小さな形に変えられて、平らなページの上に描かれているのを見ています。また、深さや遠近感(えんきんかん)が、色や影の助けをかりて平面上(へいめんじょう)にあらわされることを学び、しだいにさまざまな観念(ある対象について心に思い描く内容や形象。)を表現する仕方にも()れていきます。絵が、このような発達を刺激し、活発にしているのです。この発達は学齢期を通してずっと続くもので、学校で使う教材のほとんどに、文章を分かりやすくするための豊富なさし絵が入っています。目の見えない人は、圧倒的多数(あっとうてきたすう)の中の少数です。もちろん、この人たちは、〝視覚社会″つまり目の見える人中心の社会の中で生きていかねばなりません。しかし、いつでも、目の見える人に都合(つごう)のよいことばだけを使わなければならないでしょうか?

目の見えない子どもが、たとえば、〝象は一軒の家と同じぐらい大きい″というような言いまわしにぶつかるとします。このような言いまわしが、自分の指がさわれる範囲でしか大きさを感じとれない子どもにとって、いったい何を意味するのでしょう。まったく経験できないものを、ただ受け入れねばならないとき、どんな葛藤(かっとう)が起きるでしょうか?

盲児と晴眼児(せいがんじ)が共に何かを経験する機会をもつのは大切なことです。目の見える子どもにとっても、触覚(しょっかく)を訓練するのは貴重な経験になります。目の見える子どもも、できれば目をつぶって、さわる絵本を手さぐりで感じとる練習をやってみると、目が見えないとはどんな感じなのか、ものごとを指先で経験しなければならないとはどんなことなのかが、ごくわずかでも、わかってくるでしょう。

目の見えない子どものために本をつくったり、耳の聞こえない子どものためにサインランゲッジの本をつくることについて、メット、フィリップ・ニュート夫妻が書いています。

障害者のほとんどが、自分の障害だけではなく、その障害のことをほとんど考慮(こうりょ)しない社会という二重の重荷を()わされています。障害者たちにとって、この社会に適応し、誇りをもち、アイデンティティを確立(かくりつ)して、自信をもち、活動的な力強い人間として生きていくことは、多数派の一般の人が同じことをするよりはるかに大変です。

障害をもつ人のためにつくられた本が、主要な問題点をすべて解決してくれるわけではありません。しかし、不必要な壁をとりはらい、いくつかの問題に光を投げかける助けにはなります。読む力のおくれた子どものための本は、同時に一般の読者にも重要なことを教えてくれます。

ふつうの読者以外の読者のために特別の本をつくるのは、作家や画家が、自分の伝えようとする内容や、意図(いと)そのものを変えなくてはならないということではありません。変える必要があるのは形式です。障害のために特別な配慮(はいりょ)をすることは、作家や画家にとって、制約を意味するどころか、反対に、大きな、心おどる挑戦(ちょうせん)なのです。作家や画家が提供できるのは、手段や方法に関する経験や知識とアイデア、それに、自分が(あら)わそうとしている何か、つまりテーマです。

障害をもつ人は、障害のない人とはまったく違うやり方で、外界を経験します。ことばや形についても、独特の感じとりかたをしており、そういう独特なものの感じかたは、障害をもたない人にとっては、新しい発見です。この発見は、本の世界を、より豊かにしてくれるはずです。しかし、まだあまり利用されているとはいえません。それでも私たちは最初の一歩を踏み出し、この小さな一歩からだけでも、実にはっきりと、多数者が少数者から学ぶことがあること、しかもそれには無限の価値があることがわかります。このような新しい本をつくるためには、作家や画家の善意とか理解とかいうようなものだけでは十分ではありません。再出発する心意気と、(ねば)(づよ)さと忍耐を要求されます。作家や画家は、創造することを学ばねばならないのです。

大活字本

弱視の子どもは全盲児(ぜんもうじ)よりたくさんいます。この全盲と弱視では、読書の方法も必要となる手助けも、非常に違います。盲児には、点字の本、さわる本、音の出る本があります。一方、視力の弱い子どもの中には、活字が十分に大きく、弱視の子どもにも見やすいレイアウトになっていれば、ふつうの本を読める子どももたくさんいます。

今日では、視力に障害のある子どものための本が、いかに重要かということに気づいているのは、親や教師や図書館員や出版関係者だけではありません。他の職業の人たちも、関心を示しはじめています。たとえば眼科の医師は、弱視の子どもに低視力訓練*17を受けることをすすめています。弱視の子どもでも幼少の頃から多くの視覚的印象をもてるように、必要な訓練を受けていれば、残された視力を最大に活用できるようになることが証明されています。視力そのものは変わらなくても、訓練を受けない場合よりよく見えるようになるのです。弱視の子どもたちには、できるだけ多くの鮮明(せんめい)な視覚的印象をもてるように、環境を(ととの)えてあげねばなりません。そうすれば、もう一度同じものを見たときに、かつて見たものを思いだし、それと認めることができるようになるでしょう。

1960年代に入って、弱視の子どもに特別の注意が払われるようになり、ふつうの本を読むことが、弱視の子にとっていかに重要かということがわかってきました。それ以前は、教育に関するかぎり、弱視児も目が見えないかのようにあつかわれるのがふつうでした。一九六〇年以降、「大活字革命」が合いことばになりました。点字本と同様に、大活字本のほとんどは、主に大人のためにつくられています。しかし、子ども時代に読む練習をしておくことがとくに大切なのは、いうまでもありません。

音の出る本や大活字本は、弱視児だけではなく他の障害児にも役立つはずです。身体の障害が重くて本を支えられない子どもには、離れたことろからでも読める大きな活字の本が役立ちます。脳性まひの子どもや鉄の肺(人工呼吸の機械。鉄製で円筒型の気密室になっており、患者はこの中に入って首だけ出す。)に入っている子どもにとっても同様です。

上:「王子とこじき」の大活字本(埼玉福祉会)、左:その原本の偕成社文庫

上:「王子とこじき」の大活字本(埼玉福祉会)、左:その原本の偕成社文庫

ある障害をもつ子どものためにつくられた本が、別の障害をもつ子どもの役にも立つという例は、よくあります。そこで、図書館の司書や盲・(ろう)・養護学校の教師は、どんな本が出版されているかという情報をたえず求めることが大切です。また、出版社は、つくる側が予想する以上に需要が多いということに気づくことが大切です。もし、過去に十分な数の大活字本があったならば、じつに多くの子どもたちが、本については不利な立場におかれないですんでいたことでしょう。

障害をもつ読者にとくにふさわしい本は、子どものために出版される本全体の中で、ごく小さな割合を()めるにすぎません。一般向けの本を、障害をもつ読者にも楽しめるかたちでもっとたくさん出版することは、出版社にとって非常にやりがいのある課題です。もちろん、そのような本を現実につくるうえでの一定の基準をもうけるのは容易ではありません。たとえば弱視児だけを見ても、視力や読む能力がひとりひとり非常に違ううえに、読むものの好みや芸術的な刺激に対する感受性(かんじゅせい)の違いがあるのですから。

それでもなお、いくつかの一般的な指針(ししん)を示すことは可能です。たとえば弱視の子どもが読む本をつくるときは、活字を非常に注意して選ぶ必要があります。活字は拡大コピーなど、機械による文字の拡大に耐えうるものでなければなりません。さらに盲人が使うオプタコン*18や弱視者が使う閉回路テレビ*19にも耐える活字であることが必要です。文字はいくらか拡大したほうが、本と目との距離を保つことができ、読む姿勢の改善(かいぜん)*20に役立ちます。しかし、あまり拡大しすぎると、ひとつのことばとしてのイメージがつかみにくくなるので適度な大きさが必要です。

次にさし絵についてですが、視力の弱い読者にとっては、絵の全体像をつかむことは難しく、しかも大切です。そのことをまず念頭におきましょう。ふつうにものの見える子どもは、最初に全体像をつかんでから、次に細部に注目します。視覚に障害のある子どもは逆で、一般的には盲児は指先で、視力の弱い子は目を使って、まず細部に注意を集中し、それから、それをつなぎ合わせて全体像を想像しようと試みます。あまりにも詳細に描かれたさし絵は、部分部分を少しずつしか見られない子どもや、複雑なイメージがわからない子どもを混乱させがちです。したがって、画家と編集者は、どうすればなるべく多くの読者の役に立つ本になるかを知るために、広く情報を得ることが大切です。視力の弱い子どものための本では、中心の題材をはっきり際立(きわだ)たせるために、よけいな細部はすべてとりのぞいてしまう方が賢明(けんめい)です。

視力の弱い子どものための本にふさわしいレイアウトの基準は、このあとに述べる、読む力のおくれている子どものための本のものと、かなり似かよっています。

手話のイラストが入った本

目が見えないとか弱視であるとかいっても、生まれつき、あるいは幼児期から視力に問題がある場合と、話しことばが発達してから視力をそこなった場合とでは状況が非常に違います。

生まれたときから耳が聞こえない、あるいは幼児期からほとんど聞こえない子どもと、話ができるようになってから聴力を失った子どもの状況の違いは、視覚障害の場合よりもずっと大きいといえます。人の話しことばを模倣(もほう)できないということは、耳が聞こえないために生じるハンディキャップの中でも最大のものです。幼児から耳の不自由な人の概念構造(がいねんこうぞう)は耳のきこえる人のそれとはまったく違います。そのため耳の不自由な人は、耳のきこえる人のための文化の中で孤立しやすく、激しい心理的な混乱を経験することになりがちです。

耳の不自由な子どもにとって、手話(しゅわ)*21をできるだけ早くから学ぶことがいかに大切であるかが、近年ますますはっきりしてきました。耳の不自由な子どもも、耳の聞こえる子どもがしゃべりはじめるのと同じ時期に手話を習えば、成長してから習うよりずっとたやすく、話しことばの働きやシンボルとしての意味がわかるでしょう。

親や教師をはじめ、耳の不自由な子どもと日常接する人たちは、ふつうの本を手話に翻訳(ほんやく)しながら読んであげることができます。それでもなお、手話のイラストが入った本は必要なのですが、このような本は世界的にみてもまだごくわずかしかありません。

こういう本は、耳の不自由な子どもにも、本を読んでもらう楽しみを与えてくれるという点からも非常に大切です。手話をはじめて知った人は子どもや若い人も、たいてい()せられてしまいます。手話は、ふつうの話しことばよりもずっと多くの動きと身体的表現をともなう、表現力ゆたかなことばなのです。手話を使った子どもの本は、耳の不自由な子どもたちへの福音であると同時に、耳の聞こえる人たちに、手話を知ってもらうためのよいきっかけになります。

ことばのおそい子どものための絵本

障害児は他の子どもたちと同じようにひとりひとり違っています。そうはいっても、同じ障害をもつ子ども―たとえば聴力障害のような―は、同じような経験をし、同じような経験不足に悩みます。耳の聞こえない子どもと聞こえる子どもとの経験の差は、お母さんのおなかにいる頃からすでにはじまります。耳の聞こえない赤ちゃんは、お母さんのおなかの中で他の赤ちゃんのようにお母さんの心臓の鼓動(こどう)を聞くことができません。耳のきこえない赤ちゃんを観察(かんさつ)していると、赤ちゃん時代のおしゃべり喃語(なんご)が、耳の聞こえる赤ちゃんに比べて変化にとぼしく、泣き声も単調(たんちょう)です。

耳の不自由な子どもにとっては、他の人が何を話しているのかとか、そもそも話すというのはどういうことなのかを理解するのが大変難しいだろうということは、想像にかたくありません。さいわいにも耳が聞こえる私たちには、音のない世界やことばを使わない世界を想像するのは非常に困難です。耳のきこえない人は、一生を通じて、たとえ耳の聞こえる人よりはるかに努力したとしても、社会的、文化的な活動をするうえで、さまざまな制約をうけざるをえません。また難聴(なんちょう)の子どもは、一日じゅう耳から情報を受けとっている子どもに比べて、ことばのもつ意味や内容を理解するのに、時間がかかります。

脳の神経の損傷(そんしょう)のためにことばがおくれている子どもの状況も深刻(しんこく)です。この子どもたちは、耳は聞こえるのに、聞いたことの意味がわからなかったり、自分を表現する手段としてことばを使うことができなかったりします。これは発達性失語症(はったつせいしつごしょう)(小児失語症)と呼ばれます。この子どもたちの、ことばや本に対する幼い頃の反応は、耳の聞こえない子どものそれに似ています。発達性失語症が重くなると、子どもは、シンボルとしてことばを使う方法がますますわからなくなるため、不利な立場に立たされ、そのために、深刻な情緒的混乱(じょうちょてきこんらん)におちいることも少なくありません。自分に理解できないものに耳を傾け、理解 しようとむなしい努力をするのは、まったく聞こえないという状態よりもっと耐えがたいだろうということは、たやすく想像できます。

自閉症の子どもは話しことばをもたないことが多く、耳の不自由な子どもや失語症の子どもと同様に、間違ってよく知恵おくれと診断されます。自閉症でしかも知恵おくれという子どももいますが、一般的にそうだというわけではありません。加えて自閉症児には知覚(ちかく)の混乱*22が見られます。この子どもたちはふつうに遊んだりふるまったりしません。たいていの子どもが、教えられれば話せるようになりますが、その場合でも、話しことばの機能を、コミュニケーションの手段だとはっきり理解しているとはかぎらないようです。話せたとしても、自閉症児の話し方は独特です。短いことば、たとえば助詞などを省略してしまったり、他人から言われたことをオウム返しにくりかえしたりします。まるで自分だけの世界にとじこもっているように指をじっとながめたり、壁に頭を打ちつけたりすることもあります。自閉症児の多くは、話せても人称代名詞*23を使うのが苦手です。「わたし」といえるようになったら大進歩です。それでも、主語としての「わたしが」から目的語としての「わたしに」、「わたしたちが」から「わたしたちに」にたどりつくには、もうひと山登らねばなりません。

自閉症児に関して、多くの専門家は、ことばの混乱が中心的な問題だと考え、話す訓練を最も重要視しています。自閉症児の中には、話すことができなくても静めるようになるケースがときどきあります。たとえばある男の子は八歳になって話しはじめましたが、読むほうはそれ以前からできていました。

ヴァージニア・M・アクスラインの本『開かれた小さな(とびら)―ある自閉児をめぐる愛の記録』(岡本浜江・訳/日本エディタースクール出版部)に出てくるディブスは、自分自身の中にひきこもり、黙ったまま知覚(視覚や聴覚)を働かせ、学んでいる男の子です。アクスラインはそういう子どもにとって、ことばや本が何を意味しうるかを、ディブスの姿を通して私たちに感じとらせてくれます。ディブスがことばや本の中にこれほどのよろこびを見出しているということを、私たちは慎重に考えてみなければなりません。

「本!」ディブスが言った。「本がいっぱい」彼は本に(かる)く指を()れて言った。「ぼくは本が大好きだ。だけど紙の上に黒い小さいしるしがあるだけなのが、こんなにいいものだなんておかしくない? 紙に小さい黒いしるしがあると、それでお話ができちゃうんだなあ」

ディブスは色が好きでした。この事実は、色彩ゆたかな絵本が大切であることを、私たちに教えてくれます。ディブスは自分の絵の具箱の中の、青い絵具のことを、歌にします。

おお、絵具! おおこんなに青い!

なにが、なにが、きみにはできる!

空が()ける

川が描ける

花が描ける

小鳥が描ける

青く()れば

なんでもみんな青になる

おお、青い絵の具、おおこんなに青い!

こぼれる、(よご)れる

走る、落ちる

ぼくの大好きな青絵の具。

動く色

動いて、動いて

おお、青い! おお青い、おお青い!

自閉症の子どもの中には、話しができるようになる前に読み方をおぼえる子どもがいます。自閉症の少年や少女が、幼い頃うたってもらっただけで、わらべ歌や子もり歌などを口ずさむことがあります。また、ことばだけでなく色彩やリズムそしてメロディーを楽しんでいる様子がうかがえます。―これらのことを考えると、自閉症の子どもにとって絵本や歌の本がいかに多くの意味があるかわかります。たいていの人は、話しができない子どもを過少評価してしまいがちですが、心の中には歌や本を通して出会ったさまざまなことばがあるのです。

知恵おくれの子どもも、知能が私たちのようではないという理由で、低く評価されがちです。この子どもたちは、自己を表現する手段も少なく、話しことばも貧弱(ひんじゃく)ですし、一般的な能力も知恵おくれではない子どもに比べてかぎられています。それでも、他の子どもと同じように経験をつんで伸びたいと思っています。本を読み、また、美術的・音楽的経験を重ねれば、この子たちの伸びようとする力はある程度満足させられます。知能がおくれているといっても、ひよわで無力な子どもから、成長すれば自立してやっていける子どもまで、大きな個人差があります。

ほとんどの知恵おくれの子どもは、学習の機会があれば、大人になるまでにごく簡単なものなら自分で読めるようになります。こういう子どもと、ふつうの知能でふつうの読解力があると私たちが考える子どもとのあいだに、はっきりした境界線(きょうかいせん)はありません。

子どもはみな、だれでも、本を求めています。自分で本を読んだり、書かれたことばの意味がわかるようにならないだろうと思われる子どもでも、本を求める気持ちは同じです。絵本は、子どもたちの年齢・障害のいかんにかかわらず必要です。歌の本も同様です。歌の本があれば、親や先生が知恵おくれの子どもにうたってあげたり、ときには一緒にうたうことだってできるでしょう。それからまた、知恵おくれの子どもが、自分の(いだ)いている気持ちや、その子自身の経験を本の中で再確認できるような、やさしい物語が求められています。

前にも書きましたが、障害をもつ子どもが本に親しむ時期としては、幼児期が一番容易(ようい)です。すでにあるよい絵本をたくさん利用できるからです。

耳の不自由な子ども、失語症の子ども、知恵おくれの子どもなどさまざまな障害をもつ子どもたちも他の多くの子どもたちと同様によろこんで見る本として、たとえば、スウェーデンのグニラ・ボルデの、トミーとエミーの本(幼児の生活をいろいろな場面を子どもの視点から描いた絵本シリーズ。)、ドイツのアリ・ミトウグッシュ(絵本作家。幼児の身の回りのことを教える作品が多い)の町や港や農場を描いた本、アメリカのエリック・カール(絵本作家。作品に『はらぺこあおむし』『1・2・3どうぶつえんへ』などがある)の色彩豊かな本などがあげられます。どの本も子どもの心をひきつけ、毎日の暮らしの中にあるものを認識(にんしき)させ、想像力を刺激(しげき)し、単純素朴(たんじゅんそぼく)な形で子どもに美を経験させてくれます。

トミーちゃん・エミーちゃんシリーズ(ボルデ作/偕成社)

トミーちゃん・エミーちゃんシリーズ(ボルデ作/偕成社)

絵本も、あまりに幼稚な内容でなければ、子どもが大きくなってからも使えます。とはいえ、ふつうなら絵本を卒業する年齢に達した子どもにふさわしい絵本を探すのは、容易ではありません。

エリック・カールの絵本『はらぺこあおむし』(偕成社)

エリック・カールの絵本『はらぺこあおむし』(偕成社)

たとえ会話ができなくても、あるいはたどたどしくしかことばを発することができなくても、12歳の子どもは、やはり12歳です。当然、赤ちゃん用の本ではなく、12歳という年齢にふさわしい本をもっているべきです。たとえことばの発達はおそくても、子どもは、幼児から学童へ、さらに若者へと成長し、子ども時代、青年時代を通じて、それぞれの年齢段階にふさわしい本を求めていきます。12歳から15歳くらいの思春期*24の子どもに、服をきたぬいぐるみのクマさんやゾウさんの絵本を押しつけようとしないで、男の子にも女の子にも、その年頃の子どもたちが関心を抱いているような内容の本を見つけなければなりません。日常生活の姿を描いた絵本は、子どもの心を魅了(みりょう)するものですが、その気なって探せばそういう絵本はけっこうあります。会話ができなくても、うまくことばを発することができなくても、あるいは読めなくても、障害をもつ子どもは障害のない子どもとまったく同じように、お気に入りの主題やとくに興味を示すものをもっています。飛行機、宇宙船、列車、船、車、食べ物、家、森、山、町の通り・・・、まだまだいくらでもあります。

機会に恵まれれば、障害をもつ子どもも、関心の広がりを見せますし、その関心の強さは他の子どもと変わりありません。子どもたちはみな、絵本の中で、自分が興味をもっている内容が(あつか)われているのを見るのが大好きです。

色彩は大勢の子どもを楽しませ、美術の本は豊かな美的感覚を(はぐく)(みなもと)になります。また、リズム感が発達している子どもも多いので、簡単な詩を朗読してあげれば、すばらしい情緒的、美的経験になるでしょう。

ことばにおくれのある子どもも、他の子どもと同じように、ときにはひとりで本を楽しみたいと思っています。ひとりで絵をながめ、ページをめくり、自分のペースで読むのです。小人数で誰かに読んでもらう必要もあります。

子どもが成長するにつれて、やさしく読める本の必要性が増してきます。小中学生の興味をそそるような内容や登場人物の活躍を描くさし絵が入っている本がよいと思われます。また、読者が自分と同一視できるような登場人物がいて、その人物がよろこんだりかなしんだり、怒ったりがっかりしたりする様子をあらわした絵がある本も、求められています。ことばのおくれている幼児や小中学生のために変化に富んだおもしろい絵本をたくさん用意できれば、読めるようになるための努力も、しがいがあると思ってくれるでしょう。

最近、出版社も協力的で、ことばのおくれた子どもに適したノンフィクションの本も出版されるようになってきました。ところが、こういう本をあらゆる国で売るようにしたいというので、本の中からお国柄(くにがら)とか地方色を消し、その結果登場人物がどことも知れない奇妙な国に住んでいるようになってしまうことがあります。これでは、その本は現実には誰をも満足させません。とくに知恵おくれの子どもにとっては、こういうあいまいな本は不向きです。知恵おくれの子どもは絵に注目して、そこに現実の生活場面を見つけ出すものだからです。

やさしく読める本

ドロシー・バトラーは『クシュラの奇跡』の中で、こう書いています。

クシュラは、読むことをとくに〝教えられ″はしませんでした。本を通してであろうとなかろうと、言葉とお話を豊富にあたえることが読書教育の方法である、といえるなら話はべつです。私自身は、そういえると信じ、またそれが最上の方法であると信じています。この方法は、読書をよろこびに満ちた過程として経験する―人間として当然のことですが―子どもたちをうみだします。そういう子どもたちは、海綿(かいめん)が水を吸いこむように概念(がいねん)を吸収します。自明(じめい)のことですが、この旺盛(おうせい)摂取(せっしゅ)の助けを得て、子どもたちは人生を構成する複雑で矛盾(むじゅん)した経験の中に意味を見出すことができるのです。(百々佑利子訳/のら書店より)

赤ちゃん時代から絵本に親しむ

もし子どもが小さい頃からさまざまな本に接していれば、それからの人生を本に親しんですごし、ことばの数も増え、想像力もまた刺激されていくでしょう。絵本やわらべ歌や音読(おんどく)を楽しみながら育った子どもは、学校生活をはじめるにあたって、よりよい出発点に立つことになります。いずれは読みの面がおくれると予想される子どもは、とくに小さい頃から絵本や歌に親しんでおくようにしたいものです。なぜなら、もともと話すことの苦手な子どもたちが、学校生活の中で読む力を身につけるのは、とても大変なことだからです。話ができるようになるより、読めるようになることのほうが、もっと難しいのです。

ことばがおくれている子どもとはべつに、読む力だけがおくれている子どももいます。読みのおくれは、ことばの障害の中でもっともよく見られるものです。先進国では、学校生活を終える生徒の十パーセントから二十パーセントが、日常生活に必要な読解力(どっかいりょく)を身につけていません。わたしたちの社会では、情報を得るためには読まなければならないことが多いわけですから、読みの学習は、教育全体の基礎になる大切な問題です。また、印刷されたことば(活字)の果たす役割は近年ますます大きくなっているのが世界的な傾向でもあり、読めない子どもとか読みが苦手な子どもが(かか)える問題は、重大になる一方です。

心理学、教育学の本や雑誌の多くに特徴的(とくちょうてき)なのは、著者たちの多くが、ことばの発達のおくれ、学業不振、読む力の低さなどにほとんどの注意を集中してしまい、どういうわけか、子どもの本がこういう子どもに果たす役割を忘れているか、あるいはまったく気づいていない、ということです。しかし、子もり歌をはじめとする歌や絵本は、学校へ入る前の子どものことばの発達を(うなが)しますし、本を読めるようになろうと非常な努力をしている子どもたちには、読めるということはなんてすばらしいのだろうと感じさせる、魅力のある本が必要だということを、忘れるわけにはいきません。

作家や出版社が障害児の問題に関心を示すようになり、読むことにもっとも奮闘(ふんとう)している子こそがもっとも魅力的な本を使うべきだと気づいたのはごく最近のことです。

いうまでもありませんが、やさしく読めておもしろく、人の心をひきつける本は、読むことへの興味をかきたて、反対に、たいくつでつまらない本には、逆の効果しかありません。よい本は、積極的動機(せっきょくてきどうき)づけ*25と呼ばれる働きをします。

子どもはふつう小学校に入って一年で読めるようになりますが、知能はふつうで読む力だけがおくれている(失読症)子どもは、平均的なふつうの速度で読めるようになるまでに、四、五年、あるいはたぶん、小学校を終えるまでの全期間を要します。しかもそれは読みやすい本が広範囲に手に入り、よい指導とすぐれた読書教材がそろっているという最善の条件に恵まれていてのことです。読みを学ぶためには、読むしかありません。本の種類も内容も豊富にそろっていれば、読みたい本の選択の仕方も学べます。

本を読みやすくするのは何でしょうか

まず、本の体裁(ていさい)、印刷の仕方、レイアウトなどを吟味(ぎんみ)しなければなりません。行は短く、できれば一つの文章を十センチ以内に押さえるべきです。文字は比較的大きい方がいいのですが、一つ一つの文字がバラバラに見えるほど大きくてはいけません。サンセリフ活字(太さが同じ活字)は()けるべきです。語と語のあいだは十分にあけるべき(分かち書き*26)ですが、各語が孤立して見えるほどにはしません。同様に、行間は広くとるべきですが、行と行の関係がわからなくなるほど間隔のあいているのはこまります。紙の色は、黒い活字をうまく際立(きわだ)たせるものを選びます。オフ・ホワイトとか、わずかに黄味を()びた紙がよいでしょう。純白な紙や光沢(こうたく)のある紙は、目がチカチカして読みづらくなるので避けた方がいいでしょう。紙の厚さはペラペラした薄すぎるものは避け、また、紙のきめも(あら)すぎないものを選びます。本の大きさは、圧倒(あっとう)されそうな感じを与えるほど大きくてはなりません。本文は、かなり短い章にわけ、各章はいくつかの節にわけて、読む子どもがひとつひとつ区切りをつけられるようにすべきです。

以上のような条件を満たす本は、読書障害(失読症)の子どもはもちろん、失語症、(ろう)、知恵おくれ、弱視など、他の障害のために読みの学習が難しい子どもにも適しています。もし本が、見たところ読みやすそうだったら、読む努力をしてみようという気になるし、そのために実際読みやすくもなります。思春期の少年少女にとっては、与えられる本が、年齢に比して幼稚に見えないことが非常に大切です。幼い子どもたちは大きな字を好みますが、年齢の高い子どもは前述したような条件が満たされる本なら、たとえ活字が少々小さくても、めんどうがらずに読んでみようという気になります。

絵の配置と内容にも注文があります。

読む力のおくれている子どもにとっては、多くの場合、本そのものが、子どもの前に立ちはだかる壁になります。でも、魅力的な表紙は子どもを本にひきよせ、一方さし絵は、読んでみようという気持ちを起こさせます。さし絵は対応する本文になるべく近い位置に配置し、本文を補い、さし絵がなければとても多くの書きことばを必要とするような状況を絵で生き生きと伝えるようにします。もちろん、さし絵は本文とくい違わないようにすることがとりわけ大切です。

さし絵に対するこのような注文は、当然ながら、読み手の必要に応じて大きく違ってきます。たとえば、読み手が主に読む力がおくれているのか(失読症など)、あるいは精神的なおくれがあるために読みに問題を(かか)えているのかによっても、さし絵の条件は違ってきます。知恵おくれの読者にとっては、描かれている物の大きさの釣りあいがとれていること、つまり一枚の絵の中にいくつかの物が描かれるなら、小さな家は小さく、大きいゾウは大きく描かれていることが大切で、しかも、これらのさまざまなものが、本のはじめからおしまいまで、どのページでも同じ大きさでなければなりません。また、ふつうに見られる形に描かれていない絵は、知恵おくれの子どもを混乱させてしまいます。一方、弱視の読者にとっては、輪郭(りんかく)がはっきりしていて、細部がごちゃごちゃ描きこまれてないことの方が大切です。

本の中のことばも、吟味(ぎんみ)しなければなりません。

文章は、やさしいことばを使って、なるべく短くし、文の組み立ても、単純にするべきです。長すぎることばは使わず、新しいことばがでてきたら、いろいろな違う文脈(ぶんみゃく)の中でくりかえし使うようにしなければなりません。外国語やなじみのないことばは避けたほうがよいでしょう。とはいえ、ことばに対する注文は、どういう障害の子どもを念頭(ねんとう)におくかによって、大きく違ってきます。たとえば、読者は知能がおくれているのか、知能はふつうで読む力だけがおくれているのかによって、要求されるものが違うからです。

弱視の子どもたちには、特別やさしいことばを使う必要はありません。この子どもたちにとって特に大切なのは、本の体裁(ていさい)、表紙とか印刷の仕上がり、レイアウトなどです。一般的にいって、読む力だけがおくれている子どもは、多少難しいことばや抽象的(ちゅうしょうてき)な考えをあらわすことばであっても、前もってその語を知っていれば、読みこなしていきます。

耳の不自由な子どもにとっては、絵文字*27比喩(ひゆ)、音の印象とのつながりがあることばはわかりにくいようです。しかし、本の主題や物語が、十分に楽しめるものなら、ことばが多少難しくても読みこなしてしまいます。

本の内容にも基準を(もう)けなければなりません。

やさしく読める本が必要な子どもたちも、他の子どもたちとまったく同じように、幅広い内容の本を求めています。動きが多い物語を好む子どももいれば、人間関係に重点を置いた物語を好む子どももいます。しかしどの場合にも共通するいくつかの条件があります。

まず、本論に入る前の導入部が、あまりに長いものはふさわしくありません。 どこへいきつくかわからない、だらだらした説明は避けるべきです。また、会話が入っていると読みやすくなります。

もちろん、一番大切なのはその本の内容が読者の興味をそそり、読者をひきつけるものであることです。そういう本で、読み手の年齢にふさわしければ、多少難しくても、子どもは熱中します。知恵おくれの子どもには、本文は簡潔でなければなりませんが、読む力だけがおくれている子どもや弱視の子どもには、もちろん、この条件はあてはまりません。一般原則(いっぱんげんそく)として、扱う内容が難しければ難しいほど、ことばはやさしくした方がよいといえます。たぶんこの条件が、読む力のおくれている読者のために書いたことのある数少ない作家たちに、この仕事は彼らの文筆活動全体に豊かな実りをもたらす、と感じさせる理由でしょう。これらの作家たちは、読む力のおくれた読者のために書くことを、詩を書く場合になぞらえて、こういっています。

「ここでは、ことばをいいかげんに使うことはゆるされない。たったひとつの、ぴったりしたことばを見つけ出さねばならない。文体と、リズムと、主題とにぴったりあった、たったひとつのことばを」

読む力のおくれている幼児や少年少女のために、広いテーマにわたる難易度(なんいど)もさまざまな本が豊富に用意され、読者がその中から自由に好きな本を選べるようになっていることが必要です。一方、読む力のおくれている人のための本をつくることと並行して、一般の児童書をもっと魅力的にする努力も払われねばなりません。出版社の人たちは、自分たちがつくった本が、大変な努力の末にやっと読めるようになった子どもたちの手にもわたるのだということに気づかなければなりません。膨大(ぼうだい)な数の一般の児童書を、もっと魅力的で、もっと読みやすくすることは、やりがいのある仕事です。

毎日、本とともに仕事をしている人にとっては、本というものが越えがたい壁になることがあるなどとは、なかなか信じられません。しかし、もしすべての本が自分にはほとんどわからないことばで書かれているとしたらどうなるかを、想像してみれば、おおよその察しはつきます。そうなったら私たちは、あまり分厚(ぶあつ)くない、読みやすい活字の、ページごとに難しいことばや新しいことばが出てきたりしない、さし絵のある本を選ぶでしょう。その本はきっと、行間は適度にあいていて、各節、各章のあいだにも適当なスペースがあり、物語に色どりをそえて先を読みたいと思わせるような、さし絵がついているでしょう。そして何よりもまず、読み手の心をしっかりととらえてはなさないような本でしょう。