基調講演 教育を総合リハビリテーションの観点から考える  ~特別支援教育とこれからの教育を改革するために~

松矢 勝宏
実行委員長 東京学芸大学名誉教授

1.はじめに――日本の子どもたちは幸せか

おはようございます。実行委員長の松矢です。

総合リハで私が実行委員長を務めるのは二度目ですが、少し体調を崩しまして、今回は実行委員会の方々にずいぶんお手伝いをしていただきました。まず感謝の言葉を申し上げたいと思います。

私はこれまで、就労と雇用促進、関係機関のネットワークの中で仕事をしてきました。今年85歳を迎えて体調をくずしており、実行委員会の仕事はこの研究大会がおそらく最後になるだろうと思っています。今日は教え子の皆さんもだいぶ来てくださっています。そういう意味で、非常に感謝しながらお話をしたいと思います。

今回、実行委員長を引き受け、日本の子どもたちは本当に幸せなのかと考えました。障害のあるなしに関わらず、日本の子どもたちは幸せだと言えるのかということです。

不登校の理由はいろいろありますが、不登校の子どもがどんどん増えています。

今回の研究大会でセッション1を担当していただく実行委員の井村先生は、立川で「育て上げネット」の仕事をしていますが、小学校の校門前に毎朝立って「おはようございます」と挨拶をされています。そこから相談支援が始まっていくという、気の長い仕事を続けておられます。その話を聞いて非常に感心し、お願いしたわけです。今日は受付の横に、その長年の相談支援の成果が展示してありますが、セッション1で詳しく聞くことができます。

そういう地道な活動の中で子どもたちは救われていくのだと思います。それこそが総合リハの基本的な考え方です。今回の実行委員の方々も、そうした地道な仕事に取り組んでいる方々にお願いしました。

2.先達から学んだこと

そして、今日の会場である戸山サンライズは、国際障害者年のとき、日本で最初の障害者総合福祉センターとして、さまざまな活動の舞台になった場所です。

私がまだ若かったころですが、花田春兆先生―すでにお亡くなりになりましたが―文学者・詩人であり、障害当事者のリーダーとして国際障害者年の事業を見守ってくださいました。

先生には言語障害があったため、私は最初、司会の際にほとんど聞き取ることができず、とても苦労しました。2回目からは、脳性まひの当事者であり、ご自身で訓練を重ねてこられた春田文夫先生が、花田先生と相談され司会を手伝ってくださることになりました。話を通訳していただけるようになり、ずいぶんと楽になりました。リラックスしているときや、お酒を飲んでいるときはよく聞き取れるのですが、全部を正確に聞き取ろうとすると、なかなか難しいものです。

花田先生は、東京で最初の公立肢体不自由児学校である東京市立光明学校(設立1932年6月1日、現在の都立光明学園)の1回生と聞いております。国連・障害者の十年が始まり、政策委員会が設けられ、その中で分科会が行われました。私は児童分科会の座長を仰せつかったのですが、花田先生が毎回出席されるので、春田先生に副司会をお願いし、たいへん助けられました。

養護学校の義務化が始まった際には、障害者を分離・隔離するものではないかという意見もありました。しかし、花田先生は分科会の議論が発展していくことを静かに見守ってくださいました。そして、教育の仕事はとても大切なのだと、私たちを絶えず励ましてくださいました。私は、そうした花田先生から多くを学んできたのです。

就労の分野では、調 一興先生の存在が非常に大きなものでした。先生は結核で肺を摘出され、当時はまだ抗生物質もない時代でしたから、膿が出るような大変な体調の中で活動を続けておられたそうです。東京コロニーの発足当時には、ロウ原紙に鉄筆で書きあげ謄写印刷を行うという、たいへん厳しい条件のもとで事業が始まったのです。それでも先生は常にかくしゃくとされておられ、障害者運動のリーダーとして力強く活躍されてきました。今では政策委員会の仕事は内閣府に移管されていますが、民間主導の国際障害者年推進協議会の中で最初に始まり、そこで調先生が議長を務められました。政策委員会での議論が障害者施策に反映・実現されるので、私自身にとっても委員会で多くを学ぶことができたことに、深く感謝しています。

また、北浦雅子先生は全国重症心身障害児(者)を守る会の会長として活動されておられました。ご子息の尚さんは、48歳のときに寝返りが可能になったことを契機に、左手で絵を描くことを学び作品を発表されるようになりました。北浦先生はいつも凛としておられ、重い障害のある子どもたちの療育の必要性について、児童の分科会で繰り返し提言をなさっていました。さらに、重症心身障害者施設の施設長であった岡田喜篤先生。北浦先生といつも同席されていましたので、お二人から学んだことを忘れることができません。

そして石井哲夫先生です。当時の発達障害療育研究会の代表として、ノーマライゼーションの理念を実践し、当事者のニーズを徹底して受け止める姿勢を示してくださいました。このような先生方と出会い、学ぶことができた場所がここ戸山サンライズだったのです。総合リハビリテーションにおける相談支援とは、特別な技術以前に、障害のある人たちの考えや願いを丁寧に聞き取ること、すなわち傾聴に尽きるのではないかと思います。私はこの四人の先生方から、その基本を学びました。今回は、そうした自分自身の歩みを振り返りながらお話ししたいと考えています。

3.養護学校義務化と、国際的障害者施策の流れ ―本人中心の教育へ ~特殊教育から特別支援教育・教育リハビリテーションへの改革~

とりわけ大きな転換点となったのが、養護学校の義務化です。

まず東京都が、小・中学校の義務教育段階において、「どんなに重い障害があっても、希望する子どもは受け入れよう」という方針を打ち出しました。国に先立つ1974年4月です。国の養護学校教育義務化は1979年4月からです。出発点は東京都の施策で特殊学級に教員加配する形でスタートしました。東京都から始まった希望者全員就学から昨年で50年を迎えています。その歴史の中で、重い障害のある人の支援のあり方を、総合リハビリテーションの視点から問い続けたいと思います。

全員就学が実現した1979年の後、1981年には国連の国際障害者年、1983年からは国連・障害者の十年が始まりました。その後、アジア太平洋障害者の十年へと引き継がれ、2006年には国連総会で障害者権利条約が制定されるという、大きな国際的流れが生まれます。

私は、まさにその流れの中で仕事をしてきました。特に知的障がい児・者の親の会や重症心身障害児・者を守る会をはじめとする保護者の方々と共に活動し、多くのことを学びながら歩んできました。

教育における全員就学が進むと、次に課題となったのは「働くこと」、すなわち就労と雇用促進でした。このテーマについても、私は親の会の強い後押しがあり、厚生労働省の労働政策審議会障害者雇用分科会の審議会委員を務めるなど、教育の領域から社会参加と就労・雇用促進の分野へと活動の軸足を広げていきました。親の会の活動は、私の仕事の展開に大きく反映しています。

その中で、無認可の任意団体ではありましたが、進路指導の先生方とともに「養護学校進路指導研究会」(略称、進路研)を立ち上げました。私が東京学芸大学を定年退職すると大学での活動ができなくなるため、ネットワークづくりを継続する場として「進路研」を就労支援研究会へと発展させ、その活動を東京都に認証してもらい、NPO法人GreenWork21を設立して実践を展開してきました。こうした進路研の活動からすでに30年ほどになります。その活動と実践から学んだことが、今回のお話の中心でもあります。

国際障害者年以降、国連・障害者の十年、アジア太平洋障害者の十年、そして2006年の障害者権利条約制定へと続く流れの中で、一貫して示されてきた支援の基本は、当事者本人の参加と自己決定でした。

障害者施策は、本人の意見をきちんと聞きながら進めるべきである。まず本人の願い、考え、希望をしっかり受け止め、そのうえで個別の移行支援計画を立て、社会参加を支えていくことが重要だと、私は考えています。

その考え方に基づいて、進路研を立ち上げました。その活動の中から、「主体性を支える個別の移行支援-学校から社会へ」という書籍が、進路研活動の成果として刊行されました。私は名前を連ねているだけで、実際には皆さんがどんどん執筆してくださったのです。それほど研究会の活動は活発で、大いに盛り上がっていました。やはり、本人の気持ちや願いを受け止めていくことが大切だという認識が共有されていたのだと思います。先生方は、本人の願いをしっかり受け止めながら、非常に意欲的に実践が展開されました。

その中で、特別支援学校を卒業して社会人になってからも学びを続けるべきではないか、という議論が生まれ、オープンカレッジの取り組みが始まりました。当時でいう大学公開講座ですが、本人参加を前提とした趣旨のオープンカレッジです。「大学で、自分を知り、社会を学ぶ」という場があってもよいのではないかと提案したところ、教え子たちが「いいテーマですね」と賛同してくれ、1995年にスタートしました。今回の大会で紹介している内容の中にも、その取り組みが含まれています。先生方とさまざまな実践を重ねてきました。ちょうど学校五日制が始まった時期でもありました。

この本(「主体性を支える個別の移行支援」)は初版が売り切れて現在は絶版ですが、古書店では5,000円ほどで出回っているそうです。東京都教育委員会の1998年4月から3年次にわたる「東京都立養護学校職業教育推進委員会」で私が座長を務めた際、都立青鳥養護学校長(当時)で委員会の主査であった宮﨑英憲先生が「個別の教育支援計画に基づく個別移行支援計画の展開」を刊行されました。私の編著本が6月、宮崎先生編著が11月の発行です。こちらは東京都教育委員会にも認知された書籍で、価格は2,500円でした。

多くの先生方が個別の移行支援計画に熱心に取り組まれたことは、非常に意義深いものでした。相談支援のあり方、教育リハビリテーション、個別の支援計画や移行支援計画はどうあるべきか、そうしたテーマについて先生方は真剣に議論し、実践を重ねました。学校卒業後の学びについても、講座の学習案を一生懸命作成してくださいました。そのような内容が、私の編著の本にまとめられています。

当時の背景として、なぜ進路指導を「進路学習」として、本人中心で進める必要があったのかという問題があります。全国的にも同様ですが、もともとは比較的軽度の子どもたちを対象とした職業教育として始まったため、当初は就職率が50%程度ありました。対象人数も少なかったのです。しかし、全員就学が進む中で対象が重度化・多様化し、軽い子どもから重い子どもまで受け入れるようになると、就職率は大きく低下しました。社会参加の難しさが明らかになり、各地で作業所づくりの取り組みが活発に行われました。

私自身も東京学芸大学の周辺の小金井市、小平市、国分寺市など市域で作業所づくりのために活動しました。就職率が大きく下がる中で、東京都は授産所条例を見直し、授産所を福祉作業所へと切り替えました。当初は評判が良かったのですが、予算の問題から民営化され、共同作業所・民営授産所という形に変わっていきます。運営委員会を作り、助成金を受けながら作業所を設置していく仕組みへと移行しました。

4.就労支援や職業教育の体系的構築

こうした流れの中で、作業所づくりと同時に、就労支援や職業教育を体系的に構築する必要が強く認識されるようになりました。その意味で、個別の教育支援計画と、本人が主体的に学ぶこと、すなわち本人の考え方を大切にする教育、この二つが極めて重要な時代になったのです。

資料のグラフは東京の実践を示したものですが、就職率が30%台に回復したのが1999年です。その背景には、1998年の政令改正による知的障害者雇用の義務化(法定雇用率1.8%)があります。義務化により知的障害者の雇用率が明確に定められ、状況が改善され、その後、精神障害者へと対象が広がり、就職率は30%を超えて上昇していきました。この時期こそ、まさに進路指導研究会の活動が大きな意味を持った時代でした。

まず「進路学習」という考え方を打ち出し、従来の進路指導を学習として再構築していく。この点については、先ほどの書籍の中で詳しく述べていますので、ぜひ参照していただきたいと思います。このように考え方を転換し、個別の移行支援計画を作成していくことが重要だったのです。

その後、私は全国特別支援教育研究連盟(全特連)に関わるようになりました。以前は全日本特殊教育研究連盟という名称でしたが、機関紙の編集委員、編集委員長を務め、その後、副理事長、理事長へと役割が移っていきました。編集委員長になった際、進路支援のための実践的な手引きが必要だと考え、機関紙の別冊として進路指導ハンドブックを二度刊行しました。

最初は義務制実施から10年後の1989年4月に「教師のための福祉・就労ハンドブック」を刊行しました。その後1996年9月に「新・教師のための福祉・就労ハンドブック」を改訂版として刊行しました。二つのハンドブックの刊行には背景があります。1989年版はその年の4月に平成元年版といわれる学習指導要領の改定がありました。「盲学校、聾学校及び養護学校の小学部・中学部学習指導要領」、「養護学校高等部学習指導要領」、「幼稚部教育要領」の告知がなされました。養護学校の義務化から10年にして高等部教育の本格的な整備・拡充に入る時点でのハンドブックの刊行と言えます。1996年版について言えば、その年の3月に高等部の職業教育の在り方に関する報告書が出されました。知的障害者雇用の義務化も進む中で、教育・福祉・就労をつなぐ実践的な指針を、進路指導の先生方にしっかり読んでもらう必要がありました。

そこで、本人が「自分らしくどのように生きたいのか」を中心に据え、本人の希望や気持ち、意思を尊重して進路指導を行う―いわばキャリア教育の考え方を積極的に取り入れていこうとしたのが、これらハンドブック刊行の目的でした。進路学習もそうですが、一方でキャリア教育の考え方も取り入れました。そのとき紹介したのが、アメリカから日本に入ってきていたブローリン(Brolin, D.E.)たちのキャリアエデュケーション、「生活中心のキャリア教育」です。これは多くの方に読まれていました。当時のリハビリテーション研究大会に関わっていた東京都障害者福祉センターの支援者の方々も読んでいました。東京都で最初にできた施設で、本日その施設長がいらっしゃると思いますが、「世田谷区立障害者就労支援センター すきっぷ」があります。初代施設長だった白井俊子先生は、当時、知的障害科におられましたが、その後に「すきっぷ」の施設長になられ、生活中心のキャリア教育と個別支援計画に基づいて利用者の企業就労を実現していく実績を「すきっぷ」で積み上げたのです。

このように、個別支援計画とキャリア教育は非常に大きな意味を持っていたと思っています。
その後、私はキャリア教育を進路学習とあわせて行い、その中心に家庭教育があると考えるようになりました。子どもの人格、主体性の発揮と人格形成は家庭教育から始まっていきます。そして学校教育があり、地域教育があり、産業社会があり、もちろん学校教育も含めて、こうした輪の中で子どもたちがキャリア形成をしていく。個別支援計画は、このキャリア教育の輪を大切にしながら進めていくべきだという考え方です。こうした内容で、私は講演活動を行いました。

今日もいらっしゃっていますが、あきる野学園、青峰学園などで職業教育の開拓に尽力された原智彦先生は、パワーポイントで描かれている個別移行支援計画で新たな実践を提示されたのだと思います。個別の教育支援計画を立て、本人や保護者の願い、気持ちを聞きながら作っていく。家庭生活や進路先での支援、医療の支援、出身校の支援などを書き込み、全体として1年から3年までの移行支援を作っていくというものです。

国際障害者年が進んでいく中で福祉改革が進み、「措置から契約へ」と移行しました。障害者福祉施策の中でも個別の支援計画を作っていく、そういう時代になりました。自立支援法も障害者総合支援法へと改められる中で、サービス等利用計画を市町村が中心となって進め、障害者を直接受け入れている事業者と協力して個別の支援計画を作っていくという時代が、平成24年、25年頃から確立していきます。

このような形で、サービス事業者、作業所、生活介護施設、通所・入所施設でも、それぞれ事業者が個別支援計画を作成するようになりました。

一方で、障害者総合支援法による事業者が間に入り、サービス等利用計画を作る。つまり、学校を卒業した後の地域生活もきちんと包括的に見ていく。そうした時代、「措置から契約へ」という流れの中で法律が整備され、個別支援計画、サービス等利用計画へと進んでいく時代になったわけです。

5.国際生活機能分類(ICF)から学んだこと

そこで、相談支援等のあり方の共通言語としてWHOの国際生活機能分類(ICF)のような考え方を、私たちは習得しなければならないという思いを持っています。学校卒業後もきちんと個別の支援計画があり、社会参加、就労参加を実現していくという考え方です。

このように時代は進んできました。では、私は国際生活機能分類(ICF)からどのように学んできたか。今日も私の教え子が来ていますが、私は東京学芸大学におりました。少子化が進んだことにより、学校の教員数は必要以上に多かったために、これから先生になりたい人たちの教員採用が非常に難しくなったのです。文部科学省も東京学芸大学も、そして私たち教員も困りました。教育系大学にふさわしい前途有為な学士を育成する新しいコースをつくってもよいということになり、教育には必ず社会福祉の学びが必要になるので、社会福祉士受験資格を取得する養成コースを作りたいと提案しました。埼玉大学教育学部がすでに養成コースを設置していたので、厚生労働省の当時の方針の基づき設置を図りました。東京学芸大学で計画された教養系総合社会システム専攻の中に福祉士資格取得科目を担当できる教員を学内から募り、生活福祉専修というコースを設置しました。障害者福祉論を担当する私はWHOの国際生活機能分類ICFを講義で教えなければなりません。障害者福祉研究会編「ICF国際生活機能分類―国際障害分類改訂版」中央法規2002年を参照し、授業のテキストとしては、佐藤久夫・小澤 温 著の「障害者福祉の世界」有斐閣アルマを使って解説をしました。総合リハビリテーションの研究大会に参加しましたが、2010年度の第33回研究大会からテーマとしてICFがとりあげられ、大会終了後に講習会も開催されました。講師として上田敏先生、大川弥生先生からご指導を受けました。

また、上田先生の「リハビリテーションを考える-障害者の全人間的復権-」(青木書店)は、私たちにとってバイブルのような本でした。その後に上田先生のICFの解説書も出版されています。大川先生は、厚生労働省社会保障審議会の第1回から生活機能分類専門委員会の委員として参考資料を提出され、報告書もまとめてくださいました。お二人の先生から講習を受けたことは、私にとって非常に大きな学びとなりました。

今まさに、このICFの考え方を共通言語として活用していく時代なのだということを、改めて確認していきたいと思っています。特に上田先生、大川先生の研修等のお話しで示されているように、阪神・淡路大震災から中越地震、東日本大震災に至る震災調査を通じて、ICFモデルの重要性が明らかになってきました。

震災時には人間生活に大きな影響が及びます。多くの市民が、地域生活を支えていた大切な資源を突然失い、生活に必要な環境因子が損なわれ、制約の大きい阻害的な環境である避難所生活を余儀なくされました。その中で生活機能の低下が起こり、体を動かさない状態が続き、寝たきりの高齢者が次々に亡くなるといった状況も生じました。まさにICFが示しているように、環境が阻害され環境因子が損なわれることが、人間の心身機能、社会参加、生活機能の低下を引き起こし、社会参加を妨げていくことが明らかになったのです。ICFモデルの理解が非常に重要なのだということです。

能登地震でも、多くの子どもたちが学校に通えない状況があったと思います。今回はこの問題を直接取り上げてはいませんが、日本では震災や豪雨による災害等で環境破壊が繰り返し起きています。さまざまな出来事が起こる中で生活機能の低下が生じうる社会であること、そのことをICFモデルによって十分に学ぶことができます。

パワーポイントで示したこの図は上田先生の研究に基づく「生きることの全体像」として示された皆さんもよくご存じのICFモデルです。こちらには「機能・構造障害」・「活動制約」・「参加制約」など、障害を受けたときの図も整理されています。障害のあるなしにかかわらず、ICFモデルは適用できます。障害のある人たちに対する特別支援教育を含めた教育リハビリテーションを考える際には、機能・構造障害、活動制限、参加制約をしっかり捉える必要があります。これらは相互作用の関係にありますので、たとえ活動制限があっても、より良く活動できる環境や支援方法の工夫によって、心身機能の障害が軽減されることがあります。このような相互関係を理解していくことが重要です。

私は上田先生の考え方を踏まえ、本人の主観的な体験としての障害が重要であるという点を取り入れ、ICFモデルをもう少し分かりやすく理解するために用いています。環境因子や健康状態などを含めながら、相互の影響を見ていくということです。障害児・者本人が主観的に体感する、活動や生活のしづらさ、困難さを見出していくこと。その主観的な体験をきちんと評価し、個別の支援計画を作っていくことが大切です。これは、本人の活動参加、より良い生活の実現に関する機会という側面と、活動参加を阻害する要因としての生きづらさや困り感という側面の両方を見ていくということです。環境因子として、不適切な教え方や支援方法といった阻害因子もあります。つまり、教師や支援員の専門性に関わるような要素も大きく影響してくるのです。一方で、支援者が作成するサービス等利用計画と個別の支援計画によって、利用者のニーズをしっかり支えていくことができます。利用者である本人と支援者との共感と協働の結果として、本人の主体的な活動や参加が実現していくというモデルです。

このようなことを考えながら、障害者本人が体験として持つ障害、本人の興味・関心、主観的な思い、より良い生活の実現への願いといったもの、そして体験としての障害が一方では生活のしづらさや困難としても表れてくる、そうした両面を見ていく必要があります。これはベクトルのような形で表しているのですが、このように相互に作用するからこそ、個別の教育計画や個別の福祉計画が大切なのだと説明てきました。

そうした観点で編んだ本が、童心社から全4巻で出ている「障がい者の仕事場を見に行く」です。この本は小山博孝さんと一緒に編んだもので、ICFに関わる支援の考え方に基づき、第4巻を私が担当しました。知的障害特別支援学校の3人の当事者である主人公の母親の手記を編集しました。小山博孝さんご自身も「私たちのしごと 障害者雇用の現場から」という著書を、岩波書店から出されています。これは彼が写真家として高齢・障害・求職者雇用支援機構の「働く広場」のグラビアを担当し、その内容を編集して作った本です。それを子ども向けに編んだらどうだろうかということで、童心社によるこのシリーズができました。私が担当した第4巻の内容としては、例えばヘレン・ケラーとアン・サリバンの教育をICFモデルで読み解くことも試みています。ぜひ読んでいただきたいと思います。この第4巻の当事者である3人の主人公は、特別支援学校卒業後の同窓会での生涯学習でミュージカル活動も行ってきました。障害のある人の生涯学習については明日のセッションで取り上げます。

6.これまでの到達点、今後の展望

(1)個別の移行支援計画等の当事者(本人)の意思の尊重による社会参加の成果と実績

進路指導研究会からNPO法人へと移行し、20年間活動を続けましたが、NPO法人は役割を終え本年6月で解散しました。これは20周年記念研究会で皆さんの協力で作成した資料です。

特別支援学校、特に東京都立の知的障害特別支援学校の卒業生の就職率は、このように上昇してきました。コロナの影響がなかった平成30年度には49%、つまり二人に一人が就職できる状況になりました。現在は46%程度ですが、東京都の実績は、全国平均が約32%ですので、高いといえます。これは厚生労働省の資料ですが、福祉から企業就労へという流れが、かなり確実に進んできています。毎年度厚生労働省から示されるデータです。

東京都の進路指導関係の仕事は、東京都特別支援教育推進室が担当していますが、私は就労支援アドバイザーを務めています。そこでは就労定着支援を重視しています。一度の就職で自分の望む仕事に就けるとはかぎりません。現在は転職も前提としながら、よりよい働き方、自分に合った職業・仕事を選んでいくことが大切だと考えています。そのため、単なる就職率ではなく、定職率に注目しています。一度就職に失敗しても、自分に合った仕事に就き直していくことができるかを見るべきだという観点です。その結果、定職率はかなり高く90%程度で推移しています。このように、転職も含めながら、より良い自分にあった仕事を選択していくことが重要な時代になってきました。現在、東京都の職業学科は高等部単独設置の就労技術科と普通科高等部設置の職能開発科の二つの学科で進められています。全国の高等部における就職率は約32%です。東京都は全都の特別支援学校を5ブロックに分け、企業や学識経験者を含む就業支援アドバイザーを活用し、企業・関係機関・支援団体ネットワークで進めるシステムにより、コロナ禍後でも就職率は約46%で推移しています。

一方で、就職以外の道を歩む人たちについても考える必要があります。私は社会福祉法人森の会の理事長も務めており、福祉就労や福祉を通じて社会参加している人たちの支援にも関わっています。市域の中でこそインクルーシブな地域生活が大切であると考え実践しています。3年前に総合リハ研究大会が開かれたころは、ちょうどコロナ禍でした。法人の現場での活動をどうするかという議論になったとき、私は福祉の現場として「休業しないで、みんな元気に活動を続けられないか」ということを命題にし、2021年の第43回総合リハ研究大会で発表しました(注)。就労移行支援B型作業所での取り組みでは、コロナ禍の3年間、1日も休業しませんでした。通所生活介護施設は2日間だけの休業、グループホームでは感染者が出たことはあっても、閉鎖に至ることはありませんでした。コロナ禍においても、皆さんの健康を守りながら活動を継続し、福祉施設が地域生活参加の「活動の拠り所」であり続けることができたと思っています。資源回収の作業では、クルーを組み車で移動しますから三密になりやすい環境ですが、利用者本人や保護者の協力、そして職員の努力によって、健康を維持しながら活動を続けることができました。この経験を通して、福祉事業所の生活の中でも個別支援計画がいかに重要かを実感しました。私たちは毎年、事業報告会を保護者と本人と一緒に行っていますが、2025年には森の会事業所開設50周年記念会をあわせて開催しました。東久留米市の教育センター(成美教育文化会館)を借りて全体会を行いましたが、当事者の皆さんが主体的に参加してくださり、大人になるとこうした形でしっかり参加できるのだと感心させられる会になりました。落ち着いて最後まで話を聞いてくださり、皆さんは元気に活動されています。

(注)第43回総合リハビリテーション研究大会報告書「第43回総合リハビリテーション研究大会 コロナ危機下での障害のある人 -総合リハビリテーションの視点から-」パネル2「コロナ危機とリハビリテーション」パネル報告 松矢勝宏 、報告書35~38ページ、2022 年、公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会発行

(2)発達障害児・者の社会参加と教育リハビリテーション ~通級による指導の実績と発達障害者本人のニーズの共有について

さて、時間が少なくなってきましたので、教育リハビリテーションについて触れたいと思います。まず発達障害児・者の教育リハビリテーションについて、通級による指導が挙げられます。グラフの上から順に、注意欠陥多動性障害、学習障害、自閉症、情緒障害、視覚障害・聴覚障害、肢体不自由の方々です。1993年度より学校教育法の改正により制度化され、現在では注意欠陥多動性障害、学習障害、自閉症、情緒障害、弱視、難聴、肢体不自由、病弱・身体虚弱、言語障害にわたり実施されています。2018年度から高等学校にも拡大され、学校教育法の制度上では「通常の学級に在籍し、通常の学級での学習におおむね参加でき、一部特別な指導を必要とする児童生徒に対して、障害に応じた特別の指導を行う指導形態」とされています。このグラフからは小・中学校における発展の様子がわかります。そしてインクルーシブ教育の推進において大きな役割を果たしていると理解しています。
 ここでの大きな課題は、高等学校における通級指導がまだ十分に浸透していないことです。調査では、保護者も本人も抵抗感を持つ場合があることが分かっています。そこで本研究大会のセッションでは、「第三の居場所 サードプレイス」という視点を取り上げました。発達障害とはいえ多様な障害からなっているので、自分たちの障害についてお互いに語り合い、一緒に学び合う場としてのサードプイスの実践が必要ではないか、ということです。発達障害者の当事者運動の成立には、このような地道な実践が各地で進められる必要があります。発達障害については法律上の置づけはありますが、実態調査では発達障害として設問のサンプルが作成され実施されていません。各障害種別の中に分散してしまい、発達障害だけで分析できるデータが少ないのです。私は東京都の5年ごとの障害者生活実態調査の座長を3回担当していますが、サンプル数を増やすことの難しさを5年ごとに感じています。本来は発達障害だけでサンプルを構成したいのですが、予算的にも現状では容易ではありません。だからこそ、当事者がまとまり、自分たちの課題を自分たちで語り、解決していくための支援としてサードプレイスのような仕組みが重要になるのではないかと考えています。今回のセッション2の研究協議では、この点に注目していただきたいと思います。

(3)キャリア教育の発展と教育リハビリテーション

また、キャリア教育の視点の共有も重要です。身体障害、知的障害、精神障害では障害の特性も関係し、状況がそれぞれ異なっています。その違いを踏まえながら、働く力をどのように育てていくかが問われています。特別支援学校における職業教育では、職業リハビリテーションや療育など関連する支援の考え方が有効であることを、私たちは長年の実践の中で学んできました。抄録にも詳しく書きましたが、まさに実践知です。温故知新という意味で、三木安正先生をはじめ私たちを導いてくださった方々の思想と実践をあげたいです(注)。特にキャリア教育に関連して知的障害や発達障害のある人々の職業教育や就労と社会参加支援してきた先達の実践を改めて学び直したいと思っています。

企業就職をしている知的障害特別支援学校の卒業生の実態を見ると、所持している手帳の障害の重い・軽いは重要ではなく、集団の中で自分の役割を理解していること、長所はもちろん自分らしさを発揮できる自己理解の力(自己有用感)が重要であることです。キャリア教育の目的を開拓者の教えから学ぶ必要があるということです。また糸賀一雄先生は障害の重い子どもの教育から、人間の日常生活に必要なさまざまな活動の達成への努力が社会参加につながっていくというICFモデルの考え方を早い時期から察知し、実践していたように思われます。先生の言葉を引用します。「人間の精神発達というものは、年月とともにしだいに上へ伸びていくばかりでなく、あらゆる発達段階で豊かな内容をもつようにひろがっていくものだということも証明された。縦軸の発達に対して横軸の発達とでもいえるような内容的な展開がある」と。先ほど北浦先生のご子息の尚さんに触れましたが、北浦 尚さんは、48歳のときに寝返りができるようになり、利き手が自由に使えるようになったことで創作活動を始め、個展を開くまでになりました。療育活動そのものが社会参加を促した一つの象徴的な事例ですが、私は北浦先生のお話と糸賀先生の言葉を重ね合わせて生きる力の意味を考えたいです。

(注)特別支援教育の歴史で温故知新に関連するリーダーについて、今回の基調講演では詳しくは言及しませんが、知的障害教育の発展で先駆者として活躍した故東京大学名誉教授、三木安正先生をまずあげたいです。次に三木先生の盟友として特別支援教育制度の発展に貢献した国立特別支援教育研究所初代所長の故辻村泰男先生をあげます。故人の生涯にわたる願いであった障害児の全員就学の実現、1979年4月1日の養護学校教育義務制実施日がご命日です。三木先生は1949年に全日本特殊教育研究連盟(後の全日本特別支援教育研究連盟、略称「全特連」)を創設し、知的障害特殊学級と養護学校の教育課程や指導法の研究を弟子の山口 薫先生(故東京学芸大学名誉教授)と小出 進先生(故千葉大学名誉教授)と共に進めました。山口先生は第2代全特連理事長、小出先生は第3代理事長として活躍しました。三木先生は、第2次世界大戦前の古い教育課程主義ではなく、児童生徒の主体性と生活へのニーズ(生活主義教育)を尊重し、教育課程の編成では学校教育法71条のいわゆる「準ずる教育」を批判し、「適切な教育を」と主張されました。三人の先生は学習指導要領の改訂では常に知的障害教育のあるべき方向を追究し努力されました。「準ずる教育」の規定により保護者の就学義務の猶予免除の対象とされた障害の重度な子どもたちの全員就学の実現に貢献されたのでした。戦後の知的障害教育と福祉に大きな影響を与えた「近江学園」創設者の糸賀一雄・田村一二・池田太郎の三人の先生方も三木先生の盟友であったことも追記したいです。三木先生の代表的な著書には「三木安正著作集」全7巻、学術出版社、2008年があります。三木安正生先生誕100年記念の会編「知的障害教育の歩み-三木教育論と戦後小史」東洋館出版制作、2011年と小出 進著作選集「知的障害教育の本質―本人主体を支える」ジアース教育新社、2014年もお勧めしたいです。

(4)医療的ケアの進展

医療的ケアについては、2021年制定の「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律」(医療的ケア児支援法と略記)の制定が重要です。この法律は2016年の改正児童福祉法改正と比べ、国と地方公共団体の施策が努力義務から責務とされたことが大きな特徴です。しかしこの法律は理念法なので、法律制定までの努力や課題解決の過程をしっかり学び、今後の医療的ケアの施策の充実を図りたいです。

医療的ケアの歴史を見ると、全員就学における医療を必要とする児童生徒への取り組みでは、1984年2月の文部省特殊教育課「訪問教育指導事例集」がありますが、都道府県や政令都市では1990年代に入ってから施策化が始まります。それまで教員が研修を受けて保護者が行う「痰の吸引」や「経管栄養」等の行為は「医療行為」、「医業類似行為」、「生活行為」などを指して使用され、「医療的ケア」の用語は大阪府教育委員会「医療との連携のあり方に関する検討委員会」報告書(1991年)が初めてとされます。1991年3月の特別支援学校高等部学習指導要領改訂で訪問教育が明記されたことは重要ですが、医療的ケアの進展は、医療的ケアに関わる保護者やALS等の重度な障害がある当事者の地域生活における医療ニーズから生起する運動の力を反映しています。

医療的ケア児支援法の制定以降、国、都道府県等地方公共団体の施策の進展は大きいのですが、課題も少なくありません。例えば、2024年7月の「令和6年度学校における医療的ケアに関する実態調査」では、特別支援学校における保護者等の付添いの状況では、付き添いを必要とする理由に「医療的ケア看護職員や認定特定行為業務従事者はいるが、学校・教育委員会が希望している」件数が128件で最も多い(48.7%)ことや、幼稚園、小・中・高等学校においては「医療的ケア看護職員が配置されていない、または認定特定行為業務従事者がいないため」が最も多い145件(44.8%)ことなどがあげられます。

医療的ケアの進展には、教育・福祉・保健・医療の施策・サービスの連携が欠かせませんが、地域生活を含めての医療的ケアを必要とする児・者(当事者)と保護者や家族の負担をいかに軽減し、豊かな日常生活を保障することがこれからも強く求められます。

東京都立特別支援学校の医療的ケアは、連携・協力者である保護者の負担を軽減するために条件整備が進んでいますが、2017年に当時の松野文部科学大臣が東京都立永福学園校を視察した時のエピソードがあります。肢体不自由児部門の母親が「できるものならわが子を卒業させたくない」という痛切な言葉を大臣は受けたのです。人工呼吸器の支援が必要な児童生徒に対しても看護師等の介護が伴う送迎専用バスがあり、校内における付き添いの負担が減った今日でも、卒業後の日常生活を支える医療的ケアが整った通所施設が不足している実態があるためです。医療的ケア児の卒業後の地域生活を明るく展望できる体制整備を急ぐ必要があります。学校教育から豊かな地域生活の保障へ、インクルーシブ教育はインクルーシブな地域共生社会づくりと連動させたいです。これからの医療的ケアの大きな課題です。

(注)NPO法人ケアさぽーと研究所理事長の飯野順子先生の資料協力で編んだ私の拙論(「リハビリテーション研究」No.174, 26~31頁, 2018年4月)や同理事の平川和洋論文(「新ノーマライゼーション」2022年2月号, 特集『医療的ケア児と家族支援への期待と課題』のうち「当事者とともにつくられた、医療的ケア児支援法の概要と解説」https://www.dinf.ne.jp/d/3/444.html)を参照してほしい。

私がここまで述べてきた内容と時間の関係でお話しできなかった抄録原稿の部分は、鼎談の講師の先生方にもお伝えしてあります。これから先は鼎談に委ねたいと思います。

菊地先生、山中先生、お二人の先生方、どうぞよろしくお願いいたします。講演の時間配分が不十分で、抄録原稿通りにお話しできなかったです。時間となりましたので終わりにします。ご清聴ありがとうございました。