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平成18年度厚生労働科学研究
障害保健福祉総合研究成果発表会報告書

地域づくりと関連した効果的な地域生活支援サービス体制の在り方と「地域力」の再構築に関する研究

平成18年12月9日(土)

第1部 研究成果報告

(3)研究における「地域力」

まず、これまでの検討を踏まえ、本研究における「地域力」について、各節の内容を確認しておこう。

① 本研究では一定の地理的な「地域社会」において発揮される「地域力」に着目する(「地域」の意味)。

② 「地域力」の主体や、内容を多様なものとして理解する。

③ 障害者が地域生活を営んでいくうえで、必要な社会的な基盤をフリードマンのモデルから明らかにし、それを地域の資源とする。地域社会がそうした資源をどの程度保有しているか、また、アクセシビリティがどの程度保障されているかによって、地域力と考えることができる、とする。

④ 多様である地域力の主体を①公助、②互助、③共助、④自助として捉える。

以上のことから、本研究でいう地域力を、以下のように定義することにする。

「要支援状況にある者が地域社会において、あらゆる場面で社会関係を維持しながら、自分らしい暮らしをしていくことを可能にするような地域社会が保有する多様な主体によって提供される各種資源の総体であり、こうした地域社会の資源にアクセスできる可能性の程度のことである。」

3.「地域づくり」の施策や方法に関する実態調査

障害をもつ人たちやボランティアが「明日に架ける橋チーム」という踊り集団を結成し、広島県三原市の伝統行事である「やっさ祭」に参加したことにより、障害者に優しい街に変容してきている様子を紹介しながら、地域力を向上させる具体的施策を考察していきたい。

(1)三原市における街おこしと「やっさ祭」の歴史

永禄10年(1567年)、戦国時代の智将とうたわれた、毛利元就の三男小早川隆景が、瀬戸内の水軍を統率するために水、陸、交通の要地である備後の国三原の湾内に浮かぶ小島をつないで海城を築いた。

やっさ踊りは、この築城完成を祝って老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝ごとは「"やっさ"に始まり"やっさ"に終わる」という慣わしになったと伝えられている。

また、その歌詞は、時代とともに移り変わり近郷の地唄、はやり唄なども大きく影響し、歌も身なりも変化し、踊り方も型にとらわれることなく、賑やかにはやしをとり入れて踊るようになり、はやしことばが「やっさ、やっさ」と声をかけられるところから、いつしかこの踊りを”やっさ踊り”と呼ぶようになった。

全盛を極めた明治のはじめ頃は、子供が踊りの先頭で白シャツに白鉢巻姿で、日の丸扇子を両手にもって踊り、その後に各組の踊り子が続いた。また、当時の娘たちはみな三味線がひけたもので、毎年うら盆の3日間は、町中を踊りまわり、夜が明けるまで賑わったそうである。(やっさ祭HPから資料収集)

三原城(浮城)が築城されてから440年という年月が経ち、天守閣は焼失して、現在は城跡しか残っていない。この城が物語っているように、「やっさ祭」も440年の間には、形も変わってきているし、衰退していた時期もあった。街の小さな“盆踊り”として細々と踊り続けていた「やっさ祭」は、日本の高度成長期に『帝人株式会社』が三原工場を創業したことで、街が大きく栄え、「帝人通り」という名前の付いた商店街が繁盛して、エネルギーが満ち溢れた時代に、現在の大祭へ向かう原型が形成されることになる。市民等は、毎年8月に開催される「やっさ祭」に向けて、町内会や企業単位で「連(チーム)」を作り、踊りを競うようになった。

しかし、バブル経済が終焉を向かえ、繊維不況が現実性を増してくる中で、三原市のエネルギーも消失するような状況になり、商店街の人通りも少なくなり、市民の気持ちさえも暗く落ち込んでいったと聞いている。

「やっさ祭」が現在の形態になって、平成17年に30周年を向かえた。不況の時代においては、街から出て行く若者たちも増え、「やっさ踊り」も寂しい時代があったが、三原市は県立大学を誘致し、若者のエネルギーを導入し、商工会議所等も地道な「まちおこし」を継続していく中で、三原市民や近隣市町村民が団結して盛り上がる力を「やっさ祭」という形で表現していると理解している。

(2)「やっさ祭」における“明日に架ける橋チーム”の意味と意義

三原の「やっさ祭り」において、様々な障害をもつ人たちとボランティアが集まり、踊りの連を結成し、活動を続けているのが「明日に架ける橋チーム」である。

「明日に架ける橋チーム」の始まりは、三原福祉短大(現県立保健福祉大学)ボランティア部の部員たちが、1998年1月、車いすに乗った重度障害者宅に訪問し、「いっしょにやっさ踊りに参加しませんか」と話し掛けたことからはじまった。「踊り」とは遠い存在でしかなかった障害をもつ人たちは、自分たちも参加できるという夢をボランティア達と語り合い、多種多様な障害をもつ人たちと、障害のない人たちがいっしょに踊ることができる連(チーム)を結成することになった。

三原福祉短大ボランティア部が中心となり、障害をもつ人たちの小規模作業所を始めとするグループ、団体に連絡を取り、さまざまな反対意見や苦情を乗り越えて「明日に架ける橋チームが、1998年8月に結成された。初年度は、「広島頸損ネットワーク(頚椎損傷者の会)」、「あいうえおの会」、「希望作業所」、「さぼてんの会」、「スイミー(障害児者水泳サークル)」、「どれみの会」、「ひまわりの家」、「三原ケアネットワーク」、「三原市障害者の生活保障をすすめる連絡会」、「三原ライオンズクラブ」、「ワークセンター創造」、「広島県立保健福祉短期大学ボランティア部」という障害当事者、福祉関係者、ボランティアなどが集い、総勢132名もの大団体を結成しました。

このチーム名は、障害当事者でありながら、この活動の中心であった古跡博美さんの提案で、サイモンとガーファンクルの「生きることに疲れはてみじめな気持ちで/つい涙ぐんでしまう時その涙は僕が乾かしてあげよう」という「明日に架ける橋」から名付けたと聞いている。

連の名付け親である古跡さんは、自分が「やっさ踊り」に参加しようとした時の心情を次の短歌で表現している。

  寝たきりの 生き様この世に さらけ出し 明日に架ける 橋を示さん

障害をもつ人たちが車いすで参加すると「危険である」とか、知的障害をもつ人たちに「踊りは無理だ」というような誹謗中傷が飛び交う中で、大きな連を作って参加したことはたいへん大きな意義があった。この年に「明日に架ける橋チーム」は、踊り部門で『新人賞』を獲得し、名実共に「やっさ祭」の一員として認知されたことになる。

当初は、学生主体の委員会が運営されており、それに伴うたいへん多くの課題が山積していた。地域のおとなたちが、学生を自分たちに都合が良いように使ってしまおうとすることが多くあり、彼らも困惑して、上手に機能しなくなってきていたし、実際に疲弊してしまっていたことも事実であった。そこで登場してくるのが、地元で福祉活動や文化・商業に携わっていた良識ある大人たちであった。

大学生がやっさ祭への参加を立ち上げたことは、「明日に架ける橋チーム」が結成される重要な要素の一つであった。そして、もう一つは、大学の教員たちや福祉および看護の専門職がボランティアグループを結成している「みはらケアネットワーク」の存在を忘れてはならない。そのグループが持つ発言力は、三原市社会福祉協議会や三原市担当課に対しても大きい影響力を持ち、ボランティアセンターを設置して、ボランティア・コーディネーターを配置したことも、「明日に架ける橋チーム」の活動を継続させている重要な要素であることを認識しておく必要がある。学生中心で不安定であった組織が、このような動きを起点として、初期の主導的な集団を形成したと考えられる。以後、主導的集団については複数の集団ができあがり、現在に至っている。

学生が中心であった時と比較して、特に大きく変わったのは、ボランティアと社会福祉協議会の関係であった。三原の街に従来から存在した「慈善と奉仕」というボランティア観を変化させるには、多くの時間と労力を必要とした。また、社会福祉協議会のボランティアセンターによる「ボランティア管理」という考え方を定着させ、その手法を導入していくには多くの苦労があったようである。しかし、阪神淡路大震災の救援活動における西宮市と神戸市が実施したボランティア対応の事例を参考にして、実践活動が定着したと言える。

また、「明日に架ける橋チーム」に関係するボランティアが自分たちで研修を企画・実行し、ボランティア・アドバイザーとして自立運営し、社会福祉協議会のセンターから独立することができた点が最も大きな出来事であり、大きな転換点だったと言える。このような事柄の積み重ねが、現在の『人にやさしい祭り委員会』という実行組織につながっていると考えられる。

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