当事者主体の災害準備-能登半島地震における石巻市の社会福祉法人石巻祥心会による個別訪問活動

「新ノーマライゼーション」2025年9月号

社会福祉法人石巻祥心会
早坂良和(はやさかよしかず)

はじめに

本稿は、令和6年1月1日に発生した能登半島地震に関して、個別訪問活動に石巻祥心会が協力した記録です。この個別訪問活動は2011年東日本大震災の被災地で、石巻地域の相談支援事業所が在宅の障害者の状況把握をするために行った活動と基本的には同じでした。当時は、特定非営利活動法人日本相談支援専門員協会(以下、協会)からの人材派遣とコーディネートの協力を得て実施されました。今回は、被災高齢者等把握事業(厚生労働省)を活用し、複数の機関・支援団体・ネットワークが協力しました。協会からの個別訪問活動への協力打診は1月下旬にありました。受援体験のあった私たちに、支援の協力依頼があったのです。私たち法人の活動は、被災地を支援しようとする協会と被災地の相談支援事業所への協力という形式をとりましたが、かつて全国からの支援に支えられた私たちからの恩返しでした。

2月12日、私と同僚の2人は宮城県石巻市から石川県穴水町へと向かいました。工事車両でひしめくのと里山海道を走り奥能登の凹凸道を進む道のりは、今後の活動の困難さを予想させました。奥能登での活動拠点としてお借りした穴水町の事業所もまた被災し、水道も前日に復旧したばかりという状況下で、私たちの支援活動は始まりました。法人が派遣した職員は、現役・経験のある相談支援専門員を中心に編成され、自治体の要配慮者リストへの個別訪問による状況把握と情報提供、把握情報の電子データベースへの登録作業を主に行いました。令和6年2月12日から3月31日の間、可能な限り2名の職員を途切れさせないように派遣し、計14名の職員が49日間活動しました。

発災後の混乱と支援の「空白」―なぜ専門的な相談支援が必要だったのか

平時の支援と今回私たちが直面した状況との間には、一つ決定的な違いがありました。それは、本来支援の担い手であるはずの行政職員、地域の相談支援専門員、そして福祉事業所、その他たくさんの人と物が被災したという厳然たる事実です。地域の支援機能全体が大きなダメージを受け、皆が最大限を尽くしてもマンパワーも情報も著しく不足していました。

私たちが活動を開始した2月中旬は、地域によって差はあるものの水道の一部復旧に伴い、避難所から自宅での生活に戻る人が出始めた時期でもあったと記憶しています。それは一見、復旧への一歩に思えます。しかし、支援の視点から見れば、ニーズが避難所という「点」から、地域という「面」へと拡散し、より把握しにくくなる大規模災害特有の転換期でもあったのです。行政の窓口には住民からの多様な要求が殺到し始める時期でもあり、どの自治体でも対応に追われる様子が見て取れました。

こうした中で、支援を必要とする人々が「支援の空白」に取り残されていきます。例えば、定期的な服薬が途絶えたことで幻聴が出現し、徘徊を始めた人がいて、家族の対応は限界を迎えても、誰にも繋がれません。下肢に障害があり、開設された一般の入浴支援では入浴できない人が、身体の清潔を保つことが難しい状況にいます。倒壊の危険があるとして判定された住宅に単身で暮らし続け、何からすればいいのかわからないと話す軽度の知的障害者がいます。これらは、単に「物がない」「食べ物がない」という次元とは異なる、複雑で個別性の高いニーズであると思います。こうした状況を拾い上げ適切な支援に繋ぐ役割こそ、私たち専門職が果たすべき使命であると確信した状況でした。

「探す支援」から「繋ぐ支援」へ

私たちは、石川県の穴水町、能登町、輪島市で活動を行いました。どの地域でも共通していたのは、日々の徹底したチームアクションです。まず早朝のミーティングで、行政から提供された要配慮者情報と、前日までの活動で得た情報を基に訪問先をマッピングし、その日の動きを決定します。訪問は、安全と多角的な視点を確保するため、原則として2名体制を組みました。可能であれば、土地勘や人間関係に詳しい地元の相談員と外部の視点を持つ派遣相談員がペアとなり、互いの強みを活かせるように努めました。

この「ペアリング」が、支援の成否を分けることも少なくありませんでした。地図を頼りに訪問しても、派遣相談員だけでは土地勘がなく、ご本人が不在だとそこで手詰まりになってしまいます。しかし、地元の相談員やケアマネジャー、保健師の方々が同行してくださると、状況は一変します。近隣の避難所の様子を尋ねたり、地域のキーパーソンとなる方に声をかけたりすることで、「親戚を頼って金沢に避難したらしい」「昨日、避難所から自宅に戻ってきたばかりだよ」といった、貴重な現況を把握することができました。その結果、訪問を単なる「不在確認」で終わらせず、次の一手に繋がる生きた情報として更新していくことができたのです。

私たちの主な役割は、最終的なサービスを直接提供することではありませんでした。被災した当事者の元へ足を運び、専門的な視点で状況をアセスメントし「何に、なぜ困っているのか」「どのような支援が有効か」を整理しレポートします。そして、その正確な情報を、対応の主体となる行政へ確実に「繋ぐ」ことでした。

被災者への情報提供もまた、私たちの重要な活動の一つでしたが、それは非常に繊細な判断を要するものでした。自治体ごとに住民へ伝達する情報やタイミングは異なり、例えば罹災証明の案内は集落ごとに段階的に行われる場合には、私たちは混乱を避けるべく、聞かれても明言は控えるよう指示されていました。一方で、救援物資の受領状況や生活での不便さを丁寧にお聞きし、片付けボランティアの周知や移動手段確保のためのデマンドバスの案内など、今すぐ役立つ情報を的確に届けることを依頼されることも多くありました。

訪問先で最も多く投げかけられたのは、「家の倒壊の判定に来てくれたのか?」「違うなら、いつ来るのか?」という切実な問いでした。その問いに直接お答えできませんでしたが、不安な気持ちに寄り添い、丁寧にお話を伺いました。そして、私たちが知り得る正確な情報だけをお伝えし、被災された方々がこの困難な状況を乗り越えていくための一助となるよう努めました。

活動から見えた課題と未来への提言

今回の活動を通して私たちが直面したのは、事前にどれだけ入念な準備を重ねていたとしても、ひとたび災害に見舞われ、支援の担い手自身が被災者となった時、その地域だけで解決することは困難を極める、という現実でした。

この経験から、未来のために提言したいことは、特定の政策や制度の改善要求ではありません。むしろ、私たちのように被災し、そして支援を受けるという経験をした者が、その実体験を社会に発信し続けることの重要性です。私たちは、支援を受けたことでどれほど助かったかという「感謝」や「成功体験」だけを語るべきではないと考えています。同時に、支援を受けてもなお解決しえなかった「苦労」や「葛藤」、そして外部からの支援だけでは決して埋めることのできない「限界」があったという事実も、誠実に伝えていく責任があります。

なぜなら、その生々しい実態こそが、まだ被災していない他の自治体、支援機関、事業者、そして当事者の方々にとって、防災を「他人事」から「我がこと」として捉え直す、何よりのきっかけになるからです。そして、地域の体制の脆弱性を論じるだけではなく「受援力」の向上といった取り組みがさらに広がることを期待したいと思います。

あの日、石巻から能登へ届けた支援のバトンが、この記録を読む誰かの手によって、また次の備えへと繋がれていくこと。それこそが、私たちの何よりの願いです。