障がい者のきょうだいの経験と京都きょうだい会の歩み

「新ノーマライゼーション」2025年11月号

京都きょうだい会 共同代表
糸井慶一(いといけいいち)

はじめに

家族に障がいのある兄弟姉妹がいる人の場合、生きづらさや課題を抱えることが多く、彼らにも支援が必要なのだということから、近年では「きょうだい」という言葉で表記されることが多くなってきました。障がい者のきょうだいの問題にようやく光が当てられる時代になったことを、感慨深く思っています。

きょうだいの経験

私はいわゆる団塊の世代で、70代半ばになりました。私には2人の妹がいました。どちらも小頭症で生まれ、最重度の知的障がいがあり、身辺処理に全面介助が必要でした。40代と70代で他界しましたが、私の人生にとって大きな影響があった反面、教えられることもたくさんありました。

きょうだいとしての自分を意識したのは、小学1年の時(1956年)からです。入学式を控えた直前、2番目の妹が同じ小頭症で生まれてきました。私の学校生活は家族の混乱の真っただ中で始まりました。妹たちは珍しい症例とされ、母と大学病院に半年間、検査入院をさせられました。学童保育所も無かった時代で、私は放課後、父が帰宅するまで独りで過ごすしかなく、街中を放浪していました。学校の忘れ物は常習で、学校生活からも取り残された思いでした。半年後、退院してきましたが、これからの相談先も無く、学校教育は就学免除とされ、療育機関も無い時代です。家庭の中だけで家族がケアをする生活が長く続きました。母が買い物に行く時、私はよく留守番をさせられ、2人の見守りや排せつの後始末をする日常でした。何よりも、妹たちと外出した時の世間の冷たい視線を浴びることに強い憤りを感じました。一方で、大切に妹たちを育てる両親の姿から大事なことを学べた気もしています。私にも家族の中で役割があり、誇りに思える気持ちにもなりました。いろいろなことがあった小学生時代でしたが、人格を形成する原点になったような気がします。

中学になると自分の中にも、「妹の力になろうとする気持ち」と同時に、「うとましく思う気持ち」があることに気づいて自己嫌悪に陥り、「自分は何者なのだ?」と自問することもありました。

高校時代になるといよいよ具体的な進路選択を迫られます。大学の進学先は自宅から通えるところを目指すしかなく、ひたすら受験準備をしました。遺伝のことが気になり、結婚は無理だと考え異性を意識して遠ざけていました。親亡き後は自分に扶養義務がどこまでかかるのかと不安でした。「何を目標にして生きていけばよいのか」が見えず、話を聴いてもらえる相手もなく、一人で「自分探し」をしていた時期でした。

転機が訪れたのは、近所に養護学校の教員をしていた方がいて、その方から児童相談所の存在を教えてもらい、妹たちが通園施設に通所できたことです(私が高校3年、妹は14歳と12歳になっていた頃です)。しかし、下の妹は通園先になじめず、翌年、新設の知的障害児施設に入所することになりました。施設の面会日に、よそのきょうだいも面会に来ている姿を見て、「きょうだいの立場にいるのは自分だけじゃなかったんだ」と気づくと鳥肌が立ちました。「自分のように思い詰めた経験をしなくても済むように、きょうだいの会が必要だ!自分の人生の目標はそれだ!」と強く思った瞬間でした。

きょうだい会は手探りでした

ちょうど施設の親の会の会長から、きょうだいの会をつくってくれないかと促されたこともあって、取り組んでみたものの、何度かの例会で話題は尽きてしまい、思うように進みませんでしたが、施設の行事の手伝いをしている中で、気心が知れるメンバーができ、施設や親の会でできないことをやろうということになりました。若さの勢いで親や職員さんも巻き込んで、機関紙の発行やこれからの施設を考える勉強会、泊りがけで施設見学に行く活動などに取り組みました。この時のメンバーだった会長の御子息の梅田さんとは、今も一緒に活動しており、相棒的な存在となっています。

しかし、小さな施設の中だけでは、何かと制約や干渉があり行き詰まりを迎えます。

模索は続きました

その後、全国きょうだいの会や神戸きょうだい会とのつながりができ、施設の中だけでは限界があることを教えられ、1983年に京都育成会の兄弟姉妹の会と合同して、京都きょうだい会を立ち上げることになりました。

福祉の現状を何とかしなければという気持ちが先行し、通所者の余暇活動や施設間のネットワークづくり、新しい施設のあり方を探る学習会やシンポジウム開催など、力量以上のことにチャレンジしました。しかし一定の成果は上がるのですが、普段の例会の充実につながっていかないのです。マスコミの取り上げ方も「社会資源としてのきょうだいに期待する」というトーンで報道され、どこか違和感を感じました。「きょうだいは何を求めているのか」ということを私たち自身が言葉にできていなかったと思います。

私の妹たちも入院を繰り返すことが多くなり、泊まり込みで付き添いを求められ、子育ての時期と重なって余裕のない生活の中で、「自分は何をやっているのだろう」と途方に暮れることもしばしばありました。

きょうだい会って何だろうと考え込み、会の解散を考えたこともありますが、「いつでも帰って来れる場としての例会だけは残しておかねば」とみんなでふんばっていました。

当事者の会らしく

活動を見直しているうち、女性会員から「結婚前に、もっと障がいのある本人に向き合っておきたい」との切実な声が出てきました。身近なことから取り組もうと、障がいのあるきょうだいと年1回、一泊旅行を実施することになりました。この取り組みは、きょうだいにとって障がい者本人との関係を考えるうえで、貴重な機会となりました。

やがて行き先を、府下に新しくできた「でてこいランド」という交流施設に変更しましたが、その後、きょうだいだけで語り合える場を求める声が高くなり、毎年全国から20人を超えるきょうだいが参加して語り合う場をつくることができました。(*でてこいランドは2019年に閉館したため、今は大阪天王寺の旅館を会場にしています)

普段の例会にも転機が訪れるようになりました。2005年頃から、大学生のきょうだいが3~4人まとまって来られたことがあり、率直にきょうだい自身の経験や思いを打ち明ける発言が続いて例会の空気が一変しました。背景に、ナラティブアプローチや自助グループの存在が注目され始めた時代の流れがあったのだと思います。私たちの会も、自助グループとして再出発すればよいのだと思うようになりました。

若い世代の加入があり、懸案だったホームページの開設も実現しました。機関紙やマスコミ頼みだった従来の広報のやり方が格段に変化し、タイムリーな情報が発信され、新しい参加者が自然に増えていきました。自助グループのルールなど、若い世代から教えられることも多く、会が活性化していきました。

改めてのメッセージ

きょうだい会を当事者の会にふさわしいものにするには、長い試行錯誤の時間が必要でした。しかしその過程で多くのことを学べた気もしています。

それぞれの経験談を率直に言葉にしていくうち、多くのきょうだいが「対人関係・自分探し・進路・結婚・親なき後」などをめぐり、生きづらさを一人で抱えてきたことが分かってきました。今の社会できょうだいが「自分らしく生きる」にはとても大きな障壁があります。ノーマライゼーションは、障がい者本人だけでなく、親、そしてきょうだいにも必要なことだと切に思います。

「孤独なきょうだいを一人でもなくしたい」「きょうだいだからこそ気づけた発信を社会にしていきたい」「胸にしまっておくだけでは、何のために生きてきたのか分からない」という心境で会の活動を続けています。