セッション3 進路選択支援の実際と課題

話題提供者:
長坂 奏那、長坂 有里子
河髙 素子 ソラアル株式会社
小出 隆司 全国手をつなぐ育成会連合会 副会長
静岡県手をつなぐ育成会 会長
関哉 直人 関哉法律事務所 弁護士
コーディネーター:
田中 裕一 神戸女子大学 教授

田中

皆さん、こんにちは。

お昼においしいものは食べてきましたか? 大丈夫ですか?

パワーもつけて、これから第3セッションを始めます。なぜかというと、今日の5人はパワフルですからね。それに負けないパワーを、ぜひこちらに送ってください。

私の紹介は割愛します。

抄録集にはレジュメがあります。ホッチキス止めの資料にもこのセッションの資料があります。

それでは早速、始めていきます。

趣旨は抄録集にも書いてありますが、障害のある方が何かしらの決断をするとき、さまざまな場面があると思います。今回はその中でも、進路相談や就職の選択というところにターゲットを当てて、どのような形で当事者本人が選択に関わっていくのか、ということを話し合えればと思っています。

大まかな流れとしては、まず話題提供をしていただき、そのあと私たちの間で少しディスカッションを行い、その後フロアから質問やご意見をいただいて、最後にまとめる形を考えています。

皆さんも、「こんな質問をしたいな」ということがありましたら、ぜひ考えながら聞いていただければ幸いです。

趣旨の中には書いてありませんけれども、昨日も少しお話しさせてもらった「Nothing about us without us」、つまり「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」という言葉があります。ここにいらっしゃる皆さんには、きっと共有していただける考え方だと思います。そういうことも頭の片隅に置きながら、今日はお話できればと思っています。登壇者の皆さんからも、そういった視点で話題提供をしていただけると思います。

あまり私がしゃべりすぎてもいけませんので、私からは以上にします。

それでは早速ですが、長坂奏那さん、有里子さんから、ますお二人で、漫談……? ではなく、ディスカッションややり取りしながらお話しいただくということで、お願いします。

長坂有里子

座ったまま話します。

はじめまして。東京都東久留米市でサークル活動をしています、長坂有里子です。

長坂奏那

娘の奏那です。

有里子

私たちのサークルは、保護者と学校側の間に入って、何かあったときに面談に立ち会うなどの活動をしています。いわば双方の通訳のような形で、「お母さんはこういうことを言いたかった」「学校はこういうことを言いたかったんだよね」ということを調整しながら、活動の中で関わっています。

その活動につながるまでには、私自身の生い立ちが関係しています。

私の両親の教育方針は、「子どもはそれぞれの個性で区分されるのではなく、思いやりを持って育ってほしい」というものでした。その影響で、小学校・中学校を自閉症児との混合教育の中で育ちました。クラスは約20名で、1クラスに1人から3名ほど、重めの自閉症のお子さんがいました。物理的な区分はあったものの、気持ちの中では1人の大切な友達として過ごしていて、豊かな時間を共有し、すごく楽しい思い出がたくさんあります。

その学生生活の中で、支援を受ける子どもたちの同級生という立場で見てきたこと、感じてきたことが、私が子育てをするうえでとても大きな影響を与えてくれたと感じています。

当時のマリちゃん、けい君、そして給食のときだけ重度学級から交流に来るお友達。そうした子どもたちが、大人からどのように扱われているのかを、同じ子どもの視点で見ていました。そのとき私は、「その子たちはどんな気持ちなんだろう」と考えていました。そうした疑問や振り返りの中で、子ども自身が自分の選択を通して、その後の歩みや行動を決めていくことは、とても大切なことだと感じるようになりました。

今も昔も、それが実は当たり前ではないからこそ、ゆがみのようなものが生じてしまうのだと思います。私は子どものころから、障害をもつ子の意思が尊重されにくい場面に接してきたからこそ、自分が子どもに接するときには、「子ども自身が選択できること」「選択肢があること」を大切にしたいと思うようになりました。そして、それが今の活動にもつながっています。それを子育ての柱にしてきました。

ここからは娘の話になります。

我が家には、娘の上に自閉スペクトラム症の診断を受けている長男がいます。この子の存在が、私にとってこうした活動をライフワークとして続けるきっかけになりました。

障害のある子どもを育てるということは、いわゆる健常児という言い方をしてしまいますが、そうしたお子さんを育てるよりも、1つ1つの細かなことを教えていく場面や、幼児期から学童期にかけての集団生活を支えていく場面で、大変だと感じることの連続だったかもしれません。

でも、初めて歩いたときと同じように、「初めての○○」という経験が、他のお子さんよりもたくさんあります。つらいと感じることと同じくらい、あるいはそれ以上に、ふと振り返ったときに感動させてくれることがたくさんありました。私にとって、長男も含め、娘との生活はとても楽しい育児の時間でしたし、今もそうだと思っています。

そんな長男から始まった育児の過程で、ここにいる長女、奏那が小学校3年生の終わり、2月に不登校になりました。

きょうだい児として、兄の状況がなかなか大変だったこともあり、娘はとても頑張っていました。また、きょうだい児であるがゆえに、学校ではクラスの発達障害のあるお友達のお世話係のような役割を、暗黙のうちに任されている環境もありました。

当時、私の仕事の都合もあって越境通学をしていたので、毎日、校門前まで車で送迎していました。ある朝、学校の校門に到着して「降りるよ」と後ろを振り返ると、こわばった顔をして、ぎゅっと小さくなって後部座席に隠れている娘の姿がありました。

「車で1周して戻ってこようか」と声をかけました。

娘は小さくうなずきました。1周して、もう一度校門の前に戻ってくると、娘はぽろぽろ涙をこぼして、後部座席に体を押しつけていました。

「もう今日はお休みしようよ」と声をかけたときの、あの表情は、今でも鮮明に思い出されます。

一番驚いていたのは、娘自身だったように思います。

行きたいけれど、行けない。

怖がってしまう自分、そうなってしまう自分に、傷ついているようにも見えました。

それが登校困難の1日目でした。

私はこの状況を、何度聞かれても「登校困難」と呼んでいます。

不登校と登校困難、何が違うかおわかりでしょうか。

理由を理解して、自分で行かないことを選んでいるなら、それは不登校だと私は呼んでいます。

一方で、登校しようとすると体がこわばり、不適応の症状が出る。友達には会いたい。でも教室には入れない。これは選択できる以前の状態です。だから私は、これは登校困難であったと認識しています。

その後、ドクターの力を借りながら、小学校3年生の娘に対して、まずは「行くか行かないかを選べるようになること」を目標に進んできました。

小学校4年生になると、同級生たちから「仲良しの奏那ちゃんが学校に来ないのは、私たちの学校に来るのを拒否しているの?」といった声が出ていると学校から聞きました。クラスメイトたちも心を痛めている様子でした。

娘と二人で、「不登校を目指そう」という形で心と体のケアをしてきました。つまり、行かないという選択をしているわけではないということを、友達に伝えたいと思いました。そこで私は、「登校困難」という絵本を作り、学校に説明に行きました。

登校困難と不登校の違いは、小学校4年生の子どもたちには難しいかなと思っていました。けれど子どもたちは、「心が疲れてしまうことがあるんだ」「学校に来ることって、結構元気がいるんだ」ということを理解してくれました。

そして、「今は休むことが一番大切。元気になったら、学校に行くか行かないかを選べるようになる」という状況を受け止めてくれて、長い間、優しく見守ってくれていたと思います。

心を疲れさせてしまったことから、記憶障害や感覚過敏の症状がかなり強く出ました。登校困難の直前、実は教室の中で、記憶障害や感覚過敏の様子が見られていたということを、あとから知りました。

もともと持っていたものを、本人の努力で頑張って抑えていたのか、それとも後発的に出てきたのかは定かではありません。ただ、この2つの症状とは、その後10年以上つきあうことになりました。

ここでは言い表せないくらいの困難があったと思います。それでも、私は娘と一緒に「選ぶこと」、1つ1つ選ぶことに向き合ってきました。

食べるか否か、やるか否か、行くか否かという両極端の選択ではなく、何を食べるか、何をやるか、どの部分をやるか、どの場所でやるか、いつ行くか、という細かな選択です。

小さな選択を線でつないで、小さく進めていく。

そうしてたくさんの選択の先に、娘らしくいられる場所を見つけて進んでいく。

その娘の背景を説明しながら、そのとき当事者としてどう思っていたのかを共有していく機会にできればと思います。

そこで、タイトルのとおりの話になります。

娘に関することで、保護者として学校に行くと、よく、

「お母さんはどうされたいですか?」

「お子さんはどう思っていますか?」

というふうに聞かれることが多いです。

娘の場合は小学生でしたが、この場面に接するのは、例えば知的障害で発語のないお子さんだったり、未就学のお子さんだったり、そういう場面でも同じです。必ず保護者がこういう問いかけを受け、答える場面に接してきました。

そこで、娘に聞いてみたいと思います。

保護者があなたの代わりに話を進めたとき、本当の気持ちと違って伝わってしまうことや、本当の気持ちが自分でもまだわからないのに、そのように話が進められてしまうと感じた経験はありますか?

奏那

自分の気持ちと違って伝わってしまうことは、私の場合はあまりなかったです。

その理由としては、不登校になる前、小学校入学前から、自分の意思を伝えたり、基本的に話し合いをして、小さなことでも大きなことでも決めてきたからです。なので、気持ちが違って伝わってしまうということは、あまりなかったと思っています。

ただ、小学校3年生の終わりから中学校3年生の終わりまで、6年間かなり長い間、不登校をしていたので、その期間の中で新しく不登校になり始めた子や、母のサークルの関係で他の不登校の保護者の方から質問をいただくことがありました。

その中で、「保護者が子どもの気持ちを代弁すると、その内容がかなり違った形で学校に伝わってしまう」という話を、たくさん聞いた経験はあります。

有里子

もう1つ質問したいと思います。

学校や支援者からそういう問いを受けて、保護者が子どもとは違う気持ちを答えてしまうと、それはつまり、保護者の意見イコール子どもの意見として受け取られてしまうことになります。そう感じたことはありますか?

奏那

これはものすごく感じることがあります。

例えば三者面談のとき、先生は私に聞くのではなくて、

「お母さんはどう思っていますか?」

と聞くことが多かったんです。

本来は私のことを決めるはずなのに、どうしてお母さんに聞くんだろう、と不思議に思う場面がたくさんありました。

たぶんその先生も、自分の家では親と意見が対立することはあると思うんです。でも他人の家、つまり私の家になると、「親子だから同じ意見だろう」という先入観があって、母に聞いているのかなと思いました。

子どもだから、私には決められないからお母さんに聞くんだろうな。そういう思いを感じたことが何度かありました。

有里子

そうなると、こういう言葉が出てくるんですよ。私も子どもに言われたことがあります。

「ママが選んだらいいじゃない」

洋服を買うときの場面でした。

私の趣味で「これがいいんじゃない?」「これ好きなんじゃない?」と、ハートのついたぶりぶりの服を勧めたら、「ママが選んだらいいじゃない」と言われました。

これは、学校の場面でも同じだと思うんです。

「ママが選んだらいいじゃない」と言いたいけれど言えない、そういう子どもの姿があると思います。

保護者は、家で話し合いをしたときに、子どもの思いが自分と違う方向にいくと、なぜかバイアスをかけてしまう。そして先生に問われたときには、親の思いに近い選択になるように誘導してしまう傾向が、相談の中であるなと感じています。

私は、この点についてそんなふうに感じています。

次に、ここも本人に聞きたいと思います。

あなたが何かを選ぶとき、保護者にはどんな関わり方をしていてほしいと思いますか?

奏那

昨日の夜にこの質問を一緒に考えていたんですが。

一言で言うと、私はファンでいてほしいと思っています。

例えば野球なら、好きな球団や球場があると思うんですが、その球団が負け続けていても、ファンは応援しますよね。そんな感じで、母は選択肢を用意してくれていたんですが、その中でどんな選択をしても応援してくれている、という感じです。

保護者がどういう立場でいるかというと、決める人、支える人、一緒に考える人、ディスカッションする人、いろいろな関わり方があると思います。

私の言う「ファン」というのは、支える人であったり、一緒に考える人だったりする立場です。親が一人で決める、というのは違うかなと思っていて、それで「ファン」という言葉になりました。

有里子

私も気をつけないとやってしまいがちなんですが、子どもの前に立って、「右へ行け」「左へ行け」と言ってしまいがちなんです。

子育ての中で一番気をつけていたのは、保育園の頃から「子どもの先頭に立つのはやめよう」ということでした。後ろから見守りながら、子どもが右を選ぶのか左を選ぶのか、まっすぐではなく、選択肢のある道をつくろうとしてきました。

娘がさっき言っていた「選択」というところで、私は学校とどんなことをしていたかというと、娘と話し合いながら、特性も含めて、こういう場合にはどんな環境が整っているのかを学校と確認していきました。

ただ、その確認の中で、娘が使わないものも当然あります。

娘にそれをすべて伝えてしまうと、「せっかく用意してくれたのに」という思いが生まれてしまう。だから私がやっていたのは、可能性の範囲で準備をしておくということでした。

結果として、準備の半分以上は不必要になったと思います。

でも、子どもが「これをやりたい」「こうしたい」と言ったときに、それを家庭と大人の中で調整できるのか、環境として可能なのかを考えておくことは、とても重要だったと思います。

そうすると、言ったことと形は違っても、なんとなく「自分の嫌なこと、苦手なこと、苦しいことではない選択」ができたという経験につながります。

その経験を重ねると、「選択すること」そのものへの恐怖心や不安がだんだん小さくなっていくように感じました。だからこそ、「自分で選択しても大丈夫」というところまで自信をつけていけたのかなと思います。

その中で最後になりますが、娘とは「選択をするときのルール」を取り決めたわけではありませんが、なんとなく共有している考えがあります。

そこでこの質問をしてみたいと思います。

学校や関係機関が、保護者の意見をイコールあなたの意見として受け取り、保護者の希望が強く伝えられた結果、どんなことが起こると感じますか?

奏那

私が不登校を6年間経験する中で、一番印象に残っている言葉があります。

それは、「僕は不登校は悪いことだと思います」という言葉です。

これは中学校1年生のとき、同じクラスだった男の子が、国語の授業で社会問題について考える発表をしたときのスピーチの冒頭の一言でした。

その言葉に至った経緯として、その子が小学校時代に、同じ学年に不登校の子がいたそうです。その学校では、先生たちがかなりその子一人だけを手厚く、まるで腫れ物に触るように扱っていたとのことでした。

その子が学校に来たときは、その子中心のクラスになる。

その子がいないときでも、先生はその子のために忙しそうにしている。

子どもたちの目にそれがどう映ったかというと、「その子が一番大事で、学校に来ている僕たちは、その子が来ると存在しないかのように扱われてしまう」というふうに感じたそうです。

そういう内容の発表でした。

それを聞いたとき、私はその時点で不登校4年目くらいだったと思うのですが、とても心に響くものがありました。

それまでは、あまり周りのことを考えていなくて、とにかく自分がどうやったら学校に行けるんだろうとか、どうやったら学校を楽しめるんだろうということばかり考えていました。

でも、自分の選択によって、誰かがそういうふうに思ってしまうのは、すごく嫌だなと思ったんです。

誰かに気を遣ってそう思うというよりも、そう思っている人がいる中で過ごす学校は、私にとっても戻りにくい学校になってしまうなと思いました。

だから、同じ学年や同じクラスの子たちにそういう思いをさせないために、自分が選べる選択もあるんじゃないかな、と考えるようになりました。

有里子

そこが、我が家ではとても気をつけていたところでもあります。

「選択をする」するということは、そこに3人の人が関わっていたら、3人それぞれが選択できて、調整ができなくてはいけないと思っています。

それは、障害がある、ないという問題ではありません。

どの視点から、どういうふうに選択をしていくためのベースを作っていくのか。それが大人の役割なのかなと思っています。

時間が来てしまったので、このあたりで終わりにしたいと思います。

またあとで、質疑のところでお受けしたいと思います。

田中

まだまだしゃべりたいことはあると思いますが、ご参加の方はぜひ資料もご参照ください。

それでは次に、河髙さんからお願いします。

河髙

はじめまして、河髙素子と申します。

「合理的配慮のための建設的対話の主体の段階的移行について」というテーマでお話しします。

小学生のころ、発達障害があることが明らかになり、主に中学3年生以降、さまざまな支援や合理的配慮を受けながら学び続けてきました。

DO-IT Japanというのは、東京大学先端科学技術研究センターが主催しているプログラムで、障害のある学生の進学や就職を支援し、社会のリーダーを育成することを目的としています。私は中学3年生のときにスカラーとして参加しました。

一昨年、東洋大学大学院の修士課程を修了し、現在は大学学部在学中から勤めている児童発達支援事業所で、そのまま働いています。

また、本年度からは資格取得のため大学に編入し、学んでいます。

ついている診断としては、学習障害、自閉スペクトラム症、ADHD、自律神経系疾患、起立性調節障害です。

私の起立性調節障害は、脳の貧血を起こすタイプで、午前中に頭痛が出てきます。

次に、私の学びと仕事の経歴です。

小学校低学年から約5年の不登校期間を経験しました。その後、昼夜間定時制の4年制高校で、体調と折り合いをつけながら、また必要な合理的配慮を調整しながら学びました。その後、夜間部の大学、昼夜間開講の大学院へと進学し、本年度からは通信制の大学で学んでいます。合理的配慮を求める側の立場にも、改めて立ち返った形です。

中学から大学にかけて、実際に受けてきた支援や合理的配慮を整理したものがこちらです。

学習障害による困難さを軽減し、学ぶことに集中するための合理的配慮や、感覚過敏への配慮などがあります。また、「その他合理的配慮」としているものは、複数の障害が重なって起こる困りごとに対応するためのものです。

例えば、ADHDの不注意の特性とLDの計算障害が重なると、計算している最中に数字がどこかに飛んでいってしまうんです。

そういうときに、いちいちメモを取るのは大変ですし、書字障害もあるので、書いているうちに見えなくなってしまうこともあります。なので、パソコンを使うなどの工夫をしていました。

進学時の引き継ぎは、私にとってとても重要なものでした。

このとき、個別の教育支援計画を大学に引き継いでもらい、それを根拠資料として大学での支援が始まりました。大学の支援室の調整は何か月もかかることがありますが、こうした混乱が起こらずに済んだのは、それまで積み重ねてきた個別の教育支援計画があったからです。そこには、これまでの支援の試行錯誤の積み重ねが記録されています。

さて、さまざまな合理的配慮を調整しながら学び続けていますが、その調整は誰がするものでしょうか。

私は、最終的には本人だと考えています。

私は、図のように段階を追って、合理的配慮のための建設的対話の場面に参加してきました。最初は保護者が学校と交渉していましたが、徐々に私自身が交渉するようになっていきました。最終的には、対話の場面に一人で、あるいは外部の支援者に同席してもらう形で臨んでいます。

このように、建設的対話の主体が段階的に移行していったことが、初等中等教育の次の進路でも活かされています。

まず第1段階は、支援や配慮のための学校への対応を保護者が行っている段階です。

これは中学校卒業頃の時期です。

支援として求める内容については家庭で話し合い、合意を取ったうえで学校と交渉していました。

ただ、ここに至るまでには、学校に支援を求めたいかどうかで悩んだ時期もありました。学校で配慮を受けていることをクラスメートに知られることは、私自身が嫌だと言ったこともありました。

例えば「マス目の大きいノートを使えばどうか」と提案されたことがありますが、目立つから嫌だと断りました。クラスの環境が、いじめが起こりかねない雰囲気だったこともあり、その環境で特別なことをするのは嫌だと思ったのです。つまり、環境と合っていなかったということです。

環境が落ち着いてきたころに、学校との建設的対話が始まりました。

次の段階は、対話の場面に本人が出席する段階です。

基本的な手続きや「こういう配慮をお願いします」という話は母がしていましたが、会議には私も参加していました。

学校の先生方は、母が話した内容について、「今お母さんが言ったことは、あなたも望んでいることですか」と確認してくれました。それがとてもよかったと思っています。そうした確認があったことが、建設的対話の第1段階だったと感じています。

第3段階は、学校との対話を本人が行う段階です。

基本的なやり取りは私が学校と行い、保護者は私が伝え損ねていることや、疲労の様子、観察した結果などを学校に伝えてくれていました。

日々の先生方とのやり取りの中で、柔軟な調整ができるようになりました。

例えば、1学期末の会議で決まる支援だけではなく、日々の中で「中間考査ではこの配慮が欲しい」と伝えたり、やってみて合わなかったときに「先生、この支援は合わなかったです」と言えたりすることが、とても大きかったです。すぐに中止してもらえることは大きな安心感につながりますし、私自身の学ぶ機会にもなりました。

ここで母にも話を聞きました。

第2段階から、第3段階へ、つまり母がメインだったところから私がメインに移行できた理由です。

一度実施した支援をそのまま継続するのではなく、合わなかったときに引く判断ができる先生方であったこと。そして担任、養護教諭、副校長の連携が整っていたこと。この2つがあったから、対話の主体を安心して本人に渡すことができたと言っていました。

ここまで話してきたことから少し離れますが、進路の選択過程についてもお話しします。

大学進学の調整は、高校選択の段階から始まっていました。

中学3年生のとき、DO-IT Japanに参加して大学の模擬講義を受けました。そのときに社会学がおもしろそうだと思いました。「大学ってこんなところなんだ」という体験があり、大学に進学したいと思ったのも中学3年生のときです。

大学に行くには、高校を卒業するか高卒認定が必要です。

当時の私は高卒認定を取るほどの集中力がありませんでした。とりあえず学校には行きたいと思っていたので、学校に通うという方針で高校を選びました。

単位制で昼夜間定時制の高校です。午前中は体調が悪いのでお昼から通える学校。感覚過敏があり上履きが履けないので、一足制の学校。そうした特性と折り合いをつけながら学校を選びました。

制服についても問題がありました。体温調節が難しく、スカートだと体温が奪われてしまう。今はスラックスが選べる学校も増えていて、もし当時スラックスがあれば制服を着て通いたかったかもしれません。

起立性調節障害のため午前中の体調が整わないので、最初は午後から1日4時間の授業でした。2年生以降は授業を自分で選べるようになります。午後から6時間授業なら行けるかな、と考えたり、必要な合理的配慮が受けられるかわからない状況で6時間受けると翌日寝込むかもしれないからやめておこう、と判断したりしました。

つまり、学力だけでなく、安定して通えるかどうかを重視して学校を選びました。読み書きの負担や体調などを考えながら、自分で時間割を組み立てたり、私服の学校を選んだり、選択肢の広い学校を選ぶことで、自分で調整できる部分は調整していこうという方針でした。

例えば、10時半なら登校できる、8時半は難しい、夜間部の科目なら取れる、といったように、検証や調整を繰り返しながら高校生活を送りました。

その結果、進学条件が整理されました。

学びたいこと、障害特性、夜間部の社会学部がある大学という条件で、指定校推薦を選択しました。

ちなみに、この指定校推薦の枠は、当時自分の高校にはなかったのですが、どうしても社会学に進みたいと話したところ、高校の先生が枠を取ってきてくださいました。成績面でも、合理的配慮の中で学べる環境が整い、成績がよかったこともあり、推薦をいただくことができました。

この時期は、私が主体的に調整していた時期で、母はあまり関わっていませんでした。もし母がこの段階で入っていたら何と言っていたと思うか、と聞いてみたところ、「指定校推薦の枠は取ってこないでと言ったかもしれない」と言っていました。

配慮という言葉のとおり、やってもらっている立場だから、それ以上求めるのはどうだろう、と考えたと思う、と。つまり、それくらい進路に影響する可能性もあったという話でした。

さて、話を戻します。

進学準備を進め、進学先で再び建設的対話の段階に入りました。

大学1年生の7月ごろ、期末試験の頃です。

大学2年生の頃には、支援会議には自分一人で参加していました。ただ、この段階で問題が起こりました。求めていた配慮が曖昧なまま流されてしまうということです。

それまで保護者が担っていた確認や念押しの役割、本来はなくてもよいかもしれないけれど、あることで確実に進むという要素が抜け落ちてしまいました。その結果、本人である私の詰めの甘さが、合理的配慮の開始時期に大きく影響し、とても困ることになりました。

今の制度と違うところが、2点あります。

私は2018年に進学しているので、現在とは違う点が2つあります。

まず1つ目は、当時は成人年齢が20歳だったということです。そのため大学1年生の段階では、最終決定は保護者、という扱いがありました。今は変わっているかもしれません。

もう1つは、私は私立大学に進学しましたが、当時は障害者差別解消法が民間事業者に対しては努力義務でした。

そのため、大学から「そういうことはやったことがない」と言われたんです。

あれは本当にびっくりしました。結構大きな大学だったんですよ。

今は努力義務ではなくなっているので、そこはまた環境が変わってきているのではないかなと思います。

その2点、当時とは違う点があったということをお伝えしておきます。

少し話がまた脱線します。すみません。

学生から社会人への移行についてです。

ここで書いているのはアルバイトの経験です。

研究室の書類のデータ化や、高校生の夏休み期間の仕事、大学が夜間部だったので昼間のアルバイトなど、さまざまな仕事を経験しました。研究室の書類のデータ化、塾の講師、放課後等デイサービスなどです。

この中で、放課後等デイサービスの仕事は私に合っていました。

逆に合わなかったものとしては、コンビニのアルバイトがあります。テンキーの配列が、普段パソコンで使っているものと真逆で混乱してしまいました。さらに店内のBGMで感覚過敏を起こしてしまい、疲労が強くて3日で辞めました。

また、とあるオフィスで事務の仕事もやってみました。私は全商の文書検定1級を持っているので、事務ならできるだろうと思って行ってみたのですが、やはりBGMで疲れてしまったり、手書きのメモが読めなかったり、FAXで送られてくる手書き文書が読めなかったりと、いろいろな困難がありました。これも大学1年生の頃に経験しましたが、結局1か月で辞めました。

そういうふうに、合う仕事、合わない仕事を試しながら選んでいきました。

私は最初、事務職ならできる、コンビニならできると思っていたんです。でも実際には違いました。コンビニはマルチタスクの鬼なんですよね。

また、障害をオープンにして働くか、クローズにして働くかという問題もあります。

その後コロナが始まりました。当時はアルバイトを3つほど掛け持ちしていたのですが、最終的に1つだけになりました。

大学ではオンライン授業が始まり、学習上の困難さが激減しました。

イヤホンをつけていい、教室に行かなくてもいい、自分の部屋なら暗くしていてもいい、パソコンを使ってもいい。そういう環境の中で、LDの困難さや感覚過敏による困難が大きく減りました。

その結果、アルバイトの勤務時間を増やしました。結果的に、私にはとても合っていた働き方だったと思います。

なので、徐々に社会人へ移行していくという形は、ありなのではないかなと思っています。

さて、話を戻します。

第5段階です。

大学3年生から大学院生の頃の段階です。

この段階では、要請する支援内容について外部の支援団体に相談するようになりました。具体的には、外部の心理の専門家の方に依頼していました。

保護者は、体調不良のときのストッパー役として関わっていました。例えば、これ以上調整するのはデメリットが大きいのではないかとか、メンタルが不安定になっているときに「ちょっとやりすぎではないか」「調整に力をかけすぎではないか」と指摘してくれる役割です。

つまり、基本的には自分で調整を行い、その背後に外部の支援者がいるという形でした。

ちなみに、現在通っている大学に入ったときには、完全に一人で対応していました。

保護者の役割はさらに減少し、外部機関と一人で交渉しに行くようになりました。

保護者から本人へ主体が移行できた理由としては、本人に必要な情報があったことが大きいと思います。

例えば、障害者権利条約、合理的配慮、ICFの考え方などです。

これらについては、中学3年生のときに学ぶ機会がありました。

合理的配慮という言葉は、もとの英語では Reasonable accommodation です。

「配慮」という言葉だけを取ると、やってもらうものというニュアンスになります。

私はむしろ「合理的調整」というニュアンスで理解しています。合理的調整と考えると、対等にするためのものです。そうすると、建設的対話というのは調整を行うプロセスとして理解できるのではないかと考えています。

環境要因としては、学校側の連携がうまく取れていたことも大きかったと思います。

それから、私自身が親以外にも相談できる場所、いわゆるサードプレイスを複数持っていたことも重要でした。

建設的対話の段階的な移行のイメージは、この図のとおりです。

最初は本人と保護者が中心になって調整していたところから、徐々に保護者の役割が下がり、本人が中心になっていく。本人から見ると、1つの主体として機能する状態になっていくのではないかと考えています。

このように段階的に移行していくことで、自分で調整する力が身についていくのではないかと考えています。

お聞きいただき、ありがとうございました。

田中

少しだけ補足させていただきますと、高校から大学に進学するときに、高校で作っていた個別の教育支援計画を大学に提出しました。すると、大学で正式な支援内容が決まるまでの間は、高校で行っていた支援をそのままやりましょうという形になり、移行がうまくいったということです。

では、準備ができましたら、次に小出さん、よろしくお願いします。

小出

よろしくお願いします。

私は、一般社団法人全国手をつなぐ育成会連合会の副会長を務めております。また地元は静岡県でして、静岡県手をつなぐ育成会の会長も務めています。

スライドには育成会の成り立ちが書いてあります。皆さん、読んでいただければと思います。

実を申しますと、私の娘が生まれたのは平成2年でして、そのときに受けた診断は、自閉症を伴う知的障害ということでした。そのときの診断書には、「精神薄弱」という言葉が書かれていました。この呼び方が、その後「知的障害」というふうになったわけです。

私の娘が生まれた時代というのは、小学校3年生のころまで、「精薄」という呼び方でした。また、私が所属する育成会は、そのころは活動の主な対象が知的障害でした。

その後、平成17年に発達障害者支援法が施行されました。以来、育成会の中にも発達障害の方々が含まれるということで、今では「知的障害と発達障害の保護者会、育成会です」と紹介しています。

次のスライドは、静岡県の障害者支援局が私どものほうに提供してくれるデータです。

ここ10年で、療育手帳所持者が約1万人増えています。人口が350万人ですけれど、療育手帳所持者は4万人を超えています(令和6年)。10年で1万人ということは、毎年1,000人ずつ増えていることになります。それがこの数字でございます。

それから右の方の数字は、この結果、学校の中がどうなっているかを示しています。平成27年から令和7年の間に、特別支援学校はそんなに増えていませんが、特別支援学級の人数が1.8倍ということで、約2倍になっています。

次の図は、文部科学省の調査ですが、通常学級の中に勉強や友だち関係などの苦手さがある発達障害の可能性がある子が何人いるかということで、調査内容が違うため単純比較できないものの、これも約10年で6.5%が8.8%になっています。

実を申しますと静岡県には療育手帳A、B、と併せてB3という区分があります。(B3とは、IQ80~89かつ発達障害診断という区分です。)

障害者手帳の取得者数のうち、療育手帳B3の人数がそこに書いてありますが、10年前(平成26年末)が705人だったところ、令和7年末で2,099人と、3倍くらい増えていますね。

また、浜松市の療育手帳所持者の人数を見ますと、特に6歳から17歳までの学齢期におけるB3の人数は443名です(令和7年)。これは療育手帳Bのうち19.14%、約20%に当たります。

それから精神障害者保健福祉手帳所持者も、同じく発達障害主訴等の方々が235名おります。

この合計が発達障害ということで、医師の診断のもとに、こういう数値が挙げられています。

B3は全国的にも珍しい手帳の区分になりますが、これを持って他県に行きますと、療育手帳を取り上げらることがあります。その県にはB3がないからです。

なぜB3という区分ができたかというと、平成17年に発達障害者支援法が施行されましたが、理念法でサービスが伴わないという声があり、静岡県はいろいろ考えてくれまして、障害者ライフサポート事業が立ち上がりました。費用は利用者が3分の1払うという事業ですが、これを受けるためには手帳が必要だということで、行政としてそういう処置をしたということです。それがB3が生まれた経緯であります。

もう1つ、このグラフを見ていただくと、今回の私の発表のテーマなります「進路選択支援の実際と課題」が浮かび上がってきます。

表Aは、ここ10年間で増えている中学校の特別支援学級の学校数と在籍者数です。

表Bは、その中学校からの卒業生の進路です。

平成26年は101名の卒業生がいましたが、特別支援学校に進んだ人が62人、高校・専門学校に進んだのは27人でした。

令和6年には219人の卒業生がいますが、特別支援学校に進んだ人が68人、高校・専門学校には104名ということで、だいぶ増加しています。実は特別支援学級から高校の通信制に進んだ人の数が、この中に含まれています。

地方の通信制がどういう状況かというと、静岡県における通信制高校では、本校が県内になく、生徒支援の外部機関、サテライト施設のみが置かれている例が多く、学校の実態を把握しにくいのが実情です。質の確保が課題となっています。

現在、静岡県には通信制の高校が26校ありますが、そのうち本校が静岡県にあるのは5校です。少しでも本校を増やそうということで、この資料を作成したあとに、新聞で、5校から9校にしたいということが報道されました。26校中で9校にしたくらいでどうなんだ、ということもありますが、これが静岡県の現状です。

最近、社会人になった知的・発達障害者への評価として、「職業準備性が整っていない」ということがあります。これは、厚労省の社会保障審議会障害者部会で言われた言葉です。どういうことでしょうか。

これは職業準備性のピラミッドです。

ピラミッドの下から、健康管理、日常生活管理、対人技能、基本的労働習慣、一番上が職業適性となっています。こういうものが大人になっても身についていない子がいるということから、「職業準備性が整っていない」という指摘があったわけです。

実は、そのような指摘があったのと、特別支援学級から通信制への進学が増えたのとが同時期に当たります。

特別支援学級には言語障害や自閉症の学級があり、それは特別支援学校にはありません。

特別支援学校は、聴覚障害、視覚障害、知的障害、肢体不自由、病弱・身体虚弱を対象としています。

つまり、自閉症や言語障害の学級は、中学校まではあるけれども、特別支援学校にはないということです。

言い換えれば、中学校までは特別支援学級にいたが、卒業したら特別支援学校に行けずに、通信制に行かざるを得ない、という事情もあるのです。知的障害がある人が通信制の高校に進むというのは一つの流れとなっていて、またほとんどの親は高校の資格をとらせたいという希望をもっていることもあり、それで通信制の高校を選択します。実際には、ほとんどが親御さんによる決定ということになります。

先ほど発表していただきました長坂さんと河髙さんのように、自分で意見が言えるというのは、うらやましいなと思っています。知的障害のある人では、普通高校においても、それだけ意見を述べられる人は、なかなかいないのが実情です。

最後に、現場のジョブコーチの声も資料にお示ししていますが、静岡県では、通信制の高校のうち本校のあるところが限られており、その意味では、塾と変わらない教育環境とも言えますので、この点を改めて申し上げて、発言を終わらせていただきます。

ご清聴ありがとうございました。

田中

ありがとうございました。静岡県では、療育手帳の制度について、皆さんの住んでいる県と違う部分があると思います。一つだけ話題提供しますと、今、療育手帳の制度は、各都道府県で決められるようになっていますが、厚生労働省からは、これを全国一律にしようという検討報告が出されています。そのような動きがあるということをお伝えさせていただきます。

次に、関哉さんから、お願いします。

関哉

弁護士の関哉です。

今日の大きなテーマは進路選択支援で、その中で「意思決定支援」をどう位置づけ、どう活用していくか、ということを話すのが、僕に求められているテーマです。

ただ、まだおそらく福祉の現場に比べて、今回の大会の大きなテーマである教育の場面では、意思決定支援というものが実装化されていないという認識があります。その中で、どうしようかな、何を話そうかなと思ったのですが、どちらかというと、ガイドラインに従って意思決定支援の仕組みをしっかり整えていくという話よりも、もっと前提としての視点がすごく大事だと思っています。

その視点を、権利とか人権の観点から今日はお伝えしたいと思って、与えられた時間でお話ししたいと思います。

今、僕は特別支援学校の学校運営連絡協議会に関わらせていただいています。学校現場における人権尊重ということは、どの学校でもしっかりうたわれています。では具体的にどんなことをやっているか、改めて整理すると、1つは、当然ですが、いじめや体罰の防止です。定期的なアンケートが取られたりしています。

あとは不適切指導、不適切な対応についても、やや範囲を広げて人権尊重の取り組みがなされている学校がほとんどだと思います。学校によっては「人権週間」とか「人権の日」を設けて、こういった取り組みをしています。

最近は小学部も含めて、「さん付け」を徹底しようということで、ほとんどの学校で教職員に対して「さん付けしてますか」というアンケートを取っています。ただ、僕が提案しているのは、「子どもたちにさん付けで呼ばれていますか?」と聞いたらどうか、ということです。そうすると現場もピリッと緊張するのではないかという提案をしています。

本当に人権尊重をしたいなら、いじめや体罰といった教育者側の歯止めの観点だけではなくて、もっと広く、ご本人が大切にされているという感情を持てているか、そういった観点で聞いてみたらどうか、ということです。実際、今年関わっている学校の中には、「先生から大切にされていると感じますか?」と生徒に聞くという、チャレンジングな取り組みをしている学校もありますので、ご紹介しておきます。

人権尊重というからには、まずどこに立ち返ればいいのでしょうか。大きな視点は、何といっても憲法13条です。憲法13条には、「すべて国民は、個人として尊重される」と書いてあります。個人の尊厳といわれるものです。それから、幸福追求に対する国民の権利があります。

そのほかにもいろいろ書いてありますが、僕はこの二つが大事だと思っています。「尊重」と「幸福追求」です。教育における人権尊重というのは、個人として尊重しているかということと、幸福追求の権利を意識できているか、ということです。

ただ、幸福追求というのは、捉え方を間違えると、「周りが考える本人のための幸福」になりがちです。特に大事なのは「尊重」です。この尊重を基礎として、教育に尊重の風を入れていけるかどうかが、最大のポイントだと思います。

このあとお話しする意思決定支援も、何のためにするのかというと、本人を尊重するためです。それは、本人が尊重されていると感じられるようにするためです。そういう目的で意思決定支援を位置づけていただきたいと思います。

意思決定支援という言葉を、初めて聞かれる方もいらっしゃると思うので、ざっとお話しします。厚労省が位置付けている意思決定支援というのは、「その有する能力を最大限生かして、日常生活や社会生活に関して自らの意思に基づいた生活を送ることができるようにするために行う」支援です。

意思決定支援の大切な原則としては、まず「本人への支援は、自己決定を尊重するものを基礎に行う」ということです。2点目は、「不合理と思われる決定であっても、他者の権利を侵害しないのであれば、その選択を尊重」しましょうということです。

3つ目として、どうしても意思確認等が困難な場合は、関係者が集まって、これまでの経緯や本人の行動などを把握しながら、どんなことを思っているか、どんなことがよい選択かを推定しましょう、と書いてあります。

ただ、支援というのは周りが行うことなので、そこには、周りの人が勝手に決めているんじゃないか、という懸念が常に起こり得ます。現場では、本人は意思表出が難しいから、みんなで本人のためになる最善のものを考えよう、という発想で進められがちなところがあります。でも、そこはできるだけそうならないようにしようということで、この3つの原則が書いてあるわけです。むしろ、3つ目は忘れるくらいの思いで取り組んでいただきたいと思っています。

親御さんであっても、ご家族であっても、あるいは教育現場で支援されている方であっても、「本人のため」と言って善意の代行決定がされてしまうことがあります。あるいは、教員でありながら保護者のような立場になってしまっている自分がいないか、常に気をつけてほしいと思います。

ちなみに、障害者権利条約の話も少ししておくと、意思決定支援は権利条約12条に紐づいています。ここでは、どんな人にも法的能力がありますよ、ということと、どんな人も支援を受ける権利があります、ということが書いてあります。

ただし、「支援を受ける権利」ということで、支援側に注目しすぎないように、これを考えるときには、憲法13条とともに、権利条約17条を常に意識しています。12条の意思決定支援を考えるときは、必ず17条とセットで考える必要があります。

障害者権利条約第17条は、「身体的・精神的不可侵」といわれるものについてですが、簡単に言うと「ありのままで、そのままでいいよ」という権利です。昨日から今日にかけて、「そのままでいいよ」に通じるお話がたくさん出ていますが、そのままでいいと言われる権利を意識して、意思決定支援をしていくことが大事だと思います。

これは、僕の弁護士としてのお師匠でもある学者の佐藤彰一先生のお話の抜粋です。

一番下の2段落くらいを読んでいただくと、みんな意思決定の能力があることが大前提です、ということが書かれています。

しかし、意思決定の能力があっても、その意思を確認する能力が支援者側になければ、結局のところ何の支援もできません。したがって、意思決定支援ができるかどうかは、本人の能力の問題ではなく、支援者側の能力の問題だ、ということが書かれています。

要するに、本人のせいにするな、ということです。常に支援者が、自分の努力や考え方の深さが足りないのではないか、いろいろなことが足りないのではないかと振り返ろう、ということがここに書かれているのだと思います。

次に、「意思決定」という言葉について考えるとき、「本人に決めさせるべきなのか」という問題が出てきます。「本人に決めさせる」ということは、本人に大きな責任を負わせるように感じられることもあります。このことについて問題提起させていただくとしたら、前提として、意思決定支援は決断を迫るものではない、ということです。決めても決めなくてもいいですよ、ということです。1人で決めなくてもよくて、一緒に決めるというプロセスを踏みましょう、ということです。

当然ながら、言葉による意思表示だけを求めるものではありません。本人の表情や感情、これまでの経験などを踏まえて、一緒に考えていくものです。支援側からいえば、引き出していく、ということです。

そういう前提を置いたうえで、「決める」ということにはどんな意味があるでしょうか。もちろん本人にとっての意味ですが、まず本人の気持ちを尊重した対応ができる、ということがあります。

僕は小出さんと同じで、育成会に権利擁護委員として関わっています。そこでよくある話として、あんなに自宅が気に入っていたけれど、そろそろ自立しよう、と言ってグループホームに移ったら、逆に、週末に元の自宅に帰りたくなくなったとか、早くグループホームに戻りたいとか、戻るときにすごくいい顔をするとか、そういうことがよく起きます。

それを見て、今までの生活の中で、自分が確信していた本人の意向や意思は何だったんだろう、と気づくわけです。自分との考えの違いに気づき、やはりご本人の気持ちを尊重しないといけない、と気づくことができます。

意思決定支援は、支援する側からすると、そういう意義があるのかなと思います。

それから、本人の気持ちを尊重するためには、対話をしなければいけません。ご本人がどんな表情をしているのか、どんな反応をしているのかを見る必要があります。そういう意味で、意思決定支援は、対話を促進する機能があります。

また、1つ1つ体験してもらいながら、本人がどう感じるかを見ていくことにもなりますし、体験してもらう機会も増えます。そして、本人のことをより理解しようとするようになる、ということにもつながります。

そして何より、本人が、自分は放っておかれずに、いつも大切にされているな、と感じられることです。さっきの奏那さんの言葉を借りれば、周りがファンでいてくれるということですね。これが一番の意義かなと思います。

将来的な視点として、意思決定支援の取り組みがどういう意味を持つかというと、ご本人を中心とした支援や生活のあり方を、次のメンバー、次のチームへと引き継いでいくことができるという点です。常にみんなで考えていくという視点が育っていく、ということです。

そして、年齢を重ねるごとに増えてくるであろう意思決定の場面に適応できるということがあります。またそれは時代とともに増えていくとも思うんですね。もしかすると15年もすれば、「意思決定支援」という言葉自体が特別なものではなくなっているかもしれない。そういう場面に適応できるようにする意味があると思います。

大事なのは、「決めること」そのものではありません。意思決定というのは、本人が表出しているものの一部であって、それを支えるのが意思決定支援です。ただ、それが教育の場面で行われるときには、教育ですから、ご本人の「そのまま」に加えて、「こういう能力を身につけてほしい」「こういう対応ができるようになってほしい」という教育的要素がどうしても入ってきます。

そうすると、権利条約17条の「ありのまま」という考え方と、どうしても緊張関係が生まれます。だからこそ、一番下で支えているのは「尊重」である、ということを忘れないでほしいです。あくまで本人が「自分は大切にされている」と思えるかどうか、そこをしっかり基礎に置いていただきたいという話です。

この話を図でまとめたものをお示ししています。左の図は、本人を中心にして、周りに本人を尊重するメンバーがいます。意思決定には大きなものも小さなものもあるかもしれませんが、それを日々積み重ねるプロセスとして続けていきます。これは、さっきの河髙さんの話と似ていると思います。

そして、今から5年後、10年後、周りの人(支援者)が変わっても、このスタイルをしっかり継続し、積み重ねていくということが大切だと思います。逆に言うと、今から5年後、10年後は、それがあたりまえな時代になっていると思いますので、今のうちからこの形を作っていくことが大事です。目的は、尊重の積み重ねをしていくことです。

最後のスライドです。

去年ぐらいから僕は、尊重とか権利擁護の話をするときに「はひふへほ」で話すようにしています。

これを最初に考えたとき、自分って本当に語呂合わせが好きだなと思ったのですが、大事なのでお話ししておきます。

まずは、「は」。尊重するには、「はなしあう」ことが必要です。今日のテーマは教育ですが、すでに教育の現場で実装されているものとして「合理的配慮」があります。言葉は違っても、教育の場面でもすでに実装されている仕組みです。

話し合うというのは、河髙さんもおっしゃっていた「合理的配慮」「合理的調整」という話とつながると思います。この枠組みをしっかり使っていくことが非常に重要だと思います。

2つ目は、「ひ」。「ひとりにしない」ということです。これは非常に重要です。尊重の肝は、「自分は大切にされている」と感じることです。そのためには「ひとりにしない」ということが不可欠です。

もう一つ付け加えると、「ひとりで判断しない」ということも大事です。チームで支援していくということ。そして、「ひとりにしない」、「ひとりで支えない」、ということです。

「ふ」は、「フィルターを外す」です。昨日からいろいろなお話を聞いていても感じたのですが、「障害」という枠で捉えすぎないということが大切です。もちろん、障害という視点で捉えた方がいい場面もありますが、基本は「個」として捉える。その人そのものを捉える。そのままを尊重していく、ということです。

特別支援の現場では起こりがちなのですが、「障害がある」「○○障害」「重度・軽度」「こういう特性がある」といったラベルで見てしまいがちです。そうしたフィルターは、できるだけ外していくというのが「ふ」です。

「へ」は、「変化に対応する」。あるいは、「変化を尊重する」です。教育や福祉の現場では、個別支援計画のようなものを作ります。その計画に、本人も周りも拘束されがちです。

河髙さんの話の中で、自分が対話の主体者になることで、日々のやり取りの中で支援内容を柔軟に変えていける関係性ができる、という話がありましたが、あれはすごく大事だなと思って聞いていました。

最初の見立てに引きずられないこと。本人の意向というのは、いろいろな場面で変わることがあります。最初は絶対に拒絶していたものが、時間が経てば変わっていることもあります。そういう変化を尊重する、ということです。

最後は「ほ」。「本人が主人公」ということです。ここが一番大事なところです。最近の教育では「主体性」という言葉が必ず出てきます。

ただ、この主体性というのは、「授業の中で本人の主体性が引き出された」と周りが評価するものではなくて、本人がどう感じているかが重要です。本人が自分を肯定的に捉えられるような主体性が、その授業の中で発揮できているのか。

「主体的に関わった」「自分で意見を言えた」から主体性がある、ということではなく、その結果として本人がどう感じているのか、そこを見る必要があります。

進路の話で言えば、選択肢を示すことは大事です。ただ、その選択肢は本当に本人の意向を踏まえたものなのか。尊重と教育は、どうしても対立しやすいところがあります。周りの目線で作られたものを、常に本人の目線に置き換えていく。それが尊重の中で求められていることだと思います。

視点を中心とする話になりましたが、これで終わらせていただきます。

ありがとうございました。

田中

ご発表、ありがとうございました。

残り20分ほどありますので、その中でディスカッションを深めていきたいと思います。

このセッションは、僕が中心になってコーディネーターとして、「こんなテーマで、こんな人を呼ぼう」と考えて組み立てました。でも実は、これでまとまるのかな、と正直思うところもあります。僕の中では一つのイメージはあるのですが。

ではまず登壇者の中で少しディスカッションをして、そのあと残り時間で1つか2つフロアからも質問をいただけるようにしたいと思います。

皆さんにはこんな質問をしたい、と事前には思ってはいたのですが、思いつきが強い人間なので、変わったらごめんなさいね。

まず、長坂奏那さんと河髙さんに聞きたいんです。こういうディスカッションをしている場面で、しかもこれだけ多くの人が聞いてくれている環境を見て、何か思うこと、感じることはありますか?

では、年齢順で、河髙さんからお願いします。

河髙

ありがとうございます。

私が不登校だったころ、もう20年近く前になりますが、たぶんその当時は、ここまで議論されていなかったのではないかなと思います。

ただ一方で、本人不在だな、とも思います。

私は今27歳になりました。小学生のころというと、もうそれこそ20年近く前の話になります。そこから考えると、今こうして議論されている場に本人が入ってくることが、もしかしたら最終的な目標なのかもしれないな、と思うときがあります。そんな感じですかね。

奏那

私は今の年齢でも、いまだに中学校の不登校の子たちや、教室に入れない子たちが通う学校に、ボランティアに行ったりしています。あと、私自身も今大学1年生で、そもそも学校があまり好きではない人間なので、来年からも休学して、つまり不登校になるつもりなんです。

そんな感じで、今も現役で当事者なわけなんですけど、こういうふうに大人たちが不登校に対して興味をもってくれたりとか、不登校以外でも、子どもたちのことを考えてくれているのは、すごくうれしいことだと思っています。

あと、さっき河髙さんもおっしゃっていましたが、本人不在ということを感じます。私もいろんな勉強会に、聞く側として行くことが多いんですけれども、子どもの姿っていないな、と感じることがあります。大学生も私だけだったりとか。

私が学校に行かなくなった日、私が一番びっくりしているように見えたと、さきほど母が言っていましたね。今、中学生で不登校の子たちと関わる中でも、本人が一番わかっていないと感じています。自分がなんで学校に行けなくなったのか、明確に自分の言葉で言える子どもは少ないんです。

不登校という言葉が社会の中で認識されるようになってから、まだそんなに長い年月がたっているわけではないと思います。これから先のことを考えると、こういう場所に当事者が来られるようになったり、勉強会の場にも当事者が来やすくなるような将来があると、とてもいいなと私は思っています。

田中

昨日、セッション1を聞いていた方は、今のお話しにも通じるものがあるんじゃないかと感じられたと思います。私も今、聞いていてそう思いました。

これを踏まえて、小出さんにお聞きしたいと思います。娘さんの年齢は、今三十いくつぐらいかなと思いながら聞いていましたが、娘さんの時代のこともあるし、今の時代のこともあると思います。親の会としてディスカッションをされている中で、今のお話を聞いて、何をどう感じられたでしょうか。子育てのことと今の状況をあわせて聞かせていただけたらと思います。

小出

お二人の素直な気持ちを聞かせていただいて、本当にありがとうございました。

こんなエピソードがあります。私の娘は、小学校6年間、特別支援学級にいました。通常学級のある学校で、そこで6年間過ごし、中学から特別支援学校の中学部に行きました。

そうしたら、1週間も経たないうちに、両手の甲をかむという自傷行為が始まりました。学校へ行ってみると、障害のない人がクラスに2人いました。それは先生で、そのほかはみんな重度の知的障害の子どもたちでした。

ところが、高等部になったら、1週間で手の甲をかむのがなくなりました。抜毛もなくなりました。もっとも、はげたままではありましたけれども。

学校へ行ってみると、23人が支援学校中学部からそのまま持ち上がりでした。そこに特別支援学級から30人が加わりました。驚いたことに、言葉が飛び交っているんです。

小学校のとき、特別支援学級ではありましたけれども、できるかぎり通常級の子どもたちと一緒に6年間過ごしてほしいと、私は思っていました。要は、言葉が飛び交う環境だったんですね。うちの子は自閉症がありましたので、呼びかけられても知らん顔をしていました。ところが、実はそうではなかったんですね。

そういう子であっても、通常学級で、普通の子どもたちと――普通という言い方がいいのか分かりませんが――共に過ごし、常に声をかけられていた。そういう環境というものは非常に重要なんだと感じました。

外から見ると、それは無駄に思えるかもしれません。でも、声をかける、話しかけられる。皆さんは言葉でコミュニケーションを取りますが、うちの娘はできません。でも、耳からは全部言葉が入っているんです。

ですから、重度の知的障害であっても、コミュニケーションとしての声かけは重要だと感じました。

同時に、こうして、このような場でお話ができるというのは、本当にうらやましいことだと思っています。

田中

ありがとうございます。時代が変わったのか、それとも認識が広がったのか分かりませんが、率直なご感想をありがとうございました。

長坂さん、これを聞いてどう思われますか。皆さんもそうだと思うのですが、常に葛藤があると思うんです。支援をしていて、これは押しつけになっていないのか、本人の意思と言いながら、そうではないのではないか、という葛藤です。

そういうとき、その葛藤をどう整理していけばいいのか。葛藤を完全になくすことはできなくても、工夫されたことなどがあれば教えていただけますか。

有里子

本人が今起きている状況や選択肢を、まだ言語化できていないところがあると思うんですね。なので、小さいころから「つまりこういうことなの?」「こういうことなのかな?」とか、「例えば……」という形で、子どもが分かりやすいように、今起きている状況を言葉にしていくことが大事だと思います。

例えば、このプランを選ぶとこういうことができるよ、とか。学校に対してこういうアプローチをすると、こういう環境が作れるかもしれないよ、とか。世の中では「前年はこうだった」とか「ほかの子はこうだ」と言われがちですが、いったんそれをなしにして、とにかく今その子が持っている言葉で言語化するところから、調整の始まりがあるのかなと思います。

この子は3年生のときから不登校でしたが、過敏や計算障害などが出てきたので、私も小学校に対して(必要な調整の希望を)伝えたことがあります。その結果、自然な形で配慮を受けながら教室に入ることがありました。それを、配慮を受けていない子どもたちが横で見ているわけです。

そうすると、「こういう状況になったら、学校はこういう配慮をしてくれるんだ」ということを、子どもたち自身が見て理解するんですね。そこは一つの変化を生んだところだったと思います。

通常級の話が出ましたが、今私は特別支援学校が併設された学校の通常級に関わっています。そこでは、給食交流という形で、通常級の子どもたちが、特別支援学校に「お客様」として行くことがあります。ですが、そのように整えられた環境の中に入っていくのではなく、普段生活している場所に、障害のある子どもに入ってもらい、調整していく、その様子を見せるのが、本来の特別支援教育ではないかと考えて、学校にもそういうことを訴えたりしています。

当事者として、どう配慮してきたかということについては、河髙さんのお母様のことも存じていますが、お話を聞くと、やっぱり同じなんですよね。まず言語化して、選択肢をたくさん用意して、ということをやってきたと思います。

我が家では、1~2年生のころは、まずは調整のスタートとして、とにかく本人ができることをゴールとして目指して支援を整えました。その中で「この支援は合っているな」と言えるものを選び抜いて、それをルーティン化し、通常の環境の中でも受けられるようにしていきました。

3~4年生になると、子ども主体で学級が動くようになります。そこでは、本人自身が「助けが必要だ」ということを認識する必要があります。なので、「あなたは去年こういうふうにやったからうまくいったよね」と、受けていた支援を言語化して伝えるようにしました。

5~6年生になると、「私はこういう方法ならできるかも」「こういうふうに工夫すればできるかも」という形で、自分の持ち物として支援を使えるようになっていきます。そうやって自分から支援につなげていく形で環境調整をしてきました。

中学校になると、「小学校のときはこうやっていたからできたので、別室にしてもらったらできるかも」というふうに、自分で考えて言えるようになっていったのかなと思います。

田中

ありがとうございます。

1つか2つ、フロアから質問や意見がありましたらお聞きします。

では時間の範囲でお二人からお願いします。

会場

金沢工業大学の土橋です。皆さん、貴重なお話をありがとうございます。

関哉先生に1つだけお伺いします。人権のことをいろいろお話しくださいましたが、私が最近やった研究では、国際的に見て、日本では人権が――健常者にしても障害者にしても――あまり大事にされていないのではないかと感じています。

その中で、どうやって人権尊重を進めていくのか。

先ほど、「積み重ね」とおっしゃっていましたが、それ以外にも何か方法があれば教えていただければと思います。

関哉

ありがとうございます。

ここ何年か、学校現場で人権尊重の取り組みを積極的に進めている学校を見ていて、強く思ったことがあります。

それは、人権尊重にはすごく時間がかかる、ということです。

例えば1年でそれを成し遂げるのは、たぶん難しいと思います。理念と仕組みをきちんと整合させていくには、ほかのものよりも時間がかかると思うんです。

ただ、2年、3年と取り組んでいくと、必ず成果が出ると思います。

何が成果として出るのかというと、学校全体として「それぞれが大切にされている」という風土が出来てくることだと思います。

もう一つ思うのは、仕組みに落としていかないと浸透しないということです。

具体的に何をするかという点では、人権週間や人権の日のような取り組みを紹介しましたが、そういうものを実施することにも意味があると思いますし、先生方が発信していくことにも意味があると思います。

一番大事なのは、子どもたちにそれが徹底されているかどうかを、きちんと尋ねながら、コミュニケーションを取りながら、本当に子どもの声を聞く学校になっているかどうかです。そういう方向に取り組みが向いていくと、変わってくるのではないかと思います。

日本の人権意識や人権尊重が遅れている、とは僕自身はまったく思っていません。取り組み次第で変わってくるんだろうと思います。日本の人権には、日本特有の――言葉が少し荒っぽいですが――優しさのようなものがあって、僕は他国の人権よりも好きなんです。

少し余談になりましたが、以上です。

会場

藤井です。5人のスピーチ、本当に素晴らしかったと思います。

また、昨日の第1セッション、今日の第2、第3セッションにも通底するものを感じました。とりわけ「不登校」というテーマについて、体験者から本音をシャワーのように浴びているように感じています。

そこで代表して、奏那さんと河髙さんにお聞きしたいと思います。

お二人から、これまでの発言を踏まえて、今の社会――社会というのは教員を含む専門職でも、教育行政でも構いませんが――今の社会に訴えたいことを、1つ、端的にお話しいただけますか。

河髙

最近、私が思っていることをお伝えします。

これは高校時代から考えていたことでもあります。

理解するのに時間がかかるのであれば、まずは知ってほしい、ということです。

もし、理解しなければ支援が始まらない、理解しなければ合理的配慮が始まらない、とすれば、それは学ぶ権利が侵害されている状況だと思います。

だからまずは、本人が話している状況を知ってほしい。そして対応してほしいと思います。

理解は後からでもいいです。以上です。

奏那

簡単なようで難しいテーマだと思います。

今の社会について、という質問だと思いますが、教育現場でいうと、私は一番大事なことは、支援することも大事ですが、見守ることも同時に大事だと思っています。

今は、大人が子どものことをほとんど100%近く把握できてしまう社会だと思います。塾講師のアルバイトをしていたとき、塾に来ている子どもたちは、入塾するとカードをかざします。すると、それが親に通知されるんですね。スマホの中にはGPSも入っています。

塾や学校でどういうことをしているのか、友達関係も含めて、かなりのことが大人に筒抜けになっている状況です。

その中で支援するとなると、大人がすべてに干渉できてしまう社会の仕組みになっていると思います。

支援も大事ですが、もう少し、一歩下がって見守ることも大事だと思います。

それから、少し趣旨がずれるかもしれませんが、放っておいてくれることも、子どもとしてはうれしいことかなと思っています。

田中

ありがとうございます。

最後に一言ずついただこうと思っていましたが、時間が来てしまいました。

さきほどの藤井さんの質問に対するお二人の答えを聞いていて、「今、手助けしてよ」「今は放っておいてよ」と、本人言える環境になればいいのかな、と感じました。全員がそうできるかどうかは分かりませんが。

最後に私から、コーディネーターとして一言だけお話しすると、私は今、教員を目指す学生たちを教えています。その授業の最初に必ず言うのは、「自分たちがこれまで当たり前だと思ってきたこと、普通だと思ってきたことを疑ってください」ということです。

今日の話を聞きながら、やはりそれが大事なのかなと思いました。

「私たちが感じていることは、あなたも同じでしょ」ということではなく、「それは、自分の思っていることと、ちょっと違うかもしれない」と思えたときに、今日の話はすっと入ってくるのではないかと思いました。

5人の皆さんには、いろいろ宿題のように話題提供をお願いしたのですが、応えていただきありがとうございました。

最後に、5人の登壇者に拍手をもって終わりたいと思います。