権利を守る運動にまい進して

「新ノーマライゼーション」2025年11月号

愛知県障害者(児)の生活と権利を守る連絡協議会 副会長/愛知肢体障害者こぶしの会 運営委員長
上田孝(うえだたかし)

運動の中で知った「権利」

神戸の戦災で焼け残った長屋の片隅で1950年11月1日に生まれた私は、父の仕事の都合で生後すぐ名古屋の長屋に移り住み、74年も経ってしまいました。

私には、先天性骨位骨端異形成症があります。症状は体の成長期に脊柱変形、四肢大関節の腫大、四肢大関節の拘縮、手指関節の腫大、手指関節の拘縮が現れ、幼少期はリウマチやくる病と診断されたこともありましたが病名が確定したのは10歳の時です。何万人に一人の難病ですが医師から「症状としては軽い方」と言われたと母から聞きました。

20年前ごろから脊柱管狭窄症・神経根症の合併症が進行し1993年から移動は電動車いすです。

学校教育は地域の小中学校に通っていましたが、高校受験に失敗し夜間高校にと思っていた時に中学の担任が探した県立名古屋養護学校に入学することになりました。当時の養護学校校長は「愛される障害者」であれと言う一方で、教師たちの中には「障害者の権利を守り、発達を保障する」ことを目的とする全国障害者問題研究会(略称・全障研)愛知支部を結成(1967年)したメンバーや愛知県高等学校教職員組合の組合員が私の担任や教科担任に数多くいました。

卒業後に養護学校高等部の同級生に誘われ、全障研大会や障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(略称・障全協)全国集会に参加する中で、肢体障害者の当事者団体-愛知肢体障害者こぶしの会の創設や愛知県障害者(児)の生活と権利を守る懇談会(以下、愛障懇、愛障協の前身)の活動に参加しました。

養護学校高等部卒業後、福祉を学ぶか商業デザインを学ぶか迷い結局デザイン科のある短大に進学しました。しかし、就職では「障害」を理由に断り続けられました。愛障懇の会長に紹介された印刷会社に何とか就職できました。会社では、のびのびと仕事と活動ができましたが30年勤め退職し、障害者運動にまい進することになりました。

愛障懇の活動の中で「愛知県障害児の不就学をなくす会」運動に加わり、請願署名などに関わりました。愛知県は国の制度に先駆け、1973年度より「全員就学」に踏み切りましたが、この全員就学制度は、週2回、1回2時間の家庭訪問指導に退職教員があたるというものでした。1979年度から養護学校義務制が実施されることになりました。

1968年、名古屋養護学校の卒業生や肢体不自由児施設の愛知県第一青い鳥学園の卒園生ら障害のある青年たちが学園の指導員宅で酒を飲み、グチを言い合える仲間がほしいと集い、やがて語り合いの場を発達保障研究会(以下、発保研、こぶしの会の前身)として発足。発保研は、会場を借り月1回の学習活動や機関紙発行を始めるだけでなく、名古屋市長選や小選挙区制導入反対の運動に参加していきました。学習活動では糸賀一雄著『福祉の思想』をテキストにして意見を出し合っていました。1973年10月に発保研は、肢体障害者とその家族の悩みやねがいを話し合い、助け合って権利を守り、要求を実現するための運動をすすめる愛知肢体障害者こぶしの会へ発展・改編しました。会は現在、名古屋支部と尾張支部で活動し名古屋支部では、対面とオンラインで月1回の例会や名古屋市との懇談を行っています。

私の電動車いすの2台目支給を認めさせる取り組み

現在は常時電動車いすを使用している私ですが、2014年6月まではデスクワークの際は事務いすに移っていました。2014年6月にその事務いすから滑り落ち右大腿骨骨折で手術。寝たきりの入院生活が長期になったことから、従来自宅内で使用していた簡易電動車いすでは座位がとれなくなり、名古屋市に新たに自宅用にリクライニング付き電動車いすの支給を求めました。

この件で11月21日に名古屋市は自宅用電動車いすの支給を決定しました。

補装具費支給制度で電動車いすの支給は原則として1台としているため、愛知県・名古屋市の更生相談所は共に「前例がない」とし、市区町村に指示、事実上窓口で申請もできない状態が続いていました。

私の場合も、更生相談所での対応は車いす支給についての受付とされました。その場で「電動車いすでなければ困る」と意向を伝えましたが、担当職員は「できない」とするのみであったことから、こぶしの会として国からの通知関係を調査し、電動車いすの2台目支給ができないとする通知は存在しないことを確認。名古屋市障害支援課・更生相談所に対し事実確認を行った結果、こぶしの会の主張を認めたため、私は10月に支給の再申請を提出しました。

学校を!仕事を!医療を!人間らしい生活を!愛知障害者(児)の生活と権利を守る懇談会(愛障懇)結成

1969年1月26日、愛知で初めて視覚・肢体・内部・知的障害者、障害児、親、施設職員、教師、学生など100名が参加しての「障害者 新春のつどい」が開かれました。「つどい」の反省会で、親家族や教職員、学生、ボランティアも一緒になった、団体も個人も参加できる新しい自主的民主的な運動体として、愛障懇の発足を確認しました。

愛障懇は結成1年後の1970年2月5日、名古屋市と初めて111名の参加で、5時間にわたる交渉を行いました。なお、愛知県とは1971年12月に初めて交渉するなど行政交渉の歴史が始まりました。

革新市政の誕生の力で愛障協に

1973年に行われた名古屋市長選では社会・共産推薦の革新候補として愛知県障害児の不就学をなくす会会長の本山政雄さんが出馬し勝利しました。本山さんが立候補を決断したのは発保研の野原信一さんの「暗闇の中で何とか光明を見いだしたい。先生に出てもらわないかん」の訴えや愛障懇の障害者・家族からの熱い要請でした。

誕生した本山市政は「憲法を暮らしの中へ」のスローガンを高く掲げ「障害者対策はお恵みや慈善ではなく、憲法に保障された権利として実現していきたい」とし、名古屋の福祉を前進させました。

愛障懇は、革新市政の誕生や行政との交渉に向けての要求学習会、労働組合や市民団体との「提携や協力」の中で、要求団体として「見通しをもった活動をすすめよう」と規約・会費の規定を持つ愛障協に1975年改組しました。そして、6月8日には18番目の障全協の加盟組織となりました。

トイレも食事をするのにも必要な支援を「利益」とし、負担を課す「応益負担」

2004年10月12日厚生労働省は「障害者福祉施策改革のグランドデザイン案」を発表しました。

私たちは、早々に愛障協の仲間やつながりのある障害者個人・団体と共同して「障害者(児)福祉、地域福祉の後退を許さない!~これでいいのか?!グランドデザイン案~愛知集会」実行委員会参加の呼びかけを11月19日付で行い、12月14日(火)に集会とデモを行いました。集会後、愛知県・名古屋市と交渉しました。

集会を準備する過程で、より幅広い共同をつくりだすのか苦心し「応益負担反対」で何とか共同行動ができました。

次世代にどうバトンを渡すか

こぶしの会や愛障協の要求運動を長く支えてきましたが、障害者への差別偏見は根強いものがあります。名古屋では2023年6月に名古屋市が主催した名古屋城の天守閣の復元におけるバリアフリーについての市民討論会で、複数の人物が「差別的発言」を行い市が制止せず市長が「熱いトークもあってよかった」と容認する問題。また障害者グループホーム「恵」での経済的虐待問題などが起こっています。

しかし、障害者への差別偏見をなくす取り組みのバトンを渡す相手がいません。受け継ぐものを育てる取り組みが私の最後の課題です。