人間の尊厳を守る―難病の患者会づくり活動の展開
「新ノーマライゼーション」2025年11月号
一般社団法人日本難病・疾病団体協議会(JPA) 顧問/特定非営利活動法人難病支援ネット・ジャパン 代表理事
伊藤建雄(いとうたてお)
戦後いち早く患者会の基礎をつくったのは戦場から戻った人たちでした。戦死者の多くは疾病で命を落としたといわれています。多くの仲間が疾病で命を落とした現実を胸に、「人間の尊厳を守る」運動を始めたのです。
心身に障害を受けた人たちによる「身体障害者福祉法」を求める運動や、治療法もないハンセン病(当時はらい病)など強制的に社会から隔離された患者たちによる社会の理解と支援を求める運動でした。やがて高度成長期になるとさまざまな公害による謎の病気とされ、差別と偏見にさらされる病気が国のあちらこちらに広がっていき、「原因の究明と治療法の早期発見」を求める声がやがて「難病」の課題へと移っていきました。
私は4歳のころに重症筋無力症という難病を発病しました。そのころ日本国内では7人ほどしか診断されていないといわれ、学会でも取り上げられるほどの珍しい病気でした。原因もわからず、治療法も薬もありませんでした。やがて妹も同じ病気にかかり、亡くなりました。国民皆保険制度がなかったころなので多額の医療費が必要でした。幸い私は北海道大学附属病院小児科の諸先生たちの熱心な研究と、海外の新薬を個人輸入するなどして、何とか普通に近い生活を送ることができるようになりました。それでも20歳までの生存は難しいという主治医と母との会話を聞いていました。小学校も就学猶予で1年生を2回送ることになりました。
病気を隠していた自分を持て余し、高校生活はクラブ活動に没頭し、父母には心配をかけどおしでした。勉強はほとんどしなかったといってもよいかと思います。そういう中で絵を描き始め、同じように絵を描きたい若者たちや、後に妻となった女性と共にサークルづくりをし、展覧会の開催や通信の発行、そして全国各地のサークルとの連携にのめりこんだ毎日でした。全国的な展覧会などへの出品も重ねていました。そしてこれらの活動の経験がやがては北海道や全国での患者会づくりに大きな役割を果たすことになりました。さまざまな経験はけっして無駄にはならないと思いました。
1971年、新聞に「全国筋無力症友の会」の結成が紙面に踊り、私の初めての難病の患者団体との出会いでした。やがて国の「難病対策要綱」が実施されることが報じられました。当時世間を騒がせていたSMON(後に薬害であることが判明)や全身性エリテマトーデス、重症筋無力症となどの4疾患が難病と指定され、私たちの「重症筋無力症」もその対象となりました。全国筋無力症友の会の創立者の武田治子さん(この人こそ本当のレジェンドといってよい人です)のお宅を訪問した折に、東京や大阪には専門医がいるということ、北海道との治療の地域格差の大きさを知って驚き、札幌や北海道各地の会員の方たちに声をかけて集まりを持ちました。そして治療法の早期確立と原因の究明を道庁へ要望に訪れました。それから道庁の助言もあって道内で患者会をつくっていた方々を紹介されたのです。妻にかける負担が大きくなることや生活費のことなどさまざまな葛藤もあったのですが、意を決して1973年に「北海道難病団体連絡協議会」を結成しました。妻が事務局としてカバーしてくれました。私は無収入となりましたが父母や妻の理解と協力に支えられました。
広い北海道では診断されていない患者も多く、同病者と会うこともなく、地域の中で孤立している患者・家族も多かったのです。道内各地に組織をつくることが必要だと考えました。同病者の組織ができないところでもさまざまな患者や家族が共感し、参加できる組織とすることや、地域の人材や行政の支援を得ること。地域の医療・福祉の実態や産業、行政特性を考慮することが大切でした。そこから専門医というべき医師や医療機関を結びつけること。私たちの活動を加盟各団体の会員の方々にもお届けすること、そのための機関誌を作り広く配布することに取り組みました。難病患者の実態調査をして難病白書として発行して道内の全自治体議会にも要望を送り、訪問もして理解を広めました。難病の患者たちは身体的に制約があり会員も少ないため、レクリエーションやチャリティークリスマスパーティなどは全加盟団体の実行委員会で取り組み、社会の理解を求めました。「患者会とは何か」などの勉強会、集団無料検診、相談会や医療講演会を各地で開き、学生を中心としたボランティアの育成も心掛けました。加盟団体の行事の支援、物品販売による資金づくりなど、多様な活動を展開しました。当時まだあった青函連絡船を借り切っての1千人を超えた全道集会や、道内各地から鉄道を走らせ、途中で連結して釧路までエトピリカ号として特別列車を走らせて大人数の難病患者が集う全道集会を実施しました。
このような活動の積み重ねが1983年1月に北海道庁による「北海道難病センター」の建設・開設となりました。この難病センター構想は全国の難病連の目標となりましたが、折からの不況もあり開設は少数にとどまりました。
北海道では専門医や高度な医療機関への通院の支援としての交通費助成を実施する自治体もありました。しかし北海道難病センターには通院(だけではありませんが)のための宿泊施設や相談室、会議室、印刷室、関係団体室などが設けられています。相談各事業は今では公的な資金により相談員を配置しており、2025年現在では、難病法に基づく施策として「難病相談支援センター」が併設されています。
1990年代ころの難病対策は行き詰まり状態となっていました。その状況を変えることはできないかと考え、厚生省(当時)をはじめとする国や議会への請願、医療者や報道機関の支援、そして患者主体の難病対策を求めて、1999年に足かけ5か月間「がんばれ難病患者日本一周激励マラソン」を実施しました。
これらの活動が全国の患者団体を統合へと促し、2005年に全国の患者会の統一組織である一般社団法人日本難病・疾病団体協議会(JPA)が結成されました。そこからは「新たな難病対策を」を国会や医療団体、地方自治体にも提起しました。その活動は現在も続いており、子どもの難病の団体や慢性疾患の団体などとの共催で「難病・慢性疾患全国フォーラム」を開催しています。
2012年に「新しい難病対策の推進を目指す超党派国会議員連盟」がつくられ、2014年に「難病の患者に対する医療等に関する法律(難病法)」の成立と「障害者福祉法」の改正で「難病」も障害者福祉に含めることになり、また「児童福祉法の改正」で小児慢性疾患も難病対策と一体化することなり、国の難病対策に大きな変化をもたらしました。私たちも患者会の自主性の大切さを学んだと思います。
人生もゴールを目前にして振り返ってみれば、一緒に活動した仲間も亡くなり、辛かったことや失敗だったことなども思い出されます。しかし総じていえば私にとっての半世紀にわたる活動は楽しかったと思います。「楽しくなければ患者会でない」も合言葉です。
私が「レジェンド」などとはおこがましいのですが、次の世代の方々には「難病患者も障害者も高齢者も安心して暮らせる社会の実現」に向けて努力をされることを願うばかりです。