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第16回リハビリテーション世界会議

項目 内容
開催日 1988年9月5~9日、東京 (英語版)

目次

総会

分科会

関連プログラム

行事

概要

記録

発刊の挨拶

第16回リハビリテーション世界会議は、昨年9月5日から同月9日まで東京において開催された。この世界会議は、第1回が1929年スイスのジュネーブで開催されてから60年の歴史を有するが、アジアで開催されたのは今回が初めてのことであった。これは、アジア・太平洋地域諸国にあった、かねてからの要望に応えることになったし、また、私どもとしても、「アジアをはじめ開発途上国における障害の予防とリハビリテーションの取り組みを推進すること」を、この会議の主題の一つにしていたから、この意味でもこの会議の開催意義を高めることとなった、それに加え、アジア・太平洋地域をはじめ開発途上国からいままでにない数多くの参加者を迎えたことは、主催者として大きな喜びであった。
かくして、第16回リハビリテーション世界会議は、93か国(地域を含む)、2、800名の参加者数を得て、盛大裡に幕を閉じたのであったが、リハビリテーションの歴史に輝かしい一ぺージを加えることができたと信じる。これは、企画、運営に心をくだいた国際リハビリテーション協会の会長、事務総長、各国の関係者をはじめ、日本の組織委員会の皆様方のご尽力によるものであり、衷心より感謝を申し上げるものである。

さて、この会議を総括して報告書を刊行する運びとなった。
総会・分科会については、講演、発表された論文のすべて、映画祭、展示、美術とパフォーマンスについてはその概要、施設見学についてはコースと個別の見学場所などを編集し、このほかに、各準備運営部門の業務記録などや会場の状況写真などを組み込み、会議の全体が網羅されている。
なお、ポスターセッション、プレ/ポスト・コングレス・セミナーについては、紙面の都合で、本書にはプログラムのみしか収録できなかったが、発表論文の一部は、「リハビリテーション研究」58、59合併号および60号に掲載されていることを付記する。
この報告書によって、会議に参加された方々には、出席できなかったセッションの内容をも余すところなく知ることができるのに加え、全体を通覧することによって、思い出を暖めるよすがともなろう。また、残念ながら参加できなかった方々には、会議のアカデミックな側面だけでなく、会議全体についての雰囲気も感じとって頂けることと思う。
いずれの場合も、願わくば、あらためて障害者リハビリテーションの今日的課題に検討を加え、もって、その向上、前進のためにご支援、ご貢献を賜わることを心からお願い申し上げたい。そのために、この報告書が多少なりともお役に立ちうれば、幸いこれに過ぎるものがないと存ずる。

終わりに、この会議にご指導、ご後援を賜った政府および関係機関、東京都、また、多大の資金援助を賜った日本小型自動車振興会はじめ各方面の方々、特に、実務面で多大のご努力を頂いた全国社会福祉協議会、日本障害者雇用促進協会、日本障害者リハビリテーション協会の方々に対して、深甚なる謝意を表するものである。

第16回リハビリテーション世界会議
会長 太宰博邦

発刊の挨拶

昭和58年秋にワシントンにおいて、日本がアジアにおいて初めての開催国として第16回リハビリテーション世界会議を引き受けることが決定し、日本のリハビリテーションの関係者の総力を挙げて準備をすすめるうちに、5年の歳月がたちまち過ぎ去り、昭和63年9月5日より9日まで東京において開催された。
メインテーマ「総合リハビリテーション―その現実的展開と将来展望」のもとに、総会8、分科会30の基調講演など学術プログラムを中心に、その他、特別分科会、ポスターセッション、映画祭、美術とパフォーマンス、展示など多彩なプログラムが成功裡に終了した。
障害者のリハビリテーションは、5億にのぼる障害者を有する世界の全人類が取り組むべき問題であり、21世記を迎えようとしている人類が、障害者を抱擁、統合し、あたたかく成熟した社会を実現するには何をもっともなすべきかを、人類の真価を問う問題として、世界中のリハビリテーションにかかわる人々が一堂に会する機にともに論じあうことを念願とした。

総合リハビリテーションは、医学、教育、職業、社会、すべての分野にまたがる協力が必要であり、障害の種類も、身体、精神を含む多種多様化と、増加の傾向がみられる今日、真に実効をあげるための現実的アプローチを考えることを、会議の基調においた。そのひとつの方向として、地域に根ざしたリハビリテーションが多く論じられたが、ある意味では、経費のかかる施設や方策にまかせるリハビリテーションに対するアンチテーゼとも言えるものであり、障害者リハビリテーションの本来のあり方の問い直しともいえるものであった。
しかし、その実現も、単に理念や考え方の押し付けでは成功しないであろう。障害をもちつつ生きていくためには、障害者自身として何をなすべきか。それらの人々とともに生きるコミュニティとしては、何をなすべきか。素朴な人間としての態度、やさしさが根底をなすものであり、人類の真価に応えうるものであろう。マテリアリスティックなビジネス文明に人間性を失いつつあるような観のある今日、ヒューマニティのリハビリテーション(人間性の回復)こそもっとも重要であるという声が、第16回リハビリテーション世界会議のいたるところで聞かれたのは、主催者としてうれしく感じたことであり、日本で開催した甲斐を求めてもよいのではないかと考える。

会議の前後に日本各地で行われたプレ/ポスト・コングレス・セミナーや、施設の参観もおおむね好評であり、文字どおり日本のリハビリテーション関係者の総力を挙げた成果はあったものと信じる。
本会議を、このように盛大かつ成功裡に終えることができたのは、組織委員会各位のご努力、国内外の障害者リハビリテーションにご理解のある各位のご協力、ご支援の賜であり、ここに心よりお礼申し上げる次第である。
本報告書が、世界の障害者リハビリテーション活動をすすめるうえに、里程標として歴史的な意義をもち、次の世代への貴重な記録となることを念願してやまない。

第16回リハビリテーション世界会議
組織委員長 津山直一

発刊によせて

第16回リハビリテーション世界会議は、国連が提唱した「障害者の10年」の折り返し点に当り、もっとも際立ったイベントとして、すべての参加者が、リハビリテーション分野においてこれまでの成果を振り返り、また、未解決の課題を論じあう、またとない機会を提供した。
会議は、総合テーマ「総合リハビリテーション―その現実的展開と将来展望」に沿って進行した。社会のすべてのメンバーに機会の平等が与えられるべきである、という理念を共有し、この会議に臨んだ参加者にとって、この会議は、将来この理念を達成する政策と目的を考慮するに当り、現実的評価に基づいてそれらを再構成する機会となった。

組織だった連携と遂行により、会議を素晴らしい成功に導いた、世界会議会長の太宰博邦氏および日本の組織委員会委員各位、ならびに、いろいろな実質的援助をいただいた日本国政府に心から称賛と感謝のことばをおくりたい。

会議では、基本的な課題と中心テーマが論じ合われた総会や、重度重複障害者に対する総合的サービスからリハビリテーション工学まで個々の問題を扱った分科会、特別分科会といった幅広い多様なプログラム、また、映画祭、非常に興味深かった施設見学ならびに展示がプログラムを完壁なものとした。

約400のペーパーとポスターが発表され、会議に重厚さを加えた。しかし、もっと重要なことは、この会議で障害者問題の解決をともに考えるために、国家、政治、人種、宗教の壁をこえて世界中の人々が一堂に会したことであろう。

世界会議はまた、障害者と、科学者、政治家、リハビリテーション専門家、知識と情熱を障害者のための仕事に向けている人々といった非障害者が、問題を解決するためにいかに協力しているかを世界に示す機会ともなった。

この報告書は実際の経験から得た理念、モデル、ケーススタディを、幅広く含んでいる、これらは、会議の本当の成果を示し、将来の活動のための基盤を与えてくれる。

最後に、これらの理念と概念を私たちの生命の根源にかかわるものとして再確認し、障害をもつ人々が自立し、尊厳をもって我々とともに人生を享受できるように協力していこうではないか。

国際リハビリテーション協会
会長 Dkfm.Otto Geiecker

プログラム一覧

9月1日(木) 国際リハビリテーション協会役員会
9月2日(金)~3日(土) 〃総会
9月4日(日) 〃アジア太平洋地域委員会
9月4日(日) 〃アジア太平洋地域委員会各小委員会
9月5日(月)

9:30 総会I開会式
11:00 総会II 基調講演:総合リハビリテーション……その現実的展開と将来展望




























14:00 分科会SA‐1
各国の総合的障害者政策の発展……政策発展のダイナミックス
分科会SA‐2
コミュニティ・ベースド・リハビリテーション
分科会SA‐3
自立生活のトータルコンセプト
分科会SA‐4
リハビリテーション工学の新たな動向
分科会SA‐5
らい……障害予防とリハビリテーション
16:00 分科会SB‐1
法制
分科会SB‐2
職員等の研修
分科会SB‐3
重度重複障害児・者への総合的サービス
分科会SB‐4
先端技術と義肢装具
の進歩
分科会SB‐5
東洋医学と
リハビリテーション
展示
18:30 レセプション

9月6日(火)

9:00 総会III 総合リハビリテーション……地域のニーズに合わせた現実的展開

































11:00 総会IV 機会の平等化……障害者雇用








14:00 分科会SC‐1 障害者の職業 評価……革新的 技法 分科会SC‐2 技術革新と障害者雇用の 新しい展開 分科会SC‐3 社会保障制度への リハビリテーションの 統合 分科会SC‐4 新しい情報工学 ……障害者による マスコミへのアクセスの 改善 分科会SC‐5 ニード別課題 乳幼児
16:00 分科会SD‐1 経済的制約下の 障害者の職業訓練と 就職斡旋の新しい現実 分科会SD‐2 適正な技術の創出と活用 分科会SD‐3 ニード別課題 高齢者 分科会SD‐4 社会統合のための マスコミの利用 分科会SD‐5 障害青年の 教育のニーズ
     

9月7日(水)

特別分科会WS‐1 ニード別課題:精神薄弱
特別分科会WS‐2 第3回アジア理学療法学会
特別分科会WS‐3 国際作業療法会議―アジア・太平洋地域を中心に―
特別分科会WS‐4 障害児:生存と発達
特別分科会WS‐5 レジャー・レクリエーション・スポーツ 特別分科会WS‐8 RI医学委員会―能力と障害の評価
特別分科会WS‐6 社会保障における障害給付 特別分科会WS‐9 自立生活と介助サービス
特別分科会WS‐7 リハビリテーション専門家・情報の国際交流 特別分科会WS‐11 福祉機器の供給システム―車いすを中心に
美術とパフォーマンス
展示
映画祭
施設見学

9月8日(木)

9:00 総会V 将来への展望……その現実と可能性




























11:00 総会IV 新たな現実を生む技術







14:00 分科会SE‐1 建築と交通機関の バリア・フリー・デザイン 分科会SE‐2 ニード別課題 精神障害 分科会SE‐3 態度の変容… 性と障害者 分科会SE‐4 ニード別課題 視覚障害 分科会SE‐5 障害予防技術と 生命の倫理
16:00 分科会SF‐1 スポーツ、レジャー、 レクリエーション 分科会SF‐2 ニード別課題 アルコール、 薬物依存 分科会SF‐3 女性障害者… 機会の平等化 に関するレポート 分科会SE‐4 ニード別課題 聴覚障害 分科会SF‐5 社会リハビリテーション: 北欧方式
18:30 日本の夕べ

9月9日(金)

9:00 総会VII 21世紀への展望……西暦2000年のRI 美術と
パフォー
マンス


11:00 総会VIII 閉会式

第16回リハビリテーション世界会議テーマソング

いつか

作詞 後藤禎忠
作曲 能智かおる
歌 小園優子 酒井靖
(たんぽぽの家ボランティア)

  1. 優しさ忘れていたわけではないけど心をメイク・アップしてたからいつも装ってた
    だけど君の笑顔に出会って君の汗が光るのを見たから装うのやめた
    いつか きっとこの手を思いっきり伸ばしてあしたをつかむため少しずつ今を重ねよう
  2. 希望(のぞみ)忘れていたわけではないけど心が恥じらっていたからいつも逃げていた
    だけど君のヒトミに出会って君の涙が光るのを見たから逃げるのをやめた
    いつか またこの足で思いっきり走って夢に近づくため少しずつ今を重ねよう
    いつか きっとこの手を思いっきの伸ばしてあしたをつかむため少しずつ今を重ねよう
    いつか またこの足で思いっきり走って夢に近づくため少しずつ今を重ねよう

開会式

開会式プログラム

日時:9月5日(月) 9:30~10:30
会場:京王プラザホテル コンコード
司会 植木 彰(NHK)

歌 「イマジネーション
常陸宮・同妃両殿下ご入場
開会宣言

  • 議長 津山直一組織委員長
  • 副議長 Mrs.Susan Hammerman(RI事務総長)

挨拶 太宰博邦会長
歓迎の辞 Dkfm.Otto Geiecker(RI会長)
おことば 常陸宮殿下
祝辞 内閣総理大臣 竹下 登
祝辞 東京都知事 鈴木 俊一
メッセージ 国連事務総長 Mr.Javier Perez de Cueilar
RIリージョン紹介 参加者を地域別に紹介
映画祭入選作品紹介
映画祭グランプリ授与 イギリス作品

  • 「ジェフリー・テート:あえておおいなる賭を」
  • 製作者:Mrs.Patricia Ingram & Mr.John Ingram
  • 配給元:Central Independent Television

第16回リハビリテーション世界会議テーマ曲入選歌発表、表彰
「いつか」 作詞者:後藤禎忠
歌 「いつか」 小園優子、酒井 靖
常陸宮・同妃両殿下ご退場

挨拶

第16回リハビリテーション世界会議
会長  太宰 博邦

本日、常陸宮、同妃両殿下のもとに、世界各国から関係者多数をお迎えして、第16回リハビリテーション世界会議を開催することができましたことは、主催者として深く喜びとするところであります。
御承知の通り、この世界会議が1929年にスイスで開催されて以来ここに60年、今回初めてアジアで開催されたのであります。
由来、この種の大会が開催されますと、その近隣地域のリハビリテーション活動が大きな刺激を受け、一段と発展することは過去の実績が示しているところであります。
したがいまして、今回のアジアでの開催は、必ずや、遅れているこの地域のリハビリテーション活動を大いに促進するものと信じるものであります。
そこで、折角のこの機会でありますから、特にアジア各地から少しでも多くの関係者の参加を得て、広く世界の趨勢を把握すると共に、地域のニーズに即した現実的な成果を持って帰っていただけるよう、会議の運営にも種々配慮しているところであります。
次に申し上げたいのは、時期的にちょうど国連「障害者の10年」の折り返し点に開かれた会議であるといういうことであります。国連の提唱により世界各国は一緒になって10年の長期行動計画を立てて推進して参りましたが、昨年で前半の5年を経過しました。この機会に各国の関係者が一堂に会して、過去5年を省み、後半に臨む態勢を整えるため、語り合うことは、まさに意義あることと思うものであります。
第三に、近来は障害者自身の会議への参加が喧しく要請されるようになり、今回の会議におきましても、多くの障害者の代表の方々をお迎えしております。これは誠に喜ばしいことであり、大きな進歩と申すべきでありましょう。しかし、この方々の参加を確保するとなると、万事障害のない人を中心に設計されている現在の社会においては容易なことではありません。私達も輸送、会場の設備、あるいは会議の運営その他について、可能な限りの配慮を致したつもりでありますが、なお不十分な点が多々ありますことを何卒ご容赦いただきたいと思います。
我が国は第二次大戦後、欧米各国の経験に学びつつ、逐次、リハビリテーションの施策を展開して参りました。とくに国際障害者年を契機に障害者問題への理解と関心が深まったことを反映して、リハビリテーション・プログラムは一段と充実されてきましたが、なお改善すべき問題が少なからず残っていることも事実であります。
この会議を機会に各国の方々に日本のリハビリテーション活動の現状を見ていただくと共に会議のさまざまな場を通じて、各国の方々から多くのことを学ばせていただきたいと思います。
最後に皆様方のご協力によって、本会議が大きな成果を挙げることができますよう心から祈念してご挨拶とします。

歓迎の辞

国際リハビリテーション協会
会長  Dkfm.Otto Geiecker

国際リハビリテーション協会(RI)会長として、またRIの全加盟団体を代表いたしまして、ご臨席の常陸宮、同妃両殿下に心からご挨拶申し上げます。
第16回リハビリテーション世界会議の参加者全員にとりまして、この開会式に常陸宮、同妃両殿下ご臨席の栄誉を賜り、障害者に対するご理解とご支援を示していただきましたことは、この上ない光栄でございます。また、これまでに障害者の問題に対して示されましたご理解に対しても、深く御礼申し上げます。
竹下総理大臣、鈴木都知事、各大臣ほか関係者の方々、国連をはじめとする国際組織の事務総長や代表の方々、その他来賓の方々にご出席いただきましたことを大変嬉しく存じますとともに、深く感謝申し上げる次第です。
本大会の会長、太宰博邦氏、RIアジア・太平洋地域副会長の津山直一氏を長とする組織委員会の方々のご尽力と日本政府の絶大なご支援をえて、この世界会議が実現される運びとなりました。慎重かつ深い知識によってプログラム作成に努められ、大会成功の準備を整えてくださいましたことに、重ね重ねお礼申し上げます。
会議というものは、参加者の積極的な参加と貢献があってこそ意義あるものとなります。皆様の討論への参加や論文が集まって、大会の目的やRIの活動を表すモザイクが創られるものです。
そのようなわけで、この大会の成功をめざして東京に来られました皆様を心から歓迎いたします。また、障害を持つ人としてここに参加され、その経験と意見を、この会議の成功のために生かしてくださる方々を、心より歓迎致します。私達が直面している問題の解決に力をあわせて取り組みましょう。

「障害者の社会的統合の情報、啓発、理解」というメインテーマの下でリスボンで行われた第 15回RI世界会議では、現在最も火急を要する問題を取り上げました。第16回世界会議のメインテーマ「総合リハビリテーション―その現実的展開と将来展望」は、障害者を社会の中の平等な仲間として統合し、また他の人々と同じように人間的発達の可能性が与えられるようリハビリテーションのすべての分野が力をあわせて取り組む将来の方向を指しております。
この大会は、全参加者の能力と人間理解に対する大きな挑戦です。
本大会の成果が、障害者の状況の改善と、国連「障害者の10年」の成功に寄与することを願うとともに、すべての参加者の方々―政府あるいは民間の代表として、科学者としてあるいは単に個人として、全組織と情熱を障害者のための活動にそそぐ人として―が国、政府、人種、宗教の違いを乗り越えて、人道的目的の実現のために力を合わせて取り組まれることを希望して、歓迎の言葉といたします。

おことば

常陸宮殿下

アジアではじめての第16回リハビリテーション世界会議が、世界各国から多数の関係者を迎え、東京において開催されることは、誠によろこばしいことと思います。

私自身、日本肢体不自由児協会や日本障害者リハビリテーション協会の名誉総裁として、リハビリテーションに深い関心を寄せて来ました。

我が国が国際リハビリテーション協会に加盟したのは1949年のことであり、当時の我が国のリハビリテーションに関する対策は、きわめて限られたものでした。

しかし、国際リハビリテーション協会の物心両面にわたるご援助、日本の関係者の皆さんのたゆみないご努力により、今日我が国のリハビリテーション・プログラムは、飛躍的な発展を遂げるに至りました。

本年1月タイ国を訪問した際、タイ国と日本の両国政府の協同事業として設立された、タイ労災リハビリテーションセンターを見学する機会がありました。このセンターを見て、我が国がリハビリテーションの分野でも国際協力ができるようになったことを知り、誠に感慨深いものがありました。

「総合リハビリテーション―その現実的展開と将来展望」をメインテーマとするこの世界会議を契機として、各国とりわけ開発途上国における、障害者のリハビリテーション対策が、さらに総合的に展開することを願っています。

ここに集まられた皆様がそれぞれの経験と英知を集めて、リハビリテーションの向上のために率直な意見を交換され、この会議を実り多いものとされるよう、切に望んでやみません。

祝辞

内閣総理大臣
竹下 登

議長ならびに本会議の役員の皆様、そして世界各国からご出席の皆様、本日ここに、常陸宮・同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、第16回リハビリテーション世界会議が開催されるにあたり、ごあいさつすることは私の大きな喜びとするところでございます。

1929年のスイスでの第1回会議から数え、今年で16回を迎えるこの世界会議は、心身障害のあらゆる種類を対象として障害者自身や家族等の当事者、リハビリテーションに関係する分野の専門家や行政関係者、国連機関の代表等が一堂に会し、世界の障害者とそのリハビリテーションの課題を明らかにし、その対策と専門技術を交換してお互いに学びあうことを目的とする最大の会議であります。

約60年にわたる、国際リハビリテーション協会の活動は、常に障害者問題を国際的に啓発し、その問題解決に向けての努力を促してまいりました。また、具体的な技術支援等も含めての貢献も誠に大きいものがあり、各国の障害者福祉に多大なる影響を与えてまいりました。
この度、この歴史ある会議が、初めてアジア地域で、しかも日本で開催されますことは、誠に有意義な機会であると存じます。

リハビリテーションは、障害者の全人間的復権に寄与し、その自立と参加を促進するという積極的意義をもつものであり、これらを推進するためには、医療・教育・福祉・雇用などさまざまの施策の統合と連携が必要であると考えております。

この会議を機に、障害者のリハビリテーションを進展させるため国際協力が一層進むとともに、世界各国の数多くの関係者の交流がさらに深まり、世界の障害者福祉に実りある発展がありますことを、心から祈願いたしております。
我が国政府は、この分野における国際協力および国際交流を、今後とも強力に推進してまいる所存であります。

本会議が成功をおさめられ、ご参集されました皆様の、それぞれの地域における活動が確実な前進をもたらすことを心から祈念いたし、私の祝辞といたします。

祝辞

東京都知事
鈴木 俊一

本日ここに、常陸宮・同妃両殿下のご臨席のもとに、第16回リハビリテーション世界会議の開会式が行われるにあたり、世界各国からお越しの皆様に、開催地東京都の都知事として、親しく歓迎の挨拶を申し上げる機会を与えていただき、大変光栄に存じます。

この世界会議にお集まりの皆様は、日頃、障害者のリハビリテーションの充実のために、世界各国で活躍しておられる方々であり、まずもって皆様方のご努力に深く敬意を表する次第であります。

申すまでもなく、障害をもつ人と持たない人が、ともに健やかにいきいきと暮らせる社会を実現することは、私ども、すべての人の願いであります。
このため、障害をもつ方々が、社会の一員として、人間としての誇りを持って暮らしていけるよう、これまでもさまざまな分野でのリハビリテーションの対策が講じられてきておりますが、なお多くの課題が残されていることも、また事実であります。
その意味におきまして、世界80余国、120団体から構成される国際リハビリテーション協会が、今回「総合リハビリテーション―その現実的展開と将来展望」をメインテーマに、この会議を開催されますことは、誠に有意義であり、会議の成果は、必ずや今後の障害者のリハビリテーションの充実に大きく寄与するものと確信しております。
私は、都知事として、いま、この東京を、暖かい心の通いあう、誰もが誇りをもってふるさとと呼べるようなまちにしようと、マイタウン東京の実現に全力をあげて取り組んでおります。
なかでも、障害者問題は、都政の最重要課題のひとつとして、特に力を入れており、昭和57年には「国際障害者年東京都行動計画」を策定し、障害者対策の推進に努めてきております。
また、障害を持つ方々をはじめ、都民の誰もが、安全で快適な都市生活を送れるよう、本年1月「東京都における福祉のまちづくり整備計画」を策定し、総合的な生活環境づくりを進めております。
今後とも、皆様方と力をあわせて、障害者対策を進めてまいりたいと考えております。

おわりに、この世界会議を開催されました国際リハビリテーション協会、財団法人日本障害者リハビリテーション協会、並びに日本障害者雇用促進協会の皆様のご苦労に敬意を表しますとともに、本会議のご成功とご列席の皆様方のご健勝を祈念いたしまして、私の歓迎の挨拶といたします。

メッセージ

国際連合事務総長
Mr.Javier Perez de Cueilar

第16回リハビリテーション世界会議にご参加の皆様に心からのご挨拶を申し上げます。国連「障害者の10年」の後半期の冒頭にあたって開かれるこの重要な会議に対する、日本政府の支援にも感謝を申し上げたいと思います。また、この機会に、国際リハビリテーション協会が1922 年に創設されて以来、障害者のためにたゆみなく努力された、その功績を特にたたえる次第です。
みなさまの会議は、リハビリテーションをめぐる問題について、さまざまな見解や意見を交換するまたとない機会を提供してくれます。1987年の中間年にあたって行われた再検討により、残りの5年間と障害者に関する世界行動計画の指導原理は、まず第一に市民としての、次にサービスの受益者としての障害者の機会の平等でなければならないことが明らかになりました。かかる取り組みは、障害者を隔離し、彼らが専門家や医療関係者に全面的に依存するというステレオタイプを強化した過去の認識に終止符をうち、前進への扉をひらくものです。国際障害者年以来、別の声、つまり、障害者自身の声が彼らのハンディキャップの克服を援助する専門家の声に加わり、世界中に響きわたっています。
80カ国をこえる国々から、さまざまな人生を歩む、あらゆる分野の専門家の方々が集われました。年令、性別、宗教、人種あるいは障害によって差別されることはありません。リハビリテーションの新たなありかたを探究するためには、あらゆる社会のすべての市民にかかわる分野の問題を、考慮する必要があります。それらの中には、まず、教育、雇用ならびにその他の社会経済問題があります。国連が、国際リハビリテーション協会と共同で行った最近の研究で明らかになったように、障害者の権利を具体化するための鍵は効果的な国の法律の整備です。
中間年にあたって世界行動計画実施状況について評価を行ったところ、過去5年間に重要な成果がえられた反面、なお解決すべき問題が数多く残されており、障害者の10年を成功させるためには、新たな弾みをつける必要があることがわかりました。加盟国、非政府間機関ならびに個人の活動を補足・補充するために、国連は、資源が限られているにもかかわらず、障害分野での提唱者としての役割および推進・実践活動をあくまでも継続いたします。以上のことを踏まえて、私は、最近、国連「障害者の10年」を推進するための特別代表を任命したところです。
第16回リハビリテーション世界会議が、すべての市民に対する社会の目標と義務を全うしようとする世界的な取り組みの推進に寄与するものであることを、私は心から願っております。
会議のご成功を祈ります。

総会

総会II 9月5日(月)11:00~12:30

基調講演:総合リハビリテーション
―その現実的展開と将来展望―

KEYNOTE ADDRESSES ON THE MAIN CONGRESS THEME:REALISTIC APPROACHES-LOOKING AHEAD TOWARDS COMPREHENSIVE REHABILITATION

座長 津山 直一 RI アジア・太平洋地域副会長
副座長 Mr.JohnBermingham RI Vice President for Europe〔Ireland〕

文学からリハビリテーションを考える

REHABILITATION AS CONCEIVED FROM LITERATURE

大江 健三郎

第16回リハビリテーション世界会議で話をさせていただくことを光栄に存じます。しかしこのお誘いを受けた時、僕は迷ったのです。僕は作家であり、リハビリテーションの専門家ではありません。同時に、僕は障害者の父親であって、リハビリテーションには切実な関心をいだいているからです。そのジレンマをなお持ちつづけた上で、お話をするのです。
25年前、僕の最初の息子が生まれてきた時、かれは脳に障害を持っていました。これは事故でした。ところがいま僕は、作家である自分のもっとも本質的な主題が、生涯にわたって、障害児である息子と、家族ぐるみ、どのように共生するか、ということであるのを認めねばなりません。
また自分が、この社会・世界にたいしていだいている考え、さらに現実を超越したものにたいしていだいている考えは、その根本において、この障害を持った息子と共生することをつうじて見出し、確かめた考えだともいわねばならないのです。
障害を知能に持っている子供と、かれを束縛するようにでなく、解放することをめざして、共生するために、家族としてもっとも必要なこと。とくに障害のある子供が幼い時、それはかれの心のなかにあるものを、どのように読みとるか、ということでした。僕の息子の場合、健常な子供が一般に言語活動をしはじめる年齢をすぎても、言葉を発することにはいかなる興味も示さぬようでした。かれの耳がよく機能しているかどうかも、はっきりとはわからぬままでした。
ところが野鳥の声の録音に息子がひきつけられるように僕は思いました。そこで野鳥の声と、その鳥の名をつげる人間の声と、そのひとくみが次つぎにかさねられる録音テープを、子供部屋でずっと再生しつづけるようにしました。そしてある期間がたち、息子をつれていった山小屋で、野鳥の声が聞こえてきた時、突然かれは、その鳥の名を告げたのです。この日から、息子に野鳥の声を聞かせては、人間の声でその鳥の名を答えさせる、という言葉によるコミュニケイションが始まったのです。
子供の沈黙のむこうに、どのようにして言葉を読みとるか? どのように知能に障害を持った子供の内面にむけて、想像力を働かせるか? それは文学表現における、テキストの読みとりと深いところで通いあう行為でした。微妙で、意味のつかみにくい、こちらを拒んでさえいるテキストを、どのように読みとり、その奥にあるものへ、どのように想像力を働かせるか?
この障害を持った息子のことを、自分の小説のテキストとして、どう表現するか? それを実際に試みてゆく過程で、障害者であるかれと、僕の家族との共生をどのように読みとるかは、二重に文学の課題となりました。つまりこのようにして、障害児が生まれて来るという事故が、作家としての僕の生涯の主題を作ったのです。
障害児について小説を書くこと。それは障害児について言葉による全体的で綜合的で、しかも具体的な個人性をうしなわない、そのようなモデルを作ることです。そのモデルは、障害を持つ息子のみならず、家族を、さらにはそれをとり囲む社会・世界をふくみこむものとなります。僕はそのようにして小説を書きつづけたのですが、その小説という言葉によるモデル形成の過程に、ひとつのかたちがあることに僕は気がついていました。
そしていま僕は、この会議に誘っていただいた上田敏教授が「リハビリテーションを考える―障害者の全人間的復権」において、いかにひとりの障害者が、その障害の受容にいたるか、という過程をモデル化していられる。そのかたちと、自分の小説のモデル形成のかたちとが、かさなりあうことを見出すのです。
ひとりの障害者が事故によって障害を受ける。「ショック期」の無関心や離人症的な状態。「否認期」の心理的な防衛反応として起って来る、疾病・障害の否認。ついで障害が完治することの不可能性を否定できなくなっての「混乱期」における、怒り・うらみ、また悲嘆と抑欝。しかし障害者は、自己の責任を自覚し、依存から脱却して、価値の転換をめざす。この「解決への努力期」をへて、障害を自分の個性の一部として受けいれ、社会・家庭のなかに役割をえて活動する「受容期」。
小説という言葉のモデルで、自分の障害児である息子をとらえる時、あきらかにそれは上の五段階をへています。知能に障害のある息子の場合、かれがこの過程をへるよりも、さらにあきらかに、僕ら家族が、やはり「ショック期」から、「受容期」への道を歩んだのです。小説の完成は、いかに障害者とその家族が、「ショック期」、「否認期」、「混乱期」を、苦しみをともにしながら共生するか、その上でいかに「解決への努力期」にいたり、ついに「受容期」に入ってゆくか、その過程が歩みおえられた時におとずれます。いかに障害者であること、その家族であることを積極的に受容するか・ひきうけるか? その答えが、具体的にあらわれる時、それがすなわち小説の完成なのです。
現実にリハビリテーションの場で、この過程に立ちあっていられる方たちにはあきらかなことだと思われますが、この五つの段階はかならずしも直線的に進行するのではないと、僕は障害児の家族の経験からいいたいと思います。さらにいったん「受容期」に進み入ったと考えた後、じつはそれが仮の「受容期」にすぎなかった、ということも一度ならずあるように思います。その経験を小説として、言葉のモデルに再創造してきて、僕はさらにそのように考えるのです。
小説という言葉のモデルをつうじて考える時、「ショック期」、「否認期」、「混乱期」の、障害者とその家族が苦しみをともにして生きる過程の重要さということも、あらためて自覚されます。これらの大きい苦しみの過程がなければ、確実な「受容期」もない、それがすなわち人間であることだ、といいたい思いもいだくのです。
そしてこのように考える時、その五段階が障害者とその家族を描く小説のみにかさねあわせられるのでなく、普遍的なレヴェルで、小説一般のかたちだともいいうることに僕は気がつくのです。「戦争と平和」のピエールとナスターシャが、大きい戦争の悲惨の時代に、いかにそれぞれの「ショック期」、「否認期」、「混乱期」をくぐりぬけるか? そして「解決への努力期」から、いかに独自の「受容期」にいたるか?
大きい経験をへた後、ペテルスブルグの戦後社会で、またナスターシャと結婚してつくりあげた家庭で、ピエールが果たす役割と生き甲斐の自覚。そこには積極的に障害を受容し、ひきうけた障害者の心と行動のモデルが示されている、とさえいいたい気持ちがします。
このような意味ではじめて、障害者の、その障害の受容にいたる過程は、普遍的に人間一般のものだ、といいうるはずです。「ショック期」、「否認期」、「混乱期」の大きい苦しみの重要性、それがなければ、「受容期」の積極的な力も生じてこない、ということは、次のようにいえばすぐにも納得されるのではないでしょうか? ナポレオン戦争のもとでの大きい苦難なしでは、戦後のナスターシャもピエールも、いかなる確実な人格ではなかったはずだ。トルストイにとっても、われわれにとっても、あの迷いと苦しみにみちたピエールたちの前半生こそが文学の核心であったのだと。それがあってはじめて、「受容期」のかれらの積極性、綜合性、つまり全人間的な豊かさが創造されたのだと。
さて僕は日本の戦後に生きる知識人としての活動も行ってきました。その活動の軸をなす僕の考え方は次のようなものです。戦後の日本人の、つまり明治維新以来の近代化の過程において、世界大戦にまで突き進み、とくにアジアに大きい惨禍をひきおこし、広島・長崎に原爆を受けて敗北した日本の、戦後の再出発を担った日本人の、基本態度というべきものはなにか?
それは、さきの大戦にいたった日本国・日本人を、大きい障害を自己に受けた者、として自覚することではないか? 現に敗戦は、われわれに徹底した「ショック期」、「否認期」、「混乱期」をあじあわせたではないか? すくなくとも戦後の十年間は、まさに「解決への努力期」であったではないか?
そして戦後四十年たち、経済的な繁栄をかちえた日本国・日本人は、はたして真の「受容期」にたちいたっているだろうか? いったん大きく傷つき、その傷をよく受けとめることで、価値の転換を達成し、アジアと世界のなかで平和的・建設的な役割をはたそうとしているか? 経済的にはその実力を持ったいま、現にわれわれは、その責任を果たしているか?
僕がいまもっとも誇らしく思うことは、障害を持つ自分の息子に、decentな、つまり人間らしく寛容でユーモラスでもあり信頼にたる、そのような人格を認めることです。また、この障害児と共生することで、かれのそのような性格に、家族みなが影響を受けてもいることです。
個人的な規模を越えて、僕は息子との関わりを介して、様ざまな障害者たち、その家族、またかれらのリハビリテーションに努力した人びとを知っています。障害者もその家族も、リハビリテーションにあたる人も、みなそれぞれ固有の苦しみを担っています。「受容期」にいたった障害者にも、その苦しみのしるしはきざまれています。家族にも、またリハビリテーションを助けて働いた人にも、それはあるはずです。しかもかれらみなに、共通するさらにあきらかなしるしとして、かれらがdecentな人たちだ、と僕は考えてきました。
いまそれを論証する時間はありませんが、僕はそれをもっとも良く理解してくださる人びとの前で話したと思います。大きい苦しみを乗りこえ、苦しむ家族と共生し、そのリハビリテーションを支えた、そのような人びとのdecentな新しい人間像。そこに今後の日本と世界をつなぐ、もっとも望ましい人間のモデルがあるように思います。
ありがとうございました。

世界の児童の未来

―障害の予防とリハビリテーション―

FUTURE REALITIES FOR THE CHILDREN OF THE WORLD:DISABILITY PREVENTION AND REHABILITATION

Vulimiri Ramalingaswami
Special Adviser to the Executive Director.UNICEF

ユニセフは現在、児童の障害に関して、予防、早期介入、家族とコミュニティーの支援の3つの柱からなる政策を行っているが、1980年のRIのユニセフへの報告書は、その政策の推進にとってきわめて価値のあるものであった。
1983年から1992年にわたる「国連障害者の10年」は、いまちょうどその半ばを過ぎたところであるが、昨年8月に開催された国連の世界専門家会議は、「世界行動計画」の実施について一連の勧告を行った。

児童の障害予防とプライマリー・ヘルス・ケア

人間の障害に対し、地球的規模の協力で取り組む我々の能力に、かつてないほど明るい未来が約束されているこの時期に、本会議は開催される。開発途上国における障害の多くは予防が可能であり、すでに生じている障害の多くは治療が可能である。予防と治療の技術はすでにあり、日々向上している。今、まさに人間的な取り組みが強く求められている。障害の複雑な因果関係についての理解が深まっている。Alma Ata(1978) 以来徐々に普及してきているプライマリー・ヘルス・ケアは、その効果をあげており、予防接種、成長促進、離乳食と母乳による授乳の促進などは早期予防に役立っている。その他、水分補給や結核、らいのような地球の流行病対策は、二次的、三次的予防効果をあげている。児童の障害の早期発見と早期介入により、発達段階での混乱を減少し、障害の悲惨な深刻化を防ぐことができる。

伝染病

予防接種は、障害の原因となる感染と栄養不良の危険な相乗作用を断ちつつある。10年前には開発所上国の児童の5%以下しか受けられなかった予防接種が、いまでは生後1年以内に、ポリオ・ワクチンの3回投与、3種混合ワクチンの3回投与が世界の児童の半分以上に行われている(Henderson・1988)。
「免疫予防拡大計画」(EPI)は、各国政府や大衆の注目を得ている。この計画は大変広い範囲を対象としており、現在までの進展があまりはかばかしくない他の計画、例えば5歳以下の児童へのビタミンAの定期的投与やヨード油の注射、この2つは幼児期の障害の予防にはきわめて重要であるが、それらの計画もEPIに含まれることになるであろう。ポリオは1995年までに南北アメリカ、ヨーロッパ、および西太平洋地域から撲滅され、2000年までには地球全体から消滅し、その時には、おそらく臨床的なポリオの事例はなくなり、世界の環境の中にポリオの天然ウィルスが見られなくなることは十分に予測できる(Hinman 他・1987)。その5年後の2005年頃、調査によって症例や天然ウィルスの分布が見出せなければ、世界のポリオは撲滅されたと宣言できるであろうし、またポリオ・ワクチンの投与は必要なくなるであろう。ポリオと天然痘から解放された世界は、20世紀から21世紀への贈物になるであろう。
さらに、Task Force on Child Survivalによれば、 2000年までには、はしかの死亡率が95%、疾病率が 90%それぞれ減少し、新生児の破傷風がほぼなくなり、下痢性の病気による児童の死亡が年間で350万人、また急性呼吸不全による児童の死亡が年間で150万人予防される、と予測されている(Foege・1988)。

水および公衆衛生

「国際飲料水供給と衛生の10年」(1981-1990)は、当初の目標の達成が不可能であることがほぼ確実になった。しかし、さらに多くの国が目標を設定し、80の開発途上国において国内行動委員会が活動している。村レベルでの活動や管理に適当な、低コストの技術の採用がふえている。水道や公衆衛生の技術に関して、従来の単に機械的なアプローチから、水、公衆衛生、栄養、保健教育、下痢性の病気の抑制、教育、人材の開発などが相互に関連したシステムへと変化しているのは、歓迎すべき徴候である。ギニア虫病の征服は、もうすでに結末が見えている。ギニア虫病(ドラクンクルス症)はしばしば、「忘れられた人々の忘れられた病気」と呼ばれるが、年間500万人から1、500万人の人々が感染していると推定される。およそ1億4千万の人々が、アフリカ、アジア、中東においてその危険にさらされている。この病気は、死亡にはいたらないで、身体的な障害をもたらすだけなので、これまで無視されてきた(WashField・リポートNo。240、1988)。それが農業や就学率におよぼす悪影響が、最近の研究によって明らかにされはじめている。ナイジェリアのある小さな地域におけるユニセフの小規模な調査によると、150万人の人口のなかで2千万ドル相当の米の生産が、毎年ギニア虫のために失われている。ギニア虫病は1995年までには世界から消滅すると予想されている(Hop‐ kins・1988)。これはもう一つの20世紀から21世紀への贈物である。清潔な水が十分に手に入るということは、開発途上国において失明の主な原因であるトラコーマの蔓延を低下させるのにも役立つであろう。

糸状虫症

第三世界のもっとも悲惨な病の一つである糸状虫症に対して、イベルメクチンという薬の一回の投与が、きわめて有効だということが分かっている。この病は、主にアフリカやラテン・アメリカの熱帯地方でおよそ3千万の人々を苦しめている。ひどい痛みや失明をもたらし、長い間、障害の主な原因であり、また発達を阻害する要因であると考えられてきた。その媒介昆虫である黒色昆虫の繁殖を抑制する対策とともに、この薬を投与することによって、糸状虫症は最終的には撲滅することができるであろう。新しい生物学から生じた生物医学の発達によって、熱帯病に対してワクチンや薬のかたちでさまざまな対策が可能になり、かくして、開発途上国における健康の増進と障害の抑制がさらに促進されるであろう。

らいと結核

らいはことに変形と障害をもたらす病気であり、こ の会議の議題にも上っている。世界中に、1、200万人の患者がいる。奇形と変形は、患者から人間の尊厳と愛を奪い、汚名と貧困をもたらす。MDT(らいの多剤併用化学療法)が、現在では広く受け入れられている。患者は、初期の隔離から解放され、一般の理解も改善されつつある(Rao・1988)。らいは奇形の同義語ではない。この2つは、病が神経系統に侵入する前に、早期発見と治療によって、切り離すことができる。らいについては、より多くの患者を完治させる公衆衛生的アプローチの中で、身体の損傷の予防と抑制が、見過ごされがちであることを忘れてはならない(Max・1988)。
結核は、幼児期に感染すると深刻な障害をもたらす後遺症をともなう。ここ数年、多種薬品による効果的な化学療法により、多くの開発途上国において著しい効果が見られる。変化のきざし程度の国々もあるが。かつて日本で深刻な病気であった結核がいかにして完全に撲滅されたかという事例がある(Shimao・1988)。

栄養不良

栄養不良はすべての障害につながる。国連のACC/ SCNは世界の栄養状況に関する最初の報告書において、この25年間に状況が改善されたいくつかの例を示している(国連・1987)。しかし、まだ解決すべき問題は多く、地域的な不均衡には著しいものがある。その中で最も広範な問題は、たんぱく源の栄養不良であり、これは貧困と社会経済開発の大きな問題の一部分で、開発途上国の多くに広範囲に見られる児童の発育不全の根本原因でもある。年齢別の体重を指数としてみると、アジアにおいては1億の児童が栄養不良であり、アフリカでは2千万、ラテン・アメリカでは1千万という数字になる。ビタミンAの欠乏による栄養失調が原因の児童の失明はまだ、不必要な悲劇として存在している。その克服のための技術は一見簡単そうに見えるが、社会の最も不利な立場に置かれている人々を分配の各サイクル過程において常に十分に網羅するという課題を、今後達成していかなければならない。就学前児童の間に、ビタミンA欠乏による新たな活動性の角膜障害が、年間50万例、非角膜的乾燥症が年間600―700万例も生じている。

ヨード欠乏克服に対しては、まだなすべきことが沢山ある。最近の調査は、広範囲の障害が深刻なヨード欠乏から生まれていることを示しており、そうした障害に含まれるものとしては、甲状腺腫、精神的障害を特徴とするクレチン病、子宮内でのヨード不足に関係した聴覚言語障害、痙攣性両麻痺、軽度の神経的欠陥、精神機能の不全、および広範な聴覚障害などがある。ヨード欠乏の治療には、いくつかの状況で、ヨウ化塩やヨウ化油がかなり効果的であることが分かっている (Hetzel・1987)。アジアでは6億人、世界中では10億人もの多くの人々が、ヨード不足の環境に生活しているため、ヨード欠乏の危険にさらされている。東南アジアではより多くの人々が、ヨード不足で苦しんでいる。およそ1億人が甲状腺腫に、1、800万人がクレチン病に苦しんでおり、これは世界のどの地域よりも多い数字である(Clugston他・1987)。ヨードは世界中で不足している。これは主として、この会議の主催国である日本で生産されている。日本がWHOやユニセフと協力して、ヨード不足の地域において一人当たりの十分な摂取量、つまり一日100-150マイクログラムを確保し、この人類の古くからの不幸を取り除く絶好の機会だと思う。この会議が災疫を撲滅するための私たちの努力の一つの大きな転機になることを、期待している。

人間の生物学において、新生児の体重ほど過去の出来事や人生の未来の軌道について多くを語ってくれる指標はない。それは人生つまり子宮外での生活の出発点である。母親の健康や栄養の状態は、胎児の子宮内での成長・発展に大きな影響を及ぼす。ひとつひとつの受胎が子供の良き人生を願う清らかな願いからうまれるとすれば、それは何と素晴らしいことであろう。新生児が良き人生へのスタートを切るための条件を、どのようにして作り出すことができるか? 2.5kg以下の低い新生児の体重の割合を見れば、私たちの任務の重要性が明らかになる。その割合は、中南アジアの出産の31%、アフリカでは14%、ラテン・アメリカでは10%となっている。
昨年のナイロビ会議から生まれた「母親の安全のための運動」は、児童の障害の予防とリハビリテーションに対する戦略の重要部分で、小さな地域や農村の病院における基本的な助産処置や安産のための技術の提供および増大する事故の予防対策を行っている。最も重要な進歩は、傷害には説明できる疫学があり、また病気と同じく、偶然で生じることはない、という認識をもったことである(Guyerand Gallagher・1985)。運命や偶然の意味合いをもつ「事故」(accident)という用語は、「傷害」(injury)という用語に置き換えられている。危険に直面している児童を発見して予防的措置により対応することができ、また、広範囲の傷害に関連した公的政策、規則、消費者の安全のための法律を制定することができる。

リハビリテーション

予防とリハビリテーションは車の両輪で、「あれかこれか」という問題ではない。予防においてと同様、リハビリテーションにおいても実際的進歩とならんで概念上の進歩がみられる。最も重要な概念上の進歩は、プライマリー・ヘルス・ケアおよびその他の地域サービスの枠組みの中で、コミュニティ・ベースド・リハビリテーション(CBR)を行うことにより多くの障害者に手をさしのべ、できるだけ多数の人々に基本的なリハビリテーションを提供しようという考え方である。このアプローチは、コミュニティ内の障害者の70-80%の基本的ニーズに応えるであろう。残りの20-30%の障害者は、さらに照会による治療を受ける必要がある(WHO・1987)。ほとんどの開発途上国において、施設でのリハビリテーション・サービスは現在のところ、全障害者の3%以下にしかとどいていない。CBRのための手段は、すでにある。幾つかの効果的なプログラムが開発されており、それらは40の開発途上国において少なくとも試験的に採用されている。児童の重度の障害を評価する迅速で簡単な方法の開発に進歩がみられる。発達段階スクリーニング・チェックリストができている。子ども同志、おとな同志、障害をもつ子どもとその両親、コミュニティ・ワーカー、小学校の教師、ボランティアといった人々は、社会の中で大きな潜在力を持った集団を形成している。必要かつ適切な技術も、すでにある。地元住民のもつ技能と知識を活用し、人々の尊厳を保つことがいかに大切であるかということが、David Wernerの「村の障害児たち」という本のペペの松葉づえの話に例示されている (Werner・1987)。その主題は、障害がどのようにして私たちの能力や強さに貢献できるか、ということである。この会議は、総合リハビリテーションという概念を目ざすものであるが、それは全体としての児童を考えるということでもある。したがって、児童ができること、できないこと、できるかもしれないこと、について考慮を払う必要がある。障害の有無にかかわらず人間的であることに、より大きな価値が置かれなければならない。
コミュニティ中心のリハビリテーションにおいて、リハビリテーション専門家、セラピスト、生物医学の専門家は、技術を簡単化して、地域の技術者に教え、基礎的な原理や概念を理解させ、自己学習を助けそれぞれの児童にあった療法を考えるといった重要な役割を果たすべきである。それは、科学を弱体化することではなく、必要な社会的・経済的・文化的関連のなかで問題解決をはかるための科学なのである。運動学、運動、歩行、生物工学などの基礎概念を応用することによって、地域の資源を利用し、地域の風習に適合した補助具を設計すべきである(Sethi・1987)。
私たちは、さまざまな素材や科学の新しい革命のまっただ中にいる。異なるライフ・スタイルに適合する簡単で新しいデザインを開発するうえで、現在大きな潜在性をもつきわめて広範な新素材が、利用可能である。
私はこの講演のなかで、「簡単な」(simple)という言葉をしばしば用いてきた。デリーのウルドゥー語の詩人Mirza Ghalibは、「簡単というのは、どんなふうに簡単なのだろうか?」と問われ、悲しげに言った、「人間ですら、人間的であるのはむずかしい。」

〔参考文献〕

  1. Clugston,G.A.,Dulberg,E.M.,Pandav,C.S. and Tildren,R.S.“Iodine deficiency disorders in South‐East Asia" in The Prevention and Control of Iodine Disorders,edited by Hetzel,B.S.,Dunn,J.T.and Stanbury,J.B.Elsevier,273‐308,1987.
  2. Foege,W.H.The Declaration of Talloires,The Task Force for Child Survival,12 March 1988.
  3. Guyer,B.and Gallagher,S.S.“An approach to the epidemiology of childhood injuries",Ped, Clin,North America,32,NO.1,5‐15,1985.
  4. Henderson,R.H.(1988)“Immunise and protect your child:the dream becomes a reality".Paper presented at the meeting of the Task Force for Child Survival,Talloires,France,10‐12 March 1988.
  5. Hetzel,B.S.“An overview of the prevention and control of iodine deficiency disorders" in The Prevention and Control of Iodine Disorders,edited by Hetzel,B.S.,Dunn,J.T.and Stanbury,J.B.Elsevier,7‐31,1987.
  6. Hinman,A.R.,Foege,W.H.,de Quadros,C.A.,Patrinka,P.A.,Orenstein,W.A.,and Brink,B.W."The case for global eradication of poliomyelitis".Bull.WHO,65,835‐840,1987.
  7. Hopkins,D.R.“Dracunculiasis eradication:the end of the beginning"in Wash Field Report No. 240.
  8. Max.E.“Leprosy control in India:international cooperation and the role of Takeni philosophy":paper read at the Third Takemi Symposium on International Cooperation for Health in Developing Countries held at Tokyo,July 1988.
  9. Rao,C.K.“Drugs against leprosy",World Health Forum,9,63‐68,1988.
  10. Sethi,P.K.“Technology transfer in prosthetics and orthotics for the developing world";in enhancement of transfer of technology to developing countries with special reference to health,Advisory Committee on Health Research,WHO,1987.
  11. Shimao,T.“Changing institutional capacity for developing countries,taking tuberculosis as an example".Paper presented at the Third Ta‐ kemi Symposium on International Cooperation for Health in Developing Countries held at Tokyo,July 1988.
  12. United Nations: Administrative Committee on " Coordination‐SubCommittee on Nutrition,First Report on the World Nutrition Situation,pp 66,Nov.1987.
  13. WHO.“Rehabilitation";Global Medium Term Programmes,pp 10,Nov.1987,Geneva.
  14. Wash Field Report No.240.“Second Regional Conference on Guinea Worm in Africa,Accra,Ghana;USAID,June 1988,pp 76.
  15. Werner,D.“Disabled village children",Hespian Foundation,Palo Alto,California,USA,pp 672,1987.

総合リハビリテーション

―その現実的展開と将来展望―

REALISTIC APPROACHES:LOOKING AHEAD TOWARDS COMPREHENSIVE REHABILITATION

Otto Geiecker
President、Tehabilitation International

本日、「総合リハビリテーション―その現実的展開と将来展望」をテーマとして開催される第16回リハビリテーション世界会議の開会に際して、私たちは、障害者のリハビリテーションのための新しい効果的な方法を開発し、また以前にもましていっそう明確に将来の課題を設定する努力を行う集まりを始めようとしている。
当国際組織はここに再び、障害者やリハビリテーションの分野に関係のあるすべての団体の関心事を表明する。国際リハビリテーション協会(RI)はこの世界会議を、まもなく終わろうとしている「国連障害者の10年」への重要な貢献であると考えている。
本日、第16回世界会議の開会式に参加する栄誉を与えられ、また私のRI会長としての任期が終わるまさにこの時、私は自分の生涯におけるきわめて重要な出来事を思い出している。それは、RIの新会長に選出され、リスボンでの第15回リハビリテーション世界会議の出席者に挨拶を行い、また当国際組織の将来活動についての私の見解を披瀝する機会を与えられた、あの時のことである。当時の私たちの主要な目的の一つは、障害者の関心事について一般大衆の認識を呼び起こし、障害者に社会における平等な機会と十全な参加を可能にすることであった。したがって、「障害者の社会統合のための情報、認識、理解」を全体テーマとする第15回世界会議は、最も緊急な諸問題を検討し、かつその解決策をさぐるという役割を持っていた。私はここに第16回世界会議の全体テーマについて述べるにあたり、第15回世界会議の閉会式における私の挨拶からのいくつかの引用をもって始めたい。
「経済的繁栄、高度な技術、および法的措置は、社会の各構成員に社会的・精神的発展のための平等な機会を与える、よりよい社会の実現のための重要な基盤である。しかし、そのような社会は、真の連帯と人間尊重の態度の意識がすべての人々の間で呼び覚まされた時にのみ、実現できるのである。障害者の問題は、あらゆる社会制度における社会的・経済的・文化的政策ときわめて密接な関係を持っており、したがって最初は非常に複雑だという印象を与える。しかし、よく観察すれば、それらの諸問題は一つの純粋に人間的な問題に集約されることが明らかである。人間の問題は普遍的であり、したがって、地域的・国家的境界は、リハビリテーションの概念にいかなる制限をも加えてはならない。」
そして、私は次のように結んだ。
「リハビリテーションの分野における私たちの仕事は、ひとつの大きな流れにたとえることができる。その源から目的地までの長い道程で、多くの川が流れ込み、時として清流を濁らせることもあるが、つねにその流れを力強いものにする。」
そして、
「皆さんがその創造的精神とダイナミックな力と経験によって、これらの問題の解決へ向けて大きな進展をもたらすことを、私は信じる。さらに、東京における次回の世界会議において、私たちは必ずやRIの活動についての新たな成果を報告することができるであろう。」
これらの考え方はいくつかの点で、15回と16回のリハビリテーション世界会議を結び付けている。4年後のいま、私が表明した考え方の多くが現実のものとなり、RIの活動に反映されているのを見るのは、真に嬉しい。この世界会議の期間中に発表される報告が私たちの仕事の成果の概観を示すことになるであろう。本日、第16回リハビリテーション世界会議が討論を開始するにあたり、またこの会議において将来の発展と動向を予測しようとするにあたり、まさに会議の冒頭において、私たちは「総合リハビリテーション―その現実的展開と将来展望」というこの会議の全体テーマをどのように理解すべきか、またこの全体テーマが私たちにどのような役割を課しているかを、自問してみなければならないと思う。
「現実的展開」とは、私たちが直面している現実に私たち自身を置き、総合的リハビリテーションという目標により近づくような方法を見いだし、手段を明確にするということを、意味しているにちがいない。それは、これまで常に私たちの活動の効果的な発展への刺激の源泉であった夢や理念をないがしろにする、ということではなく、むしろ、私たちの希望や理想を目前の現実と対決させ、その結果生じる対立を解決する方法を見いだす努力をすべきである、ということである。したがって、さまざまな地域の経済的資源や将来の展望、人口動態、科学上の発展、特に医学・工学分野での発展がもたらす可能性を、気候的・地理的条件および文化的・宗教的・伝統的価値観の社会への影響とならんで、考慮しなければならないのである。世界の人口の約10%はさまざまな障害のために、社会の他の人々に比べて不利な立場に置かれていることはよく知られている。また、これら障害者の約4分の3は生存そのものが最も差し迫った問題であるような環境の中で生活している、ということも周知のことである。これらの人々にとって、生活の手段を見いだしぎりぎりの生存を確保する必要以外に、食料、住居 、最も単純な家族的・社会的絆を維持することなども、切実な問題なのである。このような状況のもとでは、一貫した保健や医療、若者への十分な教育、いきとどいた職業訓練といった私たちの概念はしばしば、しょせん夢物語のような贅沢に思えるであろうことは、理解に難くない。私は、工業国に住んでいない人々の問題について話しているのである。工業国の人々にとってはすでに現実になっていることも、開発途上国の多くの人々にとっては、これから先長い間も依然として手のとどかないものであろう。工業国において特別な車いすを購入するお金は、ごく普通のリハビリテーション計画の一環として認められているが、その金額で、開発途上国ではおそらくきわめて多数の人々のための単純なリハビリテーション計画もしくは予防接種キャンペーンを容易にまかなうことができる、ということをしっかりと肝に銘じておきたい。また、リハビリテーション計画の実施に必要な専門スタッフに関する問題を見ると、工業国においては通常、スタッフと必要な訓練施設が十分な数と種類手に入るが、まだ生存のために経済資源を開発しなければならない開発途上国では、しばしばその両方が欠けている。

リハビリテーションの分野における開発途上国の可能性とニーズはそれゆえ、工業国のそれとは明らかに異なってくる。開発途上国では近年の急速な人口増加の結果、きわめて若い人口層がかなりの程度をしめているということも、考慮に入れる必要がある。また、これらの国々では非常に大きな要素として、家族、あるいはもっと拡大して家族をめぐる親戚関係が依然として社会生活の核をなしている、ということも念頭におかなければならない。栄養不良、不十分な医療、教育・訓練施設の不足や欠如がさまざまな種類の障害の深刻な増加をもたらすとき、障害のある肉親を保護したり看護したりするのは、まず家族である。これらの国々においてとられるべき措置は、重要な問題を除去することに重点をおくだけでなく、家族の維持および障害者のための家族の保護的機能の維持にも大きな重点を置かねばならない。
工業国においては、障害者の要求のほとんどは、社会保障手当の改善に関するものである。障害者たちは、かれら自身と家族の安定した生存、住宅の改良、保健および医学リハビリテーションの分野における改善を要求している。仕事や社会生活における機会の平等を要求し、法的・行政的措置の外の日常生活を改善するために新しい技術の利用なども要求している。教育、文化、娯楽、スポーツなどの施設に障害者がたやすく近づくことを妨げているさまざまな障害を除去してほしいという長年の要求も、ここで指摘しておきたい。工業国においては、国連世界行動計画の主要テーマである「完全参加と機会の平等」は、大きな反響を呼び、またある程度はすでに実現されている。工業国の市民が開発途上国の市民にくらべて享受している明らかな利点、つまり障害者のリハビリテーションについて決定的に進歩しているという点は別にして、ほとんどの工業国においては主要な問題になりかねない一つの欠点がある。すなわち、共通の関心や社会活動の中心としての家族の解体が進んでいること、また家族がその構成員を悪影響や危険から守り、おたがいの世話をするという役割が失われつつあることであ る。家族の役割を少なくとも部分的に担うための政府や非政府団体の努力は、私たちが直面している困難な状況に照らして必要だとは思われるが、ほとんどの場合不十分な代替的役割を果たすことしかできないであろう。さらに、そうした努力は、家族の解体に不本意ながら手を貸すという危険もはらんでいる。
医療の改善のみならず新しいライフ・スタイルや労働条件のおかげで、ほとんどの工業国では今日、平均寿命の顕著な伸びが見られる。同時に、出生率は低下しており、子どもが一人か多くても二人しかいない家族の数が着実に増え、全人口にしめる中高年層の割合が、工業国では近い将来著しく増加することは、ほぼ確かである。かくして、肉体的能力がある程度低下し、健康のそこなわれた人々の割合が、増加するであろう。このために、工業国においては高年齢層にたいするリハビリテーションや医療がますます重要性を増してくるであろう。前述の家族がもはやその伝統的な役割を果たさなくなったという事実を考えても、そのことがいえるのである。老人に適切な施設で必要なケアを提供する一方で、共働きの増加によって、子どもを含む若年層をケアするための適切な施設を作る必要があるという事実にも、私たちは直面さぜるを得ない。そうした役割は、伝統的な家族にあっては、老年世代の構成員が果たしていたものである。

工業国で生じるいくつかの困難は、伝統的な家族がまだ存在したなら、おそらく避けるかあるいは著しく減少させることができたはずである。現在まですべての関係者の一致した同意を得られるような解決法は、見いだされていない。この問題を考察し、状況を改善するような提案を行うことも、私たちの課題の一つであろう。しかし、この会議では、私たちには全体テーマに示されているもう一つの課題がある。なぜなら、「現実的展開」という言葉の他に、「総合リハビリテーション」と「将来展望」という言葉が掲げられているからである。この課題はどういう意味をもつのか? 過去に私たちが定めた目標は誤りだったのか? これまでの私たちの仕事は不十分だったのか? 私たちはまったく新たな方法を見いだすべきなのか?
私は、これらすべての問いに対する答えは、はっきりと「ノー」であると信じる。私たちはリハビリテーションのあらゆる分野での多くの成果を回顧することができる。それらの成果のあるものは、未来への大いなる希望へ向かって私たちを鼓舞してくれる。例えば、リハビリテーションのさまざまな分野における新しい技術の利用、医学分野の発展、そしてこれまで絶望的だと考えられていたケースについても、解決をもたらした教育や訓練における新しい方法の適用などが思い起こされる。それならなぜ私たちは、リハビリテーションのさまざまな分野での発展を促進するこれらの有効な方法を放棄し、総合リハビリテーションを目指さなければならないのか? この問いに答えるためには、まず「総合リハビリテーション」という用語の意味を考えてみる必要がある。総合リハビリテーションとは、障害者のリハビリテーションは医療の提供にのみあるのではない、また教育や職業訓練だけでもなく、障害者の社会生活に関係する個々の措置にだけあるのでもない、ということである。リハビリテーションの過程は、これらすべての措置が同時に調整された形で実施されることにより、関係者の社会環境 への最も効率の良い統合が達成され、またこれらの人々が社会の独立し自律した一員であると見なされるようになった場合にのみ、成果があったと考えられる。
真の問題はこれまでの私たちの仕事の弱点から生まれるのではなく、将来の社会発展の動向についての時宣を得た認識に関係して、またコミュニティにとっての個人の重要性についての新たな認識、個人にたいするコミュニティの責任についての新たな認識などに関連して、生まれてくる。社会の一部としての個人についてのこの新たな認識はまた、個人が自己の発展のために社会から与えられる可能性を最大限に活用するという義務を、また個人が社会の幸福のために貢献するという義務をも含んでいる。こうして、社会の比較的弱い立場の人々もまた、社会が与える可能性を活用することができる。もともと、社会は個人やその家族の生存の物質的基盤を確保する手助けをしただけであったが、やがて保健サービスが加わった。これらの方策はすべて、社会の中の経済的に豊かな人々が比較的弱く援助を必要としている人々に与えるべき保護であり予防であると単に見なされていた。
少し前までは、そのようなサービスを利用しなければならない人々が社会の進歩や発展に大きな貢献をすることができるなどとは、だれも考えていなかった。

今日では、そうした考えは根本的に変わりつつある。今では障害者を、社会の周辺にいて社会の援助をつねに必要とする人々としてだけでなく、特定の状況のもとでは社会の向上に大きく貢献することのできる人々であると、みなしはじめている。したがって、総合リハビリテーションの目的は障害者を諸活動の複雑なシステムの中心にすえ、それによって、身体的・精神的能力の最大限の開発をはかり、独立、自律した人間として社会に統合できるようにすることでなければならない。このためには、多くの方策の実施が必要である。組織的・行政的・社会的方策と同様に、医学的・工学的・科学的分野での方策も必要となる。医学および科学技術の分野における近年のめざましい発展と成果は、リハビリテーションの教育・職業分野での新しい知識や可能性と結合され、さらに社会における人間の役割についての新しい理解とも結合されるべきである。例えば、科学の新しい部門としての遺伝子工学は、リハビリテーションの分野に最も大きな改善をもたらすかもしれない。ただし、人類が、この工学の利用に分かちがたく結びついている重大な倫理的責任にもとづいて行動するという条件付きであるが。
総合リハビリテーションの概念は、社会観のなかで恒久的な位置をしめるべきであり、また社会保障計画、立法、教育・訓練計画などを統合する役割を演じるべきでもある。総合リハビリテーションは、障害者のリハビリテーションの領域における組織上の問題であるばかりでなく、とりわけ社会の一般大衆の基本的態度をある程度反映する社会的・政治的問題でもあり、また特に、この社会の政治的指導者が、現在の人道的問題に関するかれらの責任をどのように認識するかという問題でもある。
指摘すべき事柄はまだまだたくさんあるが、私がいま挙げたわずかの例だけでも、総合リハビリテーションの考え方が、医学・工学・科学などの分野で私たちが利用できるさまざまな手段の充分な選択を通じて、どのようにして達成することができるかを示していると考える。また、それらを共同して利用することによって、障害者のリハビリテーションを最高度に行えることも示している、と信じる。行政・組織や立法、社会の各分野においても、状況は同じである。
未来への新しい概念をもって、私たちはあらゆる国境や人種的・政治的・宗教的相違を超えた人道的関心として障害者の利益のために努力を続けなければならない。医学、科学、工学、組織などは、つねに人類に奉仕すべきものであり、私たちはそれらに支配されるようなことがあってはならない。
総合リハビリテーションの概念をとりいれて、緊急性をもつリハビリテーションプログラムを作成するには、関係者のニーズと経済的・社会的環境を考慮しなければならない。しっかりした財政的方策や技術的設備は、それだけではリハビリテーションプログラムの効果を保証するものではない。目標をしぼったコミュニティ・ベースド・リハビリテーションが、多くの財政的援助を受けたプログラムよりもいっそう有効だったという例は少なくない。総合リハビリテーションの概念を世界的な規模で考える時、非工業国がリハビリテーションを計画するにあたって直面している問題は、財源が得られれば、より良い設備や訓練された人材があれば解決できる、ということも認める必要がある。 いいかえれば、これらの地域の人々には、工業国の人々と同様の生活の可能性が与えられるべきだということである。私たちのリハビリテーション概念の基礎になっている原則、つまり「完全参加と機会の平等」は、私たちの世界のさまざまな問題にも適用されるべきなのである。このために努力することは、私たちすべてにとっての重大な任務であり挑戦である。
私は検討すべき問題のほんの幾つかを指摘したにすぎない。しかし、総合リハビリテーションという概念をさらにおし進めていくためには、国内レベル、国際レベルにかかわらず障害者自身を考慮、調整の中心にして、障害者の社会への最大限の統合をはかっていくべきである。平行してばらばらに行われている医学・職業および社会的方策は、障害者が仕事を通じて能力を発揮し、かれらの生存基盤を改善して第三者への依存を減らすことができるような、一つの調和のあるシステムに統合されなければならない。しかしまた、人間の生活は、感情や気分、幸福への期待や認識、愛や苦悩の感情などによって左右されるものでもある。したがって、家族の絆や社会的連帯感は、特に障害者にとっては最も大切なものであり、総合リハビリテーション計画においては十分考慮を払うべき問題である。これからの数日間、みなさんはさまざまな問題を討議されるわけですが、障害者の完全な社会統合という私たちの共通の目的こそが、すべての活動の基礎でなければならないということを、どうか常に念頭に置いていただきたい。なぜならば、私たちの社会は、そこに住むすべての人々の共同の努力によってのみ 完成することのできる、一つの場であるからである。

総会III 9月6日(火)9:00~10:30

総合リハビリテーション

―地域のニーズに合わせた現実的展開―

COMPREHENSIVE REHABILITATION:REALISTIC APPROACHES TO COMMUNITY NEEDS

座長 Hon.Arthur Moody Awori Vice Minister for Tourism and Wildlife〔Kenya〕
副座長 仲村 優一 日本社会事業大学名誉教授

総合リハビリテーション

―地域のニーズに合わせた現実的展開―

COMPREHENSIVE REHABILITATION:REALISTIC APPROACHES TO COMMUNITY NEEDS

Justin Dart.Jr.
Task Force on the Rights and Empowerment of Americans with Disabilities、USA

偉大な先駆者であるここにお集まりの諸先生方は過去数十年間、障害の分野で驚異的な進歩に関与されてきた。それでもなお、何億という人々に対する不正行為や、人類に対する道徳上、経済上の損失を招く差別、隔絶、剥奪に世界中の障害を持つ人々が依然として苦しんでいるということは、周知の事実である。
我々がきょうここに集まったのは、総合的な解決策を討論するためである。障害に対して社会が従来の取り組みをしていくなら革命でも起きない限り、我々の目標であるあらゆる人のために有効なリハビリテーションサービスへの到達には程遠いであろう。これから提示する協議事項の概略について皆様方から御指導をいただければ幸いである。
1 人権 約2000年におよぶ偏見と誤った情報の結果、障害者は非障害者より劣り、非障害者なら活用できるサービスやチャンスを十分に受ける資格はない、という考えが広まってきた、障害をもつ者が、社会生活の全側面において完全に平等のアクセスを持つことを強力に謳った公民権法をすべての国が通過させ施行しない限り、重度の障害をもつ我々は残り物の権利、仕事、サービスのリソース以上のものを得ることはできないだろう。
RI副会長SandraParrino氏、LexFrieden氏、その他の人々と共にそのような公民権法の発展に協力することは名誉なことである。「TheAmerican with Disabilities Act」が今年米議会に提出され、2大政党の両大統領候補者がこれを承認している。
 2 権限拡大 温情主義的システムでは平等が行き渡ったためしがない。障害を持つ者が、自分達の生活をコントロールする行政や社会の決定に完全に参加できるよう権限付与がなされない限り、差別的従属状態から救われないであろう。障害を持つ我々が率先して、障害者をRIや関係諸機関の指導陣に全面的に引き込まなければならない。
3 教育 態度と認識不足の問題が根底にある。それには教育が根本的解決策である。障害者すべてが、教育過程の主流の中で最高の質の教育を受けるべきである。マスメディアをはじめとするあらゆる教育的手段を駆使して、全市民に対し、いかに障害を予防するか、起きた場合にどのように効果的に対処するかを教えるべきである。学校、大学システムの全教科課程、全段階において、すべての人々を対象にして障害の学習を取り入れるべきである。
4 サービス 障害を持つすべての人々が、社会の主流の中で、潜在的に持っている生産力のすべてを発揮し、また、高い生活の質を得られるように、コンピュータを利用した、アクセシブルなサービスシステムを創り出すため敷設されたすばらしい先駆的基盤の上にサービスを行うべきである。
5 予防 すべての国が一次的および二次的障害の予防を優先にすべきである。
6 研究と開発および新しい技術と方法を社会全般のために実際に駆使するということも最優先されるべきである。科学的方法をあらゆる人間のために用いるような全く新しい環境とシステム、そして社会を創り出さなければならない。

実際、革命的な協議事項である。あまりにユートピア的で不可能であり、費用がかかってやりくりがつかないと、ただちに言われるであろう。不可能?それは、人間はどうしようもなく不合理であるという自滅的仮定を受け入れる場合だけのことである。
やりくりがつかない?爆弾やシンナー、コカイン、タバコは、ベートーベン、ルーズベルト、八代英太氏や中国のZang氏が貢献してきたことよりも良い投資の対象だというのだろうか。それらは20世紀の蛮行では?
やりくりに困るほどの経済的負担を負わせる不当な従属状態に、何百万人もの能力ある人々を置いているのが今日の時代遅れの政策である。
科学的リハビリテーションがあらゆる個人や社会全体に速効性があることは実証されてきた。しかし、科学的合理性といえども何千年にもわたる無知を今すぐ克服することはできないであろう。
我々の前には長く、つらい闘いがあり、我々RIだけでは勝利を得ることはできない。障害を持つすべての人々、家族、擁護者、サービス提供者は当然同志であり、我々の運命は必然的にからみ合っている。RIおよびその各メンバーは、障害権利運動にまで手を伸ばし、参加して正義のための努力を行うべきである。
ガンジーやマルチン・ルター・キングがそうしたように、我々障害者は我々の相違点や無気力に打ち勝ち、団結して人間正義のために献身すべく行動を共にするために、愛の力、理性の力、真理の力を役立たせなければならない。
数百万人の仲間と団結して、すべての国の意識、法律、日常生活の中で障害を持つ者の平等と権限付与を樹立するような政治上教育上の大きなうねりを創り出さなければならない。
我々は世界に向かって宣言をしなければならない。これらの真実は自明の理であるとみなす、と。
個々の人間生活の質と尊さは、その神聖にして犯すべからざる点において平等であり、障害は人間の変遷の中の特性の1つ、普通の特性であるということを。
そして障害者は、行政や社会の生産過程に完全に平等に参加するために譲れない権利と責任を持つということを。
何年間にも及ぶ人々の懸命な働きと犠牲の結果、正義のための偉大な勝利の入口にたどりついた。我々にはその勝利を完結するという神聖な責任が残されている。
きょうここで、現在および未来の何億人もの人々に対して重大な責任を受けとめた、というよりは、実際には責任を取ろうと努めている。社会の主流からはずれ者として存在し、もともと誇り高く、生産力のある人々に責任を持つのである。職なし、家なし、金なし、望みなし。生活上最も不可欠なものがないために何年も何十年も早くに一生を終えてしまう何百万人という人々に対し責任を持つのである。
これらの人々を裏切ってはならない。
我々の子孫を裏切ってはならない。
団結することだ。
分裂していては負ける。
団結すれば完全に勝ち、すべての人間性も勝つ。
行動しよう。
今こそ平等を。
今こそ正義を。

障害の予防

―地域リハビリテーションと国際活動の連携―

THE PREVENTION OF DISABILITIES:THE LINK WITH REHABILITATION IN THE COMMUNITY AND IN GLOBAL ACTION

John Wilson
Senior Consultant、 United Nations Development Project IMPACT

結婚してすぐ、私は妻とともにガーナ北部のある川岸の盲人コミュニティの小屋でしばらく生活したことがある。それは、奇妙なコミュニティで、住民は自分の障害の世界に閉じこめられ、世間の人々の大半は目が見えるということすら意識していなかった。
このような極端に困難な状況の中で、住民はある種の安定を得ていた。しかし、それは一歩誤れば生存すら危ぶまれるという中での安定に過ぎなかった。他にその川の岸にあるのは無人の墓地であり、生きているものはシマゼミだけであった。
数年の調査の後、糸状虫症流行抑制プログラムが開始され、ヘリコプターによって視覚障害の原因となる虫を媒介するハエの発生源に薬剤が撒かれた。その結果、西アフリカの7ヵ国では、糸状虫症の流行は抑制され、新しい世代の子供は、視力を失わずに成長することが普通になっている。
しかし、既に視覚障害者となっている多くの人々にとっては、そのプログラムは遅すぎた。現在、視覚障害者を対象として、農業共同体が設立されつつあるが、それは視覚障害者としての生活のためではなく、視覚障害者と次の世代の子供たちが一般社会の中でチャレンジの機会を得て生活するためのリハビリテーションのためである。
私が強調したい点は、貧困なコミュニティの中で障害者の実際のニーズに対応するためには、継続的な活動を進めなければならないということである。西アフリカにおける上記のような状況の中では、環境への介入が必要とされ、それが行われるまでは、コミュニティはその問題を解決する手段をもたなかった。つまり、環境が変化して、はじめて、リハビリテーションならびに平等化のプロセスが開始されるのである。
糸状虫症流行抑制プログラムは、視覚障害予防のために世界中で行われている組織的なプログラムの一環となっている。その世界的なプログラムの目標は、西暦2000年までに、全体で開発途上国の視覚障害の3分の2をもたらしている4つの原因を抑制するとともに、どの地域のプライマリー・ヘルス・システムにも眼科的ケアを含めることを確立することである。このプログラムは順調に発展しているので、我々は目標が達成されることを確信している。

この経験をもとにして、我々は、「回避可能な障害を予防するための国際プログラム」(IMPACTとして知られている)を実施した。これは国連開発計画(UNDP)がWHOならびにユニセフの協力を得て推進しているものである。その目的は、大量に発生し、また抑制のためのコスト効率の高い方法が存在する回避可能な障害の原因を除去するために組織的な活動を展開することである。我々は、このことを障害という現象に立ち向かう世界規模の努力の不可欠な部分であると理解している。なぜなら、それは予防から始まり、リハビリテーションへと合流し、またリハビリテーションによって開発された自立生活の技術が、機会の平等化、更に可能であれば、障害が不利とならない環境につながる継続的な活動であるからである。
IMPACTプログラムの主要な目標は、プライマリー・ヘルスとコミュニティ活動のレベルに置かれている。それは、コミュニティは本来備えている力によってその保健問題を解決することを期待できるというような単純な考え方ではなく、知識を広め、信頼を獲得し、組織を確立するためのゆっくりとしたプロセスである。コミュニティは、内部に資源を求めるばかりでなく、国の全体的な開発のプロセスや拡大している国際協力の機会に結び付いている外部の援助や照会システムにも目を向けなければならない。
その最も顕著な例が、拡大予防接種プログラムである。それは、世界のあらゆる子供に6大小児疾患に関する予防接種を行うことを目標としている。もし、このプログラムが十分に機能するようになれば(我々は、今の段階で、それが近いと言明することができる)、開発途上国全体で子供の障害を少なくとも25%減らすことができると考えられる。
今年のWHOの総会では、ポリオを単に抑制することから、根絶することに力を入れるべきであるという勧告が承認された。そのことは、病気を根絶するための垂直的プログラムは、プライマリー・ヘルス組織を確立するための水平的プログラムへの効果的な援助であり、それからそれることではないという認識が大きく前進していることを示すものである。実際問題として、プログラムが垂直的であるか水平的であるかの区別は、不必要な観念であり、主として見る人の視点によって左右される。
世界には、視覚障害者よりも聴覚障害者の方が数多く存在している。この事実は、まだ完全に確認されているわけではないが、開発途上国における聴覚障害の少なくとも40%は、中耳炎という予防可能な一つの原因からもたらされていることは確かである。しかし、それ以上の戦略に関しては、専門家の間でもまだ合意に達していない。私は、タイ、インド、ケニアで実施されている事業をみて、簡単な微細手術によって多くの中耳炎による聴覚障害者の聴力を回復することが可能であると確信している。
ポリオの減少によって、身体障害の発生パターンは大きく変化したが、それでも世界全体では毎年少なくとも30万人の子供がポリオにかかっている。その子供たちの移動能力の回復は、リハビリテーションの技術と基礎的な外科医療の課題となっている。私は、今年インドで、ある外科医のチームの活動を見学した。そのチームは、過去数年間で18万人の子供を診察し、2万人に対して切腱術を行ったということである。

長期予防計画よりも治療の方に資源が重点的に配分されることにつながる保健観がここで再び登場する。ここにいらっしゃる方々にも支持していただけると確信しているが、IMPACTは、これはどちらという問題ではないという考え方をとっている。つまり社会的公正は言うまでもなく、政治的にも、今の世代の障害者は子供と同様に将来の技術の恩恵を受ける権利を有しているということである。
多数の身体障害の原因となり、しかも完全に予防可能なもう一つの疾病として、ギニア虫病がある。この病気にかかる人は毎年400万人にも達すると推定され、多くの人がそれによって永久的な障害者となっている。昨年、マリで行われた調査によると、汚染された水の飲用によって村民の3分の1がこの病気に苦しんでいる村があった。「水の10年」を通じて予防のための国際的な活動も拡大している。西アフリカのある村では、たった320ドルをかけて新しい井戸を掘ったことによって、その病気にかかっている人の割合が30%から2%にまで減少した。
WHOの推計によると、世界中で精神ならびに神経の病気によっておよそ2億人が障害者となっている。最近まで、この分野では障害の予防のための技術は複雑すぎて、コミュニティのレベルで提供することはできないと考えられていた。現在では、有力な行動計画が作成され、その推進者は、それによって貧困なコミュニティでの子供の精神薄弱の発生率を3分の2に減らすことができると確信している。
最近の推計によると、さまざまな地域で6億人がヨード欠乏の危険にさらされている。そして、そのこと "によってそれぞれの世代で1、600万人の子供が重度の" 精神薄弱を持って生まれている。家庭用の塩にヨードを混ぜることは、ほとんど費用のかからない障害の予防手段として古くから行わけている。
以上は、開発途上国における障害発生のパターンを根本的に変え得るような多くの活動のほんの幾つかの例である。しかし、障害の予防にはもう一つの側面がある。障害者数の多いのは確かに開発途上国であるが、発生率から見ると老人人口が急増している先進国の方が高いのである。このことは、以前Martin Cramerが警告したように、「高齢障害の広がり」につながるのであろうか、それとも、Gottenberg Framlinghamの研究に示されたような「医療の向上によって老人の有病率は実際問題として低下する」という楽観論をとることができるのであろうか。それは、生存期間を拡大する科学とその生存期間のあり方に影響を及ぼす科学との間の競争である。医学的な研究では、楽観論の方が悲観論よりも優勢である。従って、この競争で我々が勝利を収めることは可能であると考えたい。

もちろん、我々は、多くの予防できない障害の原因が存在し、また、障害者がIMPACTプログラムにリーダーとして積極的に参加している事実から、障害そのものは生活を積極的にするプラスの経験となりうることは十分に認識している。
現代の技術は、障害を予防する機会を新たに生み出し、さらに、障害の原因となっている環境そのものを変えることさえ可能にしている。しかしながら、世界の至るところで、予防可能な病気が蔓延して、昔と同様の災いを引き起こしている。最も開発の進んだ国々でも、人口のかなりの部分が予防可能な原因によって障害者となっている状況が黙認されている。我々は技術をもっているが、その技術の大半は利用されていないのである。
また、いかなる事情があっても、資源の不足は避けなければならない。最も貧困なコミュニティであっても、障害は貧困の結果であるのみならず、貧困の大きな原因となっている。資源の不足は、単に思いやりのなさの現れという理由によるものではなく、固定化された優先順位の尺度の中で認識が不十分なために重要視されていないことによるものである。懸命な努力にもかかわらず、これまで、だれひとりとして、当事者とサービス提供者との間、専門分野とさまざまな種類の障害との間、障害の予防とリハビリテーションとの間に作られた歴史的な溝を埋めるための確実な国際ネットワークを構築するに至っていない。我々は、これらはすべて一つの目標の一部であることを認識して、互いに協力することができてこそ国際活動を必要とする課題に取り組む意味がある。
そのような状況の中では、リハビリテーションは、専門分化した活動としてだけではなく、科学技術の進歩の非常に重要な目標としての開発、保護、予防のプロセスとして理解される。また、参加と平等化は、少数派の要求としてだけではなく、民主主義と社会的分正の基本原則として理解される。これらの要素を統合する戦略は、権利を拡大し、生活を豊かにし、生命を尊重する哲学によって推進される。
しかし、我々の活動に欠けていたものは、哲学ではなく、実行力である。そのことを踏まえて、過去2年間、国際的な活動に携わっているさまざまなNGO(非政府間機関)は、一般の人々の姿勢を変化させ、実際の活動に必要な関心と資源を生み出すための世界的なキャンペーンの可能性について国連事務局と協議してきた。このような活動を経験することは、各NGOにとっては、刺激となり、望ましいことである。また、国連の中でも、多くの手続上の困難が克服されてきている。
このような協議は、ここ東京でも、RIと障害者インターナショナルが中心となって続けられることになろう。また、とりわけ各国代表の役割は、その成功にとって不可欠である。
これは壮大なプロジェクトである。そのためには課題の大きさに対応して、多くの異なった伝統や期待と協調することができる十分に大きく幅の広い枠組みを作り、奨励事項と優先事項が競合するときには、我々の世界を変化させる大きなメカニズムに沿って現実的に活動を展開しなければならない。

総合リハビリテーション

―地域のニーズに合わせた現実的展開―

COMPREHENSIVE REHABILITATION:REALISTIC APPROACHES TO COMMUNITY NEEDS

Jean-Baptiste Richardier and T.Fryers
Handicap Internationale、France

「総合」リハビリテーションを、誰にとっても満足出来るように定義するのは、不可能である。理念としては、あいまいな概念であり、ちょうど「完全な健康」の定義と同様、人により違う。「総合」という言葉は、障害者一人ひとりに対応出来るリハビリテーションの選択肢の範囲、下部組織や措置支援体制の完備、国民全体にとっての有用性、そして障害のすべての種類や等級への適用性について用いられる。
従って、我々は、リハビリテーションの概念を説明する時にも、実際的現実的でなければならない。この概念は、機能に対して人が持つ、普遍的な期待を包含すべきであるが、「正常な」、あるいは「普通の」範囲内での相対的な機能喪失は考慮に入れないようである。一人ひとりの希望や抱負を包含すべきであるが、しかし各自の家庭、階級や文化の「規範」を超える希望を実現することはないだろう。社会的期待を包含すべきであるが、しかしすべての文化が持つ多様性や絶えず変化する特性に適応することは、期待出来ない。従って、現実的(実際的)アプローチは、それぞれ独自のもので、問題やニーズに対しては、その人の住む地域の文化や環境を反映した解決法がとられなくてはならない。しかし障害者にとって、どのレベルでの「問題」や「解決」が、焦点となるべきか、そして誰が最も良い援助者になれるのか。

機能障害(impairment)は、一般に根源的な問題と考えられている。多くは状態が変わらず、あるいは、普通には利用出来ない手段(例えば専門家による整形外科手術)によってのみ、回復可能である。専門家は大体において、機能障害という観点で考えるように訓練されているが、リハビリテーションの究極の目的は、大部分がハンディキャップ(handicap)の観点―つまり、機能障害や能力障害(disability)に由来する社会的な不利の軽減―であるということを、我々は認識する必要がある。しばしば障害の矯正は、単に心理的作用改善のために、外観の矯正をすることであるが、しかしこれは、目に見えるハンディキャップの減少であり、そのことが、かえって本当のハンディキャップになる。時には痛みや不快感を減らすため、あるいは自己のイメージを高めるためにのみ、障害に取り組むことがあるが、これに対しても同じことが言える。概して、総合リハビリテーションへの現実的アプローチをとるためには、我々は社会的不利と関連づけた目標にリハビリテーションの焦点を合わせる必要があり、その目標に向けては、機能障害を矯正したり、能力障害を軽減す ることは、補助的な目的である。

さまざまな専門の医師の中には、他の専門家、例えば理学療法士、作業療法士、言語療法士、専門の教師や看護婦と同様に障害、つまり機能低下に関心を寄せる人がいる。ここで問題になるのは、専門的訓練、経験と責任が、多くの部門に分れていて、「リハビリテーション」の総合的専門知識をもつ人がいないことである。したがって、現実的アプローチでは、あらゆるタイプの障害とリハビリテーション全体についての、再訓練やさらに進んだ訓練なしには、こういった専門職のどれも、総合的リハビリテーションプログラムを担当できない。これらの専門家は、より広範なプログラムの一部として、必要に応じて活用される特定のリソースとして利用される。
残念なことには、医療や医療関連職従事者のほとんどは、個人の社会的機能、あるいは社会自体の構造や機能に関して、十分な訓練を受けていない。こうした事柄を自分達の能力の範囲を超える、あるいは関心外とみなす傾向がある。社会学は実践的学問ではなく、ソーシャルワーカーは生物学上の知識をほとんど持たないことが多く、それがリハビリテーションヘの貢献の限界となっている。しかし、ソーシャルワーカーは、雇用、住宅と経済的な問題に関して重要な役割があり、障害者のための脱施設化の運動と支援網確立を先導してきている。

率直にいって、先進国では混乱状態にあり、我々は開発途上国に対しては、異った経済状況や文化の違いをある程度認識しながらも、全体的な総合リハビリテーションはほんのジェスチャー程度で、実際には自分達自身と同じ職業上の分裂、制限や内部抗争までも再生産するようなことをしがちであった。どの専門職、あるいは専門家も、その担当範囲は総合的なものではなく、彼らの訓練の大部分は、コンサルタントとしてのものであり、管理者の役割には不適切である。
それならば、いったい誰がCBR(コミュニティ・ベースド・リハビリテーション)を監督すべきか、またどのような訓練を受けるべきなのか。総合性と現実主義の両面において、先進国にあるどの専門職の関係者でもないことが、最善であるかもしれない。―もし専門職出身であれば、多分自分達はその専門職から「リハビリテーション」へ移ってきたという立場をとるであろう。実際に多くの国では以前に専門上の訓練を受けていないこともあるだろう。しかしこれは必ずしも不利な点ではない。というのは、訓練の内容は、主として地域をベースとしたプログラムを設置し、管理し、発展させ、それに他からの専門技術を含む必要なリソースを獲得し、活用することに関係してくると考えられるからである。人間関係やコミュニケーションの技術が最重要である。つまり、地域開発のアプローチと文化の理解が根本である。
同時に、機能評価の過程と、リハビリテーション技術および開発途上社会へのそれらの適用性に関して、適度に総合的な全体像を持っていなければならない。CBR管理者には基礎訓練と同じく、継続教育も同じく必要である。このことに関する経験は、まだ非常に限られたものであり、また絶え間なく変わっており、今はまださまざまな経験を抽出して、一つの訓練プログラムを作成することは難しい。ある特定の注目に値するプログラムのために、人を遠隔地に派遣するのは経済的ではないし、いずれにしろ、こういったプログラムも、ある特定の適用例にすぎない。

この先2、3年間に、2つの考え方が状況改善に役立つことであろう。第1は、障害の判定とリハビリテーション技術のための、訓練用ビデオの作成である。ビデオはこのような内容にとって、非常に優れたメディアであり、その上文化や環境の諸事情もよく伝達出来る。口上による解説は、比較的容易に多くの言語に翻訳出来るであろう。短期のプロジェクトとして資金が得られるであろうし、十分推進する価値があると思われる。第2は、何か「定期刊行物」とか、「会報」その他コミュニケーションの定期機関紙を、世界中のCBRに関する討論、論議や評価のための公開討論の場とすることである。これは、これまで得た経験を学ぶため、すべての人の助けとなるだろう。既存の定期刊行誌の特集記事として発展させることも出来るし、新しくスタートさせることも出来るだろう。このためには、国際的な財源が必要である。
現在のところ、多くのプロジェクトがあるが、そのほとんどは小規模で、組織形態も違い、重点の置き方も異り、それぞれの長所短所があり、財源もさまざまであって、保健、教育や社会サービスの下部組織との関係も、それぞれ異なる。どれ一つとして、それが唯一の、あるいは「適切な」方法だと主張することは出来ない。というのは、評価がほとんどなされていないからである。ゆえに、我々はお互いに学びあう必要があり、「定期刊行誌」は、重要な役割を果たすだろう。

繰り返す価値のあるのは何かを知ろうとするなら、効果と効率の面での正式な評価が必要であり、そのような試みは、これまでほとんどされてきていない。理由の一つは、CBR関係者には、「学者」や研究技術を持つ人がほとんど含まれていないからであり、また評価には、必然的に、余分の時間と財源が必要になるからでもある。すべてのCBRのプロジェクトを、評定することは、明らかに期待出来ない。従って、現実的にいって2、3の非常に良く立案されていて、その結果を最大限に適用出来るように注意深く選択された状況下での評価研究―綿密、客観的、かつ長期的なものへの資金供給が必要である。
規模の拡大」が第1の難題である。CBRのプロジェクトはほとんど小規模で、多くは本当の意味での永続性がない。つまり常設の下部組織を持たない。「規模拡大」関連の問題点、つまり村規模のプロジェクトから、広範囲で総合的な常設サービスへの拡大の問題点は計り知れず、それはまだ未経験といっていい。管理や訓練へのアプローチも異なり、地域をベースとしたアプローチ、地域参加と適切な技術への重点を犠牲にしないためには、格別な努力が必要である。実質的に拡大していこうとするなら、CBRがその地域の保健、教育および社会サービス関連の下部組織と連携していることが基本である。しかもそれにもいろいろなやり方があると思われる。繰り返しになるが、総合リハビリテーションの歴史がなく、理解もすすんでおらず、したがって現行のサービスにこの考え方が取りいれられていないために、CBRが打ち切られたり締めつけられたりしないように、格段の努力が必要である。
「政府」サービスとの連携は、信頼性、創造性と独立に対する脅威となることが多いが、特に「政府」資金に依存している場合にそうである。財源の問題は中心的課題である。永続的財源は、政府のサービス以外では通常得られないが、しかし多くのNGO(非政府間機関)が全国組織で運営される場合には、ほとんど恒久的存在となる。CBRのための政府とNGOの関係/協力関係、その中には、大規模で恒久的プログラムのための財源、人事、訓練や資源確保が含まれるが、その開発には、創造的思考が必要である。地区や全国規模への転換とも直面しなければならない。CBRは現在よりも大幅に普及して初めて、成功したことになるのである。

より良い協力・協調関係なしには、現実的な総合性はありえない。CBRの本質からいって、水平にも垂直にも総合的であるためには、多くの機関や専門家(それが「政府」のサービスであってもなくても)が、参加しなくてはならない。水平にという場合、障害者が居住している地域社会の中で、広範囲のアクセスがある(地域社会の大きさはさまざまで、現実的にはそれぞれの地域社会で得られる選択肢は異なるかもしれない)ということを意味している。垂直にとは、障害者自身の地域社会の範囲外での措置のオプションや、介護スタッフ、施設を意味している(大きな町や都市では、異なったアプローチが必要な異なった状況が存在する―都市でCBRを発展させているのは誰か。」
CBRは単なる「地域リハビリテーション」ではなく、地域社会をベースとしたリハビリテーションである。第2の、あるいはさらに第3の措置のための照会機関なしには、完全でも、総合的でも、あるいは満足すべきものでもない。CBRを構成しているのは、地域社会をベースとした、このピラミッド型のサービスである。近い将来にこのサービスに必要なことすべてが設立されることは、多くの国では望みえない。従って、この意味での総合性は達成出来ない。しかし現実的なアプローチでは、現行の体制を障害者のために適切に調整し、そしてこのような第二義的手段の設備増加を疎かにしないことが、要求されている。
また現実的アプローチのためには、CBRプログラム全体にそれぞれ貢献している機関や専門職が、明確で合意された目標、責任、課題をもつこと、それで初めて、無駄や摩擦、ギャップや重複を避けて、協調が可能になるだろう、これは小さな村でのプログラムには一見不必要に思えるが、しかし大勢の人数をカバーする場合には不可欠である。地域のネットワークは、ばかげて無駄の多い官僚主義なしに、相互の合意や協調活動を発展させて行くための技術を提供するだろう。地域のCBR会報で、各レベル間の繋がりを保つことが出来る。

CBRプログラムはすべてのタイプの障害にかかわるべきだろうか。能力障害という言葉(あるいはその同義語)には、さまざまな意味が包含される。一般的で、注目されていないとはいえ、長期に渡る精神病による障害者が含まれることはめったにない。痴呆が含まれるのも稀である。精神薄弱もしばしば除外される。全タイプの障害を含めることは、非現実的だとみなされているのかもしれないが、しかしそれならば、総合的であるとすることは出来ない。ある地域での特定のプログラムについて、実際に考える場合には、当初制限があるだろう。しかし開発計画には、すべての障害者グループを、必ず含めなければならない。「精神障害」に対する、地域での適切なアプローチを整備することは、特に必要である。

CBRには障害のすべての等級を含むべきか。これはある意味では、適切な設問ではない。というのは、軽度の障害の多くは、大きな社会的不利(handicap)を作りださないし、また個人が援助なしに十分克服出来るからである。障害の程度は、地域社会ごとにさまざまな様相を呈する。同じ程度の障害が、大きな社会的不利になったり、ならなかったりする(文字のある社会とない社会での、軽度の精神薄弱の例)。その上、レッテルをはるという問題もあり、これは軽度の障害については、回避しなければならない。決定的な問題は社会的不利に関することで、総合リハビリテーションが、重大な社会的不利はすべて包含することに、疑問の余地はほとんどない。
社会的不利に重点を置くことが、最も重要である。脳性麻痺の障害者にとって、読み書きを学び、仕事を得られる技能を得ることの方が、歩行矯正よりもより重要である。職業上の技能、雇用援助と収入確保のプロジェクトは、特に重要である。しかし社会によっては、結婚出来るかどうかということと、生殖能力が、仕事よりも重要な場所もある。社会的な不利に焦点をあてるのは、現実的アプローチであり、社会的な不利を減少させる場合に限って、能力障害に取り組むものである。この焦点のあてかたは、大きな能力障害が存在する場合に、大きな社会的不利を生み出している小さな障害を見逃す危険を回避する助けになるだろう。例えば、小児麻痺で歩けない子供で、視覚障害もある場合、読み書きが出来るようになるためには、眼鏡が必要である。
実践上、経済的に実現可能なCBRのプログラムは、少なくとも初期の段階では、最も大きな社会的不利を負っている人々や、最も実行しやすいリハビリテーションの選択に集中するだろう。このような優先順位の設定は、まず最初に総合的全体像を持つことなく出来ない。

結論:社会的不利(hadicap)に焦点をあてることにより、社会的不利が、個人の特徴―能力障害(disability) ―と並んで、その社会や文化の特質の結果として生じてくるものであることも明らかになるであろう。リハビリテーションは、障害者が地域社会の生活に受け入れられ、統合され、完全に参加し、社会の中で共通の価値ある役割につけることを目的としている。無知、偏見、敵意と拒絶はどこでも見られるが、リハビリテーションが成功するためにはこれらを改めなければならない。悲観主義、運命論や価値の低下も珍しいことではなく、リハビリテーションを促進し、資金供給を得るためには、それらと闘わなければならない。リハビリテーション、あるいは健康ですら、住民の間では優先権を得ていないかもしれないし、地域教育が必要になるだろう。施設や専門家は、新しい役割を果すために、再組織化と再教育の必要があるだろう。行政官、経営者や政治家は、その姿勢と行動を改める必要がある。何よりも、現実的な総合リハビリテーションとは、障害者自身と同じく、社会も変えていくことを意味している。

総合リハビリテーション

―地域のニーズに合わせた現実的展開―

COMPREHENSIVE REHABILITATION:REALISTIC APPROACHES TO COMMUNITY NEEDS

八代英太(前島英三郎)
参議院議員

「総合リハビリテーション―地域のニーズに合わせた現実的展開」。これが、今回、私達に与えられたテーマであります。この場合、「現実的」とはいかなる意味が込められているでありましょうか。
やはり、この地球の現実、すなわち、今だに軍事費への莫大な支出を続け、実際に戦火を交えている地域さえ存在しているという、この「現実」から目をそむけてはならないということを物語っているに違いありません。
戦争やその他の暴力が障害の原因となってきた、ということを否定する人は誰もいないでしょう。しかし、そればかりが問題なのではありません。戦争の恐れや可能性がある、というだけで、各国の、いや世界の政治・経済は強い圧迫を受けます。そうした圧迫の下で、社会は人々に忍耐と窮乏とを要求します。こうした状況の中では、リハビリテーションの展開はほとんど不可能であります。もし仮にそれを行おうとしても、軍人優先の偏ったものにされることになるでありましょう。これは、過去の経験から多くの人々が知っていることであります。
従来、地球のこうした「現実」は、多くの場合、私達にとって「与えられるもの」でありました。いつも「まきこまれ」「煽られ」「駆り出され」てきました。すなわち、大きな流れは、私達にとっては、大体「受動態」で進んできたのです。
そこで、この際、提案したいと思います。
世界の情勢という「現実」に対して、何とかして「能動態」で臨むにはどうしたらよいか、みんなで考えようではありませんか。それは、誰かを非難することでなく、各国にとって、失うには余りに惜しい「価値」を生み出すことによって、達成されるものであると思います。

さて、標題は、「地域のニーズに合わせた展開」ということを謳っています。そこで私は、「ニーズの捉え方」について一言申し上げておきたいと思います。すなわち、「ニーズの動的把握の必要性」ということであります。
わかり易くするために、私自身を例にしてみます。私がけがをした当初、自分が将来まったく歩けなくなるということも知りませんでした。やがて事態を飲み込み、リハビリテーションを経て、約半年後に車いすで退院しても、自分にどのような可能性があるものかよく知りませんでした。多くの先輩に話を聴き、あちこちを歩き、旅行し、やがて世界の動向まで視野に入るようになってから、自分自身の持つ可能性の大きさを知ることが出来たのであります。
すなわち、最初は、自宅に帰って生活できるために必要なことのみが私のニーズであったのが、だんだんと広がり、大きくなり、見聞が広まってから客観的に見ても適切な、あるいは、現実を少し超えるようなニーズを感じるようになってきたのであります。
障害者本人が自覚できるニーズというものは、客観的に必要と思われるよりも、その障害者の意識が、その置かれた状況から制約を受け、随分小さいものとなりがちなのであります。そして、状況が変わってから、ようやく新しいニーズを自覚できるものだ、ということを十分考慮する必要があります。私の例では、個人の認識や意識の問題として述べましたが、このことは、地域全体、もしくは国全体においても、同様のことが言えます。そのコミュニティの状況から生じる、ある程度平均的な意識によって、そのコミュニティの障害者が自覚できるニーズが左右されます。それは、状況が少し変わった後に彼等が自覚するであろうニーズに比べ、実にささやかであるはずです。
で、このささやかなニーズに対応してことたれり、とされたのでは、十分な展開とは言えません。そうかといって、障害者自身が自覚する前に、その新しいニーズを説明、対応策を打ち出したらどうなるでしょうか。障害者は、押し付けだと感じ、そっぽを向くでしょう。つまり、「ニーズ」というものは、小さなレベルであれ、大きなレベルであれ、あらかじめ定めてしまって、動きのないものとして捉えることは「現実」から遊離してしまうことなのです。
障害者のニーズというものは、状況とともに、また、障害者の意識とともに、変化し、発展していくものだ、という点を十分に考慮して展開しなければなりません。

さて、変化し、発展するニーズを、いかにしたら的確に捉えることができるでしょうか。あるいは、その変化や発展を、コミュニティに住む障害者にとってちょうど良いテンポとスピードで実現していくにはどうしたらよいでしょうか。
それは、障害者自身の「参加」をいかに効果的に実現するかが「鍵」となります。というより、障害者自身の主体的な関与なしに、ニーズを動的に把握することは不可能です。障害者が個人として自立し、主体的にかかわっていくことも大切ですが、コミュニティ全体、国全体の問題としての適切な把握を保証するためには、障害者自身の組織化ということが重要なポイントになってきます。もちろん、民主的な組織でなければなりませんが。民主的とは、一面では多数意見で運営することでありますが、障害問題に関しては、障害とは一様でなく、それぞれに異なった解決方法を必要とするのでありますから、一人ひとりのニーズと、一人ひとりの主体性を相互に尊重しあうというルールが、組織内部に確立されていることを意味します。
こうした障害者自身の組織作りを奨励、援助するとともに、障害者組織の発言権、決定に関与する権利等を正しく位置づけ、それも、さまざまなレベルで実行していくことが重要であります。さまざまなレベルとは、コミュニティ、地区、国等の上下のレベルの他、計画、決定、実施、評価といった各段階のレベルをも含むものであります。
ニーズが満たされ状況が変わることによって、また新しいニーズが生じる一方、ニーズを満たしたり、問題を解決するためのよりよい知恵が、障害者自身の生活の中から生まれることにも注目する必要があります。特に「地域のニーズに合わせた現実的展開」というサブ・テーマの観点からは、最も大切な事項のひとつであります。
国際交流とは、常に極めて刺激的であり、新しい目標や展望を切り開いてくれるものであります。しかし、動機やきっかけが国際交流の中からもたらされる場合であっても、現実的な展開の段階では、それぞれの国や地域の伝統的な文化や生活様式との融合、適合という問題が大きな壁になったりします。そんな場合など、そこで生活している障害者自身の経験と知恵とが、恐らく、最も決定的な役割を果たすでありましょう。

さて、障害者自身による、ニーズの自覚、組織化、知恵といった問題に触れて参りましたが、これら一連の論議の流れは、すべて障害者自身の大きな「責任」ということを指しています。従来、障害者が平等に生活できるようにするための「社会の責任」ということが語られて来ましたが、それを推し進め、突き詰めて行くと、このように障害者自身の責務の問題に戻ってくるのです。そして、今度は障害者自身がこれらの責任を果たすと、またまた「社会の責任」にスポットが当てられることになるでしょうが。
最後に、教育の重要性ということを述べておきたいと思います。
教育とは、時間のかかる仕事であり、速く効果を挙げようとするとかえって失敗するものであります。そして、教室や学校があっても、先生がいなければできません。ですから、まず、先生を育てることから始めなければなりません。そして、学校や教室などの教育の場を作り、こうしてようやく、幅広い教育を始めることができるようになります。
教育というものは、間違ったことを教えない限り、逆戻りすることがありません。内容が間違ったことを教えた場合は、それを修正しなければなりませんから、逆戻りに近いことになりますが、内容が正しければ、知識の普及、技術の習得など、積み重ねれば積み重ねただけ、見えない財産として蓄積されます。このように大切な教育ですが、リハビリテーション分野においては、次の4つの課題で教育を展開する必要があります。

第1は、障害者自身に対する教育です。
多くの国で、障害児・者は教育の機会から疎外され、その持てる能力を十分に発揮できずに過ごさざるを得ませんでした。学校教育、職業教育、社会教育など広い分野で機会が保障されなければならず、また、障害者自身は大いにその機会を活用しなければなりません。
第2は、リハビリテーションの専門家を育てる教育です。
リハビリテーションの現場において、広く深い知識と優れた技術を持った専門家が不足するという壁に、ぶつかりやすいのです。我が国の場合がそうでした。
これから体系を形成していくような場合には、国際協力が非常に重要です。海外留学、講師の招請などが円滑に進むよう、国際機関や各国の国際協力のための組織・機関は大いにその機能を発揮すべきであります。
第3は、一般の学校教育の中でのリハビリテーションに関する正しい理解教育です。
障害児と共に学ぶことを通じて自然に理解が身につく場合もありますが、やはり、子供たちの発達段階に対応した系統的な教育を推進する必要があります。
第4は、社会の一般の人々に対する教育・啓蒙です。リハビリテーションに対する社会の正しい理解なしには、いかなる「現実的」な展開も不可能でありますから……。
これらについては、必ず、各レベルで、計画を立て、予算を付け、担当を決めて実践すべきであります。
時間はかかりますが、逆に、時間がかかるからこそ、早く手をつけなければならないのです。
教育の問題については、ついつい、障害児にどのような教育を保障すべきか、という点だけがテーマとなりやすいようです。必要なテーマではありましょうが、それに限定されてしまってはいけません。教育一般の中で、リハビリテーションをどう位置づけるべきか、という発想を決して忘れてはなりません。このことを強調して私の講演を終わることにいたします。

総合リハビリテーション

―地域のニーズに合わせた現実的展開―

COMPREHENSIVE REHABILITATION:REALISTIC APPROACHES TO COMMUNITY NEEDS

Rajendra Kumari Bajpa
Minister of Welfare。 Government of lndia

1981年国際障害者年に行われた行事により、障害者の主張に対して世界中の目が開かれた。もちろん、RIの貢献も大きかった。他の国々と同様、我がインドにおいても、障害についての調査を進める一方、機能回復のための基本的援助や器具を提供する多数の先駆的事業、介助や教育、訓練や職業紹介を行う任意団体への援助が始められ、また障害児教育を推進する奨学金制度を創立、さらに障害者の社会統合を助けるべく多くの公的免許や便宜が提供された。
2.有志の努力によって始められた少数の施設を除いて、1947年の独立以前のインドには障害者のためのサービスは事実上皆無であった。我々はインド憲法に基づき、福祉国家を宣言した。それは、すべての国民に平等な法的保護を提供するだけでなく、国家の基本政策の一つとして、障害者を含むすべての国民の福祉増進を義務付けている。憲法第41条には、「国は、その経済的能力と経済発展の範囲内において、失業者、老人、病人、障害者、その他不当な不利益を被った者に対し、就業の権利、教育を受ける権利、および公的援助を受ける権利が保証されるよう、適切な措置をなすものとする」と定められている。国の政策としては、障害者が社会の本流に統合され、生産的な社会構成員として他から認められるようにすることを目的としてきた。テレビ・ラジオや新聞を通じて常に訴え続けることで、障害者についてまわる社会的汚名をかなり挽回できるようになってきた。このプログラム全体が、障害者が自分は必要とされている、責任ある市民として国の発展に貢献できる、と思えるようになることを目的としている。
3.世界全体で障害者の数は人口の約10%と推定されている。しかし開発途上国における障害者の実態は、先進国とは非常に異なっている。例えば、先進国ではポリオはほとんど見られなくなったが、開発途上国においては身体障害の主因となっている。発達障害は、先進国ほど大きな問題ではない。障害の実態や社会、経済環境の違いがある以上、この問題の解決法も各国独自のものとならざるを得ない。インドではかなり厳しい定義を採用しているので、政府の事業の恩恵を受けられるのは障害者の中でも特に重度の人に限られる。この定義によると、肢体不自由者や視覚障害者、言語 "障害者、聴覚障害者の数は1981年で1、180万人、全人" 口の約1.8%、精神薄弱者は約2%と推定されている。
4.障害の予防
行動計画においては障害の予防に最も重点を置いている。これは適切な予防処置を行えば、あらゆる障害の発生を大幅に減らすことができると認識しているからである。このため、ポリオその他の病気を減らす予防接種制度を整え、また2000年までに盲人の発生率を現在の1.4%から0.3%に減らす目的で、視覚障害予防を国家的事業として行っている。こうした事業は、各地のプライマリー・ヘルスセンターを通じて全国的に実施される。障害発生のもう一つの主因である事故の予防については、教育や法的手段を通じて注意を呼び掛かけている。
5.民間機関の役割
障害者対象のプログラムにおいては、献身と理解が絶対条件なので、インド政府は、障害者の介助に最も重要な役目を担ってきた民間団体の努力を奨励する政策を取っているのが実情である。こうした民間組織は "約1、500あり、大多数が実質的に中央政府や州政府の" 資金援助を受けている。中央にはボランティア組織に対する助成制度があり、政府はその制度に基づいてボランティア組織に対し、予防やセラピー、教育、職業訓練、職業紹介などのサービスを障害者に提供するコストを、90%まで援助している。
6.補装具および補助機器
適切な補装具や補助機器の提供はリハビリテーション事業の基本である。また障害はしばしば貧困を伴う。そこでインド政府は、国中に分布する施設のネットワークを通じて無料で補装具や補助機器を貧しい人々に提供する大規模な計画に着手した。Kanpurに公営の義肢製造会社(ALIMCO)があって、ここでは肢体不自由者用の標準的な品質と規格の補助機器を大量に製造している。民間の多くの企業も義肢装具、補聴器などを作っている。
7.先端的施設の設立
インド政府は先端的レベルの国営施設を4つ設立した。これは障害者にサービスを提供する人員を養成し、政府機関によるだけでなく、地域レベルで民間組織が同じように行う場合のモデルとなるサービスを提供、さらに適切な事業計画を練るため、障害のさまざまな側面について調査を行うためのものである。主な障害別、すなわち肢体不自由、視覚障害、言語・聴覚障害、および精神薄弱それぞれについて設けられた、この国立センターは、障害者や障害者のために働く専門家が必要とするあらゆる基本的情報をカバーした情報、文書センターの役割も果たしている。これらの国立センターの設立はごく最近だが、それぞれの障害の分野で指導的役割を果たしており、またボランティア部門や州政府と緊密な協力を保ちながら事業を行っている。世界中の、特に開発途上国の同様の施設や機関と経験を分かち合うことができれば、これらセンターにとっても好ましいことである。
8.教育
すべての障害者が養護学校に行くのは、妥当ではなく、第一不可能である。従って実際の政策として、できるかぎり障害児の統合教育を実施してきた。養護学校は、普通学校では適応のむずかしい重度障害児の教育には有効である。全国の統合教育を行っている学校に特殊教育の教員や資財、設備を提供しており、養護学校を400作ることを提案している。こうした学校に必要な教員を提供するため、国立大学では養護教員養成の総合的プログラムを作った。また養成過程の基準を作り、専門家の質を確保するため、医学審議会にならってリハビリテーション審議会が設立された。
9.職業訓練および職業紹介
リハビリテーションの評価は経済的に復帰できるかどうかにかかっており、従って障害者の職業訓練および職業紹介に重点を置く必要がある。インドには職業訓練センターが16、特殊職業安定所が22、一般の職業安定所の中にある特殊雇用担当課が40あって、ネットワークを作っており、職業訓練や職業紹介を促進している。政府機関には身体障害者雇用枠が3%設けられている。最近、雇用枠の空きを埋めるため障害者の特別募集を行っている。
10.総合的農村リハビリテーション
民間施設の多くは都市に存在する一方、障害者の80%は農村に住んでいるという事実を認識し、実験的事業として、10の区域に地区リハビリテーション・センターを設立した。その事業は、障害者のために機能回復、医療、教育、職業訓練、および職業紹介のサービスを提供するさいのよりどころとなる、サービス機関運営の総合的ノウハウを作ることである。すでに地域で利用されている保健機関や教育機関との緊密な協力や、リハビリテーション・プロセスにおける地域共同体との密接な交流を狙いとしている。今後、他地域にも拡大していくために現在評価を行っているところである。
11.ユニセフの役割
ユニセフは児童の発達と福祉に深く携わっており、障害児を対象としたプログラムでインド政府と協力して活動をしている。ユニセフの全面的協力を得て、さまざまな領域で計19の調査プロジェクトが現在進められている。また、早期療育や総合リハビリテーションのプログラムを実施している50の民間ボランティア団体も、ユニセフの援助を受けている。8地域のリハビリテーション・センターのプロジェクトにも助成を行い、さらに障害発生防止のプログラムにも大幅な援助を行っている。
12.これからの傾向
インド政府は障害者に対して多くの権利を認めてきたが、障害者のための総合的な法律の制定が必要なことは以前から認識されている。立法化を進めるべくインド政府が設立した委員会が、先ごろ報告書を提出した。このような法律は、障害者が社会の中で正当な位置を占めるという、長年の願望を実現する上で大いに力となるであろう。
13.障害者やその家族に対して、公共機関や民間で受けられるさまざまなサービスや与えられた権利などについて、正確な情報を早く提供する必要性から、ごく最近、国立の障害者情報・文書センターを設立した。このセンターは将来、コンピュータを導入し、障害やセンターの運営についてなど総合的情報を持つことになる。また、政策決定を助け、この分野で活躍している研究者や実践家に必要な多くの情報を提供できるようになる。
14.障害者の生活をより容易にさせ、向上させる上で、科学技術は大きな役割を果たすことができる。このため補装具やリハビリテーション技術の向上を目的にリハビリテーション・センターを設立した。今後は技術開発プロジェクトの設置を提案しており、これは、障害者のための立派な仕事を多く行っている科学技術の分野の調査機関やセンターの活動の連絡調整をはかるものである。
15.精神薄弱者は、他の障害者とは全く異なる問題を抱えている。精神薄弱児とその両親は、親が亡くなったら子供はどうなるのだろうという心配をしがちである。今日の世界では、家族や親戚の善意に依存することは大変難しくなっている。伝統的な社会組織は世界中で崩れつつある。我が国で行われた、ある精神薄弱者の福祉セミナーでは、精神薄弱者のための国営信託基金の設立が強く主張された。これは、精神薄弱児を保護し、リハビリテーション・サービスを提供、さらには彼等の代理として財産も受け取れるようにしようというものである。この問題は検討中で、おそらく近い将来にそうした基金を設立することになるであろう。
16.障害者のためのスポーツやレクリエーションについては、やるべきことがたくさん残されている。肢体不自由者や精神薄弱者のためのスポーツは国際レベルで組織化されているが、その他の障害者のためにも同様の活動を始める必要がある。RIがこの点に配慮されるよう要望する。
17.適切な機会や援助、指導が与えられれば、障害者は障害を克服し、能力を高め、非障害者と同様に社会の有能かつ生産的メンバーになれる、いや非障害者を超えることさえ可能であることを、我々は経験から学んだ。総合リハビリテーションは本来、障害の性質や程度にかかわりなく、すべての障害者を対象にし、また障害をできるだけ軽くする一方、その隠れた能力を最大に伸ばして社会の有能な一員とさせるプログラムを行うことである。こうした総合リハビリテーションは実際、大変な事業である。この崇高な目的のためには、より一層の努力、投資、そして建築物その他の障壁の除去が必要となる。私の考えるところ、最も大きな障壁は一般の人の態度であり、それはゆっくりと、目に見えない程度ではあるが、消滅しつつある。この世界会議がそうした障壁の除去に大いに貢献し、かつ世界各地で行われているさまざまな総合リハビリテーション・モデルについての考えや情報の交換の機会となることを、切望する。ロングフェローは、「芸術は長く、時は短い。」と述べた。この世界会議が総合リハビリテーションの「芸術の長い道」の重要な一里塚となることを期待している。


主題:
第16回リハビリテーション世界会議 NO.1 1頁~62頁

発行者:
第16回リハビリテーション世界会議組織委員会

発行年月:
1989年6月

文献に関する問い合わせ先:
〒162-0052 東京都新宿区戸山1-22-1
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
Phone:03-5273-0601 Fax:03-5273-1523